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日曜私観 2007〜

 

 

 

 

 

 

17/08/27 第170(日)自然災害

先日、気になっていた、朝倉の知り合いの2カ所を尋ねた。報道時、被害が大きいということで何度も挙がっていた松末地区。お盆休みに実は一度トライしていたがその時は、通行止めの2ポイントの通過の仕方がわからず、引き返した。今回は、きちんと目的地を伝えての突破であった。途中1カ所のぬかるみがプリウスの脚を奪いそうになったが、その他は一応オンロードであった。
聞いてはいたが、その知り合いの店は、柱と床組を残して、1Fの全てががらんどうになっていた。
夫婦はすぐ後ろの主屋から出てきて、久しぶりの挨拶、というところをすぐさま本題へ。聞けば、濁流が背後の山から突然、壁をぶち抜いて店内へ侵入し、夫婦は腰下までつかり、手の届くところの柱をつかんだまま動けなくなったとのこと。その時身体が流されれば、即ち溺死。生死の境に立っていたことになる。店の正面に流れる乙石川の増水ばかりを気にしていたところ、背後に流れていたチョロチョロの小川が氾濫した。その小川の上流では、3軒の民家が倒壊し、内一軒には、3日後に助けられた方がいたという。築130年の民家を上手に角打ち+小ギャラリーとして営まれていた風景を思い出し、現状を重ねて、まだこの建物いけますよと励ましの某かを言い伝えて退散。
もう一軒の知り合いの料理屋は、その川に沿った1~2キロ下流にあった。すぐ後ろの真砂土の裏山が地滑りを起こし、やはり1Fの店舗の設備を奪ったようだった。本人は不在だったが、あえて主屋を訪ねたりは控え、川沿いの惨状風景に心をゆさぶられながら、車を帰路に沿わせた。朝倉インターの手前、時々昼ご飯や買い物をしていた道の駅の付近に、濁流と流木が襲っていたことを知った。山が迫っている場所でもなく、脇の川はクリークの類いのなだらかさ極まるものであった。私を含めて、普通の人間の感覚として、雨ごときでそのような事態が起こることが想像できるような地形ではなかった。が、実際には起こった。ちょうど当日、このあたりで一晩、車上で前にも後ろにも動けなくなった友人の証言と濁流木の残骸をかみ合わせると、その事実がかろうじて想像できた。
東北の津波の時には、海からの黒い水が建物と人を侵し、今度は茶色い水が山から同様の風景を創り出してしまったようだ。山の噴火、台風や竜巻、そして地震と、あらゆるパターンの大きな自然災害がこの数年の間に繰り返されている。自然をコントロールすることを科学の大きな目的として今日の文明があるはずなのだが、これらはいたちごっこで、自然は人間の進歩を見計らいながら、いともたやすく越えてくる。医療と疾病の類いも同じだろうか。テレビ画面に立つコメンテーターも、ついには自然への「畏れ」が必要なのではないか、の言を発する。日本人が世界に輸出できる民間思想の類い。想定内とか外などは、自然相手に言うことはできない。私たちは本当に、次の瞬間は何も保証されていない。それを土台に敷いた上で、どんな行動を取るか、ということしか出来ない。

 

 

 

17/07/30 第169(日)世界遺産、宗像

 

宗像大社に関わる大きくは4カ所が世界遺産へ登録されることとなった。個人的には、時折参拝していた高宮斎場のある辺津宮が、当初勧告から除外されていたことに、殆ど憤りに近いものを感じていたから、ようやく想定内の審査結果に胸をなで下ろすことができた。駆け引きじみた不可解なプロセスは、富士山+関連遺産群の登録の際にもあったようで、いろいろと思うところがあるが、それらはもう奥底に絞まっておいて、問題の設定をこれ以降のことに向けてみたい。

原則的に神職以外の上陸を禁じる沖津宮=沖の島は当初より登録勧告を受けていただけあって、今回の遺産群の中で、観光の目玉と扱われている。遺産登録を観光事業に結びつけようという当然のなりゆきも、この目玉である島そのものが禁足地という崇高な価値が足かせとなって、二の足を踏んでいるようだ。

実際に足を踏み入れ、実見できるということが観光地の常識として揺るぎないならば、たしかに観光客へのアピールが難しくなる。しかし、禁足地としての聖地が1000年以上存続してきたことが遺産登録によって太鼓判を押された以上、そこは徹底して肯定するしかない。もはや観光の常識に縛られずに、観光客としても、また彼らを迎える地元側としても根本的に異なる思考態度が必要だろう。

一観光者として、私自身、仮に沖の島に上陸できなければ宗像に魅力が持てないかいうと、ほとんどそういう感覚を覚えない。禊ぎを受けた神職以外、立ち入ることができない聖域が、仮に公開される日があったとして、およそ信仰とは無関係の様々な態度の人々が大挙すれば、実質的にその日は禁足地としての聖域ではなくなるのではないだろうか。「観測対象は観測方法によって変化する」これと関連しそうな体験を思い出す。三輪山(大神神社)を参拝した時だ。奈良県の大神神社のご神体そのものである三輪山に、ルールに従って禊ぎを行い、1時間弱の山道を登った。頂上は古代祭祀場ということで確かに好奇心をもって臨んだ。ところが、正直なところ、期待していたような特別な感覚は起こらなかった。奥津磐座群という、文字通り神が降臨する岩=磐座がゴロゴロとあって、いわば(駄シャレ)自然の風景のままで、しめ縄だけが人為的なものとしてある風景。当時は、偏に観察者としての自己の感性の鈍さを恥じた。その後、沖縄の斎場御嶽、熊本の拝ケ石巨石群など、機会をみつけて原始的な祭祀場の類いを伺うが、同様の感覚が漂う。伊勢や宗像斎場のような、掃き清められた、凜とした空間と同じではない。もしかしたら、既に人々の信仰の途絶えた場所には、聖域の某かは失われているのだろうか。あるいは、祭祀というカタチを通して始めて聖域としての力が備わるのだろうか?聖域は聖域であるほどにデリケートであり、観察者のありようによって変化する=観測者効果を危惧しなければならないのではないか?

沖の島は残念ながら参拝したことがないから、体験を話すことができない。だが、体験をしなければ語れぬ、の類いとは根本的に次元が異なるのかもしれない。(実際は体験しても語ってはいけない、となっている。)観測対象を変質させない=干渉しないポイントから望む、つまり少し距離を置いたところから想像するのが、沖ノ島の場合は良い鑑賞方法なのではないか。この地に干渉せずに鑑賞する(駄シャレ)ポイントとして、そのために大島がある。当に沖津宮を遙拝するための中津宮である。空気が澄んだ日であれば、中津宮から沖の島が見えるという。そして辺津宮には、高宮斎場がある。ここは宗像三女神が最初に降臨した場所といういわれがある。神代には、このように白沙の敷かれた何もない神籬(ヒモロギ)の空間が社殿の代わりを果たしていた。斉庭(ゆにわ)とか沙庭(さにわ)と日本書紀、古事記にあるらしい。神道が仏教の影響を受けて社殿を建てる習慣が定着していく段階で、この斉庭の類いは、おそらく原型を変えていったのだろう。宗像は、この高台の斉庭をそのまま残して、後世の社殿は麓に建てて、両者が併存してきた希少な例だ。

陸にあるこの古代祭祀場の空白地と、はるか海上の禁足地沖の島の空白が、なんとなく頭の中で繋がらないだろうか。神の降臨するその場に対して、人間は自らの構築意欲とは逆方向に、限りなく小さく振る舞いながら、神とつながろうとする。あるいは神をおもてなしする。その古代的姿勢が、沖の島に渡らずとも、この万人に公開された辺津宮にて伺うことができるのである。山登りに例えるなら、ピークとベースキャンプの関係。普通の人はベースキャンプから頂きを眺めるだけで、十分に特別な時空であり、幸せなはずであり、また彼らのベースキャンプの営み自体が、ピークに挑む人の大きな支えとなっている。

沖津宮は、4世紀後半に、大陸との交流が盛んになっていくころに、航海の安全と外交の祈願として祭祀が始まったとされる。陸地からすれば、朝鮮半島を睨むスコープであり、突端であった。まずは海上の神坐から始まり、7世紀後半になると、大島〜九州本土へと祭祀空間が上陸する。この時系列が、沖の島が主であり、その他が「関連遺産群」として従う構図をつくりだしたのかもしれない。だが、21世紀の私たちからして、4世紀と7世紀を歴史の重要度で差別することはできない。一応宗像三女神は、共に姉妹である。あわや妹達が登録から外されようとした事態だったが、これは実の親兄弟を他人が引き離していく行為に等しい。歴史的のみならず、信仰の骨格としてもこれら三女神は、主従の別はなく、並立するセットの類いであろう。

観光化としては、この宗教装置の配置と役割、上述の構図を、そのまま観光客に味わってもらう、が最良だろう。「ふるさとは遠くにありて思うもの」的に、まずは、高宮斎場にて、建築を媒介しない神域=斉庭の実在を知ってもらい、その体験と並行して、大島〜沖の島を愉しく想像してもらう。どうしても姿を拝みたい時には中津宮の大島を訪ねれば、薄もやの姿は拝めるかもしれない。いずれにしても、これら想像心を豊かにするためには、某かの予備知識が必要だと思われる。宗像のことだけでなく、大陸とも関わる神道そのものの始源や、宗像と同類の事例、先の奈良の三輪山や、沖縄の斎場御嶽、あるいは、済州島の堂についてなど、社殿のない神域の事例とそれらの隠れた歴史を知るために、なんらかの仕掛けは用意した方がいいだろう。そういう知識と他での類似経験があれば、沖の島に上陸しなければ来た甲斐がないという初歩的な好奇心にさいなまれずに、想像力に裏打ちされた自由な意識でもって、聖域を感じることができるのではないだろうか。宗教空間としての陸海をまたぐ壮大な構図と鑑賞方法の構図が一致する、オリジナリティーある観光地になるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

17/05/07 第168(日)造化のものづくり

ひさしぶりに、宝満山に登った。時折、山の精気のようなものを吸いに行きたくなる、改めて自分をそういう人種だと思った。実際、現地もそういう人で溢れていた。20年弱、年に一度は登ってきたが、これだけ時間がまたがると、そのような同種の人々の趣も異なってくる。山ガールといわれる人たちが、やはり明らかに増えていた。

歳はいろいろだが、いずれにしても山女子の多さに目をくらます反面、いつも以上にスマフォで山道の風景を撮る。初めてみる光景ではないが、いったいこの写真はなんに使う?どういう風にかみ砕こうか、わからないまま、撮る。建築物を見に来たのではないが、なにか建築物を見る以上に、建築的なものを見ているような状態になる。そんな光景が、山道の途中に現れる。

デザインに元ネタを据える=模倣をする対象は、まずは大きく二つ、分かれ道があると思っている。一つは、人間の製造物を模倣するというパターン。建築を構想するのだから、先行する名建築を思い描くのは至って自然な学習であり、意識するしないに関わらず、多くのデザインプロセスで暗黙の内に行われているだろう。また、建築は歴史的に、絵画や彫刻などの美術全般の中で互いに影響関係を持っているし、車や船などの乗り物とか、橋梁などの土木構築物においても同様である。例えば、アールデコは、近代の量産工程によって生まれた新しいカタチが、歴史上のさまざまな美術装飾の類いを咬み込みながら、建築を含めてあらゆる人間の製造物として顕れたものと理解している。人間の創り出したあらゆるものは、互いに他の製造物との影響関係下にしかない、ともいえる。

もう一つは、自然=人間が作り出したものではないモノからの発想がありうる。山や、雲、岩、樹形とか。ズバリ植物のカタチ(特に幹)をトレースしたとされるアールヌーボー。アントニオガウディーがモンセラートの奇岩の風景からサグラダファミリアの塔の風景が生まれたのではないか、という一説も思い出す。山のシルエットや、雲や岩というその土地の動かぬ風景のようなものは、言ってみれば、だれにどのように影響を与えているということを、そう簡単に白黒と議論するのも難しい類いである。だから、このあたりは、名作や名人に対しての、事後に与えられる評価であることが常である。

今のところ、自然物からの発想については、作家論にはなっても、デザインの方法論にはなりにくい、というところがあるのではないか。作家の原風景としては、語ることができても、これから、何かを構想していく時の普遍的な方法として共有しにくい。建築からかけ離れた自然物を建築的に見ようとしてみる行為は、だから、モノを作ってしまうまでは内向きの思考である。また、建築は、一方では、自然と真逆の人工物という側面を持っている。基本的な役目として、外気という自然環境の中に、人間にとってより最適な空間を得るという目的があるから。であるからこそ、「自然との共生」という言葉を使う必要が生まれる。しかしながら、似て非なる別の考え方もあるのではないか。まず最初に自然があって、そこになにがしかの人為的制御を加えていき、人間のための環境を整えていく、という思考の方向性があるのではないか。自然との共生、ではなく、自然からの精製、といったところか。

福沢諭吉の晩年の語に、「造化との境を争う」という言葉がある。造化とは、造化三神といって遙か神代に高天原に降り立った、生産生成の創造神のこと。なので「造化」の意は、人間が作り出したもの以外の全てであり、それら生物無生物の生死、更新のプログラムであり、またそのプログラムを支えている造物主そのものとなる。本来は天地創造に関わる神の次元の「ものづくり」の類い。「造化との境を争う」とは、そういう自然の摂理を追求し、人間の智力でそれを制御しながら、人類の幸福のために役立てるのだ、という意になるらしい。「争う」は「競う」という方が今にわかりやすいかもしれない。神代より受け継がれ、近代をくぐり抜けてきた現代の「造化」の意は、まさに福沢諭吉の科学論のように、神のものづくりの原理に気づき、自然にコミットした、人間の科学的思考なのだと、理解できそうである。(クローン技術やISP細胞などが、自然にコミットしているのかどうか?というのは、要検討)

いろいろと、では現代科学の問題はとなると、そこは境を越えているのではないか、というややこしい議論が出てくるから、あくまで、「造化との境を競う」のだというスタートラインに立ち戻って、改めて山道のショットをじっくりと温めようと思う。この写真を言語化するのは、この段階では野暮なので、造化のものづくりを煮詰める良い題材なのではと独りで思い耽り、今年の黄金週間を終えたい。

 

 

 

 

17/02/19 第167(日)自作ロケットストーブ

 

ロケットストーブとは、暖気の上昇気流を有効に促すHeatRiserという構造をもった、燃焼効率の高い薪ストーブ。その手の書物を見ると、その特性を活かした床暖房や、クッキングストーブなど、実に愉しげな手作りの世界が拡がっている。案の定、実際に目の前で燃えているのを我が物にしたいと思い、オークションなどで売っている品を物色しながら一年以上が経過、手っ取り早く買ってしまおうかかと思いあぐねている内に、自宅の庭先に転がっているもので、とりあえず実験ができそうだと思いついた。塗装油が入っていた一斗缶が三つ。これにベビーサンダーで穴を開けて、三段に積んで、HeatRiserの原理をまねてみようとした。
そしてもう一つ、現場に転がっていた空調配管用のスパイラルダクトを見て、これにいくらか接続パーツを買い足せば、ロケットストーブもどきができそうだと思いつく。ハンズマンに脚を運び、いろいろと目移りしながらも、限られた時間を我が一時のショッピングライフに費やす。
前者を一斗缶三段ロケットストーブ(ISRS)、後者をスパイラルダクトロケットストーブ(SDRS)と呼べば、実状を上回るイメージを装うことができる。ISRSは最上段に焼き網を乗せて、魚やお餅などを焼くのに好都合であった。炭火のように赤外線ではなく、熱風だから、どちらかというとノンオイルフライヤーの原理に近い。冷めた唐揚げなど良いかもしれない。SDRSの方は、実はこちらの方が、どういう理由か、薪が長持ちするよう気がする。ものの書にも煙道は丸型の方が、熱風の動きにとってスムーズだというようなことが書かれていたから、それと関係するのかもしれないが、なおかつ断面積が薪の断面とフィットしていることなどが奏功しているかもしれない。こちらの方は、煙道が自由自在に設計できるので、人間の生活空間への応用がしやすいかもしれない。
いずれにしても、ロケットストーブは、鉄製の薪ストーブの世界と異なり、原始的であるが故、おそらく手作り品と商品との差が小さいのだろうか。自作の世界がこのように拡がっている。また、なにかとマンション暮らしの方が利点の多い今日の生活スタイルの中で、薪ストーブと遊べることは、考えてみると一軒家暮らしでないと出来ない「醍醐味」だ。自分で作ってみて=遊んでみて、そのことがよくわかった。

 

 

 

16/11/05 第166(日)直線の歴史と循環の歴史

 

紅葉八幡宮という小高い丘の上の神社の脇に、利生院というひっそりと小さな御堂があった。その脇の庫裏には、しばらく住み手が居なかった。有るとき、福祉施設に転用するという、話が立ち上がった。私共にとっては、これまでの改修計画とは少し異なる。福祉施設という類いの機能に関わることがまず、私たちにとってはじめてであったが、それ以上に、この小さな寺院の境内をコンバージョンするということ自体が、まれな事であると思った。住職の類いの居住者が居続けることができなかったから、転用の運びになった。寺院といってもそれくらいのものであった、という風に捉えることができる。しかし、この地の過去を紐解けば、興味深い小史が浮かび上がってくる。

300年以上前、福岡を治めていた黒田の四代目藩主綱政侯(1649~1711)が鷹狩りに、当地の付近を訪れていた。そこで腹痛に襲われ、急いでこの地を守る山伏を呼び寄せ、祈祷をさせたところ、たちまちに治ったという。藩主はさっそく「利生」の名を院に付けて、(そこにあったのか、新しく建てたのか)その山伏をこの地に住まわせ、土地を守らせたという。以来藩の加護がを絵ながら、周辺の人々による絶えることのない地道な信仰が重ねられてきた。ちなみに、その時藩主に飲ませた井戸水は利生水という名で今紅葉八幡宮境内に今も湧水している。

山伏というと、いわゆる深山幽谷、ずばり山奥のイメージがつきまとい、こんなに海に近いところに山伏というエピソードがまずピンと来ない。そこでお隣の紅葉八幡にご挨拶がてら伺い、立て看板の由来を覗いてみた。紅葉八幡様は100年ぐらい前の大正2年(1913)に、百道浜にあったところから遷宮してきたというから、この地の氏神としては比較的若い。ならばと脇のより小さな祠に上ってみると、案の定こちらが元々この小さな丘を守っていたお社であることが、立て看板を立ち読みしてすぐに解った。そのお社はやはり、山伏が守っていたというのだ。その山伏は拾六町から来た、と書かれてあったから、現在の熊野神社(元は和歌山のあの熊野神社から平安時代に分霊)を守っていた山伏なのだろうか。そちらの神社も小高い丘の上に建っているから、今ではたいした起伏を感じない小さな丘の地形のように見えても、それらを読み取って、山伏文化のようなものが点在していたのかもしれない。例えば愛宕山とか、西公園とか、名島、志賀島?含め、山伏文化の類いは、博多湾を囲むように、もしかしたら修験道全盛期とされる平安時代には、今では想像もつかない点景を成してしていたのだろうか、などと勝手に想像を愉しんでみる。

300年以上前の「霊験」の類いの逸話が縁起となり、歴史上の起点があり、今があり、それはそれでなるほど、ではある。タダ偶然にそこに山伏が居た、ということで通り過ぎる事も出来る。あるいは、もう少し場所の持っている本来的な性格というか、必然性のようなものがあって歴史が積み重なっている、という推理もまた、できる。ここには、山伏達を寄せ付ける土地の性格(土地の起伏)があって、そこに修験道の類いの信仰が定着し、仏の慈悲や恩恵という意味の「利生」の名の下に、周辺の人々の某かに対して彼らの出来るかたちで救済してきた。そして「利生院」の名は21世紀にまで引き継がれ、今度はそこは福祉サービス事業の場所として生まれ変わり、現代的な新たな類いの救済が始まろうとしている。

とはいっても利生院は、特別扱いしなければ、只の不動産でもある。地域の公共的な幸福に与する建築としてなら、第三者にお貸ししてもいいという、単純に、その所有者のそのような希望から始まった。しかし建物が使われればなんでもかまわないということではなかったから、一つの必然へ収束した。後でわかったことだが、この場所の転用計画は、今回の話が始まりではなく、レストランやギャラリー、民泊の類いのお話が、いくつもあったという。だから、なんにでも再生することができた。そんなこととは「知らぬが仏」のまま、周辺地域に寄与する福祉サービスという事業計画を持った借り主と、偶々その的に紐付いていた私たち(古家空家連絡会)に白羽の矢が当たった。

ちょっと横道に逸れるが、現代の私たちは、創造的な仕事をしようという時、なんとなく、通り過ぎていくだけの後戻りのしない直線的な時間軸のイメージを背景に持っているように思う。昨日より今日の方がいいという明らかな展開を目論む醍醐味は、直線を一方向へ向かう時間感覚の最たるイメージ。仮に過去の優れたところを参照することがあっても、重要なのは過去から改善改良された部分であり、それこそがクリエイティブであるという視線である。建築の再生においても、「劇的に」変化するところが最もわかりやすく、何よりも視聴者に受ける。視覚芸術である以上は仕方がない。

だからこそ、更新しつつも変わらない部分への注意力が必要なように思う。思えば、私たちは、四季の移り変わりを享受しながら、毎年繰り返している。それでも、去年の春と今年の春は同じだというマンネリに陥ることなく、新たな春の新鮮さを感じながら、生きている。逆に言えば、毎年の新鮮味を感じつつも、必ず四季を繰り返している。後者の視点は、つまり、始まりも終わりもなく循環していくという時間感覚。始めと終わりが想定され時間は二度と戻ることのない、という西洋的な時間感覚は、過去とは、事実としての因果関係だけで結ばれる。それに対して、アジア的で日本的な特徴でもある循環思想=輪廻は、事実を超えて、見えない、あるいは見えにくい連続が醸成される。

狐とか、猫とか、生まれ変わりがどうとかの、まるで日本昔話のような歴史の見方。たまにはそういう肩を張らない姿勢で地域、場所、建築の、更新を観てみてもいいのではないか。場所の持っている深層の某かが時間をまたいで連続しているかもしれない。そういうことを考える時は、論理的な解釈とか理由付けは時に邪魔であり、唯々、気づくしかない。一つの場所に建築を通して関わる際にも、その場所の持っている根底的な性質が作り出す時間の流れに、乗ったり沿ったりしている。更新され、積み重なりながら、循環しているというその場所の運動体系に、少なからずの影響を与えている。理屈は先延ばしでもいいから、注意深く、その繋がりを半ば推理しながら、自らの建築行為を社会に照らし合わせてみる。そこにすぐさま正否はつけにくいけれども、近視眼的な価値基準よりも広い視野に立つことができるような気がする。なにを大事にして建築を作っていけばいいか、ちょっと光が差しそうになる。建築デザインという流行業界=短い時間感覚の中にありながら、それはやはり頼もしい光である。

 

 

 

16/10/02 第165(日)舞台セットと舞台(住宅と住宅地)

このところ、自宅の前の道沿いに三件の住宅解体現場があった。職業柄、無関心でいられるわけでなく、だいたいにおいて、古い住宅の解体は、自分とはなにも関係が無いものであるにもかかわらず、もの悲しさがつきまとう。感傷的に過ぎないといわれれば、そういう側面は否めない。
と同時に、それだけではない感情が突き上がる。
一つは、まだまだ十分に住める住宅が取り壊されていく風景に対して。日本の住宅の寿命が30年前後であるという、先進国間の中で際だって短命であることに、私たちは何となく恥ずかしい思いをし始めて久しいが、その理由は木造だからなのだ、あきらめの境地もあったりする。国交省は、高耐久木造なる仕様をつくり、優遇措置を与えて広めようとしていたりしているから、日本の住宅が短命なのは、やはり「物理的に」長持ちしないからなのだろうと、先入観が固定概念になってしまう。しかし、自分が仕事として関わる中、また見聞きする範囲の中で「物理的な老朽化」による解体現場がいかほどあっただろうか。もちろん物理的な老朽化そのものが、無段階であり、どこからが解体理由に結びつくのか、曖昧ではある。せいぜい、住宅の死因とは、人間と似たようなもので、「解体に至った最も決定的な理由」というぐらいのことであるかもしれない。

狭い、とか、周辺環境がうるさくなった、とか、今の耐震基準に満たない、とか設備が(使えるけれども)古い、などは、その住宅そのものが悪くなったというより、それをとりまく社会が変化したことによる、社会的な老朽化の類いといえる。雰囲気としてこれでは?、とか、改装の自由度が計りにくそう、などという意匠的な不満も、大きくは社会の価値観の変化による相対的な劣化の範疇だろう。また、路線価の高い土地の場合は、多額の相続税が、そこに住んでいない相続人(達)にのしかかって詰まるところ転売、というシナリオは世の常である。そういう地域では、転売先は、新たな住人ではなく、事業物件として事業者に取得されるから、上物は物理的機能的に問題がなくともそれ以上に厳しい現行の社会(商品)基準に適応され、結局は一旦更地となる。税制が転売の動機付けとなり、市場(シジョウ)が転売先を決める。全てはお金で組まれたスクラムに、果たして建築を作る側、あるいは活用しようとする側は、根本的な介入手段を持ち合わせていない。社会の仕組みからなる社会的劣化。資源の膨大な浪費だと指を指される建設業だから、国交省はしゃにむに対策を講じなければならなくなるが、強いて言えば財務省あたりが対処しなければならない問題なのではないか。もし、建物(住宅)が壊される理由のビッグデータが存在するのであれば、それは役に立つはずである。住宅の更新スパンを長したいのであれば、つまるところ、物理的耐久性の向上以外に着手せねばなんともならないことを突きつけられる。建築の生産やストック活用といった建築業の外にいる人々に気づいてもらい、共に取り組んでいくことができる。


物理的にはまだ住める家でも、壊さなければならない理由が世の中に蔓延しているのだ。そういうことを含みに入れておいて、住宅の断面がCTスキャンのように輪切りで露わになる解体現場を眺める。まだまだ十分に住み続けられそうであることがわかると、建築物というよりまるで昨日造った舞台セットが壊されていくような、非情な風景に見えてくる。そして、更地になったその空き地に、虚無感を感じる時間すら得られないうちに、新たな建設行為が始まる。それなりの人気、つまり比較的地価の高い地区の場合は、住宅そのものの更新は、経済力学が強く働いているためか、驚くほどに迅速に執り行われる。建つのは、(高宮地区については)大手ハウスメーカーであることが多い。あっという間に仮囲いがなされ、杭工事その他地業工事が始まる。


もう一つの感情とは紛れもなくこの、建て変わっていくモノのこと。豪華であるとかないとかは別に、判子を押したような量産品ではなく、一品生産的に造られたとわかる住宅が並んでいた、いわゆる「成熟した住宅地」は、もはや、その独自の雰囲気を自ずから維持できないのかもしれない。大手ハウスメーカーは、土地取引の水面下世界を泳いでいて、人気の地域の土地から抑えていく。上物(建築)で勝負するだけでは、圧倒的な差別化はできないからか、人気のエリアの土地を持っている、というアドバンテージをもって、自社の住宅の必然性をあらかじめ構築する。彼らが狙いをつけた住宅地は、土地争奪の戦場であり、あるいはその舞台であり、住宅は本当に、そこに一時的に置かれる舞台セットとして扱われる。


住宅は、結局短命であることをなにも払拭することができず、また、住宅地もまたそのようなプラモデル的な舞台セットを置く舞台に過ぎず、更新だけが行われ、成長も成熟もしない。ハウスメーカーの展示場化だけが進んでいく。一つの『成熟した』まちが、メーカー住宅の類いの限定種へとすり替わっていくことを、私たちは注意深く見据えておかねばなるまい。数が増えるとか、それ一色になる、という単一原理のみによる単一種の連続は、例えば杉材の森林政策などのように、その時には解らない不利益を将来もたらす可能性がある。その果ての風景とか生活文化を想像した上で、それらは増えてもいいものかどうか、その一戸を帰納的に評価しなければなるまい。(住宅に限ったことではないが)数が増えるということは、経済を動かすのみならず、もう少し長い時間スパンを持った民俗文化の類い、つまり、私たちのスタンダードづくりに関わるのだから、やはり、様々な視点で洗われていくものである。

 

 

 

16/08/21 第164(日)残していきたいこと

 

お盆休みの期間中、家族旅行のついでに、少し脚を伸ばして、阿蘇神社へ向かった。といっても、熊本大分の地震から3ヶ月が過ぎた今もなお、楼門と拝殿が全壊状態の社殿を通しての参拝となった。

当然のことながら、普通に神社に参拝するような清々しい心持ちで居られるわけがなく、目前の惨状に心を揺さぶられながら、であった。あの時崩れたモノは、むしろ、指一本触れられないまま、まるで事件の検証を待っているかのように、そのままであった。意地悪く解読すれば、寄進を促されている(実際に寄進してしまった!)というふうにも受け止められ、また、別の見方をすれば、地震という出来事を通して、見えない世界から、目に見える私たちの世界への、何らかのメッセージを訴え続ける静止画のようにも思えた。また、今は性急に建て直すばかりが、神に仕える人間側の所作ではない、という姿勢のようなものを伺えた気がした。

震災復興の象徴として扱われ易い熊本城に比して、こちらは、その後の経緯があまり報道されていないことにも改めて気づいた。(だから訪れた)片や、わかりやすい象徴であり、観光資源であり、自他共に認める地域人々にとっての支えでもあり、つまり見える世界。一方こちら(阿蘇神社)は、神道という民間信仰の類いの、基本的には見えない世界。熊本城成立の近代より遙か以前、おそらく古墳時代以前から、阿蘇山を畏れ祀る地方の一豪族、阿蘇氏が司ってきた場所。壮大な歴史がつみかさなっているが、それらは理解しにくい世界、見えない世界。だからこそ建築という形式で表徴し、この見える世界との架け橋を為しているのが社殿ということでもある。その架け橋としての社殿の中でも最も人間側と交接するための楼門と拝殿、この崩落が阿蘇神社で起こっていた。地域の民家たちが思いの外平然と建っている中、その二つの社殿は、まるでなにかを代表するが如く進んで大地に跪いているようでもあった。

壊れているモノがモノであるので、ミステリアスに解読しようとすると、際限がなく、益々共有しにくい想像世界に拘泥しそうになる。一方、物理の世界に立って、社殿を崩落を見ていくと、そこには、ある種自明な部分と、それから、その奥に、別なミステリアスというか、民族の慣習としての根深い建築が見え隠れしていく。屋根だけを残して座屈した姿から、以前の社殿の様子は思い起こすこともできず、思わず地震以前の状態を確認してみたが、やはり、少なくとも楼門については、本来的な弱点を持っていたと思われる。上部構造のボリュームに対して、下部構造の耐震性が、本来的に脆弱な構造であったようであることは、ネット上の写真レベルでも解る程であった。頭でっかちの割に足元がカボソイいという物理学の逆を行くプロポーションが災いしたことになる。

しかし、そんな原理は、古の工人以下、わかりきったことではなかったか。古代以来とは言わないまでも、精神的にはほぼ変わらず、社寺の建築とはそういうもんだ、というある種、高度な楽観で造ってきた。構造的な見地を軽視して、意匠だけを追い求めた、というほど無邪気な取捨選択ではない。むしろ、構造的になんとか持たせたいと思いつつ、しかし、見るからに堅牢だというようなものは面白くない、物理的法則を越えた存在を造ろうと、曖昧で、素朴で、欲張な、欲求に従っていたのではないだろうか。先人のやってきたことに疑わず頑なに従うという保守精神が歴史建築を今に伝えている、というようなよくある説明は、「遠からずも当たらず」であろう。むしろ時代の技術力に照らし合わせて、歴史建築の構造的な欠陥を自覚しつつも、様々な要素を俯瞰しながら限界を目指して設計施工されているモノに変な補強は加えられない、という焦れったさでもって、これら社殿の類いに取り組んできたのが現実ではないだろうか。

国宝と言われる日本建築の修理履歴などを紐解くと、その臨場感がいくばくか解る。わかりやすいのが、宮島の厳島神社である。山を背にして、海の上に建っていることから、海(高潮)から山(土砂災害)から空(台風、雷)から、災難の絶えない建築。「そんなこととはつゆ知らず」と寄進者である平清盛がいうはずもない。そんなことは百も承知で、そこにそんなふうに建てたのだ。本来的な立地条件と建築の造りに屈しながら、がんばって今に伝えられている。

残していきたいことの内容が、おそらく、違うのだ。モノそのものが、堅牢さや、強靱さでもって、存続し続けることに、私たちは、基本的に関心がなかった。関心がなかったわけではないとしたら、最重要視できなかったと言い換えてもいい。取り分けて、宗教的空間の機能に与する建築には、そのことが顕著に現れた。神仏という超絶した世界と交信するための建築なのだから、人間が人間の造るモノとして、人間の世界の限界に挑んだ。現代からすると一部好き者の戯れだと言われかねない行為も、元々の私たちの社会は、それによる支障を小事として黙認し、より大義の中で呑み込んだ。(諏訪大社の御柱祭の死傷者の話も同じ類いだろう)

このあたりが、建築の最も面白いところではないだろうか。「美しければ、壊れてもいい?」というような週刊誌レベルの軽口に陥らずして、いかにこの面白い部分を現代に伝えていくか。もしくは社会の一部に培養していくか。さもなければ、人間そのものが、おおらかさを失い、機械のような脳みそになってしまいそうな勢いである。

 

 

 

16/05/29 第163(日)ものづくり変人辺境図2016

「都市化をこえる地方化」と題された、シンポジウムに参加させてもらった。早稲田建築の歴史部門を率いられている中谷先生からのお誘い。タイトルの考案から、やりとりさせてもらったが、最後は先生の考えられた候補の中から、これが満場一致になり、結果的に発表者としての自分達の首が絞められた。それにしても、魅力的すぎる表題。案の定、このタイトルだったから来たという来場者もおられた。

以下、備忘録として。
板谷敏正さんは、不動産世界にクラウドサービスの必要性をいち早く提唱され、実践されてきた人で、日本中の様々なクライアントに、そのソフトウェアを届けながら、様々な地方での様々な事業者の経営実態を把握、今回はその中から、特に地方での成功ビジネスの事例を紹介された。決して好環境ではなく、逆境から生まれるビジネス、変化を余儀なくされる状況、もしくは会社ぐるみの戦略ではなく、放任された個人の苦心から生まれるアイデアが「強くてしなやか」な体質を獲得する事例。つまり、地方というも逆境から、乗り越えられた営みには、一過性ではない本質的な強さががあるのだということになる。
永井拓生さんは、私の知る限りは、建築の構造設計者であったが、所属する大学を通して、東北の復興支援活動の一つとして関わってこられた気仙沼のセルフビルドによる竹の集会場を報告された。そして被災地のコミュニティーに参画してきた経緯から、彼の地の復興計画の実態として、建築家の描く未来像の多くが実は実現に至らない、という建築の挫折を問題提起された。建築家たちは新しい町のつくられ方に対して、既成概念にとらわれないアイデアをいくつも提示してきたが、最終的には、それらは採用されず、平凡な町と建築として復興されていく。それでも、被災された方にとっては、とても喜ばしいステップとして歓迎される。「建築(性)の挫折」と叫びたいところだが、もう少し踏ん張って、これから徐々に変わっていくプロセスなのではないか、という意見。

私は、延々と、大工と左官で現代建築をつくってきたというところから、それがもしかしたら、地方のなにがしかを形作っているかもしれない、という思い付きをさらけ出すしかなかった。大工の山下さんや、左官の原田さんは、それぞれ私の事務所から、高速道路を使って1.5時間の田園地帯、すなわち地方に生産拠点を構えている。私もモノを作っている工場が愉しいから、ついつい出向いてしまい、その度に唯々、「遠いな」と思うだけであった。しかし、その彼らには、強烈な共通点がある。材料が工場にある、ということ。今日的な建築生産が、材工分離の方向性にあることを考えると、材料が工場にあることは実は当たり前ではない。材工一貫のものづくりは建築においてはすでにガラパゴス化のスタイルだが、彼らにとっては、材料を引きはがされては、生産行為の本意を見失うと同じで、手塩にかけて自らが取り寄せた材料と共に生きている。広々とした地方都市の郊外で、ノビノビと材料を蓄えては、眺めているその生き方が工場の風景を決めている。愉しそうにモノとじゃれている雰囲気があるから、自然に遠くから人々が集まり寄ってくる。
いやちょっと待て。個人の能力に根ざした、ユニークなものづくり、挑戦的なものづくり、の類いがどういうところに生産拠点を持っているのだろう?もしかしたら、人口密集地とは無縁の位置に居るのではないだろうか、と脳裏によぎった。慌てて、人口密度で色分けされた日本地図を用意して、そこに、事務所がこれまで、なにかのモノを作ってもらった、面白い(と私が思う)人々の生産拠点をプロットしてみた。するとどうだろう、彼らのほとんどが人口密度の高い都市圏内から外れている。極端な僻地ではなく、大都市圏の周囲にまるで待機しているかのような配置だ。もちろん私個人のものづくりネットワークでは、サンプル数としてあまりに少ないので、他者の情報を重ねて、同様のプロットを重ねていき、その上で、彼らの配置の法則性を考えるべきだろう。
個人が我が身に宿る製造技術と感覚を頼りに、材料を蓄え、モノを作っていく時に、拠点は、人口密度とは関係ない、むしろ、土地は安くて広々と使える方がいいのだ、という法則がある場合、地方は、彼らの涵養地だと言えるのではないか。彼らが世界経済の動きに直撃されずに、ノビノビとモノに向き合っている生き様は、地方における人的資源ではないだろうか。数(人口)では勝てないのだから、一人一人の生き方の質しかない、という時の指標になるような気がする。

 

 

 


16/04/03 第162(日)これからの建築士へ

いつしか、建築家とか建築士、という職業の未来が、日常的に語られるようになってしまった。私ももちろん含めて建築士当人にとっては、切実なる未来。

私自身、建築家の明確な役割のようなものを実感仕切れない云々と、教えを請う師匠に愚痴を漏らしたこともあった。20代の後半の当時の私にとって、それまでの20世紀的な建築家像のイメージにか、どこかで同意ができていなかったということになる。建築がシェルターとしての物理的な機能を前提に、芸術としての素養を付帯していることを、当然に了解していたつもりだった。しかし、いざその芸術的側面が多くの人々に関係しているものなのだろうかと一旦疑い始めると、勝敗?がはっきりしていてその目的や役割が明解で、分け隔て無く多くの人々に寄与する職業、例えば医者や、弁護士、ミュージシャンや料理人などの方が、正直うらやましくも思えたりした。「文化ヤクザ」などと異名を持つ建築家は、ほどほどあやうくて、腕というか、見えざる才能一本で勝負している感があり、カッコ良くは映ったが、普遍性に裏付けされた清々しさのようなものとは思えなかった。自分の庭を耕している時に他人の芝が青く・・・というそのものでもあった。

華の20代から早20年。建築家というスタイルも固定的なものではなく、移り変わっていくということを、中村勉+吉良森子+倉方俊輔お三方の近著「これからの建築士」は、さらけ出している。20代の私のモヤモヤは、少なくとも、これらの新しい建築家像が払拭している雰囲気。空家問題、過疎少子高齢化問題、保存問題、エネルギー問題、それぞれに挑む建築家その他の専門家、単体、集団の別なく社会派的な営み。「多様化」というようなよそ行きな言葉でほどほど済ますのはもったいない勢いがある。

まるで乳幼児に、大人の食べ物を砕いて食べさせるように、20世紀に日本で一旦成立した、堅くて強固で時にアカデミックな建築家像が、細かく砕けて社会に溶け込んでいこうという風景。視覚芸術としての建築をつくる建築家像の解体、建築家のマッシブな気質が砕けて、社会の各所に片々が浸透していっている、という描写ができそうだ。建築家の理想だけが尊重されるのではなく、依頼者の理想も、あるいは施工者(職人)の理想も、できれば等価に扱われようという時代。三者の理想が対等になっていくのだから、かつてのような求心的な存在とも異なるフレキシブルな振舞いが市場交換原理として建築家に求められている。そんな時代の一側面を感じた。

 

 

 

 

16/03/20 第161(日)丁稚の「奉公」

タイマーカリフォルニアキッチンの高岡さんが、赤坂mokuzoで、出張料理に出向いてくださった。ランチとディナーの二回転で、自分は、幼児OKのランチにのみ参加。当初、自分が一人で出向く予定だった夜のディナーは、連日のイベントで疲弊した肝機能、消化機能を涵養するためと、そして、高岡さんの料理への旺盛な好奇心を示したカミサンにバトンタッチすることになった。(自分は家で、素うどん+日本茶で・・)

高岡さんの料理が、いかに手間のかけられたものであるかということを、彼女は土産話に持って帰ってきた。次元は異なるが、彼女も料理を生きがいの一つとする人間、なるほど、そういう見えにくい下仕事の類いは、自分が日々やっているとか、ずっと考えているという人間の方が、確信を持って、見通すことができる。かの高いテンションをずーっと続けていかなければならないプロの世界の大変さをも気遣っていた。
ものづくりである以上、建築も料理もおそらく一緒で、手間を掛けることによって得られる品質の高さは、かくして得られにくい、ということになる。飽くなき探究心が飽くなき手間の積み重ねに直結してしまえば、犠牲になるものも多くなる。時間と気を蕩尽するから、家族やまわりの人々を含むその他のことが二の次にもなる。そしてそういうものづくりは、必然的に量産的なものになりにくい。だから人は、手間を掛けるという犠牲的手段に頼らずにいかに良い産物とその対価を得るか、という方向へ傾いていく。

一定の客の支持が得られて、お金が回っていくのであれば、量産(=大きく儲けることができない)できなくてもいい。と、割り切れたとしても、それ以前に、そういうものづくりが継続していくこと自体が難しい。気鋭の作り手だって必ず歳を重ねていくから、年齢との格闘がある。自然と若手の手伝い、後継者の類いが必要になってくる。そういう物作りは、だからといって手間のかかった分に比例して対価を得られるとは限らず、賃金としての見返りだけでは事足りず、従事するには後継者としての「ココロザシ」が必要になる。一方、現場の方から言えば、手間を前提にしたものづくりには、基本手に労働力が必要である。師匠と弟子は「お互い様」という側面を持っている。技術の習得を報酬の一部とすることができる若い労働力。これを前提として、ある種のものづくりが成り立つ。

建築家というものづくりこそ、施工現場であろうが、設計現場であろうが、丁稚制度あるいはそれらと同質なものでで成り立ってきた。毎回、毎回、多かれ少なかれ新しいものを造ろうとするから、自ずと手間はかかってしまう。そこには若くて安く根気を伴った労働力が必須となる。技術が秘めたものとして伝えられるということは、時間的効率を度外視した教育現場とも言えるが、そこに生じた丁稚の「奉公」という還元作用がなにかに奏功していた。それなりに成長した若手が現場に居残ることによって、ものづくりの現場に某かの品質をもたらしていた。現実の仕事を見習いの教材にしているという側面と、彼らの労働力によってある種の質が支えられている事実が背中合わせになっていた。

ところが、いわゆる「丁稚」のスタイル、あるいはシステムが今なんとなく、流行っていないような気がする。「何年も下働きをしなければ寿司職人になれないなんて、おかしい」というホリエモンの発言なんかは、そういう時代の雰囲気を代表しているようだ。もちろん、自分も概ね事実としてその意見に同感はする。ただ、みんなが近道すべきであるという哲学には結びつけられない。近道できる人出来ない人、すべき人すべきでない人、これらのバリエーションによって、広く社会全体のバランスが保たれているはずである。現場やそこから生まれるモノの質はもちろんのこと、個人が成人していくためのバランスもまた、遠回りの習熟過程から与えられることがあるはずである。

丁稚奉公の持っていたなにがしかの合理性は、貨幣社会の上に成熟した教育産業に取って代わった。若者は、もっぱらお金を払って学ぶことに専念し、そして、社会人になったらもっぱら儲ける、というきっちりと整理区分けされた目的と時間。その種の合理性は、そのままものづくりの現場の性質へとつながり、おそらく産物の性質までも決定してきた。グローバリゼーションには、必要な手順であったかもしれない。しかし、それが唯一の筋道や価値観となると、やはり歪みや限界が生じるように思う。気づけば、小さな地域の循環の中で、個人が小さく、良質なものづくりを行っていこうということが成立しにくい社会となっている。そして、学ぶためには、とにもかくにもお金を積まなければならない社会である。

 

 

 

 

16/03/06 第160(日)小さな循環

三月に入った週の半ば、急激な春の到来を感じさせるカンカン晴れのその日に、豊前へ向かった。目的は二つ、田舎の鉄工所がとんでもないボイラを開発中だから見に行かないか、と知り合いから誘われて、そして、それならと2年前に関わった上毛町DESIGNBUILDの現場(今は「ミラノシカ」という)の完成後を見ていないからそこまで脚を延ばそう、という日になった。

途中、高速道路用地転売を拒み、再三地方ニュースに出てきたみかん畑はどこだろうなどと、福岡から2時間弱、着いた工場は、何でも無い、ほんとにどこにでもある鉄工所。そして70前後かそこらの所長(一人でやっている)が、どこからともなくやってきて、会話が始まる。導入はいわゆる武勇伝的な自己紹介で、要約すると、大手の鉄鋼会社から「おまえしかこの仕事はできないから」と、難儀で創造的なプラント、機械の類いをたくさん開発してきた、そしてたくさんの請求書をもみ消しにされてきた!という話。下請けだから非情な値引き交渉は建設業界も同じだが、大手メーカーの勘定奉行というのは、数千万円の追加発注の請求書というのをもみ消しにするのだそうだ。昨今騒がれている「富の集中」というのは、こういうことなのだろうか、などと考えつつ、この前置きだけで1時間が経過した。

近年の発明品であるという低温乾燥機は、それなりに面白かったが、これは設計者として関係するとすれば、木材の乾燥、特に暴れの大きい雑木の乾燥にはいいかもしれない、という直感はあったが、直接的に用いる立場ではなかった。もう一つ、その日の主題であるバイオマスボイラに、やはりなにがしかの未来を感じた。木材チップをバイオ燃料として、「熱分解」と言われる方法による熱の取り出し方によるものだそうだ。いわゆる「燃焼」とは異なり、数段に高効率なため、従来のバイオマスボイラに比べて、多岐にわたり、次元の異なる優位性を誇るとのこと。従来の石油燃料系のボイラーには、運転に当たっては必ず何らかの資格や免許が必要になるが、このボイラだと不要であるとか、温水と温風が構造上同時に得られるとか、二酸化炭素を発生させないため煙突がいらないとか、燃焼効率が良いため燃料代が格段に安いとか、副産物としてわずかに発生する灰は磁性を帯びていて、レアメタルとか医療品、肥料等、二次利用に引く手数多であるとか、気味が悪いぐらいにいいことづくめなのである。

試作品が工場の真ん中に据えてあって、運転こそされていなかったが、一通りの説明を受けた。正直、半信半疑だが、でもこのおじさんは、なんかそんなに絵空事でやっている風ではなく、2年もしないうちに、本当にやってのけそうな気がした。だから、業務用としてのボイラー開発の副産物として同一原理で家庭用も開発するからという発言に、少なからずの共鳴をし、予約注文をした。(口約束)

このおじさんの開発の仕方の面白いところは、最終的な製品全体を支えている部分部分の詳細を、自分一人で発明しているのではなく、様々な試行者との出会いと交流から、ある意味偶然にというか、吹き寄せのように集まってきた工夫の積み上げであることだ。大企業の開発部が持っている組織的構造を、完全に彼の人付き合い=社会の中で、行っているといってもいい。このバイオマスボイラーが生まれる動機も、彼が自然に作り上げた彼流の社会から生まれた。まずは、大手製品として開発し特許を得てきたグローバル技術の類い込みで、大手とパッサリ縁を切り、地域の中で回り続ける技術へ自らの力点を向けた。そうして、木材の低温乾燥機械の開発に始まり、それを納品した先から、結局は木材チップが出来て、ならば、その木材チップの有効利用、厳密には採算が見合うように、という運びになる。大きな円を描くことの消耗から生まれた、小さな縁を描き循環させていこうという意識は、これから現実に回り始めようとしているのかもしれない。

 

 

 

 

 


2016/01/17 Sun.
第160(日)ポッポちゃん  

今週の中頃、事務所で仕事をしていると、窓先に鳩がネットに引っかかっているのに気づいた。上階の住人がベランダに侵入してくる当に鳩よけネットに引っかかった間抜けな一羽。
最初は気にもとめずに、仕事の画面に意識を戻すが、ポッポの奴も必死にもがいていて忙しそうというか、苦しんでいて、そちらに気を取られる。あがいているうちにとうとう、なぜか首だけにネットの一端がかかって首をつられた状態、いよいよ私たち事務所のベランダ側に、まるで市場に吊られた食鶏のシルエットさながらをさらけ出した。
このまま死んでしまえば、上階の人は、鳩よけネットの功罪がわからぬまま、しかもポッポの屍が自分の仕掛けにかかっていることがわからぬままである。いや、そのまえにポッポが、普通にかわいそうでもある。ポッポと言えば、=糞害としか認識できない輩に、同情せざるおえない光景となってしまった。
こうなるともはや、意識を仕事に戻すことができず、カッター(大)を棒の先端にくくりつけて、首を吊っている細い一本をサムライ気取りで一気に振り切る。あれだけ羽ばたいてもがいていたから、そのまま飛び去るかと思いきや、我が事務所のベランダ側に、転げ落ちてきた。そして、アルミサッシ脇に立つ私の足下へと、のそるのそると、すりよってきた。
ああやはり、何十分かの網との葛藤で、体力が削がれたのだろう。すぐには飛び立てないのだ。まあ休んでいくがいい。でも糞はするなよ、と目線を送りつつ、なんとか意識は仕事に戻り、サッシを閉める。帰り際に、おそるおそるベランダを覗くと、まだポッポの奴は、いる。私の目線に気づいて、「すみません」という感じで、一応身じろぐ。まあ歩いているから、もう少し休んだらさっさと飛び立っていけ、とエールを贈る。よほどなにか美味しいモノでもたべて、精をつけさせようかとも一瞬よぎるが、糞でもされては本末転倒だし、彼の背後に控える大家族が押し寄せてきても困ると思い、その善意は思いとどまる。
翌朝、真っ先にベランダを覗く。・・居なかった。大丈夫でよかった。でも、やはりというか、私が立ちすくすサッシの足下ど真ん中に、5粒の糞をしていた。鳩が礼をするならこれしかなかろう。
とすると、彼流の寸志とも受け取れなくもない。本当に気持ちだけ、いただいておく。

 

 

 


2015/10/18 Sun.
第159(日)MindSet2015  

cobaさんのお話を聞いて、改めて、こういう生き方のようなものの、未来を感じずにはおれなくなった。世間では気がつくと「断捨離」、とか「ミニマリスト」という言葉がそれなりに浸透していて、余計なモノを捨てる、とか、持たないという主義の生き方が、一つのスタイルとして確立しつつある。だから、ちょっと時代的な考え方ではあるのだ。しかし、この手の話は、たとえばダイエットの延長から起こる拒食症や、逆にリバウンドというように、なんとなくやせ我慢から起こる脆さを含んではいないだろうかと勘ぐってしまう。節電というスローガンも、ほとぼりが冷めると、我慢が跳ね返って元の習慣に戻ってしまいそうである。例えばもし、ミニマリスト、なんていう言葉の拡がりを、その良識が一定の支持を得ようとしている契機と考えるならば、個人の趣味とかライフスタイルといったくくりに終わることなく、脆さを補い柔らかさのようなものを備えていって、社会全体の好転につなげていきたいところである。

テレビや雑誌や、もしくは画像検索で出てくる、それらの人々やイメージの個々は、事実を知らないのでなんともいえないが、何度かお会いしたcobaさんについては、その手の方々にありがちな堅くて脆い剛直な思いとは無縁な、柔らかい雰囲気を持っていた。彼女だって数年前までは、普通に車に乗り、家電を用いて、家事の短縮をもくろみ、生活を高回転で回すことをやってきた。ある時、疑問をもって、モノを捨ててみようと、そこから始まった。ある意味冷静な、実験的な姿勢から始められた。そしてその実験の連続によって自らの生活を省みてきたから、自分の奥底にあるものに尋ねながら、生活をシェイプアップしてきた。なんだか自然である。

こういう人々が、もはや特別であったり、変人だと、と周りが受け取ること自体、もう古いのかもしれない。各地に点々と、しみじみと、人目に触れることなく、自然にそういう営みを続けている人も、思いの外多いのかもしれない。

一方で、相変わらず、これまでとなんら変わらぬマインドセットの営みの方が、やはり主であるようにみえる。最近も、全自動折り畳み機なるスーパー家電の話がニュースが賑わせていたが、これなど、まさにそうだ。すでに普及している全自動洗濯機は洗濯から乾燥までを自動で行ってくれるが、そこから先の「折りたたみ」については、まだ人の手を煩わせているではないかと。ならば、自動で折りたたむ機械ができた暁には、主婦は生涯で約1年分の労働時間を短縮できる、という皮算用付きであった。
このあたりが、本当は、というか本来的に微妙なのだろう。人の手でやっていたことがある日を境に機械がやってくれるようになる。当面の手間が省けるのは間違いないが、その機械を得るためになにがしかの費用が必要になる。電気もそれなりに必要になる。高価な機械がそれ一つであるなら問題はないが、そういうものの集積で現代生活が営まれるとなると、費用の重なりは馬鹿にならない。当然、機械は壊れ、修繕や更新を余儀なくされる。家事を楽にする機械を整えるために、より多くの現金収入のため夫はより働く必要が生まれる。子供は家事の手伝いは不要となり、家のことを手伝うことなく、遊びや学業、趣味に走ることが出来て・・というより、親の様子から察して将来多くの収入を得なければと子供は早くから課外授業に脚を運ぶ。結局、母親は、一人で家事をこなすので案外忙しく、いったい誰が楽をしているのだろう、ということになる。

私が営む設計事務所も思い当たる節がある。たとえば、CAD(Conputar Aided Design)=パソコンによる製図が常識の今、 かつて手書きであった時代より、遙かに図面を修正していく時間は短縮できるようになった。しかし、パソコンのイニシャル+ランニングコストというのが、確実に固定費を底上げしているような気がするし、なによりも、依頼者側の意識として「図面はすぐ修正できるもの」という感じで、修正作業そのものが比例して増えているような気がするのだ。つまりは、楽にはなっていないかもしれない、という感覚。

携帯電話はすべての人に関わることと思うが、これによって優雅な生活を送れているかというと、大見栄切って言えないだろう。誰にも邪魔されずに爽快感を味わうためのトイレの中にまで相手がコールしてきた日には、爽快感どころか、電話先の相手に、ここがトイレであることがばれないような馬鹿げた気遣いに疲れることになる。

お金を介して、全ての人間が高回転で働かなくてはならない、大きな仕組み、仕掛け。特記すべきは、一つ一つの局所的な場面では、人間が楽になるためのものとして物事が生じている。ところが、局所を楽にはしたが、つもりつもって社会全体としては一人一人をまるでハムスターホイル(第149-151(日))の中に閉じ込めてしまっていることだ。人間の世界のハムスターホイルは、(グローバルであればあるほど)とてつもなく大きなホイールの中で、一匹ではなく、大勢で走っていて、もはや一人のペースでは止めることができない、そういうイメージに近いだろう。

その流れを生み出しているのは、やはり、人間一人一人に潜在している、欲と競争意識だろう。欲や競争意識こそが、人間を向上させ、他者、社会を豊かにしてきたのも事実。そして、競争意識の強い人間による力強い人生は確かに端から見ていても美しいし、頼もしい。しかし、同時に極限られた勝者よりも圧倒的多数である勝者以外(必ずしも敗者ではない、私も含めて?)の、報われない心身の疲弊を考えるべきだろう。一握りの勝者を中心とした社会の資本構造が高度資本主義社会の宿命であることは、既に周知の事実だ。(たとえば資産という意味で、世界の富の半分は世界の人々の1%の富裕層で所有されている)このような構造的な宿命があるならなおさら、この現代社会の哀しみをこそなんとかすべきと取り組むべきだろう。

考えていくポイントの一つは、「現代は電化社会である」ということ。電気を生み出すためのエネルギーの生産、流通に始まり、電気を生み出す事業、そして電気を使って動く機械の生産、流通とが、産業構造の大きな部分を占める。その構造の、あくまでも枠内に、私たち一人一人の生活がある。その枠組みに温存されているととらえるか、封じ込められているととらえるか。どちらにせよ、この産業構造の枠外で自由に生きることが、知らぬ間にできないようになっている。「知らぬ間にできなくなっている」というのがなにより不味かろう。そういう感覚があるかないかが、新しい世の中へ向かう二叉路となるだろう。

 


2015/09/27 Sun.
第158(日)ワークショップ請負業  

今年は、事務所が請け負っている設計業務の工事工程の中で、ワークショップが再燃しています。7月に佐賀で美容室新装にて漆喰ワークショップをして、今度は10月に、大川でパン屋さんの新装に伴って、土壁のワークショップを行います。(土壁ワークショップ)はからずも、これら二軒の店舗のワークショップにはいくつかの共通点があります。

1.オーナーはいずれも、これまでの常識より、数段安いコストでのお店作りを希望。
2.それに従って、まずは格安で空き店舗を賃貸し、格安で空家を購入した。
3.その次にそれぞれ290万円(美容機器別)、350万円(耐震補強込み/厨房機器別)、という、破格の店舗内装費用の設定。
4.そして、にもかかわらず、漆喰や、土壁など、少し高価な仕上げの要望
5.しかし、お金はないから、オーナー自ら進んで、ワークショップ形式の採用。

設計者も安穏としては居れず、結局はワークショップを仕切ることになり、ビジネスとして成立するワークショップ請負業なるものを、考案せざるおえなくなりました。16年前に事務所開室した早々から、ワークショップ形式を行ってきましたが、変な話、プロの職人さんに請け負ってもらうと、工事費は安くなりませんでした。職人さんは、やはりできあがりに対する責任感が強いから、手間代がそれほど抜けなかったのが主な理由でした。

筆者が講師としてワークショップを預かって遂行しますが、職人さんたちと似たような責任感がないわけでもありません。しかし、コストという切実感が大前提の工事ですから、自ずとそれに見合った責任範囲に狭めながら、それ以上は施主さん自分でやってくださいと、と逃げ腰の姿勢をとるしかないという流れがあります。

設計~監理業務としては、ある種の絶妙さが必要ですが、ワークショップ形式の建設方法は、低成長時代という時代の要請ではないかとも思っています。筆者だけがやれるのだと宣うつもりはなく、むしろ興味を持たれた設計者や施工者の方々がこの手の仕組みを各地でトライされると世の中的に面白くなるだろうなと思っています。

 

 

2015/06/14 Sun.
第157(日)出汁と杉材  

縁あって、東京の阿佐ヶ谷に、うどん屋さんを設計させてもらった。建築設計者のおもしろみの一つは、こんなふうに、ある日突然に未知のものの設計を依頼されることにある。もちろん人間が住む器=住宅であれば、それに始まりそれに終わると言われるように、永遠の問いとして、飽くなき探求の愉しみに尽きないものでもあるが、頭が単色になっているところに、ぽつんと差し色が注がれたような、新鮮な感覚もまた、脳のリフレッシュにとてもいい。

尤も、このお店のガタイであるテナントビルは建築家の設計したもので、エントランスドアや、その付近の石材貼りや、床タイルに至り、オーナーの希望があり、そのままを用いることになっていた。私たちが行った意匠的な概観は、気がつけば、ほぼハイカウンター周りと、テーブル、イスのチョイスぐらいのことであった。

その限られた意匠の施しの中で、このお店のデザインとして、成功したなとおぼしき自画自賛が一つだけある。それは、ここで出す一杯の博多うどんの品位そのものと、お店というか一部内装で用いた杉材のありようが、なんとなく、よく釣り合ったのではないか、というところだ。施工者が秋田杉の在庫と縁を持っていたこともあり、この杉の素性は、誠に清々しいものであった。お店として贅沢をしたのは、設備以外、ほぼここだけ。700幅×4mの天井板から切り出したつり戸棚の扉と、400幅のカウンター材。割烹料理屋ではないか、といえばそれまでだが、逆に言えば、ここのうどんの出汁の品位は、用いる鰹節の量とか、塩加減含めて、割烹料理店から出てくるものと同等なのだから仕方がない。

出される一杯との連続以外、ほとんど、デザインとして他にコミュニケイトしている対象はない。器としてのお店の品位と、そこから出てくるモノの品位。品位というのが腑に落ちなければ、単にイメージと言ってもいいかもしれない。食べ物を出すところなのだから、そういうものが出てきそうな、万人に通じるイメージを表現するというところが、デザインの、正に醍醐味だったのではないかと、思った。

 

2015/05/17 Sun.
第156(日)「住民参加」の聖地へ  

母校の授業の関連で、東京都世田谷区太子堂を訪れた。三鷹~杉並の住民だった時代には、このあたりを徘徊したことがなかったが、都市計画の教科書にも、また建築士の学科試験にも出てくるほどに、都市計画、まちづくり、とりわけ「住民参加」の成立地であることの記憶はどこかにあった。なんとなく知っている、ということは知らないよりはいいが、でも実際の場所に脚を運び、40年近くこの地に住み住民参加型のまちづくりを育ててきた人々に出会えたことによる実感は、格別であった

梅津さんは自他共に認めるこの地のまちづくりを担ってきた重要な人である。太子堂に住み、自身はサラリーマンをされながら、この地区のまちづくり協議会の一員として、ほぼ半生を費やされてきた。そのことも事前に聞いていたが、実際に4~5時間の話を伺うことによって、この人の働き、このまちの内情を初めて知る、というか感じることになった。

人生の大先輩でもある梅津氏は84歳。私の母と同じ歳。私の母は寝たきりではないが、残念ながら梅津さんのような若さを持ち合わせていない。1時間近く炎天下の元を学生に物事を解き明かしながら歩き回り、それから3時間、みっちりとスライドレクチャーと議論に浸るエネルギーがいったいどこから出てくるのだろう。また、人名、地名などの固有名詞、町の概要などにかかわる数字や、年号が滞りなく次々と脳内から引き出される様は、とても80代の人間には思えない。どの年代でも同じことが言えるのかもしれないが、生きるバイタリティーがその働きを決める。自らのこれからの歳の取り方を、もう今から反省したくなるような、身の縮む感覚を覚えると共に、高齢化社会の問題を、人間の群でとらえる以外に、一人一人の生き方の指標として捉え直す必要を感じたりもした。

確かに、住民が積極的にまちづくりに参加するのだから、住民として、なにか特別な気概を持ち合わせているのではという、買いかぶりがあった。だが、我がホームタウンと同じく、普通の意識の人々の集合と考えた方がよさそうだ。そこに特別な人間がわずかにいたから、この場所は教科書に載ることなったのだ。

大学の授業の一環として学生を引率する立場を返上し、自ら学生と同列に学ぶことの多き一日であった。そのなかから2つだけ、書き留めておきたい。

「仮に同じ地域に住んでいる人々であっても、みな考え方や利害が異なります。皆がまちまちの考えであることは当然のことと理解して、その食い違いを、決して多数決で裁断するのではなく、時間をかけて合意形成となることを目指します。」つまり、過半を境に物事を採否するのではなく、賛成も反対も、可能な限り参加者全員の合意を目指すというもの。そのためには時間が必要(小さいことであっても1~2年かかる)であるが、おおむね可能であるとのこと。これは、仕事としてはできないことだろうと思った。はからずも梅津氏をはじめ、「まちづくり協議会」の会員は、無報酬の有志で行っている。

もう一つ、

「考え方の違う人たちが、時間をかけてつきあっていくうちに、意見が合意されていくプロセスが、面白くてやっています」

公益となるはずの道路拡幅一つでも近隣住民が我論を展開しもめてしまう、本当はおもしろくない話の方が多いはずの住民参加型まちづくりを、結局は愉しいと言えるその度量。「深い愉しみ」とはこういうものを指すのだろう。そしてそういう愉しみは、自己を満たすだけの普通の愉しみと異なり、他者を幸せにしようとするものであるかもしれない。実際の場所を訪れ、人に出会うことよって、どこかでわかっていた気になっていたことを、改めて感じさせてくれる。

 

 

 

 


2015/04/26 Sun.
第155(日)信じることの利益  

信じることと、疑うことの、ニサ路。時折考え込んでいたことを今、記そうと思いたった。

例えば、家を設計するにも、既存のものを扱うにも、時に立ちはだかる防犯の話。泥ボーに入られた人も、そうでなくとも、どこまで防犯に意識を傾けるかという程度には、当然個人差がある。私個人の経験でいえば、我が住処の庭に得体のしれない輩が忍び足で侵入してきた日の直後は、防犯グッズやら、縦格子やらの購入、造作に溺れた。その後、その記憶が薄れるに従って、防犯意識と行動は共に薄れていった。(泥ボーさんよ、聞かなかったことに。)泥ボーが入ってくるかもしれない、という「疑い」は、少なくとも金銭を費やし、なにがしかの不便、それなりの不便を伴う。防犯性能を強化すればするほど、つまり疑いを大きくすればするほど、代償は大きくなる。

自動車や、家、もしくは人間に掛ける保険の類は明快で、「疑い」を深めれば深めるほど、先行投資の費用は増えるしかない。もちろん、疑っていた通りのことが起これば、「疑い」の意識と労力は、おつりを伴って報われるが、何事もなければ、それらは、代償として、失う。

アメリカなどでの建設現場では、設計者と施工者の双方を監督する、コンストラクションマネージャーなる立場の介在がある。とかくありがちな、工期遅延と予算超過を防ぐために、設計者と施工者の間に立って両者を監督する立場を発注者が依頼する。目的は正しいが、そのように疑いを深めるがゆえの、複雑機構というか、その三者はうまく均衡を保てるのだろうか、発注者の負担も増えるのでは、などの想像をしてしまう。要は、設計者が工期と予算の制御をきちんとできれば、こんな、立場は不要なはずなのではないか、コンストラクションマネージャーの出来が悪ければ、それをまた監督するコンストラクションマネージャーが必要になってくるのではないか、と、まあ止めどないシステム論のようにも思える。

建築家と呼ばれる人々の仕事はやはり、疑われては、ひとたまりもない仕事であると、深々と思う。泥ボーと同列になるが、依頼者からの疑いが一定以上あると、良質な建築を作るどころか、その創造のための敷地に近寄ることすらできない。だから、疑いが生まれぬよう、日々精進していくしかない。

逆に言えば、依頼者からある一定の信頼を得られる段階になると、これほどに愉しいものはない。そこには創造の連鎖が起こる。愉しいのはもちろん設計者だけではなく、依頼者も必ず同じ輪の中にいて、施工者も途中はきついだろうが結果的には、喜びを覚える。

互いに「信じる」という、説法くさいようにも思えるシステム論こそが、よい建築を生む必勝パターンだと言い切れる。日本はしばらくは、というか再び、これでいい。よくいう、私たちの職業の入り口に掲げてある「自己実現」なる危うい言葉の本体は、ここにあり、といえるかもしれない。

 

 

 

 

2015/03/22
第154(日)貨幣経済の退屈-2  

今週は、ガラス屋に走った。空港を超えて志免のあたり、近いようで、市内というほどの手頃な距離ではない。
中古マンション一室の改装で、UB(ユニットバス)内にある耐蝕鏡の縁が蝕まれていて、よほど新調しようかと思ったところを思い留まり、というか思い放ち、重い腰を上げて、ガラス屋に走った。端部を切ってもらい、角面研磨をしてもらい3500円。新品を買えば今日的には3000~5000円ぐらいだろうか。設計者は、建築に関わる大小のコストを管理する人間だからという以前に、そういう皮算用をする前に、つまりは新品をネットで買う方が、古いモノをああだこうだと手を加えて使い回すより安いことぐらいは知っている。が、その蝕まれた耐蝕鏡を投げ捨てることができなかった。モノそのものに愛着はなかったが、これをゴミにするも活かすも、手に掛ける者次第だと試されているように思ってしまった。

同様に、同じUBのプラスチック照明器具が、年代物で黄変化し、熱で穴があいていた。普通に考えれば、照明器具まるごとを電気工事として取り替え、となるところを思いとどまり、というか思い放ち、既存のものをそのまま改造するに踏み切った。方法は、3液型特殊樹脂によるHoosenLight(文字通り風船のかたちをちぎり紙に転写してつくる)を、元のシェードのネジ部と合体させるというもの。浴室用照明は、ソケット部が湿気ないよう室内空気と絶縁される必要があるから、ハンドメイドが難しいが、既存の防水機構を利用すれば性能はそのまま存続できる。もちろん原理は機械的に言い放つことができるが、実際の作業はそれなりの手先が求められる。

改造作業は2時間強。この特注制作物の仕事、見積書には1万円と明記した。浴室用の新品はいくらぐらいで買えるのだろうか。ネットで安物であれば3000円ぐらい+電工費5000だとしたら、まあドッコイドッコイというところか。鏡同様、古びた浴室照明に愛着があったわけではないが、既成の安い照明器具を取り寄せて取り付けるという一連の作業そのものに何の期待や愉しみもわかないから、あえてめんどくさいことに脚を踏み入れてしてしまう。退屈なユニットバス空間にほんの少しの新鮮みが加えられる喜びとのトレードである。こういうのを本当に、性(サガ)というのだろう。

 

 

 

 

2015/03/15 Sun.
第154(日)貨幣経済の退屈-1  

チョコレートはもらったら返さなくてはならない、ということにいつの間にか世の中がなっている。昨日は例のホワイトデイ。返礼などカミサンに必要だろうかとおもいつつ 、つまらぬことで言いがかりが付いてはいけないと、律儀に何かを返そうと思うが、そこらの何か、羞恥心を凌いでホワイトチョコなどの定型を買って与えてもモノだけが行き交いして、なにも取引にならなように思い、ならばいっそのことクッキーなぞを焼こうと思い立った。「白い日」に贈るべきものであるかどうか知らぬが、そこをいろいろと裏を取って生きるような分際でもない。

クッキーとかケーキづくりとか、実は子供の頃、父親の日曜日の過ごし方の一つであったから、まったくの新規事業ではない。父は日曜日、飛行機とか、車とか、船とかの動く模型を作ってみせたその延長で、なぜかお菓子作りも楽しんだ。子供の時分も自ずからその中にいた。といっても、手順や分量を覚えているはずもなく、結局は贈る先の手ほどきを受けながら、作ることになった。彼女の監理の元での厨房入り=自己完結できていないところが、結局は災いのもとになる。自分の手際の悪さ、端折り方を横からご丁寧に指導いただくも、そこは職人気質対、職人気質の対決となり、口論の火種にななりかかる。家族の円満のために画策したはずの催しが、もろくも目も当てられぬ事態となる。

1時間強かけて、いよいよオーブンに投入。ようやく気を取り直す。なによりもこういうのは、焼き上がりの楽しみがある。粉状態で約300グラムぐらいの原料、手作りクッキーとして買えば500円くらいになるのだろうか。時給換算などしてみると、手作りというのは、こんな調子だと商売として法外な値段となってしまい、成立しないことに気づく。

様々な形の型抜きで、造形を楽しむ。型を抜いたネガ=ハンパを集めて、今度は自由造形を楽しむ。飛行機、象さん、ペンギン、象さんのネガから偶然にできた豚さん、言葉にできないあの形、これを童心といわずしてなんという。。自由奔放なクッキーの型の集合体、商品として売ろうとすると、やはり歩留まりが悪く、さぞやりにくかろう、などと想像してみたりする。

味はどうだっていい、というと嘘になるが、正直いうと、焼き加減が案外難しいなとか、もうちょっと砂糖やバターを少なくしてみてはどうかなどと、次の課題しか思い浮かばない。

 

 

 

 

2015/03/01 Sun.
第153(日)嗚呼、暮らしの物理学  

先日、私の代わりに所員の木下君に、とある授賞式に出向いてもらった。彼の報告から、なかなか考えさせられるものがあり、特記。
その授賞式は、環境系アワード、簡単にいえば、地域性を考慮したデザイン、省エネルギーや、低環境負荷、といった、わかりやすく言えば「環境にやさしい」住宅をたたえる賞として、老舗の部類であった。当然、私たちの事務所も、その趣旨に反応し、自信をもって答えるつもりで、応募した。
建築デザインにおける環境工学、つまり、温度や湿度といった数字で表すことのできる、快適性を実現するための学問は、元は明治の建築学黎明期から存在していたようで、昭和初期には、建築計画原論などと称して、建築学全般の中での独立した学問分野として確率した。60年代ごろには「環境工学」というふうな工学的雰囲気をまとう改名を経ていて、私が大学で学んだ頃は、その名のものであった。21世紀を向かえると、なんとなく新しい世紀を迎えるがことく、急激にデザイン原理の新風として、取り上げられることが多くなることを実感した。2008年には、この手のデザイン潮流が結晶化した、「ハウジングフィジックス」という単行本が発刊され、素直にその書を手に取る。もはや環境工学という独立した学問というより、間口が拡がり、建築設計の原理そのものとなっていく勢いを感じた。これらのデザイン業界の動きは、私たち設計者としては、直近のこととして、まだまだ記憶に新しい部類であろう。
私は、このハウジングフィジックスという言葉は、なんとなくいいなと思っていた。「環境工学」というよりも「住宅における物理学」という方が、熱や、光、風、という自然の要素のとらえ方の割り切りがよく込められていると思い、私自身よく言葉に出した。が、私以外が口ずさんでいる場面をついぞ見ることなく、ましてや学生に至っては暖簾に腕押しで、却って伝わらず、この言葉は、普遍化の機会を得られなかったことを知る以外になかった。改名のステップを踏んだはずが、戒名を授けられてしまったか、そんな思いも立ちこめた。
先日の授賞式でのメインイベントである審査員と上位入賞者によるディスカッション。その中身を伺うに、どうも、このアワードが指している「環境」は、もはや「環境工学」や、「ハウジングフィジックス」を指し示してはいないようなのだ。「環境工学」と言っていた時の環境は、建築の内部空間を、つまり室内にいる時の人間を前提として彼を取り巻く建築を「環境」として指していた。直近のそれは、それより一段外枠の、住宅が立地している周辺、場所、都市を広く「環境」として扱っていた。つまり、建築(住宅)の存在を弱めて、室内の人間が、周辺環境とどのようなありかたが芽生えるか、ということのようであった。例えば、大もめの国会議論で、どこまでが集団的自衛なのかという議論と似ていて、「環境」のとらえ方次第で、どんなものをも包含できるし、あるいは切り捨てられるし、本当はそこだけでいくらでも議論が尽きないような壮大な前段に立ち返る姿勢とも受け取れた。
室外では、建築行為としてのフィジックスの効力は一段も二段も弱まる。「住居の物理学」は、やはり一気に盛り上がり、潮を引いてしまったのだろうか。ここからが、勝手な憶測になるのだが、一つは、フィジックス(物理)としての探求に限界が来たのだろうか。エアコンを用いず、自然の原理で建築を涼しく、暖かくすることの方法の探索が頭打ちになったのだろうか。あるいは、そのような自然の原理は、結局は、エネルギーを費やす冷暖房の効果に比肩することができず、結局は、実際の依頼主の関心事として育たなかったのだろうか。あるいは、とどのつまり(案外これではないかと思うのだが、)取り組む人間の関心事として、流行としての寿命が来たということなのか。
個人的には、こんなに実体的で、全ての人々の日常生活に実感されうる面白い物理学はない、と思うのだが、建築における議論のサークルから、放念されていくのは寂しい、と想ってしまう。デザインは多かれ少なかれ流行を孕んでいることは言うまでもないが、それにしても、学問の発信源付近がそんなに移り気でいいのだろうか、ともちょっと想ってしまう。

 

 

 

 

 

 

2014/12/01 Mon.
第152(日)施主友の会、紅葉と共に  

昨日、雨のなか、紅葉狩りと称した、蕎麦打ちの会が行われた。場所は楽只庵。12年前に竣工した、私が独立してまもなくの小さな住宅兼書空間。話の発端は、恐れながら施主の方々。お施主さんのほとんど多くの方々はやはりというか、衣食住の「食」に対する意識というか関心というか、趣味そのものであったり、あるいは深く根ざした文化というべきか、それぞれのスタイルでありながらも、口の中に入るものに対する造詣の深い方々が多く、迂闊に蕎麦を打ちますなどと、知ったかぶりはいけないと心がけていたのであるが、有るとき、施主のKさんのお宅に呼ばれて、おごちそうを頂いた感の極みに乗じて、「最近面白い蕎麦<粉>屋を見つけたんです。」と口が滑ってしまった。その小さな綻びが大きくなって、今日の場が設定された。参加者はということで基本、私の施主さんの一部、そしてその友人知人。

蕎麦を打つのは、25、6才のころだったか、一人暮らしの年末、数名のモノ好きの友人達と、年越し蕎麦を食おう、ということになり、でも蕎麦屋に食べに出かけるような気取る仲ではなかったし、かといって棒蕎麦でしのぐような、形骸をなめる振るまいには、本能的に無関心であった。結局、蕎麦を「打つ」しかないだろうとなり、近くの三浦屋(ちょっとよさげのスーパー)に出かけ、パッケージ化されたそば粉を買い、普通の大きさのステンレスボウル、普通のまな板、普通の菜切り包丁のようなもので、切り蕎麦を始めて試みる機会を得た。

一時は、一人暮らしのアパートに、なぜか常設の蕎麦打ち台を設けていた時代もあった。とてもなつかしいと思えるほどに、時間だけはよく経過している。よくよく考えると、これほど求道的なたしなみであるはずの蕎麦打ちに、なんにも磨きが掛からず、なんのシンポもないまま、ほとんど自己満足のためだけに、蕎麦を打ち、闇雲に歴だけがかさんでいることに気がついた。そこに、お客さんに蕎麦を振るまって、さらには、きちんと参加費を取りましょう、の話が不意に起こり、この20年間、日陰で粛々と営まれていたテイタラクが、とうとう日向に干される事態に陥ったのである。30人前の蕎麦をその日に打つことも、また30人前のダシを作ることも始めてであった。

蕎麦打ちはなんとか事なきを得ることができた。一次会は終焉し、場をラクシアンの軒下から畳の間に移し、ふとこの会を傍観する。と、実に不思議な会であることに気がついた。私にとっては、何方も施主。自分の頭の中に、ある時期並列して同時に存在し、また時間は違えていても、それぞれそれなりの期間、私の脳を占めていた人々である。それまで脳内でのみ並列できたはずの施主さんたちが、眼前に現実として並んでいて、そして驚くべきことに、互いに歓談しているのである。脳内では、各々の方々は私と話すだけであって、施主さん同士の会話などありえなかった。脳内にしかなかった仮想の世界が、現実の世界に新しい繋がりとして造影された瞬間であった。

なにがしかの共通項で縛られ、他人との繋がりを拡げるSNSが生活の一部となり久しいが、この現実での、生身をもってしての不思議な出会いはまた格別、なんとも清々しい。。SNSは基本、参加者同士のコミュニケーションが旺盛に生まれることを望み、仕組まれ、その流量によって運営側の利益が得られるシステムであるから、結局情報量は膨大である。さまざまな共通項でくくられ、整理された、人脈のビックデータである。仮想現実ともいえる大きな人間の輪。それに対して、今日のこちらは、現実の、実に小さな共通項でくくられた、小さな集まりであった。

 

 

 

2014/09/21 Sun.
第151(日)ハムスターホイールライフ3(HWL-3)   

少子化や、鬱病、自殺、介護、財政難、ダイバーシティ、そういうものを一気に解決する策として、「長時間労働をやめる」べきとの、小室淑恵さんの発言を見つけた。http://www.yomuradio.com/archives/657

すべてを一気にというのは、言葉の勢いもあると思うが、労働時間に関する以上、少なくとも働く社会人にとっての諸問題を解決しようとする提案としては、賛同したい。なによりもハムスターホイル状の社会構造までもが浮き彫りになっている。

長時間労働は、たぶん日本人にかぎらず、向上心とか責任感とか、所定の気質を抱えた人間であれば、世界中のだれもがそうなりえるものだと思う。それ以外の人々に対して意味を持つ警句では決してなく、また長時間労働が、体質的にも社会的にも板についた人種にまで遡及する金科玉条とは思えない。あくまで一般論として、労働時間という解りやすいジェスチャーに頼る評価軸を解体していくべきだというところに説得力があるように思う。

いや、やはり、長時間労働は、日本人の勤勉さの副産物なのかもしれない。欧米などでは、この悪習はとっくに社会のメインストリームでなくなっていると、フェイスブックの友が報告してくれた。ハムスターホイルの回転速度を自制できるハムスターなど求めるべくもないが、今私達(日本人)には、この勤勉さ、まじめさのエスカレートの「仕方」を自制できる人間が必要なのかもしれない。

勤勉さの裏には、もしかすると自我と無我が混在している。無我夢中になって時間が過ぎたというなら、それはそれほど尊い時間はないだろう。が、こうなりたいああなりたいという自我あるいは欲に裏付けされた勤勉は、見かけ以上に、似て非なる時間であるかもしれない。あわよくば前者のように、自然に実る濃密な時間を送れるよう心がけてみる。そして人を動かす立場の人間であれば、時間ではなく、その質を見抜く力も当然のことながら必要になってくるだろう。

一人一人の労働時間が制限されても、それによって一企業の従業員の頭数が増えたとしても、集中力が個々に発揮されることによって、むしろ、結果のコストは安くなると小室さんは言う。優秀な人間に、より多くの仕事を任せるほうが上司や雇い主は楽なのだが、一人の人間をハードドライブさせるのは、結果的には非経済に繋がる可能性を持っているのだ。さらには、介護施設や保育施設、学童保育など、今足りずに必要とされている国家的サービスは、働く世代が働きザンマイであることが原因であるから、一人一人が身の回りのことを外注せずに生活することができるようになれば、自ずと国家の財政難は緩和するだろうと。。

親などの介護を、お金を払って他人にまかせっきりにするのではなく、働きながら、自らが行う。我が人生を職場で一仕事上げたい、という人間にとっては受け入れがたい小事(大事)である。そこを工夫して、仕事とそれらを両立させる。もちろん親が仮に子供であっても同じことである。個人的には、イクメンなどもっての他だと思っていたが、この石頭はこれからの社会の仕組みの中に沈んでいくものであるかもしれない。(実際、個人的には親の介護と子育ての挟み撃ちにあっている。)

ハムスターホイールは、別ないいかたをすれば単純な話、ゴールを迎えることのない「負のスパイラル」のことであり、現象としては長時間労働、となる。そんな時、何処にゴールを見るか。ハムスターのように目前を見ているだけでは、ホイールの中だけで走り続けなければならない。常に遠くを見ているだけでは、日常生活は送れないかもしれないが、時々、ホイールの外(と思えるもの)を遠望してみる。これが、ホイールのスピードをコントロールできるきっかけになるかもしれない。

より大きな(というか「奥深しい」)目的を掲げて生きるというのは、普通に生きていると必要なさそうであるし、また見失いがちだ。でも、時々に自身を大きく省みてみるのもいいのかもしれない。外から型にはめられたようなものではなく、自律したコンディション、スピードで走り続け、そして仕事をきちんと成す、なんとも大人びた大人に、より大人は見本をシメさねばならないのかもしれない。

 

 

 

 

 

2014/08/31 Sun.
第150(日)ハムスターホイールライフ2(HWL-2)  

ロースが言うとおりならば、装飾は視覚的、あるいは文化論的に不要となるばかりでなく、生産行為として、新しい産業構造として無駄であり、その無駄を廃することによって、人々はそれまでより楽な暮らしができるはずであった。しかしながらロースの時代に、以降、自由市場経済がこれほどの革新的な工業技術、情報技術の進展の動力源になり続けるなど、想像できなかったかと思われる。それまでに人々の生活に必要であったものの種が、そのまま増えずに、一つ一つが安くなっていけば、人々は楽になるはずであった。100年後の私達は、この重大な予言が事実ではなかったと、答え合わせのできる立ち位置に生きている。人々の日々が「楽」になるどころか、ますますつらく厳しいものになっていくのは、与えられる労働単価(時給)、つまり収入減ばかりが上げ連ねられるが、それ以上に生活に最低限必要な経費の増大に因っているのではないだろうか。私たちの日常を暗黙の内に追い立てるのは、必要経費総計の微増なのだ。

炊飯器、携帯電話、デジカメ、パソコンに至り、一つ一つは確かに手が届かないほどの高価なものではない。高性能化の一途であることを考えると、むしろ安いともいえる。しかし、問題は、そういうものが生活必需品化し、そして加えて、短期消耗品化していることにある。100年前には必要がなかったが、今の私たちには欠かせないモノの類が異常に増えて、そして、買いそろえても、買いそろえても、それらの更新がまた迫ってくる。つまりは、必要経費は確実に増える一途だから、その雰囲気がマインドセットされて、自ずから働く時間は、増えていく。これらハムスターホイール化する社会構造は、一億総勤勉の私たち日本人にとっては自らの勤勉欲とうまい具合にドライブしてしまい、そこに本格的な疑いが芽生えず、制御装置も働かない。

鬱病、自殺などに現れる私たちの何らかのオーバーヒートは、原因を一つに決め込むことのできない代わりに、大きすぎて見えないハムスターホイール(HW)の存在を懸念する自由はあってもいいはずである。便利なもの、機能的なもの、美しいもの、全ては仮に、高き志と尊い才能、そして努力により生まれたものだとしても、そのエスカレートが創り出す社会構造を少し離れて見ることのできる展望台が、どこかに必要ではないだろうか。日常的に上るところではないが、時々に上がって、普段自分たちが生きるその世界を見つめる。ちなみにその展望台は、心理状態の例えとして架空のモノと考えてもいいかもしれないが、もしかしたら、ほんとうにあってもいいかもしれない。HWの外にある、現実の場所、建築、空間は、いったいどのようなものだろう。

(続く)

 

 

 

 

 

2014/08/24 Sun.
第149(日)ハムスターホイールライフ(HWL-1)  

事務所からなぜか、時折、炊飯器の廃棄物が発生することに気づいた。まかない食制度であるから、朝に昼に常に炊飯ジャーは酷使されて・・、ということを訴えたいのではなく、そういえば、自分が子供この頃の電気ジャーは、炊飯のスイッチのオンオフだけしかなかったが、代わりに物心ついたときから、ずっとそのジャーは長い間現役でいたことを想った。機械も人間も簡単にできているほど壊れくいという、常識的なことをことさら強調したいわけではないが、しかし、それにしても5~6年経たない内に炊飯器を廃棄することになるというのは、いかがなものだろう。
もう一つ、今年買い換えたのは、カメラ。2005年にニコンD70を思い切って買ったような気がするが、完動品でありながら、2014年には中古として値段が付かない状態。これにくっついてるレンズ(トキナー)の電気系統が壊れて、修理費用がそれなりにかかってしまうということで、レンズ+本体の上級機に買い換えた。銀塩フィルム時代のカメラ本体は、基本、社会的な老朽化(そのものの機能が維持されていても、市場にハイスペック品が現れることによる老朽化)などなかった。へまをしなければ、半永久に使えるように思えたし、しかも売るときにもこのような値落ちはしなかった。今は、何十万という上級機を買っても、10年持つだろうかの不安がつきまとう。
同じように、CADのアプリケーションつまり、図面描きにとっては最も、商売道具といえる製図道具もまた、今日のものは、頻繁な更新を迫られる。事務所が使い続けてきたもの(vectorworks)は、いつのまにか、毎年バージョンアップされるようになっていて、もちろんそれに従う必要は必ずしもないのだが、完全消耗機器であるプリンターの類を更新していくにつれて、パソコン本体のOSのバージョンアップを迫られ、それにしたがって、時にはハードウェア、そしてあらゆるアプリケーションの更新とともに、基本的には有償にて行うことになってしまう。(レギュラーな方法に従えば)
いつもの長老癖で、昔はどうだったかと比較をしてしまう。図面を手描きの時代は、ワイヤータイプの最も安価な類の平行定規を愛用していたが、これは、ほとんど全く壊れることなどなかったかわりに、簡単に狂うから簡単に自分で直せた。あくまで微調整が繰り返されるだけで、製図の出力まわりで更新を迫られるものは、せいぜい青焼機(40万円強)が単独で壊れた時ぐらいだったか。10年弱の間、一度だけ買い換えがあったのを覚えている。その際、現代でいえばパソコンのOSにあたる部分は、その当時は人間様に他ならないが、仮にその人間様が代わったとしても、製図台や、青焼機、その他の周辺機器の更新が芋づる式に強要されるということはなかった。当たり前の話だ。

 

ふと、19世紀初めの巨匠アドルフロースの有名な「装飾と罪悪」(1913年初出)というおよそ100年前の建築論を思い起こす。この論説の主旨は、おおざっぱにいうと、以降建築を含めて芸術全般が、それまでの装飾を表現手段とした様式を捨てて、モダンなスタイルを確立していく前夜に、予言的に装飾との決別を世に訴えたものだ。装飾がいかにこれからの時代に邪魔なものであるかのたたみかけるような論説の中に、単なる美学を超えて産業構造、人々の生活水準に関わる、重大な予言をしている。
「20世紀の文化に生きる人間は、自分の欲求をずっと僅かなお金でもって満たすことができる、だから貯金もできる。野菜を食べるにしても、お湯で茹でて、バターで少しいためればそれでよい。だが、18世紀の文化に生きる人にとっては、蜂蜜や堅果を添え、そして長時間料理に時間をかけたものでなければ同じおいしさにはならない。装飾がなされた皿は非常に高価だが、近代人が日常使う白い簡素な食器は安価だ。それでも近代人は美味しく食事をする。一方の人は貯金をし、もう一方の人には、借金がかさんでいく。」
「八時間働いて得る近代の労働者と同じ賃金を装飾家が得るためには、20時間も働かなくてはならない。そして装飾を施すということによって、ものの価格は上がるのが普通なのだが、にもかかわらず、材質は同じで、造るのに三倍以上ももの時間を費やしたものが、そんな装飾のついていないものの半額で売られているような場合がたまに見られるのである。装飾がないということは、それだけ労働時間の短縮と賃金の上昇とに直接繋がるのだ。」
「ところで、そうした装飾が全然無くなったとしたら、---多分、数千年して、やっとそうした状況になるのだろうが----八時間ではなくて、たった四時間働きさえすればよくなるだろう。というのは、今日、労働時間の半分は装飾に費やされているからである。」
「このように装飾は労働力の無駄遣いであり、従って健康も損なう。過去も当にそのとおりであった。」

(続く)

 

 

 

 

 

2014/04/27 Sun.
第148(日)粥茶会、建築の代人  

生まれて初めて、茶会に誘っていただく幸運を得た。こういう機会は突然にやってくるから、やはり、用意は事前にしておかねばならないのだが、時既に遅し、見せるカタチも隠す技も品もなく、只只身を差し出す。

尤も、後で解ったことだが、この茶会はカチカチのものではなく、主人自ら意図的に不手際を演じ、その道を心得ぬ客であっても暖かく受け入れてくれたのであった。( 九死に一生を得た。)そして、この庵のかつての主人が、この庵を創始し、この粥茶会なるものを創始したことを、知った。

鶴田忠義という人のことが、少し気になった。大学の大先輩にあたる人が、仕事を引退して、有るとき、この庵を構えて、自由な茶を営み始めた。聞くと、茶の道はほどほどに始められたという。それが逆によかったのだと思うし、それが本来の数寄茶のあり方なのだろうとも思った。京都から数寄屋大工を連れてきたりせずに、まったくの未経験の大工を雇い、いっしょになって見よう見まねで創作したということと、柱、天井板のことごとくが、節だらけの、どちらかというと粗悪とされる材を用いてあることとも結びついた。このあたりもまた、単なるお金持ちの道楽と似て非なり、やはり本来の数寄に立ち返ろうと(お金は用いず)教養を用いた形跡を感じ、あるいは、定型(伝統のカタチ)との連続のしかた、崩し方として、絶妙な立ち位置のようにも思えた。

「まずは一献」の茶会は、先付、向付から始まり、粥が添えられた。釜は、茶飯釜といって、二重蓋により、最初は木蓋が載せられ、様々な様相の粥を楽しみ、その後は、一掃された同じ釜に鉄蓋が仕組まれ、湯を沸かし、濃茶、薄茶と進む。
本来のお酒の肴の数々も(書き出すときりが無いほど)秀逸ながら、粥と酒の関係も大変良い。固めの粥からモチモチへの無段階変速しながらオカワリを繰り返しがてら、おちょこも畳と口元を忙しく往復する。鉄釜だからか、ご飯の味が、とにかく普段とは別格である。以前から、どうしてあちらの国ではパンでワインがいただけるのに、こちらの国では、ご飯で酒とはならないものか不思議であったが、「なる」という結論に、素直に胸を撫で下ろす。昼の12時から始まる茶会、というか裏を返せば宴会は、お粥をオカワリしている内に、お酒の量にリミッターが働き、これもまた、無秩序を増大する危険な場に品位を与えてくれる。

それにしても、この茶室は暗い。私が今まで見てきた茶室の中で、最も暗いと感じた。(そんなに沢山見てきたわけではないが、もしかしたら、実際に箸を運ぶという状況だったから、光量の不足をより感じやすかったのだろうか。)建築の設計者は、様々な先例を実際に見て聞いて、未来の仕事を待ち構える職業とも言えるが、「見た」「居た」ということで、なんとなく、「経験済み」ということにしてしまう、癖がある。そのかたわら、実際には、そのビルディングタイプ(建物の機能、種別)に従って、体験をすることは、容易ではないという考え方もある。私達がよく知っているはずの茶室はその好例で、実際にそこで、茶を頂き、あるいは、懐石を頂いて、というのはそうできることではない。また、能舞台の観客になることはできても、檜舞台で演じることなど容易でない。美術館だったら、ホールだったら、聴観者になれても、作者奏者になるのは簡単ではない。住宅に至っては、自らは生活者であり、その熟知者であると豪語するも、指さしたその住宅に、寝泊まりする特権を持っているわけではない。設計者は、なり得ぬ立場に成り代わって空間を作る、代人であり、役者である。(しかない。)役者には、役作りという仕込みがあるが、設計者には、はて、役作りに値するプロセスはあるのだろうかと、はたと考えてしまう。せめてもの、僅かな機会を大事にするしかなく、代人として器を空っぽにして磨いておく、というようなことでしか術がない。

話は戻って、この茶室は「雪折庵」というらしく、福岡と佐賀を結ぶ石釜(茶釜とはおそらく関係がない?)という里山エリアに潜している。庵を創った亭主が他界され、この粥茶のスタイルを知る限られた方々が、頼まれた時に、「在釜」の提灯をもって庵を開きに出向く。そうやって真に侘び寂びていく庵は、辛うじて存続している。

 

 

 

 

 

 

2014/04/12 Sat.
第147(日)第三の大学  

2週間のオープンデスク(一時的な採用状態)生が、昨日大学のある町へと戻っていった。4年生になったということで、これから就職するにあたって、組織設計事務所か、アトリエ系かの二者択一に迫られていた。彼女の就学は、学費の全額を奨学金に頼っていた。組織事務所に求めるものは、どうやら報酬らしく、言うまでも無く奨学金返済が背景にあった。
お金のことを抜きにして、本当に行きたいのはどちらか?で決めるべきだという正論は、正論としていつでも何処でも側にある。本当に行きたいのはどちらかを確かめるべく、縁在って我が事務所に迷い込んできたのでもあった。
自分の大学生活は借金を積み重ねることはなかったから、就職先を決めるに当たっての、少なくとも報酬にかかわる発想はなかった。友人の中にも、それが切実だという話は、あまり聞くことがなかったように思う。聞けば、彼女だけでなく多くの友人が奨学金を得ながら就学しているという。バブル崩壊を控える浮かれた時代の我が学生期と今の時代との違いなのだろうか。少なからぬ学生が、社会人になった暁の稼ぎを担保に、ようやく学業の機会を得ていることを遅ればせながら感じた。

その稼ぎの源を蓄えるために大学に通うのだから、就労条件とのトレードは自然とも思われる。しかし、よりよく働くための家なのか、家のために働くのかわからなくなる住宅ローンと同じように、よりよく働くための大学なのか、大学のために働くのか、本末は転倒することもあるのかもしれない。大学が各人の適性を伸ばし、自由精神を育むところであったとしても、お金を借りて通うことになったトタン、その先に待ち構える不自由さに、その種の不自由さが加わる。
そういえば、別の学生に、彼は中国人の大学院生だが、やはり自分で働きながら生活費と授業料の100%を捻出しなければならない状況の中、学業に打ち込めないどころか、身体を壊し、卒業を逃し、留年の費用がかさ増するという悪循環を送っている学生を思い浮かべた。彼は、本当に勉強をしたいといいながら、学業に打ち込める環境を自分の力で整えることができないでいる。そうまでして、大学の卒業学位は必要か?という無邪気な疑問を押し殺しつつも、お金のかからない、社会的地位の獲得の仕方はないものだろうかと、はたと考えてしまう。

ここから先が夢想なのだが、かつてのデッチボウコウのようなシステムが、もし社会的にある位置を再び獲得することができないものだろうか。かつてのデッチボウコウは、職人の世界にあったことだから、職人になるのでなければ関係ない、と考える必然はないはず。返済型の奨学金のように、ツケを後回しにせずに、学びながら返す、この超合理性が、なぜ今に生きないのか、不思議な程である。学費のかからない教育機関、つまり、営利組織のある種が、教育的成果を背負っていくスタンスももっと定着してもいいはずである。あるいは、かつてのバウハウス工房のように、大学が営利部門としてのモノづくり部隊・現場を運営し、その枠組みの中に、無学費無報酬の「学生」が生存できるのではないか。社会全体が、低成長+低収入+重税化へ向かうのであれば、第三の大学の像は必然のように思う。

 

 

 

 

 


2014/03/09 Sun.
第146(日)サン・セバスチャン  

2日ほどまえ、はっとするTV番組を見たので、メモ。
世界一の美食の街、サン・セバスチャン、スペインバスク地方にある人口たった18万人の都市。この人口には心当たりがあって、市町村合併前の佐賀市がおおよそこれくらいだったので、その比較に、夢中になった。

最初は、綺麗な街だな、とか18万人のわりには、佐賀にくらべてトカイだなとか、そういう比較が先行したが、食を通したコミュニティーというか、都市生活の骨格としてとてもユニークな実像に興味が移っていった。この小さな都市に130もの美食倶楽部があって、これは女人禁制で、大の男達が、競って自らの料理を持ち寄り、皆で、食の談義(食べ手としてではなく、作り手として)、そしておそらく様々な情報交換がなされている。

日本でいうと、ロータリーとかライオンズ倶楽部とか、何とか研究会とか、同友会とか、に値するものなのだろうか、しかしちょっと比較にならないものを感じた。ホテルのホールで会費を払って、厨房から出てくる立食を食べ散らかし、各々の集まりの目的のとどのつまりは、各々の島を成すことが関の山の集会とは、まったく次元が違っている。130のそれぞれの美食倶楽部が、それぞれが個々に活動していながらも、結局は、食というただ一つの文化を貫いて、互いにつづれ織りとなって一つの都市が形づくられている。

街には三つ星レストランが3つ、星付きレストランが十数?(忘れた)有るといい、単位都市面積に対する星付きレストランの数は、パリに列び、世界のトップレベルという。マドリードでもなく、バルセローナでもなく、スペイン北部の小さな街が、スペイン料理の新潮流ヌエバコッシーナを先導している。

都市的文化=人口規模、と考えてしまいがちなこの島国の悲しい性からすると、目から鱗の事例だが、サンセバスチャンのこの豊かさの理由には、暗い過去が絡んでいるという。スペインとの独立戦争(スペイン内戦1936-9)とその後のフランコ政権からの強い弾圧(バスク語禁止令など)から、市民同士の団結、集結が自然にうまれ、(ここからが独自・・)美食倶楽部というカタチとなったという。ネガティブな状態からの反動によって、この街は、その種の文化が育っていた。

別の言い方をすれば、外圧によって地方文化の解体が迫られ、却って、地方文化の凝結が起こった。内戦終戦からもう少しで1世紀が過ぎようとしているが、その文化的凝結が、生活の豊かさそのものとなり、街としてアイデンティファイされながら成熟している。街には二万人のコックが居るらしく、まるで彼らによってこの街が営まれているかのような、映像の数々があった。

他でもなく、この街の「食」の部分が「建築」と置き換えられた都市、街があったとしたらどんなものだろうと、想像しながら過ごした。

 

 

 

 

 

 

2014/03/01 Sat.
第145(日)士師の嘆きと夢  
一昨日の建築輿論では、模型撤収のかてらに、九州の建築家の方々と学生の皆さんとで輪になって、小さな話合い。
九州各地で活躍する建築家による様々な意見が交換されるこのような場は、仕組まれたものではあったが、新鮮であった。これが自然なカタチでできるといいのかもしれない。
トピックの一つに、学生の人たちの中で、所謂アトリエ系の事務所(=建築家)に志願する人が、めっきり減ったというものがあった。時々大学に出入りする自分にとっては、この手の傾向は知ってはいたが、ここでもかという実感がこみあげてきた。
その晩、ネット上で、保育士の不足の記事を見つけて読んだ。待機児童が発生する一因でもある保育士の不足は全国で7万人を超えるといわれていて、なり手が少ない大きな理由一つに報酬としての待遇の悪さが上げられていた。全職種平均29万円/月に対して、保育士は20万円。その他の要因として保育士制度や、資格試験制度等の改善箇所が述べられていた。
別の話も思い出した。施主さんである美容師のお二人から、異口同音に若い美容師の不足を時折聞いた。業界全体の問題であるらしい。将来の独立開業を夢見る若い世代が、仮に入店してきても下働きを続けられず、途中でやめていく。その繰り返し。
上記三職種は、士や師のつく、つまり、個人に宿る技能とおそらく人格で人様に寄与する職業であるが、そのような道はいずれも薄給であり、仕事も厳しい。会社勤めが比較して楽だというつもりはないが、報酬が厳しさに比してあまにりも不釣り合いだと、やはり一段と、キビシイのである。
私がなにかを夢見て修行をしていた20年前には、建築設計として独立していく道筋にすくなくともこれほどの冷ややかな状況はなかったような気がする。良くも悪くも、誰が先に成れるか、健全なる競争倍率があった。また、そういう者共の周辺には、常に機会あらばと伺う浪人輩もそこかしこにいたような気がする。
すべてが我一人の個人技能の世界に、若者が食らいつかないのは、時代の変遷だから受け入れざるを得ない、のスマートな意見の持ち主でいられたら、さぞ楽だろう。だが、自分の職業の尻すぼみを嘆くような小さな話では納まらないと思われる。もし、経済的見返りと仕事の質量の不釣り合いを乗り越えていこうという若者が皆無となったら、それは若者の世界ではないのではないか。これは、本当に危機的な状況であるかもしれない。
犬は、ボールに夢中になっていても、ドッグフードが目の前に現れれば、そちらに気持ちを持って行かれてしまう。 人間だって、同じだという側面は持っているし、それを当然とすべき考えは基本にある。しかし 人間は時としてそうではない部分をもっている。 生理的な欲求をコントロールする、もしくはそれら自己保存的欲求とは異なる欲求を並列させることができるところが人間が他の動物から進化したところである。 そういう意味では、 建築家と呼ばれる人種の原型は、実に人間らしい生き物の部類だったのではないだろうか。貧乏自慢に開き直る姿勢は論外として、心を奪われがちな餌に対して、本来的にどこか自由な精神を持ち合わせているのではないだろうか。(歳と共に、そうではなくなるが・・。)あるいはそのような性格の資質は、どこか別の職種に移行しているのだろうか。

今日からやるべき課題を思いつく。他でもなく、それは建築の意味や面白みの深さを、一人でも多くの若い人達に伝えることである。建築家の仕事とそれ以外の仕事の境界は、常に不明瞭だが、例えば、建築家の仕事はより深い喜びを生み出すものと考えてはどうか。浅い喜びとはなにか、深い喜びとは何かの議論が有意義なものとなるだろう。いずれにしても、本当に深い喜びは、実に希有で、表で語られにくい。喜びの深さに事前の苦しみも比例してしまうからだろう。 まずは自分のために、喜びと苦しみのセットはなるべく解体しないで、真正面から目指さなくてはなるまい。どちらか一方というのは、普遍的な筋ではなかろう。
そして、もし若者に与えた喜びがある深さを持っていれば、もしかしたら、彼らのうちの誰かの、自己保存の欲求を超える精神を呼び覚ますことになるかもしれない。若者が動物のようになっていくのは、忍びない。危機感とは、このようにも限りない。

 

 

 

 

 

 

2014/01/19 Sun.
賜物  

昨日は、建築家であり、我が師である石山修武との最後の授業であった。20代後半から学部の授業の一部を手伝うことを強いられ、先生としてのトレーニングを課せられてきた。何処の馬の骨とも言えぬ我が身が、学生を教えなければならない壇上に立つこと自体が、正直たまらなく辛かったころを思い出した。

それから16年が過ぎた。独立してからも先生業としての修行は続行された。つまらぬコメントをしたときには、容赦なくその場で、叱咤された。先生として教えている立場であるのに、そいつがヨコから怒られている光景、これはまたこれほどみっともない光景もなかろうと、身を恥じることも多々あった。

だが、天才ではないから、いやがおうでも成長せねばならない環境から与えられたものは大きかった。その環境を与えて貰った師には一言お礼ぐらいはしなければならないだろうと思い、茶菓子をもって出かけた。すると目的の研究室に達することなく、その手前の電車の車両の中で、神様が引き合わせてくれたかのように、師の姿があった。

ひさしぶりに建築談義をさせていただき、その一区切りに、中国から持ち帰ってきたという本を差し出された。「新叶村」古き良き時代を奇跡的に今に伝える村の一部始終が、写真と図版できちんと記録されている。蘇州とか、兵馬俑とか、そういう誰もが知っている観光地ではなく、無名の田舎の村である。プリツカー賞をとった王澍はこういうものを自分の身体に染み込ませながら、建築を構想しているに違いない、という但し書きをもって、私に差し出された。最初は、好きな頁をコピーしていけ、というところが、結局は、貸してやる、ということになり、一冊丸まるお借りすることができた。

重量として重たい本ではなかったが、私にとっては中身のつまった師のメッセージというか、最後の宿題を与えられた、そういう意識になってしまった。何をみて何をマネするか、これがその建築家の創造物の質になる。どこかで見たなというものの方が多いこの世界、世にあるものはすべて私にも見ることができる時代に、見るものを制御することも、デザインの前段として重要な作業であるのかもしれない。

全ての創作者は大小の迷いを含みながら、物をつくっているだろうことは想像できるが、そんな時に、どこからともなく確信的な賜り物が与えられるというのは、誠に幸福である。だから、殊更書き留めておきたいと思う。

 

 

 

 

 

2013/12/15 Sun.
諍いを生まない造りもの  

諫早湾干拓の開門をめぐる闘争を見ていて、なにか書きたくなってしまった。ちょっと歩けば、当事者に出逢ってしまうような、思いの外間近なところでの一大事である。
海を必要とする人たち(漁業)が開門を願えば、陸を必要とする人たち(農業)が開門を拒む、おどろくべき単純な構図が表に顕れている。漁業を支持する佐賀県と、農業を支持する長崎県というふうに。
干拓という人間による敷地造成=自然の変形が、人間の間に敵と味方を創り出した、ということを私達は考えてゆかねばならないのかもしれない。干拓そのものは有明海では室町時代から重ねられてきたようであるが、20世紀のものはどうも規模ややり方やスピードが違った。おそらく生態系に変化を与えるに十分であった。自然そのままの海と陸であれば、不漁だろうが、不作だろうが、海からも山からも、だれも対人的な感情は生まれ得なかったが、人為のものであるがゆえに、その賛否を巡って諍いが生まれた。人為的なものであるということは、かくも偏りをもち、非共生的で、脆弱だと、そこまで言い切ってみたくもなる。
同じようなことを考えたことはある。建築物の中で不意の落下などの事故があると、それはほとんど障害事件となる。設計者や施工者、所有者の責任となる。しかしおそらくそれとまけないぐらいの頻度で、人は山や河で致死の事故をくり返している。山や河の方が正直、よほど危ない状況なのであるが、あたりまえの話、山や河の存在そのものについて人間が諍うことはない。
建築家吉阪隆正の有形学(1963~)という理論の大前提の中に、これから人間はこれまで以上に多くの人工物の中で生活をしていくことになろうから、その人工物を創っていくための、相応しいあり方を定義しなければならない、という主旨のことがくり返されていたのを思い出す。この理論そのものは、このように壮大であったから、「相応しいあり方」の具体的なものを提示するには、至らなかった。もっとも、これは完成できないシロモノであるともいえる。「相応しいあり方」は時代や場所が決めるだろうから、大前提に留めるしかなかったのではないか。だから有形論ではなく有形学であった。
この干拓の話に併せて、有形学の曲解が許されるなら、「相応しいあり方」の中に、限りなく創らない、という考え方が潜んでいるのではないか、と考える。限りなく創らないをさらに解きほぐそうとするなら、効果は少ないけれどもエネルギーや資源も少なくて済む、とか、効果はゆっくり現れる、とか、よく言われる持続可能とか、再生可能とか、そういうものも言葉としては含まれてくるだろう。いずれにしても、人工物に対して錬金術的な期待をかけすぎない、そういう人間のマインドのようなものへの定義・道義を含めていくべきではないか。
干拓事業は、それなりの期待をかけて、少なくとも農地という意味では、それなりの効果や利益が得られているのかもしれないが、人間どうしが真っ二つに別れて諍う消費エネルギーをその利益からさっ引かねばならないだろう。大益のために小益が犠牲になる、というような大計の典型としての美しきシナリオにも見えず、むしろ小さな利益のために、より大きな損失や消費をしているように見える。結局は、この錬金術は失敗であった、と冷徹に捉えていくしかないのではないか。

 

 

 

 

 

2013/11/17 Sun.
秋晴れ、白の建築探訪  

授業で東京を往復する様々な犠牲をなんとか前向きにしようと、読み残しの書籍を携え、また、業界で騒がれている近作の建築をいくつか見に行こうと重い腰をあげて出かけた。秋晴れの乾いた青空にそれぞれの白い住宅建築は見事に晴れやかであった。竣工して数年が経ていたが、雑誌でみた白亜を湛え、美しかった。それぞれ共に外部から内部を想像するに容易な建築であったが、やはり内部に立ち入ることができないもどかしさもあった。閑静な住宅街に建つこれら賃貸住宅はまた、外部といってもおいそれと、長居することもできない。じろじろとじっとしている人間は、今日ではそれだけで、怪しい人影として映る。
まがりなりにも自分も建築設計者である。この秀作が自分から生まれ得ない理由を探す。またそれは、自分の目標が違うところにあることを確認する作業でもある。綺麗モダニズム、もしくは日本的バウハウススタイル、家型、がたくさん世の中に立ち現れていく中、自らの役割や立ち位置を考えることになる。東京の下町に挿入されたこれらの建築には、ミニマムスケールの極限が試行され、重厚というより軽妙が目指される。居室としてのあるべき機能やその配列も疑われ、自由に変転していく。内外仕上げの白は現代の建築生産世界における、何も加えないもの、そこにあるもの、という見方もできる。海外でも認められ活躍するこれらの建築家や建築スタイルに、私は日本の数寄屋に似たものを感じたりもする。
そこに長く居て、なにかを考えを絞りたい気もしたが、外部から内部を想像しながら、しかしなにか全貌をわかったような気になってしまった。実際に内見することができれば新たな感覚が生まれると思うのだが、おそらくこんな感じだろう、と想像が容易であることが、もしかするとこの類の建築にはあるのかもしれない。例えば19世紀の建築論、ジョンラスキンの「建築の七燈」では、ゴシック建築を賞賛しながら、建築の美を7つの要素に分解して指し示したが、当時の目利きが編み出したこれら便利なチェック項目も、2世紀近く経過すると無意味になるのだろうか。これら建築にはそういう、犠牲とか、真実とか、力とか、神とか愛とかそういう重々しい深遠さから決別しようという、その最先端のように見える。建築の建築たる重量感からとき放たれた解放感がある。
本物の数寄屋には不可解さ、理屈で解せない故の、長居したいと思うなにかがあるが、これらの建築では、果たして室内を通されれば、そういう感覚になるだろうか、わからない。ずばりそのまま、すぐに合点する空間。楽しい場面もたくさんあるだろう。不可解さや言葉につくせない、奥行きではなく、明解さ、軽やかさ、アクのなさ、とういう身体感覚をひたすら仮想しながら、これらを後にする。

 

 

 

 

 

2013/03/03 Sun.
台所考  

住宅で行うほとんど唯一の生産設備として、やはりキッチンの設計は、おもしろい。というか、家主の生活哲学のようなものが、すべてここに現れる。溢れ出る「生活感」の炉心をどう制御するか、構想者と生活者の共同作業の質が試される。
そもそもキッチンは、台所という場合も含めて、一部屋として独立していて、クローズしていた。近代の萌芽と共にバウハウス~シャルロットペリアン等を経由し、結果的にはリビング(居間)の一隅、ワンコーナーとなった。女性を一人で日当りの悪い向こう側の部屋で、朝から晩まで家事に追いつめるのは時代遅れだということで、主人や子供のいる居間に引き寄せたということになる。すると、もともと生産設備であったキッチンは、矛盾を孕んだまま、家族の団らん空間に向けて見栄えよい立ち居振る舞いを迫られることになる。裏方であることを隠すのか、さらけ出すのか、現代のキッチンを構想するときに、一度は二者択一の方針を議論することになる。
先日、施主さんの一人から、興味深い話を聞いた。東欧のどこかの国のお宅で台所作業を見ていると、あちらの料理というのは、例えば日本の料理とは異なり、作業そのものが手間がかからないから、見せるキッチンを構想しやすい、というのだ。極端にいうと、ちゃかちゃかと素材を切り、鍋にしき並べて、オーブンに放り込めば、後は横で新聞でも読んでいれば、主菜が完成する。それに買ってきたパンや飲み物を添えればいい。それにくらべて、日本の料理は、軽くおふくろの味、という程の料理であっても、新聞を開いて待っている時間など生まれない。普通にきちんとやろうとする日本の料理とは、下ごしらえの積み重ね、手間の嵐。一食を作るために、収納から引き出さねばならない道具や皿の量が異なる。和食を作ろう、というのなら台所は、本当に生産設備、ここは見ちゃだめよの鶴の恩返し状態の性格を帯びる。
私たち構想者がキッチンを語る時に、何(食)を作るのか、というところが、しばしば抜け落ちる。もしくは、何を作るのに適しているか、対応できるか、というのが抜け落ちる。カタログに映える美しいオープンキッチンのスタイルは、基本ヨーロッパが生みの親で、やはりそこで作られるものの食文化が、背景としてセットになっている。生活者に食文化のなにがしかを導く役目が構想者にあるかどうか、あるいは求められているのかどうかは微妙であるが、生活者の食文化を想像できる知識、経験、感性を少なくとも構想者は備えている必要があるかもしれない。
多くのお宅拝見系の映像に、必ず、食事の団らんシーンがあるというのも、キッチンが住宅建築においては、欠くべからずの風景であることを示している。構想者の目線はキッチンというハードウェアをなめ回すが、思いの外キッチンそのものは、取り分けて驚くようなものではない。むしろ、パスタとサラダ、ブレッドとワインを皆で囲む美しいキッチン、という申し合わせたような風景の定型化には興味が起こる。構想者としては当然、定形外を構想する楽しみが残されている。

 

 

 

 

 

 

2013/01/27 Sun.
利用するための構想力   
九大大橋の授業として松村秀一先生が来福されたと聞き、大学の講義に、誰がどう見ても学生でない我が身を忍ばせた。およそ10年ぶりに伺ったが、やはり松村氏の話は興味深く、そして面白い。構法の研究者として、住宅生産における大量~少量生産の両極をいったりきたりしながら、日本の量産体制の世界における特殊性を力説する。

あぶり出される問題点のいくつかの中には、量産体制が産み落とさざる終えない大衆的デザインの滑稽さも含まれている。純粋に構法=技術論のみに留まらず、どこかにデザイナー的視点を持っていて、そこが自分たち作り手との接点となっている。

後半、氏が、まったく前半とは異なる話になると注釈を付けて話したのは、「利用の構想力」と題された、つまり、造ることよりも使うことの構想力の重要性について。リノベーション、コンバージョンといったお題そのものは、もはや新しいトピックではないが、しかし、それらを技術論やデザイン論という造る側の論理ではなく、使う側の構想力や行動力の重要性を述べていたことに、はっとする。

住宅や公共施設など、建築は使われずに余っている。まだ使えるからもったいないという動機も、歴史的に重要であろうから残したいという動機も、そこまでは簡単であるが、いったい誰がどのように使い、原資を得て維持されるかとなるところで、その建築の存続の話はおおよそ棚上げされる。使い続けるためのハードウエアの構想力を私たち(建築設計者)は身につけたのかもしれないが、使うためのソフトウエアの構想力、そして実行力を備えているわけではない、というジレンマが立ち上がる。

もしかしたら、これからの建築学生のある部分は、建築を造るのではなく使う構想力を備えて社会を渡るようになるのかもしれない。既に、そういうことを希望する建築学生もちらほら見え始めている。

これまで、世界に比して、異常な量を造りつづけてきた戦後の建築体勢は、やはり節目を露呈している。造る構想力に加えて使う構想力の必要性、大企業のみ成らず、少量生産だからと無害のフリをしている我々にも変革が迫られているような気がした。

 

 

 

 

 

2013/01/13 Sun.
隙間のデザイン  

いわゆるモダンスタイルでもなく、かといって、いわゆる和的でもなく・・というその人の言わんとすることは、私にも程なく解った。モダニズムとクラシシズム、とキレイな対義語で置き換えたり、言葉を厳密に探さずとも。たとえば、初期バウハウスが目指した国際様式的なデザインに対して、そこから各地域で派生した巨匠達のデザインを想ったがどうだろう。今当に市場で消費されている教科書通りのモダンデザインは、もう恥ずかしい。だからといって、歴史様式的=クラシカル、というのもそこに落ち着いたかという感じで定型内。ならば、ナンダコレハの近未来的デザインを普通の家庭に持ち込めるか?むしろそれら全部を、ある個人が、上手い具合にかみ砕いたもの、そういうものを彼は想像していただろう。

代表的なスタイルを、まずは意識し並べ連ねてみる。それらをなるべく俯瞰的に眺めながら、そのどれにも傾倒しないように、というところから始まるデザインは、デザインとして基本だと言いたいが、実は応用中の応用であり、厳密には神業の類であろう。気がつくと私たちデザイナーは、どこかの流儀や、流行り、傾向に、結果的に傾倒していく。

そんなこんなであるからこそ、我が事務所であっても、定型というものについては意識的でいようとしている。いわゆるモダンデザインと称されるものの原型には、ほっといても似ることがないが、しかし、北欧的なデザインや、日本がモダニズムを吸収していた1930~60のころのものには、自ずから似てしまうかもしれない。(そこには関心もある。)前者は文字通り定型、後者は、定型の応用の数々である。

一見すると、木や紙や土を用いて造るから、演歌調ならぬ民家調、のあたりにはまり込みそうになるのかもしれないが、実は毛嫌いしている。柳宗悦のいう、「民藝」の価値は、固有名詞が行うデザインではなく、無為のデザイン(無名のデザイン)にある、というあたりは、例えば和風という定型と距離をとることの必要性を言っているようにもとれる。民家調(あるいは和風)と呼ばれる類は固有名詞を持ったデザイナー(有為)が立ち入るようなものではなく、本来的に無意識状態(概ね「無為」)から産み出されるべきものであろう。

かつて、プロダクトデザイナーの森正洋さんがぽそっとささやいた、「デザインというのは隙間産業なんだ」ということの深意を、延々と、探り続けることになる。何のデザインであっても、常に歴史的、地理的に、複数の流儀、スタイルが生まれ、林立している。それを知りえた者(デザイナー)は、点在するスタイルの「間」を目指すしかないのだ。

その客人は最後に、私は「アルバーアアルトが好きだ」と言った。グロピウス以外は、純粋なモダンデザインを貫徹した建築家はいなかった、という狭義と勘案すると、彼が求めているのは、やはりモダンデザインでも、アンティークでも、近未来でもないことに気づく。今ここに、アルバーアアルトが居たら、ということを言われたのかもしれない。すっかり定型化したモダンデザインと対極のクラシシズム、さらにリージョナリズム(地域主義)、ドメスティシズム(グローバリズムの対義として)など多くの立ち位置との「間」「隙間」は常に未知数で、興味深いものだと思う。

 

 

 

 

 

 

2012/12/27 Thu.
落葉の議、(日曜待てず私観)  

本日、中古マンションのいわゆる、世に言う「リノベーション物件」の引き渡しがあった。引き渡しそのものは、多少の宿題を残しつつも、後は入居者を募るばかりの話となったように思うが、問題は隣家との折衝の一抹。たまたまオーナー内見の時に、南側の隣家からおばちゃんがこちらにむかって、この樹木からの落葉の清掃について、垣根越しの投げかけがあった。「おたくの敷地の落ち葉が私の敷地に落ちています、清掃してください」 の議。ブナかナラかにわかに判明つかなかったが、きれいに紅葉というか、黄色く変色した大きな葉が、塀の向こうに、山積しているらしい。
私は、それには関係していなかったから、一部始終を眺めていることができた。しかし、私が負った仕事そのものよりも心につきささった。落葉。世によくいわれるこれは、隣人同士や行政と市民同士の諍いの種となることを、知識として知っていた。その時事を、歴然と目の当たりにした。

管理者は極めて紳士的に受け答えたが、オーナーは一部始終をうけとめつつも、その場の私情を抑え、討論を慎んだ。しかしその後、落葉は状況的に見てもお互い起こっているではないか、と疑問を漏らした。60代オーナー曰く、若い世代からの「クレーム」なら時代の移り変わりとしていかんともしがたいとあきらめがつくが、70代かそれ以上の老婆が、落葉の類で隣人同士が小言を交わすこと自体おかしいのではないかと。その世代こそが、落葉樹は落葉するのだ、という自然の摂理を若い世代に伝えるべきではないか、さもなければ、美しい葉を彩る落葉樹は都市から消えざるえない、と漏らした。そこに、私は書き留めざるえないものを感じた。ワタクシメのオーナーだからではなく、その意見そのものに同感した。世の中の感覚、もしくは人間性のようなものは、すべからくクレームに現れる。お金が関わっていればなおさら、仕事をしていれば、だれしもがその危険性や恐怖を感じながら、仕事をするのだ。
その種のクレームは当面を対処しなければ世間体が回らない。同時に、クレームの質そのものの普遍性と時代性、あるいはそこに潜む人間性を疑うか疑わないか、ここからは蛇足であり、ここからは、グレーゾーンである。しかしここに触れなければ、裁判所の手前であっけらかんと昇華できなければ、日本はどこかの国と同じ、単なる訴訟王国となり、精神的な安住地とはならない、そういう側面を、垣根越しに垣間見た気がした。

 

 

 

 

 

2012/12/23 Sun.
工業化時代の仕上げ  

お昼にうどんを食べながら、眼前の厨房風景を眺める。「Mのうどん」庶民派的人気店の一つ。ここは、機械打ちではあるが、常に打ち立てのうどんが出てくる。生地まではおそらく開店前に予めこねられているが、そこから先は機械式ローラーで延ばされ、ガチャンガチャンと機械式包丁が切り、その切り立ての麺一本一本は丁寧にベルトコンベアーによってゆで釜に放り込まれる。オーダーがあってから伸ばしていては、当然客を待たせてしまうが、来客を完全にサバヨミ、麺は先行投資で茹でられている。おそらく、いま食べている麺は、この店の1km手前で急いでいた私を当て込み、釜へ放り込まれたものである。この機械打サバヨミうどんラインは、路面にさらす硝子張りの手打ちコーナーとは、似て非なる。素性が、見せるためではなくストックすることを嫌うがための、うどん店の切なる生産ラインのほぼ全貌である。フォーディズム的(近代工業的)思想からすると、まず、うどん玉はきちんと分量を揃えるために、予め一人前単位で箱にストックされるべきとなる。ここのように、一人前の麺量が職人の手先に依存しているなど、信用できないはずである。そしてなによりも、客の注文の裏付けがあって釜へ挿入するのでないと、ゆがく時間という意味での生産ムラがでてしまう。ゆがき過ぎをふせぐのは、釜を睨むうどん職人の勘のみとなる。からくりがあるとすれば、麺の硬さを「カタ」「フツウ」「ヤワ」の三段階で客に選ばせることによって、生産ムラをサービスとして昇華しているところだろうか。
機械打ち生産ラインとそれを稼働する1人のうどん職人との一蓮托生、これがこのうどん屋の生気の源である。労働をシステムとして整頓せずに、働く人間(うどん職人)の経験に基づく直観、勘に託すことによって、生産ラインとしての合理性得ることが出来、また客は生々しいうどんを食べることが出来る。

さて、その夕方、新宮のイケアへ。ペーパーホルダーや、タオルリングなど、「漆喰と木の室」で用いる小物を漁りに。多くの人たちが口々にするのと同じく、こんなものが799円?の連続。焼き付け塗装された鉄製のキレイなペーパーホルダーが599円、イサムノグチ風ペンダント照明が1500円。プラスチックの普通の便座だって5000円近くするところを、ステンレスの表面を持つ便座が2900円。もちろん値段だけではない、デザインも(ものによっては)優れて良質である。工業化を目指したのなら、ここまでイケヤ・・とは誰も強いたことはなかったはずだが、イケヤは来た。デフレだから、というよりも、工業化時代が情報化時代を迎えたことによって、ここまできたのだ。ある種の到達点といっていいのではないか。

工業化時代の到達点、仕上げは、何をもたらすだろうか。
みんなあの服を着ている。
みんなあのエコカーを乗っている。
みんなあのスマホを持っている。
みんなあの家具でインテリアを飾っている。

もしかしたらであるが、むしろその果てに、工業化に載らなかったモノを見つめる感覚が再燃するかもしれない。すべてを他人と同一のものを私有することの不自然さがあぶり出されるかもしれない。生活の主流ではないが、なくならない非工業的ものづくり。手で造っていくことの立ち位置は、追い詰められながら、意味を問いただされながら、延命を求められている。

 

 

 

 

 

2012/12/16 Sun.
離職率  
カットサロンで散髪してもらいながら、世間話をする。美容業界では、慢性的な人手不足と聞く。若い卵達が働き始めて、長続きしないのだそうだ。キムタク演じる美容師が主人公のビューティフルライフという2000年に放送されたドラマが火付けとなって、若者がごっそり業界へなだれ込んできたが、その後はあっさり引き潮となり、今の人手不足に至っている、ということらしい。
そういう話は、我が身に関わることと無縁ではない。やはりキムタク演じる建築デザイナーが主人公のドラマが何時であったかは忘れたが、話題になっていた一瞬を思い出した。そして現実の世界でも、スター的な建築家の社会的浸透(=メディア出現)していたころであった思うが、やはりそのころに建築学科を目指そうという学生が急増した。当然のことながら、ブームと呼ばれるものの騒ぎは一時的なものに終わる。

こういう番組があったと、家内が気を利かせて録画してくれたものには、福岡の人気店シェフが協力して、離職率の高い飲食業界を基礎を作り直そうと、私設マイスター学校の姿が映し出されていた。1年間のカリキュラムの中で、内7ヶ月間、実際のお店に属して実際の厨房で働くという研修期間が課せられる。学校法人を取得すると、その部分(実際の厨房で働くこと)が不適となるので、あくまで私設を貫いている。それら実施をくぐり抜けた者だけが、その種の卒業証書を与えられる。その学校はいわゆる、実社会で働くための「ふるい」である。
建築を目指す若者にとっても、内的欲求の充足を夢見ながら、外的要求による受難に甘んじる世界が拡がっている。職人であれば、それをかつては、デッチボウコウ制がうまく、社会との緩衝材として果たし、若者を育てた。授業料を払う学生と、報酬を貰う社会人との間の状態であるから、どちらも発生しない。教えるための特別な施設やプログラムの必要もないかわりに、仕事における量的責任、決定的な責任もない。一方、師の私生活の多くと触れてしまうことにより、職能のみならず、全人格的な教育が含まれてしまう。デッチボウコウ制度は、ペエペエがイチニンマエになっていくためには、きわめて合理的な教育制度であったと共に、師弟という個人的世界、社会に対して閉じた制度であり、それゆえ、労働基準法的には不明瞭な世界とも見て取れ、その他諸々の社会意識の移り変わりの結果、現代から消えていった。それでも、その実社会への「ふるい」として、これ以上の合理性はないから、現代的なデッチボウコウ制度が国レベルで、一部再生しつつある。(大工育成塾 http://www.daiku.or.jp/top.html)

建築設計の一部の世界では、そのデッチボウコウ制度が体質的に生き残っているということになるかもしれない。一般的な大学の建築教育では、設計技術というよりその手前の素質を伺う所であり、特別な環境(研究室)を除き、その卒業証書は実務に適しているということを必ずしも保証していない。だから、各設計事務所が、「研修期間」を持たざる終えない。その「研修期間」の「待遇」「条件」はもちろん各事業所でマチマチであるが、あまりそういう詳細に関わらず、離職率というのはそこで発生する。「ふるい」の場は相変わらずクローズしている。

人を「ふるう」とは言葉がよくないのかもしれないが、逆に言えば、人はふるわれるもの、と潔くあるべきかもしれない。

人は自分がなにに適しているのか、はっきり自覚できているわけではない。若ければなおさらである。その時、彼らの目の前には学校(法人)が並んでいる。それらは優れた学びの場ではあっても、必ずしも「ふるい」であるとは限らない。ふるわれるのはそこを卒業してからとなる。

なるべく若い世代に対して、「開かれた」「ふるい」が必要なのかもしれない。各々は歳を取りすぎないうちに、相応しい場所にたどり着きたいはずである。

 

 

 

 

2012/11/25 Sun.
地域主義の時代  

福岡建築ファンデーションのオープニングパーティーに出席した。福岡の近現代建築のツアー企画を基壇に、多くの人々と共に、建築や都市に愛着を持ち、育てていこうという趣旨のものだ。建築従事者が自らの生活圏=畑に種を蒔く行為でもあるが、それは同時に、地方都市に根を下ろす建築従事者(しばしば建築家)の、中央集権からの自立のチャンスとも取れる。建築家である以上、ナショナルブランド、もしくはワールドブランドを目指そうとするのは、近代的自我に目覚めた建築家にとっては自明であるが、いきなりそこに目標を据えるのではなく、「リージョナルブランド」に向かって生きる道もあるはずだ、という誘いにもとれた。
ちょうど、同じ週の始めに発刊された新建築住宅特集12月号は「地域特集」であった。「作家性」を選定基準とする平時から、地域差を暴くための選定基準として53題が寄せ集められた。特集を纏めるプロローグもエピローグもない。北海道~沖縄まで、9の地域単位で、各々がそれぞれの意見と作品にて、地域を語っていた。

日本中、風景も人も言葉も、モノも、一見するところの地域差が見えなくなる一途であり、さらに、世界の隔たりも小さくなる方向=グローバリゼーションである。その反動として、近年の地域主義に関する議論があるだろうことは、だれしもたやすく理解できる。人間には、場所の隔たりを小さくしようとする営みと、場所の異なりを愉しみたいという矛盾した欲望があるのだ。今は只只、場所の隔たりを小さくしてきたことの、偏に反動なのかもしれない。

しかし、「ご当地グルメ」と称して発掘される地域の食べ物のようには、建築には、劇的な地域差を見いだせてはいないのではないか。差の大部分は、やはり、建築家個人、もしくは、住み手個人の表出であり、そこには寒冷地と温暖地の気候差が分け入るのが関の山で、技術的、舞台裏的な差異など、微妙な差異でしかない。建築はおそらく、食べ物以上に、時代と共に劇的な変化をしてきた。情報化する社会と共にモダニズム建築は育ってきたから、国際様式化とまではいかなくとも、国内様式化するのは当然の帰結であった。冷凍庫があれば日本中何処でも同じ味の冷凍食品とその土地のsolefoodは、それぞれ自立した存在であり続けることができるだろうが、日本中どこでも建てられるメーカー住宅と、地付きの大工工務店が建てる注文住宅とは、構法や建材、間取りに至り、抜き差しならない干渉が起こる。双方というより、地付きのモノがその影響を受けやすい。さらに、ご当地グルメは、その土地の素人達が育てるが、建築は産業、つまりプロが育ててしまう。プロゆえの勤勉さが、流行への収束、最適解への模索に向かわせる。

木や土や漆喰などという、ローカルなイメージの素材を用いるスタイルでいると、私自身、いつのまにかに地域主義の議論に加わっていることが少なくない。だからこそ、これから生き残っていく地域性とはどんなものか、金科玉条があれば、すがりつきたいものである。気候の違いを捉えたり、モノ、素材、地産地消的な話はわかりやすい地域。決して間違ってもいない。今ひとつ、そこに付け加えるとするのであれば、やはり最後は「人」ではないかと思いあぐねる。個性を脱色された「人」(しばしば業者)でもなく、個性を期待された「人」(しばしば建築家)というのはこれまでのこと。個性的ではあるが、もっと大きな背景に裏付けされた「人」。背景とは氏素性を超えて地域、場所である。建築家という構想者、そして職人という施工者を介して、建築の地域性を認めていく。認知していくというか、その感覚を多くの人々と一緒に削りだしていく、ということではないだろうか。(例えば絵や彫刻や、器のように、そこに作り手の背景を受け手が感じることができるように。)

 

 

 

 

 

2012/11/18 Sun.
日常景観の利益  

ひさしぶりに、20代に生活していた近辺を再訪した。再訪するとは大げさだが、個人の心理としては、ちょっと普通ではない感覚が騒ぐ。自分が19で上京を試む時、先に大学生活をおくっていた兄の一人住まいのこの地に転がり込んだ。18までの私の世界観では、東京には人間的な住空間は存在しない、ということになっていたから、井の頭公園周辺の住宅地を見て、東京ではこれより他人間の住むところはないはず、と勝手に決め込んでしまい、以来、12年間の都暮らしはこのあたりで、うろうろとすることになった。人間の刷り込みや思い込みというのは、まったく恐ろしい。
晩秋の落葉の上を歩き、20代という修業時代、すなわち暗黒時代を思い起こすかと思えば、思いの外、この通勤路はそんな小さな出来事を吹き飛ばすように、都市生活者へあいもかわらず、でっぷりと、美しい日常景観を与えていた。
生まれ故郷の地方都市に戻ってからは、こんな風景を日常的に感じるような環境は、むしろ遠のいてしまった。実は、大都市には、その規模や経済や人口に比例して、地方都市よりも、たくさんの豊かな日常景観があるのかもしれないという気もしてくる。そして、私は動物的に、暗黒生活空間とのバランスとして、井の頭公園あたりを寝床として選んでいたのかもしれないと思い返した。今日の私にとってここはビジターであり、日常ではなく特別な美しい公園の散歩道であったが、かつては毎日朝晩必ず通る通勤路に過ぎなかった。池水に反射する朝日も、木々を通り抜ける風も、さして心地よいと意識することなく、頭はどこか別のところを歩いていた。なにかにめいっぱい向かっているあまり、現前する環境に目が及んでいなかった。
そのこと自体は、仕方がなかったと思うのだが、でも、だからといって、噴水の音や、ピンクフラミンゴの声(井の頭公園には小さな動物園が内蔵されている。)が、20代の無感覚的機械的能力主義的若造に、なにも役割を果たしていなかったとは思わない。やはり、こういう日常の風景が、そのときのぎりぎりの若造をどこかで支えていたのかもしれない、とも思った。本人は、こんな風景とは関係がなく、降りかかる仕事を自らの力でこなしているつもりで生きていたのかもしれないが、本当は、この風景が、毎日、小さく彼を元気づけていたのかもしれない。堅い言葉でいうと、日常景観から利益を得ていた。もちろん、定性的にも定量的にも顕すことが難しい。個々人の気づきでしかない。工学的にではなく、どちらかというと文学的に語るしかない。

 

 

 

 

2012/11/11 Sun.
Timberize~都市木造の時代  

しかし、それにしても、丹下さんの言う「技術の停滞」は、なるほど日本の伝統の根深い体質であったのだと思う。日本の技の世界は、ある段階に達すると、技術の問題の外にいってしまう。そこから先は技術主導ではない、という境地が用意されている。そのことが逃避と捉えられるのであれば、反省すべきは自明であるが、必ずしもそうではないから、わかりにくい。たとえばわかりやすい?ところで、世阿弥による能の指南本「花伝書」には、技能が備わったからと言って技巧に走ると、能はよくならない、さしたるクライマックスのない、抑えの効いた能がヨイ能だ、みたいなことを言っている。技術はありながら、そこに溺れないというなにかが働く。建築にも似たような難解な部分があった。筋交いの歴史がそうである。日本の木造は、今でこそ筋交いを多用するが、関東大震災以前では、日本の大工は「斜め材をいれねーと、もたねー家なぞ俺はたてねー」というような、美学に近い技術観(つまり水平材と垂直材だけで、地震などのヨコからの力に抗する)の持ち主であったことを、ものの書で読んだことがある。もちろん実際の木造建築史を紐解いても思いの他そのとおりである。
さて、木造の話が出たので、直近のお知らせを。ティンバライズという活動の巡回展がこの度、九州展として行われる。(詳しくはこちらをご覧ください。)timberizeはtimber=木材化の意の造語。20世紀以降この方、特に大規模建築、多層(階数の多いビルなど)建築、防火性や耐震性を特に必要とする建築などは、率先して鉄とコンクリートを構造体として用いてきたが、これらをもう一度木造で造ることができないか、という問いかけが、Let's timberize!となった。「もう一度」というのは、あらゆる建築物を木造で造るしかなかった時代には、今日ではなかなか見受けられない大規模の木造建築物を造っていたからである。現存する数々の五重の塔は言ってみれば五階建てであるし、かつての出雲大社の社殿も50m近い高さを持った木造の社殿であったというし、酒蔵などは今日で言う体育館的大規模木造であるし、また養蚕小屋などは多層建築が多く、4階建ての木造というのはざらであった。それが、戦後法整備により頑張っても3階までしか建てることができなくなった。防火性能や耐震性能、そして生産システムの近代化(平準化)が、コンクリートや鉄の建築を支持したためであった。つまり、そこから木造技術のある種の停滞が始まった。美学的見地からの意味ありげな停滞ではなく、もっと物理的な強制力からそうなったのであるが、結果的には木造は木造のままであるがゆえに、技術革新の土俵から降ろされた。(木造モダニズムと今は指さす住宅建築の名作群は、まさしく丹下さんのいう、感覚的小世界、もしくは私的な開放性が展開したということになるだろう。やはり日本人が得意な範疇での木造は確かに育ち続けた。)
その、一度第一線からの降板を余儀なくされた木造を、再度見直してみると、建築がまた面白くなっていくのではないか。こういう風潮が実は建築の世界と、一般の人々の間で渦を巻き始めている。20世紀を生き抜いた先輩達は、技術の停滞を打開するために鉄とコンクリートの建築を突き詰めたのだが、それらは確実に社会の中で一定水準を寄与することができた。だから次の私たちは伝統としてなんとなく保留にされつつあった木造を、現代の生活、もしくは現代建築の一線に送り出してみてはどうか、ということになったのである。建築を提供する人々のみならず、一般の人々の関心、欲求が具体的に木造に傾いている。素直に、木造ブームである。木によって、高性能で大規模な建築にチャレンジしてみよう、これは今、建築の構想者達が考える先端の一つなのである。

 

 

 

 

 

2012/11/04 Sun.
日本贔屓の鼻っ柱  

建築家丹下健三が1956年に著した「日本の伝統における創造の姿勢」の小論、いわゆる「弥生的なものと縄文的なもの」を再度読み返した。タイトル通り、私たち祖先の創造に対する基本的な姿勢の在りようを、端的に、ドライに批評していて、歴史意識、好奇心が掻き立てられる。多くの先人に引用されてきたこの小論を、恐れず右に倣えで要約すると、日本文化と言われるものの根底は、縄文的なものを未消化のままその後の弥生的なものが支配し、それは、例えば世阿弥における能、利休における茶、苔庭、数寄屋、等にみられる侘び寂びであり、すべて「もののあわれ」という言葉によって表されるとされる。さらに、「自然に対する消極的な鑑賞・・感覚的小世界・・私的な開放性・・自然へのよりかかり・・または沈潜・・閉じ込められた生命力、裏返しにされた生命力・・と思いつくかぎりの言葉で言いくるめて、ついには「このような限界を自覚しなければならない」と断言している。ここに挙がった東山文化の類は、だれがなんといっても日本の伝統であり、大事にすべきものではないか、と反論したくなるが、果たしてそれらのなにがどう限界なのか。
「このような消極的な姿勢は、また技術の停滞として反映されてゆく」
「この停滞した技術は、生活の多様な展開に対応してゆくことができなかった」
というのである。近代を担った者の冷静な洞察、これには異を唱える余地がない。(こういう話の時に私が引き合いに出すのは、製紙技術の歴史。唐から西と東の双方へ技術が伝搬していった製紙技術のなれの果て、西にはアート紙なる高性能の製紙が生まれるが、日本の和紙は、技術敵にはほぼ唐紙のまま、近世を迎えた。)
私は、日本人の美が私的な開放性や、感覚的な小世界に安住しやすく、ゆへに、アポロ的(理性的、知性的・・例えば「アポロ宇宙計画」というのも・・)な技術の展開がなされず、世界に比して停滞してきたというのは、事実として本当にそうであったと思うし、確かに自覚をすべきだと思う。ただ、アポロ的技術革新の副産物なにがしが、地球や人類の持続を阻んでいることを考えると、技術が停滞してしまう日本の伝統は、悔い改める一方ではなく、これからの人類のために学ぶべきではないか。(というか、そのことは既に叫ばれている。)いみじくも丹下さんは、「例えば、ゴシックは、新しい技術をもって自然と対決するような空間を獲得したが、これを人間が自然から獲得した空間と呼ぶならば、日本建築における空間は、自然から与えられた空間ということができるだろう」と言っているが、自然から与えられたようにモノを作ることのできるというのは、見方にとっては希有なものづくりではないか。近代の次の時代を切り開こうという我々としては、むしろ新鮮な姿勢として映らないか。当時は、「このもののあわれから風流にいたる伝統は、今日、私たちの内部にまで届いているのである。」と言えたかもしれないが、2012年の現在の私たちの内部にまで届いている、かどうかは怪しいのではないか。なにせこの論文の時代背景から56年が経過しているのだ。「もののあわれ」は知らぬ間に日本の伝統における絶滅危惧種となったと危惧してはどうか。

 

 

 

 

 


2012/10/02 Tue.
建築家吉田鉄郎は、  

ちょうど、東京駅のオープニングの日にここを通過するので、それではと思い、しばし眺めた。ちょうどドイツから来日していたシュパイデル先生が、新しい東京駅はおもちゃみたいと言っていたが、そんなふうに思わせるのは、周りがあまりにも近代的なビル群に囲まれていて浮いているからだろうか。天井やファサードに向かって、多くの人が写真を撮っていたのは、建築がまるで芸能人にでもなったかのような脚光ぶりで不思議であったし、またこういう感じでも、多くの人々が建築に親しみを持てたことは愉快でもあった。振り返ると、建築家吉田鉄郎の東京中央郵便局。ファサードは美しい白タイルに新装されていたが、こちらに向かっては、だれも写真など撮っていない。そして、上を見上げると、ガラスの摩天楼。正面には大きくVのくぼみ造形されている。
おそらく、吉田さんは、あの世で泣いている。ファサードが残ったから助かったなどというけちな考えは想像できない。吉田さんは、最も早い段階でヨーロッパのモダニズムを日本に実現した日本の近代建築家であったが、同時に作家としてはたぐいまれなる日本建築、日本文化の研究者の一人であった。「日本の建築」などの著作において、日本建築に通底する思想を、「清冽さ」という言葉で現した。小川や、湧水などが清く澄んでいて、冷たい様の意の言葉を、日本建築の本質とし、それを新しい時代の建築に実現していった人であった。東京中央郵便局はその代表例だ。(あまりにも澄み切っていて、どこが建築家の仕事なのかわかりづらいとされる)それから80年後、不動産としての土地の高度利用から、そのガラスの高層部分が加算された。加算されること事態は仕方がなかったのかもしれない。しかし、よりによって、そのデザインは、吉田さんが抽出したある種の普遍性を、ナイーブに、無視している。無邪気にVサインでいる。吉田さんが今に活躍する建築家であったなら、こういうデザインこそ、日本人は行ってはならないと訴えていたに違いない。東京駅を設計した辰野金吾は笑っているかもしれないが、その脇で吉田鉄郎は、おそらく泣いている。

 

 

 

 

 

 

 

2012/09/16 Sun.
地中にポイ捨て、核のゴミ  

核のゴミに関する政府の方針が、この機会を得てようやく練り直されようとしている。これまで、高レベルの使用済み核燃料は、地中深くに生き埋めにして、数万年以上の時間をかけて、最終処分とする計画であった。今回の日本学術会議が提出した報告書によれば、「万年単位の超長期にわたり安定した地層を確認するのは、現在の科学的知識と技術的能力では限界がある」と指摘されたという。数万年以上先の人類にツケを回すという考え方も、数万年以上の時間の経過に対して核のゴミの安全を確証できないという事実も、今判明したというより、最初から解っていた問題である。気付いてはいたが、なんとなく意図的に蓋をしていた。それをこの機会に、勇気をもって蓋を開けて考え直そう、という話。少なくとも、蓋がこのまま開かれないという、最悪な事態は免れるのだろうか。
政府はなんと恐ろしい無頓着を働いていたのだ、と思う反面、人間ってそういうところあるなと思う側面も感じる。仮に恐ろしい方向に向かっていたとしても、場に流れがある時には、抵抗したり反対する力が持てないのが人である。それを行うことができるのは、一握りの偉人か変人に過ぎない。だから、今ごろになって、という非難を、政府関係機関の無人格に対して一方的に投げつけられるものではない。そのかわり、その元で判断者として働いていた人々を、私達は特別扱いすることなく凡人として扱わねばならないし、いかに未来の人類に向かって無礼を働いていたかを、認めなければないように思う。

 

 

 

 

 

2012/08/19 Sun.
デザインビルドフクオカ、完成に際して  

デザインビルド福岡のプロジェクトが今日、一応完成したということで、夕方、ビールを持って現場に出向いた。子供から夏風邪を貰い、それを実直に培養してしまったため、彼らの現場は、私の中途半端な老婆心に侵されることなく、正真正銘、彼らの現場となった。日本中が熱射病の危機にさらされる中、小さな建築物とはいえ、職人の身体を持たぬ彼らの力で灼熱の大地にこれを完成させることができたのだから、プロセスとしては大きいはずである。
フォーリー繋がりということで、ふと、市内の埋め立て地のものを思い出した。かたや数千万円、こちら十数万円。どちらも学生や若い建築家達が設計したもの。こちらは、しかし、設計者自らで施工を行ったもの。現物に比して、情報乱造のこの世界、設計=情報を産んだ者が、自ら実現=施工せねばならないというルールそのものは、理想的であるはずだ。もちろん、時代性を埋め合わせていると片付けるにも惜しい。そもそも建築(家)を造るとはそういうことであったと、解っていたはずのことに改めて深くうなずくのである。そのうなずきが、関わった人間のみのものではなく、第三者に及べば尚良いが、それは今後にあらわとなる課題であろう。
それにしても、若手の作り手のためにと本当に案ずるなら、「こちら」のプログラムに未来があると思った。「こちら」の積み上げられた廃材の木片ブロックは、よく見なくても、水平が得られておらず、素人の臭いの残るものであった。しかし、それでも、全体のイデタチは清々しく見えた。気のせいだろうか。木片ブロックの積層は、清々しい建築的意志の積み重ねであったのだろうか。それが、結局は、建築の品位のようなものに繋がったのだろうか。

 

 

 

 

 

2012/07/29 Sun.
第127(日)アナクロ技術の利用価値  

電車の広告で見つけた、大工がカンナを引いている風景。見流せばいいはずだが、よくよく考えると、益々腑に落ちなくなる。我が国は木の文化と自覚し、国が大工技術の育成を計っていることに全く異論はないが、それにしても、現代の木造現場に、こんな風景はありようもないから、ほとんど、羊頭狗肉の類である。今では殆ど皆無の一昔前の大工の技術風景が、大工養成のためのポスターを飾っている、この因果関係と似たような現象を思い出した。food inc.というアメリカのドキュメンタリー映画の冒頭に、本当は大量生産型の非情な農業システムで産み出された、例えばバターなどの食品パッケージが、常に前世紀的で、牧歌的な農畜村風景のイメージとして描かれるというもの。
少なくとも、事実としてあるのは、大工になりたいという人を惹きつけるのが、現場に転がした木材にカンナをかける古き良き時代の風景であるということ。食料を買う人が安心するためには、仮に装いであっても、家内工業的な産物の雰囲気を持っていること。人々がモノや技術と繋がるイメージや願望はこれなのに、その幕内はそれらの正反対であるということ。現代の製品からいかに量産性の恩恵を得られようとも、わたしたちの多くは、一昔前の手工業を忘れることができないでいること。モノを作り、売り、使うなかに、ホンネとタテマエというように、二重の価値観が使い分けられているということ。

 

 

 

 

 

2012/07/08 Sun.
第126(日)知らぬ間の、「共生」  

満月のころに、月・太陽・地球が一直線に並び、月と太陽による起潮力とが重り合うことによって、潮の満ち引きが最大になる時を大潮というが、やはりこの15日間隔のタイミングというは、人間を含めた地球上の生命活動とリンクしているようだ。今週7/3の大潮の日に子供が生まれた。私事にすぎないけれども、2年前に生まれた坊主を含めて今回もまた、自然の営みの周期に合わせてこの娑婆に現れたということは、私事の範疇ではないかもしれない。生まれる一週間前、6/27日の小潮の時、前駆陣痛により入院したがそのまま、治まってしまった。今から考えれば、胎児は母胎から出ようとしたが、文字通り、波に乗れなくて、自分の力だけでは娑婆に出ることができなかった。小潮のその日に病室と分娩室はガラ空きだったので、病院運営的には、そこに分散できるものならというのがあっただろう。陣痛促進剤で出してしまえば、という意見もあったようだが、母体は自然に遠慮した。結局一週間後、大潮のその日、病室も分娩室も大入り満員の日に、もうしわけないが、昼時の忙しいうどんやに押し入ってしまうがごとく、右に倣えで、産み落とすことになった。
その一日だけで、我が吾子を含めて5名の赤子が産道をくぐり抜けたとのことであった。なぜ大潮の時に子供が生まれやすいかの科学的理由を探したが、直ぐには出てこなかった。

 

 

 


2012/01/29 Sun.
第125(日)「たたき上げ」の理論序説  

事務所を営んでいれば、スタッフという人との出会いや別れが必ずある。個人名の冠が付く設計事務所というのは、世間一般よりも人間の出入りは激しい。
スタッフを頻繁に入れ替えることを好ましくない、と思うところから、苦悩は始まる。世間一般がそう見ているとおり、吹けば飛ぶ薄給を承知で志願してくる数多から「者」になるのは僅かであると、歩留まりを強調することだってできなくもない。とはいえ、多くの人ビトによって建築され、その後の風雪や、意味に耐えようという建築を構想する設計事務所という場が、ほめ殺しながら人を育てるような場であっていいかという疑問もある。(そもそも、ほめ殺しは人間を機械として扱う行為ではないか。)修業時代、「建築を深く、長く生涯に好きでいるというのが、本当の天才である。」や、「志の高さが仕事(=建築)の質を決める」など、様々な言を通して、いわゆる才能というよりも、精神の純真さや強さが建築家と呼ばれるものの根源であることを教えられた。
私が今こうして設計業を営んでいるその道程は、世阿弥の「石橋」如く、一つ間違えれば滑り落ちる道幅を這ってきたのだと、振り返るとそう思う。修業時代、給料を貰い始めて最初の1年間、師と兄弟子から、こっぴどく絞られ続け、ある日、根を挙げた。一言で言えば、呆然自失の状態で、師に辞職の懇願をするために内線をかけた。ところが秘書役をやっていた同僚に目論見を察知され、辞職願は門前で払われた。その晩、その同僚にトクトクと説得を受け、以降はどういうわけか、仕事をたくさん与えられ、なんとかこなし、結局私は、職場で最長老と言われるまで居続け、独立した。なにを隠そう、役に立たないどん底からの、いわゆる「たたき上げ」のパターンである。
気がつくと今は、その役にたたないどん底を、自分がたたき上げる役目になっている。たたき上げは、たたき上げを導かねばならぬという因果応報のようである。その宿命の苦悩が安眠を妨げ、かつての辞職願失敗歴を回想させる。その時ふと、考えついた。20年弱前の若かりし修業時代の記憶がちょっとだけ客観的に見て始めてきた瞬間であった。
辞めても何処の馬の骨ともしれぬ身がここを辞めようと決意した時の私の心の状態は、自己を見失ったというより、期待していたもの(能力)が見あたらなかったことによる、言い換えれば、自己への期待とか思い込みという緊張が解けたことによる、妙な開放感であったように思う。もちろん、苦しい環境から解放される開放感とは異なっていた。そもそも、大学での製図の授業で良い点を貰ったことにそそのかされて、大学院の二年間もその職場(=研究室)の実務(=実施設計)に身を捧げ、自分は建築設計で食べていこう、と疑うことなくその職場に投身したから、そのわずか1年未満で建築を辞めるなど、にわかに考えることができなかった。そのあまりにも大きなギャップにより、建築をやめるとかやめないという思考の次元とは違っていたように思う。唯一、これ以上職場に迷惑をかけてはならないという自責の念以外、考える内容がなく、いわば、心の空白の状態であった。直前まで、(自分なりに)精一杯に動いていたが、ある瞬間、努力してああして、こうなろう、という自分が消えて動かなくなった。パソコンでいえば、システムが入っていない抜け殻の状態、のようなものであったかもしれない。
その時、同僚の機転が働いたのである。彼が気を利かせて、私の辞職願を門前払いとしたことを、助かった、運がよかった、と今の私の状況からいうことは簡単である。しかし、それは果たして「幸運」と片付けてよいか。小金丸泰仙和尚からは「偶然というものは一つもない」と教わった。もしかしたら、空白、白紙状態に己の心が一瞬でもなったことで、滞っていた流れがスッと流れ始めたのかもしれない。同僚の判断は、私の心が空白になったことによって呼応したのではないか。
己の判断を一瞬やめたとき、そこから、真に自由なありのままの自分が、新しい拡がりへと流れ出していく。そういうシナリオは、どこかで聞目したような気がする。事例をこれだと挙げにくいが、例えば哲学者ヴィトゲンシュタインはどうだろう。彼は第一次世界大戦に、ヘルニアの腰でありながら、志願兵となり、死を志願しながら、哲学を深めていく。結局彼は戦死を望みつつ死を免れ、後に「論理哲学論考」を著す。これは書斎の中で考えられたものではなく、死に直面、もしくは、己を死んだものと考えることによって見えてくるものを書き連ねたとされる。人間にとって擬似的な死、つまり小さな自我を捨てざるをえない環境とは、窮屈でも終わりでもなく、むしろ新しい拡がり、可能性へと繋がっているということを、ヴィトゲンシュタインは自らの人生をかけて証しているようである。
人がその職場から不自然に中途離職する時は、ネガティブな感情が起因する。身が離れるよりも先に心が離れる。それはそれで世の常ではあるが、大事なのは、その節目によってその人のその後の人生に拡がりが生まれるかどうかである。己が置かれた環境や周囲の他人に責任転嫁しがちであるが、そうではなくそれらを受け入れ、むしろ己を空っぽにすることができたなら、その節目は挫折ではなく、上段へ向かうステップなのである。真にパソコンを蘇らせたい時は、それまでに構築してきたシステムや設定を一旦放棄しなければならない。さもなくば、まっさらのシステムやアプリケーションを迎え入れることができない。心の中のバグ=意図せず、意識なく積み重ねてきたものをふくめて、全てを一旦放棄し、わだかまりの無い白紙状態になることである。もちろん人間でそれを行うには、本人にある種の度量が必要である。フリーズを何度かくり返して、調子が悪いな、ではというシステム再インストールは、やはり最後の手段、大変な仕事である。
離職や転職が、他者に責任転嫁したり、否定したりせずに、純真な気持ちに立ち返ることから起こるのであれば、むしろそれは歓迎すべきである。そういう気持ちに真底なることができたのであれば、そこを離れるべきか居るべきかは、自然に決まるだろうし、どちらに向かうにせよ、その後の見晴らしはいいはずだ。これは職業を選ばない、「たたき上げ」の理論?ではないかと、その夜密かに考えた。

 

 

 

 

 

 

2011/11/20 Sun.
第124(日)外尾悦郎さん

11月15日、アクロスシンフォニーホールにて。バルセローナのサグラダファミリアにて、30年以上石を掘り続けてきた彫刻家の講演会。彫刻の話はついぞ一つもなく、「三千年期をいかに生きるか」の題目にて、いわゆる人間がこれからどのように生きるかの話であった。結論から言えば、外尾さんは伝道師であると思った。なんの道を伝える伝道師か?ガウディーが深く信仰したキリスト教的なものといってもいいし、ガウディーの生き様から学んだもの、もしくは、サグラダファミリアの現場から学んだもの、あるいは、石を見つめ続けてきたことから学んだもの、おそらくそのすべてであるといってもいい。なんのためにかというと、単純に人間の幸福のためにである。だから伝道師である。
外尾さんは、私の恩師が親交する人でもあったので、普段の話や、授業によく登場し、そして、私が20代に設計担当した美術館収蔵庫の現場にも、外尾氏の日本でみることのできる数少ない作品二作があり、幸運にもそれらに身近に接することができた。しかし、恩師を通した外尾像とも、また作品を通したそれからも、私はこの日の話の次元を読み取ることができていなかった。西暦3000年を追いかけはじめたこの世紀に、本当に3000年をこの人類が迎えることができるか?迎えるために、どのように生きるべきか。ここに話の焦点があわせられていた。
以下覚え書き
・ガウディーは、生まれつきのリウマチで、仲間と走り回って遊ぶことができなかったから、自分の側にいた動植物が友達であった。サグラダファミリアや、グエル公園の造形はその旺盛な自然観察の結果であった。
・ガウディの建築は、重力に抵抗するのではなく、重力を味方につける構造であったり、採光のための開口部は、光の動きに従う形であったりする。すべてが、与えられた環境に従っている。
・ガウディーのデスマスクをみていると、とても市電にはねられて、3日間苦しんだ人の顔とは思えないほどに、穏やかである。
・ガウディーが教会を造った、と同時に、教会がガウディーを造った。
・今は、(対象を)理解してからしか信じることができない時代だが、その逆でなければならない。信じることが先で、そこから本当の理解ができる。
・今頻繁に耳にする「エコ」は、あいかわらず自然をペットとしてあつかっている。自然への「畏れ」が重要だ。

最後に、質問の時間が与えられた。その数々の質問の最後に、
「サグラダファミリアの建設期間(130年)の間に、工事現場として死者が一人もいないというのはなぜか?」
一般の方々も多い中、これはなかなか玄人な質問で、工事現場というのは、(最近こそ解消されてきてはいるが)日本でも、戦後まで大規模な工事現場では必ず人は死んでいた(しばしば情報は隠蔽される)もの、私もこの疑問は聞いてみたかった。
「ガウディーは、サグラダファミリアの敷地の脇に、小学校を寄進しました。その小学校は、建設現場で働く職人たちの子供たちのためのもので、もちろんガウディーの設計です。子供にきちんとした教育を与えられるというのは、親としてなによりも幸福でしょう。朝親子で現場に赴き、自分が働く教会の袂に我が息子、娘が未来を見つめている。そういう環境をガウディーは教会に先駆けて造ったのです。」
こういう環境から死人が発生するような仕事もうまれないはずだということになる。教会の袂の小学校の存在は知っていたが、このようにして工事現場の質に関わっているということは、正直想像が及んでいなかった。

ガウディーそのものは、おそらくニーチェのいう「超人」であったといえるかもしれない。そして外尾氏がその超人ぶりを、私たちに伝えてくれたことは間違いない。しかし、ガウディー論という枠、また外尾氏の作品紹介という枠があったわけでもない。その場にあったものは、今に生きる私たちの未来を案じ、地球の存続を願う外尾氏の情念であったように思う。もちろん、その情念は、人一倍の想像力と危機感が基になっている。石を彫り続けるという、一つのことを訥々とやり続けることによって、凡夫には確信ができない何か大きなものが見えているのかもしれない。

「私たちは、身の回りで置たことを自分の責任か否かで判断しがちです。例えば、東北沖地震は、少なくとも自分のせいではないと。そこをもう少し考えてみて、たとえば、もしかしたら自分にも責任の一端があるのではないか、と想像してみてはどうでしょう。」
私たちの心のどこかにある患部に直撃する一言。言い訳することもできぬまま、そこが染みて実に痛い。

 

 

 

 

 

 

 

2011/11/13 Sun.
第123(日)ピカソの素描から  

空港で時々目にする小学生による飛行機の絵。いつも楽しませて貰っている。どれも、描かれる対象はおよそ普段私たちが乗る旅客機であるから元は同じだが、1年生から6年生までが繰り広げる作品は、多彩というか千差万別である。色合いとか構図のユニークさというより、なにしろ飛行機のカタチが面白い。飛行機なのか鳥類なのか、はたまたペンギンかというような自由なディフォルメから、機体のプロポーションを見事に捉えた大人びたものまでの巾がある。カタチを捉える正確度は、では、学年順であるのかというと、正直、そのようになっていないところが、また面白い。絵心もまた一様なトレーニングや教科書には従わないということを証している。
かつてスペインバルセローナのピカソ美術館を見て回ったとき、ピカソの中学時代の落書きに感動したことを思い出す。教壇に立つ先生の姿を辞書やノートの端に、片っ端から描いていた時代のもの。そのさらっとかかれたおおざっぱなスケッチが、言葉にしようがない程に、活き活きしている。ぎこちなさなど微塵もなく、絵が本当に生きている。より少ない線でありながら、肉眼で見る人間にきちんと似ているといってもいい。その後のピカソがキュビスムを通して、肉眼が捉える図像とはほど遠い世界を描いていったことを併せると、やはり、ものごとの追求というのは順番があるということを学ぶようである。
写真は、どちらも小学4年生。どちらが良いとか悪いというのは、美術の先生の役回りとして、しかしやはり、ピカソに照らして言えば、この段階の基本としては、似せて書くことができるかどうかであるかもしれない。肉眼を疑う、もしくは肉眼から自由になるというのはその先の応用、ということになるだろうか。大人にとっては、こういう応用こそなかなか出来ないので、却って面白いわけだが。

 

 

 

 

 

 

2011/09/11 Sun.
第122(日)桧山先生の会 2011/8/28日  

オーバー80の先達から、学んだこの夏。8/19日の池田武邦さんとのシンポジウムに引き続き、その1週間後に桧山タミ先生を囲む会に参加。言うまでもなく料理の師・桧山先生の門下、その他縁のある方々が毎年この時期に桜坂の料理屋「今ここ」を貸し切って、集まる。参加ルールは、一人ワンフードワンドリンク。ドリンクは購入するにしても、料理は、当然のことながら、手料理が不文律となっている。50名を軽く超えてあつまるから、単純に考えると料理は50品目以上が並ぶ。まずは、この品数に胃袋と舌が反応し、思わず参加を決意。事務所のスタッフも、苔むす建築事務所の扉を開けて一旦明るみに出よということで、半強制的に参加。自らは、庭先に繁茂する「シソ」でシソペーストを作り、それを和えたジャガイモと、鶏もも肉を持参する。無数の料理が案の定、敷き詰められていて、いわば自然食レストランバイキングの状態。しかしどれも、当然、(経済感覚から自由であるが故)手間が込んでいて美味しい。
料理の味は、いくら書き連ねたところで伝えられるものではないので、書き留める本来の目的の、桧山先生のお話へ。およそ10年ぐらい前に、とある人に先生を紹介いただき、その時にこの方は普通の料理の先生ではないことを知った。以降、おそらく科学的に解明が進んでいくであろう、人間の心がモノにどのように影響を与えるかを感覚的に、しかし、確信を持って捉えている人と思った。
「料理を食べるとそれを作った人の心の状態がわかるんです。貴方家族とケンカしてきたでしょ、というと・・」
「身体の具合が悪いと、たとえばその人がパンを作ったりすると、うまく膨らまないことがあるんです」
そんなことってあるものかと、10年前のフレーズをずっと覚えていた。

今回も、おおむね基本的な話の力点は変わらない。

一つだけ、心に残った言葉。

「きまりというのはないんです。自然に従えばいいんです」

「きまりがない」・・前節から意味が多層する。きまりとは、人間の理性と置き換えていいだろうか。料理でいうなら、レシピみたいなことか。レシピは不要というのでもなかろうが、しかし、レシピを信奉するよりは、そのレシピを成り立たせる背景を信じなさい、ということになるだろうか。「自然に従う」は、単純に旬の食材を用いるという当たり前から始まり、そして素材を活かそうと素材と交歓することだろう、というぐらいのことまでは想像がつく。(旬の素材を用いるなど当たり前だというかもしれないが、私たちはスーパーマーケットで、旬の素材だけを選び抜くことができるか?そんな基礎すら消え失せている)

11/15日の外尾悦郎氏の講演会パンフに書き留めてあったガウディーの言葉とも、繋がってくる。
「人間は創造しない。自然の中から発掘するだけだ」
桧山先生は、ガウディーのファンなのであろうか。いや、ガウディーのこの言葉は、逆に、日本人的な「創造」観に近接しすぎている。(原子力技術は、人間の創造か?それとも自然の中からの発掘か?)

桧山先生は、自ら発した言葉、教えが、活字になったり映像になったりすることを、基本的に好まない。生身の人間への伝達でないと語弊を生むからだろうか。つまりは、こういう盗み伝えが公開されることをおそらく好まない。しかし、特別な感性を携えたこの人のこの感性を、これからの私たちは大多数で共有、もしくは、コモンセンスとして受け入れなければならない時代なのではないだろうか。そう考えると、不躾ながら、是非ともその言葉はお借りしなければならないのである。もっとも、これらの言葉は、桧山先生のオリジナルだとも考えるべきではない。ある種の特別な感性を持った達人たちが異口同音に発する言葉の類である。オリジナルではないからこそ、自然に拡がりを持ってしまう。桧山先生は、あくまでも料理を通して、それを感じ、限られた縁者へ伝えてきた。であれば、その門下にならなかった私たちには関係のない言葉、か?
そうとは思えないから、おしかりを承知で、こっそりとここに書き留めておく。

 

 

 

 

2011/08/28 Sun.
第121(日)池田武邦さんの日本論  

齢90に近づこうとする建築家を迎えて、3時間のシンポジウム。「超高層から藁葺き屋根」という氏の劇的な価値転換を表したタイトル。ところが、蓋を開けてみると「21世紀に不可欠なこと」であった。後半は、氏の半生をも過ぎていない若者?4名が囲って、いわば21世紀をどのように生きるべきかの「語り継ぎ」のような場が与えられる。私は、「地元若手建築家」ということで、本当の国際試合なら、年齢制限違反で即退場であるところをU-40の内に加えて貰った。
老建築家が前後通して私たちに用意していたものは、建築よりも前段にある思想、哲学の類であった。前半のスライドは10枚前後にて、1時間。一枚も建築の写真が写らなかったことは、ほとんど建築関係の人々で埋められた会場をある意味おどろかせた。建築と共に長い生涯を生きてきて、本当に重要な物事を後世に伝えようという瞬間、そこには、建築の姿よりも重視される事柄があった。

「日本人は、人が死ぬと、その人は仏様という扱いになる。(たとえ死刑囚であっても)」
「西洋人にとって、死人は死体であり、モノとして扱われる。(故に解剖学が発達する)」

最初から話が根深い。日本、というか自然環境に恵まれたアジアでは、科学が西欧ほどに優位にならなかったから、モノと人、もしくは自然と人、ひいては神と人とがあまりキレイに分別する思考が生まれなかった、という論を読んだことがある。科学の発達は確かに様々な改良や解決をもたらしたが、一方では、新たな問題も生み出したのは言うまでもない。私たちに日本人の遺伝子が残っているのなら、モノと人、自然と人というふうに区分しない考え(鈴木大拙で言うなら「即非論」?)がこれから大事になる、というメッセージであった。

文明=普遍・優劣・創造・欲望・人間
文化=固有・対等・伝統・知足・自然

互いの熟語が対比されている。文明と文化の違いをキチンと捉えながら、これからは両者のバランスをとっていかねばならない。もちろん現代は文明の発展に偏り過ぎている。文明が発達するのなら、文化もそれに見合うだけ発展しなければ、人間は豊かにはならない。いや、それどころか文明だけでは、人間はこの地球に生き続けられない。

「自分なんていうのは、出そうと思わなくても、自ずと出てしまう。」

会場からの「建築家(=表現者)としての自分をどのように掘り起こしていくべきか?」の質問に、この答え。このあたり、個人的には墨書の世界の方々との勉強会などで折に触れて見聞する、日本の芸術全般に共通している金言・格言の類と感じ、なんの抵抗もなく入ってきた。あぶりだそうと思って出したオリジナリティーは、個人性の枠を出ない。(=普遍的でない)そういう自意識がなくなった状態から自然ににじみ出てくるようなオリジナリティー、これこそが、社会が必要としている個性である。(=普遍的である)私を含めて多くのデザイナーへの苦言、そんなお話と受け止めた。

そして会はつつがなく、というか、建築系シンポとしてはあまり身に覚えのない空気に浸されながら、終わる。
ある知人は、感動のあまりに涙を流して帰っていき、別の知人とはその日の明け方まで、議論の続きを肴に飲み明かし、また別の知人からは数日後、「久しぶりの日本男児に心地良かった」のメール等をいただいたりした。そして、私は今こうしてブログに書き留めようとしている。いずれにしても、この一夜の話はその後にまで尾を引いた。

各々の感動とは別に、ズレのようなものがなかったわけではない。
一つ一つのやりとりは、私にその要約能力がないので割愛するが、壇上の「若手建築家」のみならず、会場の若手建築家や学生とのいくつかの交歓に、ズレのようなものの通底を感じた。もちろん、そのズレが種火となった火花を見るためのU-40という企画であったに違いない。進行役の倉方氏も大いにそこを意図していただろうし、ある意味そのとおりのことが起こった。一言で言うと、マインドセット(思考態度)のズレではなかったか。老建築家が、繰り返し述べたことに、他の文化を敬う、というのがあった。これは、難題である。文化が異なるというのは、言うまでもなく、互いに正義を貫きながら殺し合いをするほどに、マインドセットが異なる。そういう憎しみを伴う対象でさえ敬愛せよ、というのである。会場では、全く建築的各論に到達する気配のないまま、異文化とは言わないまでも、マインドセットの類のズレを、私たちはあの手この手で理解しようと頭をひねり、自らに引き寄せ、机上で繋がろうとした。しかしその多くに老建築家は簡単にはうなずくことがなかった。

思考態度、とはそれほどに根深い差異を産み出す。なにをもってしても、思考する姿勢、習慣のようなものが思考内容の本質を握っている。この根深いところの刷新なしに、私たちは21世紀を超えてはゆけない、という話であったのだろうか。なにも疑いなく戦後を生きてきた私たちにとっては、仮に「本来の日本人のように生きましょう」と言われたことも、それは「明日から韓国人になりなさい」というのとさほど変わらない難易度であるかもしれない。それほどまでに、私たちは、戦後民主主義が目指したカタヨリの一方に、思考態度の限定を受けてしまっているのかもしれない。

 

 

 

 


2011/07/10 Sun.
第120(日)自己冷却機能は備わっている。  

アンマでも、鍼でも、オステオパシーでも、おおよそ一回1時間ぐらいで、4000円というところ、このヨガ講習会は朝9時から夕方56時を過ぎるまで丸一日で4000円。心身のメンテナンス、もしくは治療としてどれがいいとは一概に言えないが、もし時間と最低限の体力があるのならば、投資効果としては、これは最良かもしれない。他人、もしくは、外界(薬やサプリを含めて)から受ける治療というのは、自らは楽チンであり、それがむしろ必要な側面もあるかもしれない。しかし慢性的なものに対しては、それだけが頼みだと、改善というよりも堂々めぐりという側面もある。自らの身体に対して、自らが原因と結果を意識し、自らで日常的にリカバーできる、という意味でヨガは最も根本的で安価な治療、もしくは予防医学的方法論であるかもしれない。
今日は、実にタイムリーな話が、目から鱗であった。ヨガの前座的行為であるアーサナ~プラナヤーマ(体操~呼吸法)による気の巡りの活性は、冬は身体を温めると共に、「夏は冷やす」、というのだ。冬の冷え切った身体を動かして、血行を促したり、ついでに気の繰りが良くなったりして暖かくなるというのはおおよそ実感できるとしても、夏に涼しくなるというのは、やはり目から鱗である。言われてみてたしかにそうかもしれない。逆に言えば、それほどに微妙な効果でもある。発汗作用に代表されるように、身体にはそのほかにもいろんな次元の冷却機能(自律神経等)が備わっていて、外界が暑ければ自らが冷却に向かう、それを促すというのである。
それだけではなかった。「冷却の呼吸法」なる奥義?を初めて知ることになった。確かに、体感できた。ヨガは想像力が実感と実質を導く=数字で測定できない世界だが、この呼吸法において、その想像力いかんでは、キンキンのアイスマンになることもできる。(想像力が結果を伴うというというあたりは建築設計の職能とかぶるかもしれない。)ともかく、キンキンのアイスマンというのは比喩としても、冷房漬けの人は身体の芯が冷えているので、真夏でも厳禁、冬は何人にとっても、禁じ手という。この呼吸法には〇×△プラナヤーマという名称があったが、サンスクリット語に慣れていないせいもあり、記憶できなかった。2つの方法のうち一つは、仕事しすぎてオーバーヒットした頭や、誰かを怒りすぎて収まらない頭上の湯気を冷やすのにも効果があるというから、これは夏に限らず、多くの人に多用できると思った。かつて、ヨガがどうしてインドで生まれたかという理由に、「暑い国で、運動をすると却って身体を損なうので、そのかわりに、ヨガという健康法を編み出した」という見解を耳にしたことがあるが、この因果説が枝葉末節なアイデアであるとしても、結果的には暑い国に適合しているではないか、と言える。身体を冷やすコーヒーが暑い国の原産であることと同じであろうか。
今、メディアではタケノコの勢いで様々な冷却の諸説が取りざたされているが、十把一絡げにいうと、人間はモノへの依存を免れ得ていないことになる。たくさんエネルギーを使うところを少ないエネルギーでと言っているにすぎない。多くは販促と有縁で、その他水浴びせよ、というのであっても外界からの冷熱の享受であるという意味で、身体の外に何かを必要としている。いけないとはいわないが、例えば、エコカー論争の中に、あくまで化石燃料を使うハイブリッドの概念に対して根本的な温室効果対策となる水素燃料車等が対立しているように、より根本的な解決に繋がる発想の姿勢は常に必要だと思われる。どうしたって、モノがなければ冷えないと決め込んでいるこのご時世に、身一つ、ちょっとした所作により涼しくなるという手法は画期的と思えるし、なによりも発見的で驚きと深度がある。
ということで、気の巡りを良くしたこの日の参加者は外界35度の昼下がり、冷房のない畳の上で屍のポーズ(シャバアーサナ)のまま、いびきを掻いて気持ちよくうたた寝をした。(本当は寝てはいけない)これが、最高に快適な夏の昼の過ごし方である、という見解は古くて新しいの類と考えた。

 

 

 

 

2011/04/03 Sun.
第113(日)「親子のための仏教入門」  
「親子のための仏教入門」 著:森政弘/出版社:(株) 幻冬舎/発売日:2011年01月
ぼんやりと、こういう本を書きたい、と思っていたところにコレに出くわした。正直、タイトルだけでは手に取ることはなかったが、しかし新聞の見出し文まで目を通したところで、直ちに取り寄せる。
著者はお坊さんでも、宗教学者でもなく、ロボット工学者、あの「NHKロボットコンテスト」の立役者である。モノを作るという意味で同じ日常を過ごしている人種が、宗教とどのように関わっているか、モノを作るということの根本、本来の目的、上位概念をどのように捉えているか、唯一ここに惹かれた。
本来、仏教の哲学的思考は、とても難しい。原典を独りで読むことは大変であるところを、わかりやすく説き開いていて、いつのまにかやさしいお坊さんに説き伏せられた感がある。ものを作ることのさしあたっての目的は、依頼者、使用者、もしくは社会の幸福のためであることは古今東西問わず言うまでもない。では、より深く広く他者(社会)へと寄与していこうとする自己はどうあればいいのか。ここが、思いの他不明瞭なのである。資本主義の原型とされるプロテスタンティズムは、粛正や勤勉を旨とした。その結果が富であり資本とされた。しかし、それだけでは、もはや限界である。
また、教育やメディアが提示できるものは、基本、自らの外部から植え付けられる「知識」である。これだけでは、エラーが多くなる。自らの内から起こる「知恵」、ここを培養すること必要性が説かれる。そして、モノづくりの真骨頂へ向かう山道と暗に示される。あらゆる人間と共通の行動哲学を体得することにより、個人は大きな社会に向かって拡がる。沢山のモノをつくり、流通させることによって、社会に役立っているという拡がり、例えば、会社が大きいとか盤石である等という価値感とはまったく次元の異なる拡がりがここにある。一棟ずつ建築を作っていく我々などにとっては、実は新鮮な「拡がり」という言葉。タイトルに騙されてはいけない。とうに育児本の範疇を超えている。

 

 

 

 

2011/03/27 Sun.
第112(日)表現を抑制する、表現  
 若手能楽師、坂口貴信氏の独立披露の舞台に、縁あって参席することができた。「石橋」(しゃっきょう)という神秘的、建築的な演目。日本人にとっての「橋」は、単に河や谷を越えるための物理的な存在ではない。此岸と彼岸を繋ぐ、つまりあの世とこの世が繋がる特別なスポット、チャンネルでもあった。保田輿十郎の「日本の橋」(1936)の世界。本日の物語における石橋(しゃっきょう)は、巾一尺に満たず、とてつもない長さで、足下は滑りやすく落ちれば谷底は見えないほどの深さを持っているという。それを渡ろうとする法師を、現れた童子が、容易に渡れるモノではないと諭す。その後文殊菩薩の使いにより獅子が現れ、乱舞の後に、演目は終了する。舞台セットとして紅白に咲き誇る牡丹の花が添えられるが、肝心の「橋」の情景描写は、ない。

この日のもう一つの演目「羽衣」。あの「天女の羽衣」という寓話を世阿弥が能に書き換えたとされている。美しいであろう、天女やその羽衣、また話の舞台としての白砂青松、富士山の描写はどこにもなく、シテが扇子一本のみで、舞うだけ(仕舞)である。自分が見た能の中では、最大に、動きがない。動きが人間の限界を超えて、スローであるところが、この演目の難しいところであり、見所であるらしい。

それにしても、日本人であるはずなのに、能への不理解というか、不可解さをぬぐうことが出来ない。内容がわからない、というなら口語訳のあらすじを読んでおけば済む。知識がないことが問題ではなく、どうしてここまで、表現が抽象化されているのか、我ながらというか、我々日本人の祖先の表現思想に、不思議を感じる。オペラや某の現代演劇なら、おそらく「石橋」なら石橋の表現が舞台セットのうちでなされるだろうし、「羽衣」なら、天女を着飾り、羽衣や富士山などの、重要な背景を伴っての舞台表現となっていくに違いない。
私たちの先祖は、そういうビジュアルは、すべて各自の頭脳の中でそれぞれが思い描けばいい、といわんばかりであった。能面を付けては演者は表情を隠し、また面や装束で演者が隠れない仕舞であっても、演者は顔から表情を抜き去る。まったく、表現を制限された、表現である。そこから、意味が発生される。そういう種の意味。そういう姿勢が、いつまでたっても不思議である。

 

 

 

 

2011/03/20 Sun.
第111(日)近隣聖地巡礼  
先週の日曜日、気になっていた久山の伊野皇大神宮に足を運んだ。なにかと話題に出てくる草葺き屋根の飯所「茅の舎」に行ったとき、何とも言えない辺り一帯のすがすがしさの元がこのお宮にあるのではないかと思いつつ、なかなか鳥居をくぐらずにいた。東北の地震直後という暗雲立ちこもる心情から、日曜日の過ごし方としてとりあえず、神社参りに罰は当たるまいと思っての行脚。
現代人の習慣そのまま、事前にネットで検索したところ、このお宮には九州の伊勢という接頭語が付いている。そして、神功皇后~アマテラスオオミカミなどの神話的伝承や、北条時宗、織田信長、小早川隆景などの歴代武将の信仰を受けたなど、国家的な話がまとわりついている。まずは、手前に流れる綺麗な川は五十鈴川、その架け橋が五十鈴橋と来てそっくりそのまま伊勢の雰囲気が匂い始める。石階段を上り、すっぽりと神域らしい静けさの空間となり、案の定、神明造りのお社が建っている。手前の向拝から参拝して、奥の社殿へ上り、その奥に瑞垣で囲まれた古殿地があった。ここでも伊勢と同様式年遷宮が行われているという。伊勢の写しは日本に数例あるらしいが、日本建築史のガイドマップ「日本建築みどころ辞典」にて、長野の仁科神明宮だけを知っていた。こんなに近いところに、その類があろうとは、この時まで知らなかった。私は正直、パワースポットの類を巡っていて、ブログの皆さんが書かれているほどに、明らかなるパワーを感じる、というほど鋭敏でない。代わりに、何遍でも生きたくなるか、それだけが判断基準となる。聖地の聖性に有名無名は関係ないという話はここに当てはまるかもしれない。

久山を後に次に向かったのは、今度は有名どころ、宗像大社。昨年だったか、世界遺産登録申請の候補地を先送りされた。遺産候補の焦点となった沖津宮~中津宮という神の島々もさることながら、その軸上反対の丘上に高宮という、日本でも珍しい古代斎場がある。久しぶりに足を運んでみたくなった。日本の建築の初源に辿っていくと、仏教建築などの後の輸入品よりもさらに遡り、社殿不要のヒモロギ、イワサカに出逢う。
磯崎新氏の論説により斎庭として知り、建築関係の友人知人が来福の折りには、連れて行くようにしている。。日本の庭の原点とも結びつけられる空白の空間は、ミニマルインスタレーションと呼べなくもないが、そんな語は野暮、なんともいえず、清々しい。伊勢の古殿地もそうだし、さきほど発見した伊野のそれもそうだったが、まったく自然のままでもなく、かといって作り込まれた神殿のような人口空間とも異なる、不思議な魅力の空白である。

それにしても今日は、人が多い。これほどに神社に人が集まっているのは、初詣以外知らなかったが、もしかしたら、地震のことがあって、皆ここにいるのだろうかとも思った。
宗像大社の境内を散策した後は、直ぐ近くの鎮国寺という、空海が唐から戻ってきた時に一年半滞在していたお寺に回った。ここは従って古いお寺であるが、建築が戦後のRC造であったりするので、日本建築史として知ることがなかった。九州巡礼の札所になっているからか、駐車場の広さからして、来訪客が多いところであることに気づいた。なぜかここも、たくさんの人でにごった返していた。

市内へ戻り、最後に名島神社と、名島城趾を訪れる。ここにも表裏含めて、たくさんの伝説のある地である。2009年から騒がれた展望台計画によって、ここが、黒田の福岡城以前に、天守を持った城があったとこを知ると共に、歴史を伝える時の落とし穴のようなものも浮かび上がる事態に遭遇した。当時、秀吉が九州鎮西のために、小早川に命じてこの小高い丘の上に名島城を建てさせる。しかし20年も経たないうちに、黒田の時代になり、城は移り、この丘は城趾となる。一時、九州を配下に見下ろした幻の名島城、これが町の人の町おこしの動力源となった。しかし、この土地の歴史はそれより前からある。秀吉が城を建てさせた以前は、この丘全体は神宮ヶ峰といわれ、神域であった。時代、地勢、それに記録を重ねると、なるほど、山一つを神殿ととらえてきた神道の原点がここにもあったことは、すぐに想像ができる。しかし、そういう土地の素性はなぜか無視され、天守閣の高さに至る展望台の計画が持ち上がる。そして、当たり前の話、反対意見が起こる。展望台の高さを低く変更して、予算が消費される方針が昨年(2010)に可決されたときいた。その後どういう理由か、難航しているとも風の便りで耳に入った。そういえば、この地は、400年まるまる空地であったということはない。戦後に関して言えば、とある会社の社長が住居を構えた。社長宅としてこの上ない立地、古代の要衝地だから、現代に至るも絶景の眺め。しかし、ここでの生活も20年持たなかったという。お墓の跡地であれば、誰も家など建てようとは考えないハズだが、聖域に対して、同様な感覚は働かなかったのだろうか。展望台であれば、いいということか。理屈とか歴史感覚という以前に、単純に感性の問題であるかもしれない。

 

 

 

 

2011/03/06 Sun.
第112(日)見えにくい階層構造  
今日は終日、ヨガ講習~実習。こういうのは影でやっていればいいものだが、思いの他同士というか、私もやってます、と後で声を掛けられるし、また、そのうち必ずこういうものの本領が、現代生活を送っていく上でスタンダードになることを確信しているということもあり、ちょっと書き留めておく。本などで分かっているようであるが、やはり、その道の確かな指導者が、きちんと時間を掛けて、理論立てて図説で話してもらったものというのは、すっと身体に吸収していく。詳しい内容は触れないが、ヨガの基本は人間の「霊的な」成長であること。やれ、民族の共存だの自然との共生の平和とかいっても、そういう根深い人類の問題に対しては「霊的な成長」なしには、解消不可能であることを、改めて思い知らされる。たとえば、今朝もイスラム社会と戦争についてのトピックが、某テレビで取り上げていたが、どうして毎日神に頭を垂れる人々が、戦争をけしかけ、自爆テロを起こすのか、という万人の疑問。今日の講習から演繹するならば、たとえ宗教的に生きていても、もしくは敬虔な信仰者であっても、「霊的な成長」の階段を踏み上がらなければ、「タダのヒト」ということになるらしい。人間はだれしも自己保存優先の法則から、自己と他己が分かれない世界への成長課題を歩んでいて、宗教に属しているからといって必ずその過程を辿っていけるという確証があるわけでもないらしい。キリストや、釈迦、マホメットの聖人本人なら話は別だが、彼らの信仰者というだけでは、基本的に霊的成長の過程の人間に過ぎず、中途半端であるが故に、却って自ら信じる宗教に固執するあまり、戦争を起こしてしまう。毎日、戒律を守り、神に祈りを捧げる風景が、いかにも我々現代日本人の無信仰的な生活習慣からすると、精進した人間のように見えてしまうが、そこは、キチンと冷静に彼らを見る力を要する。

それにしても、人間の霊的成長の階層には、実に揺るぎない構図というか、全ての人類に共通の階層があるとのことである。君と僕がいたら、何段階の差があるとかないとか、ある特別な視力によって非情にも明言される。私たちの日常生活はというと、これほどまでに「明解な」、そして何人も異議を唱えぬ「不動の」序列構造などないのではないだろうか。内閣総理大臣と、魚屋の親爺には歴然とした差があるではないか、と言ったところで、それなら、それぞれは、何段階目の人間なのか?両者の間には、どのような階層が存在するのか、概念として述べることができるだろうか?内閣総理大臣が仮に上から5番目のヒトというなら、魚屋の親爺は彼を目指して、それを人生の成長の指標もしくは目的にするだろうか。そんなことにはなるまい。確かに収入や知名度と言う意味では、歴然とした階層を持っている。が、社会的地位=人間にとっての絶対的階層だと言ってしまうと、反論が生まれるだけにしかならないだろう。すべての人間が内閣総理大臣を目指すべきだ、などという共通認識は生まれようもない。

建築を生業としても、これと同じ迷路である。知名度や賞歴、収入?によって建築家としての価値、造る建築の価値はある程度の階層構造をつくっているかもしれない。が、すべての建築家が、その階層を登っていくべきだということになるだろうか。全ての建築家が世界的建築家になる道を歩むべきか。そんなことはだれも言わないだろう。むしろ建築の極みに至った歴史上の人間であればあるほど、建築という対象そのものの不可解さに向かって迷宮入りする。建築のみならず各自の職能の専門用語の世界の中には、揺るぎない階層構造などというものはないのではないか。極みと思われる境地を垣間見ても尚、その先が見えない。深い所が見えないまま、途中のガイドラインも不確かなまま、僕たちは目標らしきものを想いながら歩いていることになる。

 

 

 


2011/02/27 Sun.
第111(日)リビングダイニングキッチンという発明  

<house1954 sus-kitchen ¥250.000>

わかっているようでわかっていなかった基本。先日、toto通信を読んでいて、ちょっとハッとする。例えば、LDKという今日当たり前になった室内の形式、これは、およそ100年近く歴史を遡る、あのバウハウスによる発明であったという。それまでキッチンは、リビングからもダイニングからも身を退き、見えない奥に隠れた存在であった。完全舞台裏のサービスヤードでしかなかったキッチンを、リビングダイニングの生活空間へ最初に連れ出したのは、初期バウハウス(グロピウスの実験住宅?)であると。また、歴史はおよそ成功例ばかりを記述するが、本当に新しいことは、それを生むための多くの失敗例があるのだと。失敗が下敷きとなり、歴史が塗り替えられているのだと。(藤森照信氏)これは、建築の歴史に限らないかもしれない正しい歴史の見方、なるほどである。失敗の積み重ねを踏み石にしてその道程の先に、ようやく、社会は確実な某かを手に入れる。
裾野が広がった建築家の世界の中で、未来を切り開くような失敗を積み重ねる姿勢というのは、どれほどに見受けられるだろう。只の失敗は、社会的に迷惑をかけるだけである。只の踏み石に終わるのは無念なだけである。実験のすべてが、バウハウスが産みだしたリビングキッチンのようにに後の社会の規範として実を結ぶかどうかはわからない。できうるならば踏み石の上を軽快にステップし、成功の暁を拝みたいという願いのようなものはあっても、本格的な実験など、おいそれとできるものではない。
「ある種の自己精査を伴っていなければ、実験は危険であるという認識」そして、
「本当に新しいこと、瑞々しいことは、必ず社会の規範となる」という認識。
インハウスならぬ青空の下デザイナーにのしかかる不文律のようなものか。

 

 

 

2011/02/20 Sun.
第110(日)ザ、縄文的なるもの江川邸   
日本の建築を考えたり造ろうとする人にとっては、避けては通れない歴史上の論争がある。戦後まもなく建築界の壇上に起こった伝統論争である。日本の文化史の見方として、丹下健三の(一言で言うと)弥生的なるものへの視座に対して、白井晟一(建築家1905-1983)は「縄文的なるもの」の重要性を説いた。その論点の具象物として、伊豆半島付け根の韮山に存していた旧江川邸の内観が添えられた。1956年8月号の雑誌新建築である。

弥生か縄文か、という二元論を擁立し、伝統をどのように近代に反映させていくかがその時議論された。その二元論はさまざまな言葉に置き換えられ、輪郭を纏った。ニーチェを借りて、弥生=アポロ的(概念的・体系的・太陽)、縄文=ディオニソス的(観念的・情熱的・本能的・闇)とか、弥生=貴族的・女性的、縄文=庶民的・男性的など。二元論は、とにかくいかなる時も、どちらか一方に当てはめればよいから、物事を仕分けるツールとして便利ではある。漠然と日本の建築史に興味を持って眺めていた視点であっても、その根深いところはどちらに属しているのか、あるいはどこへ行こうとしているのか、この二者択一に当てはめる事自体、解りやすいベンチマークである。

江川邸というと、最初に見た「日本の民家」(写真:二川幸夫)上の白黒写真が強烈で、これと白井の縄文的なる精神の託宣ともいえる文章を勝手に掛け合わせ、おどろおどろしい日本のもう一つの側面だと勝手に畏れていた。桂や、伊勢、もしくは京都、懐石、などという典型的な日本は、概ね弥生的なものではないかと考えるようになり、そうではないディオニソス的(内面的?)なものの世界に、視点が吸い込まれていく。さらには古典のみならず、日本の現代建築を構成する、もしくは日本が世界に輸出する建築デザインの多くが弥生的ではないか、などと勝手に考えがうかび始めると、なおさらに、縄文的なるものへの興味が増していく。

「文化の香りとは違い、生活の原始性の強さだけが迫ってくる」と白井が発せざるおえなかった江川邸をようやく見ることが出来た。白井の記事に先導されてかその直後、当時朽ち果てる寸前の遺構を奇しくも文化庁修理が入り、屋根が銅板葺きで覆われてしまっているが、それ以前の風景である茅葺き屋根を頭の中で想い描きながら、内部へ進む。グロテスクな大柱が林立する空間が出現する。「茅山が動いてきたような茫漠たる屋根と、大地から生え出た大木の柱群」である。「情緒や簡素という感覚的皮相」「形象性の強い弥生の系譜」「終結した現象としての型や手本」というような「表徴の被」をはぎ取って、「それぞれの歴史や人間の内包するアプリオリ(先天的なるもの)としての潜能を感得し」「自己を投入」することを伝統の創造の契機とするべきだ、と残している。そしてこんなことまで言っている。「空海や時宗、あるいは雪舟、利休を思う時、私はそれらの人々や時代のうちに生きていた切迫する縄文的な脈搏(みゃくはく)を感じざるを得ない。」ここまでくると、私には解らない境地であるが、おそらく、自己の内面を開放することができるある種の境地に至った者こそが、本当の意味での「創造」に寄与することができるのだ、と言っているのだろうか。書を通して精神世界を歩んでいった白井が言いたかったことは、もはや「伝統の」と付ける必要のない「創造」の境地に関することではなかったか。

ところで、江川邸の美や精神は、作者不在=アノニマスのそれである。作り手が自らに作家と称した瞬間に、おそらく逆説的に遠のいていくそれである。現代における縄文的なるもの、は、50年前の当時よりもさらに理解しがたいもの、不可解なものに変わっていっているのかもしれない。

 

 

 

 

2011/02/09 Wed.
第109(日)官と民、対人と対自然  
日本の建築の未来を担う学生が選んだ、日本の建築ベスト5なるものに遭遇した。だからどうだという程ではないにせよ、こういうのは、やはり古今東西を問わず、興味深い。

TVだったのでうるおぼえだが、
5位が確か、東京カテドラル(丹下)
4位が確か、代々木オリンピック(丹下)
3位が確か、法隆寺、
2位が確か、桂離宮、
1位だけは、はっきり覚えていて、三仏寺投入堂。

 

20世紀以降のものとそれよりずいぶん前の古典を同じ土俵で戦わせていいのかどうか、すこし疑問がないでもないが、まあ、それはそれとして、一位に投入堂が君臨していることに、少々驚いた。

東京カテドラルは、カトリック、(あちらでは国教)カテドラル(司教座聖堂)。代々木オリンピック競技場は、国が戦後復興の象徴として世界に示すために建てた建築、法隆寺は飛鳥時代の仏教に基づく国家政治基盤であり、桂は文字通り天皇家の離宮である。これらは多かれ少なかれ、国家的な建築といえるのだが、投入堂だけは根本的な立ち位置が異なる。

崖にへばりついたようなこの建築は、最近ではNHKはもちろん、民放のバラエティー番組などでも(珍景的な意味で)取り上げられるようになり、もはや秘密の宝ではなくなった。懸崖(ケガイ)造りという古典建築の型の一つ、文字通り崖を手懸かりに建つ仏堂の型で、山岳修験道の地であったことを物語りながら、全国の山々に点々と在する。

その山岳修験者というのは、どういう素性かというと、古代産鉄民、つまり、鉄を始めとする鉱物の探索、採鉱、製鉄技術を持った技術集団であったと言われている。彼らは農民のように王権や行政と良くも悪くも緊密な関係を持った民というより、どちらかというと、管理範疇外のアウトサイダー的な存在であった。時代は聖武天皇以降、財源確保というホンネの基、鎮守国家というタテマエでもって、彼らの生活のよりどころであった山は、国家に召し上げられる時が来る。

自らの生活を支えていた土地は王権が管理するものとなり、鉱物採掘権を奪われた産鉄民は、山中を生活の場とするサンガ、マタギ、木地師などへと転身していった。しかし少なからずが、探鉱技術の源である密教的呪術をそのまま活かしながら、修験道者、いわゆる山伏となった。かれらはそれまでの知識と技術により引き続き探鉱~産鉄に従事し、また薬草採取と処方、そしてなによりも修験道という民間信仰が、社会の背後で民たちの拠り所となっていった。

そもそも、空海が正式に国策として密教を招来する以前より、密教的な仏教の欠片=雑密はあったともいわれていて、もしくは仏教伝来以前に遡っても、古代神道としての山の信仰はあったようである。それまで洞窟などの自然地形を修行の砦としていた山の信仰者たちは、平地の仏教が次第に建築を荘厳に構える(例えば平等院鳳凰堂など)につれて、我ら山岳修験の堂宇を山崖に懸けていったのではないかとされている。(このあたりは、本来社殿を持たなかった神道が仏教堂宇の建立に触発されて、成立していった経緯と同じだろう。)懸崖造りの黎明は、やはり密教の正式な招来と山岳修験化の後を追うようにして、平安中期から鎌倉前期に集中している。その地は、修験者の聖地であったと共に、鉄を産していたであろう痕跡(地名・伝承)を伴っているという。つまりそこは、国家によって奪われた山の民たちの先住地であり、懸崖造りの堂宇が辛うじてそのことをカタチで示しているのである。

投入堂という一つの事例に、そのような山の民の歴史背景をどこまで重ね合わせて良いかは解らないが、少なくとも法隆寺や桂離宮のように、国家が擁護した建築でない。仏教ではあったが、国が認めた仏教ではなく、その管理の外にあった「私度僧」達の殿堂であった。投入堂は今でこそ国の宝であるが、当時としては反体制、とまでは言わないにしても、体制におもねることのできなかった民たちが創り出したものである。そういう背景の全てが、投入堂の存在や雰囲気といったものに顕れていると言ってもいいだろう。法隆寺~桂~代々木オリンピック、もしくは広島原爆記念館などとは、異質の何かである。国家の建築は多かれ少なかれ、人間が、人間に向かって建てたモノ、懸崖造りは人間が山という自然に向かって建てたモノ、という差があるのかもしれない。今の学生の多くは、これぞ日本建築の宝と心を寄せる建築の数々の中で、後者を最上位に掲げていることになる。新しい感性はなにかを示唆しているのだろうか。

 

 

 

 

2011/01/09 Sun.
第108(日)ミニマムリノベーション   

早良区の手島邸に行った。現場でも、ヒトンチでもない。美味しい和食をたべさせてもらえる店ということで、まったく裏切ることなく、気持ちの充ち満ちたオーナーシェフ以下スタッフによるもてなしは最初から最後まですべて舌鼓であった。書き記しておきたいのは、しかしそんなことではない。あくまでもその建物の話だ。近くのコインパーキングに車を停めて、平凡な住宅街を歩くと、裸電球の光が街路に向かって照らされていて、そこが客を迎えようとしている店舗であることに辛うじて気がつく。門をくぐると少し急なスロープを蛇行しながら登る。愉しげだ。ところがスロープの途中、モルタル床が割れている。最初にこれは、と思う。そして玄関。戦後住宅をリノベーションして云々、と銘打たいところだが、当時のまま簡素な木製建具を引くと「ガラガラガラ」と乾いた音を立てて、小さな敷居をまたぐ。玄関は、ホールというより、やはり昭和住宅のスケール。一般住宅の玄関のままであるが、小さな空間に日本人的な洋静物画がかけてあって、僅かに演出性を感じる。白いシャツに黒いカーディガンをまとった裸足(タイツのみ)の清楚な女性が廊下の奥から出てきて、「いらっしゃいませ」と言う。人の家ではないことが判明して、個人宅でなかったことに胸を撫で下ろす。客はスリッパを履く。まず、通されたのは、この家の家主であった手島貢氏のアトリエ。本人の作品がそのままイーゼルに掲げてあったり、パレットが引っかけられていたり、キャンバスを収納する奥行きのある棚がそのまま残されていたりして、生々しさがある。流石にここはそうだろうという感じで増設されたキッチンカウンターに席を移されると、そこからは、割烹形式である。客席側から風景となるキッチン背面は、かつての南面開口部であり、奥行きのある庭がライトアップされている。絵筆を洗っていた水場が左側にそのまま残してあり、厨房の役割を担わず、ディスプレーとなっている。カウンターキッチンの背面という本当なら機能的にも意匠的にも手を加えたいところが基本、いじられていない。他の部屋、壁のひび割れ、出窓の床の傾き、床材、殆どすべてが、この家の元のままであることがわかる。全体を通して新しく計画されたといえるのは、照明計画ぐらいか。光は、必要なところにだけを照らし、際だたせたくない部分を影とする道具となっている。
古家を用いて店舗にしたり、住宅にしたりするリノベーションやコンバージョンの事例は、この10年で随分日常的になった。さらには、テレビ番組等によってそれは、新築以上に「劇的」に可能であることも、一般の人達は知ることができた。我々供給側も、「劇的」な改造をこそ、設計力や施工力の見せ場としながら、そういう風潮に同調してきた。だが、手島邸はそうではなかった。既存のもののよしきにもあしきにも、手をつけない、という殆ど思想的とも言えるほどに、手が加えられていないものであった。絶妙である、なにがが。壁の痛々しいとさえ見えるヒビ、どうして繕わないのかとも思える、モルタル床の割れ。こういう風景を一切合切前向きに見せているのは、料理屋としての料理の質があったからであろう。本題がぬかりないから、入れ物(建築)に仕組まれた、繕わないという不可解さを不問とすることができる。普通は、こんな(言ってみればお金の掛かっていない)入れ物(建築)から、これほどの日本料理が出てくるとは思えない、そのギャップは確信犯であろう。個人的には、空間には(お金をかけて)気を遣われていても、料理がそれに比肩しない、という料理屋が無数に在る中で、この店は、好印象である。彼らのアンチテーゼに見事に反応してしまい、また、リノベーションにおいてこういう考え方があったことに、ハッとした。

 

 

 

 

2011/01/02 Sun.
第107(日)モノを観る、創る。  

先日、授業の後、久しぶりにk先生達と落ち合った。いろいろな話をしている内に、二件目でいよいよ互いの仕事を詮索しながら、話は核心へ向かった。君は今、何に取り組もうとしているかと聞かれ、ステンレスが意外に面白いと答えた。我が事務所は、自らの手を用いて工業的に仕上げられた既製のステン面にテクスチャというか彫りを施すのだ、と話した。すると意外にもというか、いつかどこかでも聞いたことがあるかのような手厳しい一言。自分でやっちゃだめだと。なぜ、だめなのか問い返した。誰でもできることを自分達でやっていては、拡がりがないではないかと。行間には、我々はデザイナーの道を歩んでいるのであって、自分でやっていては、本業の足取りが悪くなるではないか、ということではなかったか。K先生の指南は、常に自己反芻の中に出てくる批判でもある。身内から白い目で見られることもある。自分自身でさえ、自らの手を動かしている最中、自分が何者かわからなくなることだってある。歩むべき道を逸れているのではないかと。
杉本博司氏が特集されている番組を見た。世界のアーティストの中で、私が知る最も手のどこかぬ次元の同業者(と勝手に思う)であり、にもかかわらず、モノと対峙する姿勢に他に代えられぬ親近感のようなものを感じさせる人物。彼が、自ら鍋を振るい料理し、作品づくりのための装置や舞台を自作し、素材を手に抱え、作品を作り上げていくガテン系(≒自らの手を用いる作り手)だからではない。作品が世界を巡る写真家であり、骨董収集家でもあり、建築家でもある美術家=アーティストは、なにをするにしても、尋常でないモノとの対峙を感じさせる。海景という作品づくりの中で、「海をじっと見ていると、次第に自分が海に囲まれていって、海が自分の内面そのものになったような感覚になった。そういうことが何度かあった。」というコメントにまず釘付けになった。バイオリニスト千住真理子氏の自伝にも、これに類似例があった。「自分と楽器が分かれずに一つとなったときに、よい演奏ができた」ピアソラ楽器奏者三浦一馬氏も、ほとんど同種の体験を語っていた。否、楽器を自らに抱える演奏者の特権ではない。とあるヨガ(美容の「ハタヨガ」ではない)の指導者が「トラタカ」(ろうそくの炎に精神集中する修法)の体験談を話してくれたことも思い出す。「1時間以上炎に集中していると、自分が炎そのものになったような感覚になりました。」炎が揺れると自分も全く同じように(身体が実際に揺れるのではなく)揺れる、と。宗教的行法の目的の概ねは、私(わたくし)を止めることによって心の自由を感得する行為であるから、本来同一化できるはずのない対象と同一化できるという事例は、いくらでもあるだろう。杉本は、自著「苔のむすまで」で、日本の仏教の歴史を大変完結に、わかりやすくまとめている。だから、自らと海の同一化の意味を知っているに違いない。自分が海そのものになるという感覚を得るためには、自分への意識を抑止しなくてはならない。自らの身体のここが痛いとか、心地よいとか、うれしいとか悲しいとか・・・小さな自分という限定を離れることができた瞬間、これまで見ていた対象のより深い部分が見えてくる。近寄るから見えるといったチャチなものではなく、限定のない自由な心が対象と即非の関係(非A=A)となることによって感じられるもの=「照見」である。杉本のモノの見方というのは、このあたりの非凡さなのではないか。五感が捉えるというより、むしろ五感を抑止した上に見えてくるその深さが、作品の質となっているに違いない。
思えば、モノを創るということは、モノを見るということかもしれない。どこまで対象を深く凝視できるかということになると、もはや「見る」は視覚によるものではないであろうから、「見」よりも「観」と当てた方がよいかもしれない。結局はそこに至らぬ凡夫の我が身は、手探りを強いられる。自らの手を用いることは、単純かつ個人的な本能や習癖に過ぎないかもしれないし、モノを観ようという本能の足掻きであるかもしれない。目標は知識としてあるが、道筋は文字通り手探り。ここから始めるしか今のところ他には思いつかない。

 

 

 

11/05/08 第119(日)木:大工:Y・M-4
Y・Mさんが、大工技術を伝えることの最も重要なところを、おそらく彼自身、明言が出来ていないのではないかと思っています。無言の部分を言語化しようとするとおかしなことになってしまうとも、そしてマス教育では教え難い部分とも、言えるかもしれません。それは単純な話、Y・Mさんの「常に木に頬擦りしている」というところに尽きるのではないでしょうか。山に生えているもの、伐採直後、製材したもの、加工したもの、木っ端、それぞれを愛撫する、撫でる、黙って凝視する。この木は家のどこに使うといいのだろう、どういう向きがいい、時間が経ったらこうなる、など考えが自動的に巡り始める。木を巡って発想される中身は、Y・Mさん個人の思いである一方、私たち社会がある程度共有可能な(木工についての)理論=セオリー、方法=メソッドを少なからず含んでいます。しかし、それらよりも上段にあるものに注目する必要があります。セオリーやメソッドは、時代や場所や気候や職人や、施主が変われば、それに併せて微妙にも劇的にも変わるものであり、世界共通ではありません。「Y・Mさんが、それほどまでに木を愛している」は心象的、抽象的ですが、故に最上段にあり、最終的には、ここだけが信頼に値する。これさえがあれば、時代や場所、気候、人などの状況が変わっていっても、即応することができるはずです。
それほどに最重要なことを、では、「俺の木が好きだというところを、お前も学ばなければならない!」と口頭で言ったところで、言われた弟子は、路頭に迷うはずです。ここを教わりたいという者は、少なからずの間、親方について親方のやっていることをマネするしか方法がありません。そのうちに、1~2割りぐらいの弟子が、少しずつ、親方の「好き具合」に近づくようになっていく。遠のくのではく、近づくようになっていけば、つまり、「木を扱っているだけで無性に面白い」という感覚が自らの内に安住するようになれば、あとは自立すればいいわけです。そしてさらには「木を見ているだけで愉しい」ということになれば、Y・Mさんの分身が誕生した、ということになるわけです。ちなみに知識とか経験値などは、そうなるための道具です。道具ですから、目的ではないわけです。
大工さんは日本で今54万人(2005年)就業していると言われています。その中で、木を愛でて、行動するというその愛情の度合いがもし計れるとしたら、どうなるでしょうか。自ら大工さんとなったのであれば皆、木を扱うのが愉しくてやっているはずだ、と思いたいところですが、はたしてそうでしょうか。間違いなく同業者の中に、好きな度合いの順番があるはずです。もちろん、計る共通の物差しがないから、そのような非情な番付は存在しません。もし貼り出されたら非情だと思うものであるからこそ、その順番は隠されている。その他の順番、例えば、収入や知名度の順位は簡単に並べられると思いますが、仮に下位にであっても(恥ずかしさや悔しさはあったとしても)職能として全否定されたようには思わないでしょう。一方、大工さんが木の好きな度合いの順位を付けられたら、言い訳が効かないというか、大工さんとしての絶対的な値踏みをされたようになってしまわないでしょうか。
本質的な部分こそ、隠されている。物事の好きな度合いに順番を付ける必要があるかどうかはわかりませんが、好き具合があらゆるものの上位にあり、あらゆるものを支配しているかもしれません。少なくとも好き具合は行動に表れる、そして、好きという感情は逆に行動が育てることができる、その可能性が私たち全てに与えられているのではないかと思います。Y・Mさんを見ていると、だれにも頼まれずに作った材木倉庫、技術研究所、木製家具、すべてが、木というものへの愛情の度合いの強さの表現であり、その表現行動は逆に、「好き」を育てていったのかもしれません。そういう主体が、結果的に社会への貢献の質量をもたらす。本当の「好き」は、本来的に数奇である、ということなのでしょうか。

 

 

11/05/01 第118(日)木:大工:Y・M-3
普通と異なる三つ目です。大工工務店という響きが今だに有効かどうか、少し微妙かもしれませんが、ならば木造住宅を中心に手がける工務店でも構いません、これらの響きは、親方大工が社長であるとか、大工さんが社員としている、つまり大工さんが会社を構成しているかのようなイメージがあります。が、今は違います。社員は基本現場監督と、もしかしたら+営業+事務員さんあたりで構成していて、木造を請け負ったら、大工さんはその都度に雇います。つまり大工職人はアウトソーシングです。元々の「大工工務店」には大工さんが抱えられていたわけですが、今は、仕事の多少による経営リスクの観点から、大工さんは抱えないのが常識です。Y・Mさんもたたき上げの大工として自分が自ら木に触る職人でありながら、会社を立ち上げました。そして、大工工務店の雛型どおり、大工さんたちを社員として抱え続てきました。高校を卒業したばかりの生え抜きを率先して迎え、若手の育成にも勤めながら、大工を社員として持っている、これは当たり前のようでいて、現代の日本ではかなり珍しい工務店となってしまいました。そして、年月を重ね、ネクタイをしめるかノコギリを握るか、二者択一にして大工の棟梁で居続けることを自然に選び、経営は二世に託しました。経営学におけるアウトソーシングが基本となった今は、抱えない方が経営は無難ですが、大工さんをあいかわらず抱え続けています。なぜと聞くと、外注だと「職人を育てられないから」と言います。本当は、外注であっても、外注先の大工さんとそれに教えを請う若者を間接的に育てることになりそうです。さらには、サラリーマン職人は、腕を上げられるか?という疑問がなくもありません。が、そうは考えないようです。木を触ってきた自身の某かを後世に渡したい、一子相伝とまではいかないにしても、直接自分の真横に彼を置き、伝えたいという気概のようなものが、おそらく経営リスクを上回っているようです。
木についての「某」、ここが問題です。大工を学ぶには、一方には職業訓練校のような学校に通うという方法もあります。こちらには当たり前の話、お金を払います。一方で、親方大工に付いて修行をするというのは僅かであってもお金を貰って教えて貰う、ということになります。指導と雇用が一緒になっているので、徒弟というのは、学校よりもある種の厳しさを持っています。そして、親方独りの人格の影響化に置かれるという意味で、学校よりも私語の飛び交う世界と言えるかもしれません。学校制度に対して徒弟制度は、従って客観的な技術を基本としながらも主観的技術の割合が高い。Y・Mさんの伝えたい「某か」とは、この主観の中にあるのかもしれません。例えば、大工技術の基本に、木の反り方向を知るというのがあります。木表や木裏といって、面材がどっちにラウンドするか、これは、小口を見れば直ぐにわかる。基本丸底になる方が表に見えるように面材は用いるとか。また、長手にはどっちにクセを持っているとか、梁に用いる時は、太鼓状に弓なるように用いる等。また、樹種によって、住宅のどの部分に用いるべきか、など、生き物としての木、つまり、人間が完全制御できない対象としての木と付き合うための、人間側のセオリーがあるわけです。その他、道具の用い方、道具の手入れの仕方などにも、(大工に限ったことではありませんが)セオリーはあります。法隆寺棟梁宮本常一氏曰く「木に学べ」は、・・
様々な名工が言葉として残しているもの、多くの職人が異口同音に発した共通事項は、木という一筋縄にはいかない材料の扱い方に対するより客観的、普遍的な技術の部分であるかもしれません。しかし、言葉で顕されたものの背後には膨大な個人の経験が控えていて、そこから彼が抽出したものを私たちは聞いているに過ぎません。また、各論においては同一条件と同一目的においても、職人各々の回答が異なることは、少なくありません。この個人的経験値の集積と、複数の正解が存続すること、これを当に主観的、個人的技術というのではないかと思います。ところが、近代合理精神、もしくは高度成長は、この主観的、個別的技術を手段として駆逐してきました。その成果はめまぐるしいものでしたが、それでも今日、駆逐が完了したことにはなっていません。それは駆逐そのものは手段であって、目的ではなかったからです。完全に抹消すべきなどとは、そもそも誰も考えてはいないわけです。個人に宿る技能が無くなっては、ものづくりが楽しくないではないか、そう考える人々がやはり対局に起こるわけです。Y・Mさんとその技術集団の各々は、裏を返せば、そのような発想の持ち主達であるように思うのです。

 

 

 

11/04/24 第117(日)木:大工:Y・M-2

Y・Mさんの工場が、普通の大工工務店と異なる二つ目です。Y技術研究所と名付けられた一室。これも、他人からではなく、自分から自分へ向けて発注した内装工事になります。その入り口に建つ限りでは、なんてことないベニヤの壁、工場の中に併設された倉庫のような簡素なイデタチです。どこかの現場の余りをココに付けた、というような引き戸を開くと、中は別世界、珠玉の大工仕事で出来た応接空間が忽然と現れます。床はレッドシダー、壁はジュラクに様々な雑木の柱や梁、枠材、木材料の随所にナグリが込められています。ナグリとは日本の木造意匠の一つで、彫刻の彫り込みを施すものです。木材ならほとんどどれにもある木目は二次元の意匠、彫り込みを行うと三次元になります。ちょっと高級な日本料理店などで見かけたりしますが、手仕事だと手間がかかりすぎるということで今日の大抵のものは機械彫りのようです。わざわざ手を加えるという意味では人間の作為に他なりませんが、そういう雰囲気というより、木の本随のようなものが表に顕れてくる感じがします。Y・Mさんは、ことある事にナグリを薦めます。彼は、そのナグリが契約図面に指定されていなくても、工事の途中で、これをやってみませんかと、設計者や施主に詰め寄る。手間が増える一方ですが、それでも木の木たる何かを顕したい、そういう気迫がこもるのか、彼らは次第に説得され、遂に折れ、建築の部位にそれが刻まれることになります。
話が飛びましたが、このY技術研究所、明らかに大事なお客を契約時に迎え入れる会社のVIPルームの様ですが、残念ながらここは工場、本社から車で30以上かかる田園に位置しています。工場を覗きたいモノ好きなお客さんが訪れる日が有ればそれは特別で、普段は大工さんたちの食堂です。大きなはめ殺しガラス越しに女竹がきれいに並べられた坪庭を眺めながら、各々持参の弁当を秋田杉のランチョンマットの上に置いてのランチタイムです。普段は木クズまみれで木と向き合うけれども、大工は完成物としての空間の品位を知っていないといけない、そういう教育的観点もかいま見えます。
さて、現代技術に囲まれた現代建築の世界に、Y・Mさんのようなねじりハチマキ風の職人がどのように生きているか、気になるところです。木造に関して言うなら、プレカットという技術体系の普及は、彼ら日本の在来木造を担ってきた職人の仕事の領域を包囲しています。プレカット工場は、木材切り刻んでいく線を入れる「墨付け」、その線に従って刻み込む「刻み」までを、機械が一手にやってしまう技術です。CAD/CAM方式というシステムを用いて、コンピューター上の製作図面がそのまま直接工場のロボットノコギリへ命令して、大変なスピードで木材を加工します。ついでにそれらを現場でくみ上げたときに構造的に大丈夫かどうかも、コンピューターが判定してくれます。こんなに便利な工場が、日本の各地に点在していて、つまりは、現代のほとんどの大工さんは、大工の仕事であった上記の部分を、お金を払って外注しているわけです。廻りが皆、こういうスピードと精度で家を建てていて、Y・Mさんだけが相変わらずノミをもってトンカチやっているかというと、それほどまでには彼は天然記念物ではありません。必要あらば、構造材の全てをプレカット工場に外注することもあります。また、コンピューターとは連動していませんが、プレカット加工のための工作機械を自前でもっていて、外注なしに職人手間の省力化を図ることができるようになっています。むしろ、省力化のための機械導入は、地場工務店としては、素早い方であったようです。しかし、プレカット工法はカタチが一般的ないわゆる普通の家型であれば採用可能ですが、ちょっと平面に角度がついたり、特殊な構造になると、工場はその仕事を引き受けません。なんとか懇願して、可能な部材だけを発注する場合もありますが、コスト的時間的メリットが危ういものになります。こういう難儀な時に、いわゆる手刻み、が出番となります。「手刻み」の存在意義は、一言で言うなら自由造形としての木造技術です。オートメーションで量産するプレカット技術がフォローできない領域において、結局は人間の手が俄然有利になるということがあります。もちろん職人の幾何学的技術と加工技術がしっかりしていることが条件です。手刻みしかできない住宅の依頼がこの大工工務店に集まってくる、それを常に受け入れられるよう、職人が腕を磨いて待っている。そういう循環において、Y・Mさん以下の工務店は現代に生きているということになります。木でもっていかなる造形もやってこなす技術、そこを宛にする依頼者。双方の存在がなければ、住宅産業はお金とモノが動いているだけの只只退屈な世界となってしまいそうです。少数派であってもいいと思いますが、当たり前に必要な世界、のような気がします。

 


11/04/17 第116(日)木:大工:Y・M

日本は木造建築の文化と言われますが、木でモノを作るという意味では、建築よりも先に軍需産業としての造船技術において発展した、という説(木の文明の成立/川添登)があります。今では木造船の世界は、一部の文化活動や趣味的営みを除き、産業としては、ほぼなくなりましたが、木造建築は思いの外、延々と作られています。住宅や店舗のみならず、学校や観光施設などの公共的な建物に至り、古代的、伝統的な素材というには、あまりにも現役です。20世紀は鉄とコンクリートの時代ということでしたが、21世紀は、どうなるでしょうか。世界の物流がなんらかの形で滞れば、これまでどおりというわけにはいかないかもしれません。そういう物流的理由とは無関係に木が見直されている、そういう一面さえあるかもしれません。少なくとも、住宅における木造の割合は、90年台に底をついて、ほんの僅かですが、上昇してきているという統計もあります。かつての木造建築へ回帰している、というわけではなく、現代の木造建築が生まれている、ということが言えそうです。数値的なシェアはともかく、私たちが木という素材とそう簡単には絶縁できない人種であること、そこに焦点をあててみてもよいかもしれません。

山口県下関市にY建設という大工工務店があります。その創始者はY・Mさん(1945生まれ)中学校のころから大工修行のため、某大工棟梁に丁稚入りし、25才の時に独立。現在は本社と工場が互いに離れて別の所にありますが、特記すべきは工場です。合計500平米の建物のうち、およそ半分は、材木倉庫が占めています。木造建築を建てるのだから、木材倉庫があるのは当たり前ではないか、と思いがちですが、そうとも言えません。明日建てる、もしくは来年建てるための一時的な材料ストックヤードがあるのは工務店にとっては、珍しくありませんが、ここはちょっと赴きが違います。何時何に使われるのか、判然としないものが、山積しています。900ミリ巾×4mほどの地松の板材、杉材、ケヤキ、クワ、栗、楓・・・その他ホコリを被っていて本人以外不明。銘木倉庫というか、語弊を畏れずにいうなら、趣味的領域、コレクションです。それらは、使う宛があってとか、注文があって仕入れたものではなく、市場で見つけて、是非持っておきたい、まるで衝動買いのようにして、仕入れる。時には雷で倒れた大木が市場に出される。例えそれが大木であろうと銘木であろうと、昨今の住宅では決して多用される材ではないから、「発注」より先行して「仕入れ」は行われない。つまりだれも札を入れない。そこにY・Mさんは、ひょいと現れ、消え、そして値段が下がったところで現れ、競り落とす。完全に先行投資です。その先は、杉の大材であれば、5~7ミリの厚さにスライスして、天井材として、持っておく。椎なら、フローリング材とか、柱材の断面に製材する。この工場は大工の工場としてだけでなく、製材業の一面を持っていたりします。

Y・Mさんが育てたその鬱蒼とした木材の森を潜っていくと、今度は木の造形物が出現します。テーブルや椅子、花器、その他什器の類が、出荷前の商品のような状態で、そこにあります。それらはまた、地松や、檜や、ケヤキ、クワ、栗、楓、椎、・・。それらもまた、発注があって造ったのではありません。ちなみに、木造建築を設計していても、それらの木の名前をにわかに言えるものではありません。現代の私たちが見る木というのは、悲しいかな、杢目とか節とか、わかりやすい模様が在るか無しかの、記号的な対象となってしまいました。しかし、本当は、そこに微妙な差異があるのだということに気づきます。Y・Mさんは自分の造ってしまったものを、常にこれは何の木である、とまず紹介します。花瓶であるとか、椅子であるという機能よりも、これはどういう木で出来ている、ということの方が重要事項であるかのようであります。花瓶を眺めているのではなく、クワの木の造形を眺めている、という感じです。

 

 

11/04/10 第114(日)個人の技能、集団の技術

かねてより、自分自身が建築設計者としてものづくりに関わりながら、こうではないかと思ってきたことがありました。モノを作っていくときの人間の心の在処についてです。基本、モノは性能(+美)と対価のバランスで、産み出され、取引され、消滅していく世界、その基本原則は免れえません。しかし、人間が目の前の製作物=モノに向かっているその時間の中に、結果物としての性能とか美とかいうものとは別の価値、もしくは課題が潜んでいるような気がしています。結果主義より過程主義ということかもしれませんが、ならば、なぜ過程主義を認めねばならないか。これを何処まで説明出来るか、是非、トライしなければならない、と思っていました。

ものを作る、ということを言うときに重要な分かれ道があって、それは、集団が持ちうる技術によるものと、個人に宿る技能によるものと、があるように思います。前者は、大量生産に直結し、後者は究極は唯一無二の一品生産です。建築というのは、そのような工業的なものづくりと、個人技能的ものづくり=手工業の両方が混沌と混在していて、どちらか一方に収束していくことがない、そういう性質のものづくりであると思います。

私は、主に、個人の技能に関わるものに、興味を持っています。なぜなら、不可解な拡がりを持っているからです。工業的にモノをつくる目的は、良質な性能を、量産することによって、適正コストに押さえ、多くの人に行き渡らせる、ことだと思います。量的な普遍化は、その性能を含めて数字や、カタチで表すことのできる明解な「拡がり」です。一方、個人的というか職人的なものづくりの意義は、生産された結果物を介しての拡がり、という意味では、少なくとも量的なものにはなりえません。そこで、質的な普遍性にその存在価値が委ねられるのですが、ここにおいても、もはや質というだけでは、手放しで手工業の方が優れているとも優れていないともいえない(ウィリアムモリスの時代ならともかく)時代です。産業革命以降の技術史は、手仕事で行っていたものづくりを、工業技術に置き換えて生産していく、そういう歴史でありましたが、そのような工業化時代を過ぎた今現在においても、手工業は完全には無くならないわけです。ある種あやふやな立ち位置でありながら、また、危ぶまれながらも、手工業というのは、消えてしまわない。「消えてしまわない」という逆方向からの眼差しが、今必要のように思うのです。
なぜ、無くならないかというと、人間にとって必要であるから、に他なりません。そして人間とは、必ずしも需要者だけに限らず、供給者を含めた人間存在に関わるもののような気がします。ずっと解りやすい話でいうと、カレー好きが、レトルトカレーだけで満足できるか、という命題と同じです。レトルトは工業的なものづくりです。しかし、では非常食とか、安物の類かというと、今日の商品を見ていて、むしろその逆で、豪華さを唱った商品の百花繚乱です。しかしながら、カレー好きは、レトルトの枠内に収まることはないでしょう。彼らは、店を転々と食べ歩くでしょう。そしてついには、自ら、自家製カレーを探求し始めるでしょう。市販のカレールーもありますが、場合によってはスパイスを追求し、とうとう原産地から直接取り寄せる、追求の矛先は、どんどん深くなるかもしれません。レトルトの商品開発の枠内にはとうてい納まらない、人間の感性が工業や商品開発によって満たされない一側面です。レトルトがどのように発展的展開を拡げても、カレー人口の全てを満足しえないのと同じく、プレファブ技術が建築生産の、もしくは建築的意志のすべてを満足させることにはならない。ひいては、工業的ものづくりではどうしても埋め合わせることができない部分が人間側にある、そのように演繹できないでしょうか。

 

 

 

11/04/03 第113(日)根本から疑う。

親子のための仏教入門 我慢が楽しくなる技術
ぼんやりと、こういう本を書きたい、と思っていたところにコレに出くわした。正直、タイトルだけでは手に取ることはなかったが、しかし新聞の見出し文にて、直ちに取り寄せる。著者はお坊さんでも、宗教学者でもなく、ロボット工学者、あの「NHKロボットコンテスト」の立役者である。モノを作るという意味で同じ日常を過ごしている人種が、宗教とどのように関わっているか、モノを作るということの根本、本来の目的、上位概念をどのように捉えているか、唯一ここに惹かれた。本来、仏教の哲学的思考は、とても難しい。原典を独りで読むことは大変であるところを、わかりやすく説き開いていて、いつのまにかやさしいお坊さんに説き伏せられた感がある。ものを作ることのさしあたっての目的は、依頼者、使用者、もしくは社会の幸福のためであることは古今東西問わず言うまでもない。では、より深く広く他者へと寄与していこうとする自己はどうあればいいのか。ここが、とかく不明瞭なのである。資本主義の原型とされるプロテスタンティズムは、粛正や勤勉を旨とした。その結果が富であり資本とされた。しかし、それだけでは、もはや限界である。また、教育やメディアが提示できるものは、基本、外部から植え付けられるもの=知識である。これだけでは、当然エラーが多くなる。内から起こる知恵、ここを培養することが、必要である。そして、モノづくりの真骨頂へ向かう山道でもある。あらゆる人間と共通の行動哲学を体得することにより、個人は拡がりを得る。沢山のモノをつくり、流通させることによって、社会に役立っているという拡がりとは違う拡がりがここにある。一棟ずつ建築を作っていく者にとっては、意外に新鮮な「拡がり」という言葉。タイトルに騙されてはいけない。とうに育児本の範疇を超えている。

 

 

11/03/27 第112(日)表現を抑制する、表現
若手能楽師、坂口貴信氏の独立披露の舞台に、縁あって参席することができた。「石橋」(しゃっきょう)という神秘的、建築的な演目。日本人にとっての「橋」は、単に河や谷を越えるための物理的な存在ではない。此岸と彼岸を繋ぐ、つまりあの世とこの世が繋がる特別なスポット、チャンネルでもあった。保田輿十郎の「日本の橋」(1936)の世界。本日の物語における石橋(しゃっきょう)は、巾一尺に満たず、とてつもない長さで、足下は滑りやすく落ちれば谷底は見えないほどの深さを持っているという。それを渡ろうとする法師を、現れた童子が、容易に渡れるモノではないと諭す。その後文殊菩薩の使いにより獅子が現れ、乱舞の後に、演目は終了する。舞台セットとして紅白に咲き誇る牡丹の花が添えられるが、肝心の「橋」の情景描写は、ない。
この日のもう一つの演目「羽衣」。あの「天女の羽衣」という寓話を世阿弥が能に書き換えたとされている。美しいであろう、天女やその羽衣、また話の舞台としての白砂青松、富士山の描写はどこにもなく、シテが扇子一本のみで、舞うだけ(仕舞)である。自分が見た能の中では、最大に、動きがない。動きが人間の限界を超えて、スローであるところが、この演目の難しいところであり、見所であるらしい。
それにしても、日本人であるはずなのに、能という文化のようなものへの不可解さ、をぬぐうことが出来ない。内容がわからない、というなら、口語訳のあらすじを読んでおけば済む。知識がないことが問題ではなく、どうしてここまで、抽象的な表現であるのか、我ながらというか、我々日本人の祖先の表現思想に、不思議を感じる。オペラや某の現代演劇なら、おそらく「石橋」なら石橋の表現が舞台セットのうちでなされるだろうし、「羽衣」なら、天女を着飾り、羽衣や富士山などの、重要な背景を伴っての舞台表現となっていくに違いない。私たちの先祖は、そういうビジュアルは、すべて各自の頭脳の中でそれぞれが思い描けばいい、といわんばかりであった。能面を付けては演者は表情を隠し、また面や装束をまとわない仕舞であっても演者は顔から表情を抜き去る。まったく、表現を制限された、表現である。そこから、意味が発生される。そういう種の意味。そういう姿勢が、いつまでたっても不思議なままである。

 

 

11/03/20 第111(日)近隣聖地巡り

先週の日曜日、気になっていた久山の伊野皇大神宮に足を運んだ。なにかと話題に出てくる草葺き屋根の飯所「茅の舎」に行ったとき、何とも言えない辺り一帯のすがすがしさの元がこのお宮にあるのではないかと思いつつ、なかなか鳥居をくぐらずにいた。東北の地震直後という暗雲立ちこもる心情から、日曜日の過ごし方としてとりあえず、神社参りに罰は当たるまいと思っての行脚。
現代人の習慣そのまま、事前にネットで検索したところ、このお宮には九州の伊勢という接頭語が付いている。そして、神功皇后~アマテラスオオミカミなどの神話的伝承や、北条時宗、織田信長、小早川隆景などの歴代武将の信仰を受けたなど、国家的な話がまとわりついている。まずは、手前に流れる綺麗な川は五十鈴川、その架け橋が五十鈴橋と来てそっくりそのまま伊勢の雰囲気が匂い始める。石階段を上り、すっぽりと神域らしい静けさの空間となり、案の定、神明造りのお社が建っている。手前の向拝から参拝して、奥の社殿へ上り、その奥に瑞垣で囲まれた古殿地があった。ここでも伊勢と同様式年遷宮が行われているという。伊勢の写しは日本に数例あるらしいが、日本建築史のガイドマップ「日本建築みどころ辞典」にて、長野の仁科神明宮だけを知っていた。こんなに近いところに、その類があろうとは、この時まで知らなかった。私は正直、パワースポットの類を巡っていて、ブログの皆さんが書かれているほどに、明らかなるパワーを感じる、というほど鋭敏でない。代わりに、何遍でも生きたくなるか、それだけが判断基準となる。聖地の聖性に有名無名は関係ないという話はここに当てはまるかもしれない。

久山を後に次に向かったのは、今度は有名どころ、宗像大社。昨年だったか、世界遺産登録申請の候補地を先送りされた。遺産候補の焦点となった沖津宮~中津宮という神の島々もさることながら、その軸上反対の丘上に高宮という、日本でも珍しい古代斎場がある。久しぶりに足を運んでみたくなった。日本の建築の初源に辿っていくと、仏教建築などの後の輸入品よりもさらに遡り、社殿不要のヒモロギ、イワサカに出逢う。
磯崎新氏の論説により斎庭として知り、建築関係の友人知人が来福の折りには、連れて行くようにしている。。日本の庭の原点とも結びつけられる空白の空間は、ミニマルインスタレーションと呼べなくもないが、そんな語は野暮、なんともいえず、清々しい。伊勢の古殿地もそうだし、さきほど発見した伊野のそれもそうだったが、まったく自然のままでもなく、かといって作り込まれた神殿のような人口空間とも異なる、不思議な魅力の空白である。
それにしても今日は、人が多い。これほどに神社に人が集まっているのは、初詣以外知らなかったが、もしかしたら、地震のことがあって、皆ここにいるのだろうかとも思った。
宗像大社の境内を散策した後は、直ぐ近くの鎮国寺という、空海が唐から戻ってきた時に一年半滞在していたお寺に回った。ここは従って古いお寺であるが、建築が戦後のRC造であったりするので、日本建築史として知ることがなかった。九州巡礼の札所になっているからか、駐車場の広さからして、来訪客が多いところであることに気づいた。なぜかここも、たくさんの人でにごった返していた。

市内へ戻り、最後に名島神社と、名島城趾を訪れる。ここにも表裏含めて、たくさんの伝説のある地である。2009年から騒がれた展望台計画によって、ここが、黒田の福岡城以前に、天守を持った城があったとこを知ると共に、歴史を伝える時の落とし穴のようなものも浮かび上がる事態に遭遇した。当時、秀吉が九州鎮西のために、小早川に命じてこの小高い丘の上に名島城を建てさせる。しかし20年も経たないうちに、黒田の時代になり、城は移り、この丘は城趾となる。一時、九州を配下に見下ろした幻の名島城、これが町の人の町おこしの動力源となった。しかし、この土地の歴史はそれより前からある。秀吉が城を建てさせた以前は、この丘全体は神宮ヶ峰といわれ、神域であった。時代、地勢、それに記録を重ねると、なるほど、山一つを神殿ととらえてきた神道の原点がここにもあったことは、すぐに想像ができる。しかし、そういう土地の素性はなぜか無視され、天守閣の高さに至る展望台の計画が持ち上がる。そして、当たり前の話、反対意見が起こる。展望台の高さを低く変更して、予算が消費される方針が昨年(2010)に可決されたときいた。その後どういう理由か、難航しているとも風の便りで耳に入った。そういえば、この地は、400年まるまる空地であったということはない。戦後に関して言えば、とある会社の社長が住居を構えた。社長宅としてこの上ない立地、古代の要衝地だから、現代に至るも絶景の眺め。しかし、ここでの生活も20年持たなかったという。お墓の跡地であれば、誰も家など建てようとは考えないハズだが、聖域に対して、同様な感覚は働かなかったのだろうか。展望台であれば、いいということか。理屈とか歴史感覚という以前に、単純に感性の問題であるかもしれない。

 

 

11/03/06 第112(日)果てしなき階層構造

今日は終日、ヨガ講習~実習。こういうのは影でやっていればいいものだが、思いの他同士というか、私もやってます、と後で声を掛けられるし、また、そのうち必ずこういうものの本領が、現代生活を送っていく上でスタンダードになることを密かに確信しているということもあり、ちょっと触れてみる。本などで分かっているようであるが、やはり、その道の確かな指導者が、きちんと時間を掛けて、理論立てて図説で話してもらったものというのは、非常に勉強になる。詳しい内容は敢えて避けるが、ヨガの基本は霊的成長であること、そして、やれ、民族の共存だの自然との共生の平和とかいっても、「霊的な成長」なくしては、そういう根深い人類の問題に対しては解消不可能であることを、改めて知る。たとえば、今朝もイスラム社会と戦争についてのトピックが、某テレビで取り上げていたが、どうして毎日神に頭を垂れる人々が、戦争をけしかけ、自爆テロを起こすのか、という万人の疑問が話題であった。今日の講習から演繹するならば、たとえ宗教的に生きていても、もしくは敬虔な信仰者であっても、「霊的な成長」の階段を踏み上がらなければ、「タダのヒト」ということになる。人間はだれしも自己保存優先の法則から、自己と他己が分かれない世界への成長課題を歩んでいて、宗教に属しているからといってその過程を踏める、という確証があるわけでもないらしい。キリストや、釈迦、マホメットの聖人本人なら話は別だが、彼らの信仰者というだけでは、基本的に霊的成長の過程の人間に過ぎず、中途半端であるが故に、却って自ら信じる宗教を守るがあまり、戦争を起こしてしまう、ということになる。(毎日、戒律を守り、神に祈りを捧げる風景が、いかにも我々無信仰の生活習慣からすると、精進した人間のように見えてしまう。)
それにしても、人間の霊的成長の階層には、実に揺るぎない構図というか、全ての人類に等しく与えられる階層があるようである。君と僕がいたら、何段階の差があるとかないとかが、ある特別な視点からは非情にも明解に言い当てられる。シチメンドクサイ話は、私自身の生業からして、発言が即信憑性を失うということでこれくらいにしておきたいが、私たちの日常生活はというと、これほどまでに「明解な」、そして何人も異議を唱えぬ「不動の」序列構造などないのではないか。内閣総理大臣と、魚屋の親爺には歴然とした差があるではないか、ということになるが、それなら、それぞれは、何段階目の人間なのか?両者の間には、どのような階層が存在するのか、概念として述べることができるだろうか?内閣総理大臣が仮に上から5番目のヒトというなら、魚屋の親爺は彼を目指して、それを人生の成長の指標もしくは目的にすべきだろうか。そうはなるまい。確かに収入や知名度と言う意味では、歴然とした階層を持っている。が、社会的地位=人間そのものの階層というと、多くの反論が生まれてしまうだろう。すべての人間が内閣総理大臣(の某か)を目指すべきだ、などという共通認識は生まれない、見えている階層構造の不確かさと、見えていない奥行きの果てしなさがある。
建築を生業としても、これと同じ迷路である。知名度や賞歴、収入?によって建築家としての価値、造る建築の価値は概ね階層構造をつくっているかもしれない。が、すべての建築家が、その階層を登っていくべきとなるか。全ての建築家が世界的建築家になる道を歩むべきか。そうではないだろうから、見えている階層構造は絶対的なものとはいえない。言うまでもなく、建築の極みに至った歴史上の人間であればあるほど、建築という対象そのものの不可解さを断言する。建築のみならず各自の職能の専門用語を用いる土俵の中には、成長のための視座となる確かな階段、揺るぎない階層構造が実はないのではないか。極みと思われる境地を垣間見ても尚、その先が見えない。深い所が見えないまま、途中のガイドラインも不確かなまま、僕たちは目標らしきものを想いながら歩いている。

 

 

 

11/02/27 第111(日)アーキテクト、アンダーブルースカイ

わかっているようでわかっていなかった基本。先日、toto通信を読んでいて、ちょっとハッとする。例えば、LDKという今日当たり前になった室内の形式、これは、およそ100年近く歴史を遡る、あのバウハウスによる発明であったという。それまでキッチンは、リビングからもダイニングからも身を退き、見えない奥に隠れた存在であった。完全舞台裏サービスヤードでしかなかったキッチンを、リビングダイニングの生活空間へ最初に連れ出したのは、初期バウハウス(グロピウスの実験住宅?)であると。しかし見落としてはならないのは、歴史はおよそ成功例ばかりを記述するが、本当に新しいことは、それを生むための多くの失敗例があるのだと。それらが下敷きになり、歴史が塗り替えられているのだと。(藤森照信氏)これは、建築の歴史に限らないかもしれない正しい歴史の見方、なるほどである。失敗の連続を踏み石にしてその道程の先に、ようやく、社会は確実な某かを手に入れる。
裾野が広がった建築家というヒト達の中で、本来の建築家と呼ばれるヒト達は皆、この道を歩もうとしているヒト達かもしれない。彼らは踏み石となろうつもりはなく、その上を歩くイメージでモノを造っている。もちろん、実験のすべてが、バウハウスが産みだしたリビングキッチンのように、後の社会の規範=実を結ぶかどうかはわからない。だから、普通は実験など、おいそれとできるものではない。「ある種の自己精査を伴っていなければ、実験は危険であるという認識」そして、「本当に新しいこと、瑞々しいことは、必ず社会の規範となる」という認識。インハウスならぬ青空の下デザイナーならば、毎日、神棚に唱えていてもよい金言かもしれない。

 

 

11/02/20 第110(日)ザ、縄文的なるもの江川邸

日本の建築を考えたり造ろうとする人にとっては、避けては通れない歴史上の論争がある。戦後まもなく建築界の壇上に起こった伝統論争である。日本の文化史の見方として、丹下健三の(一言で言うと)弥生的なるものへの視座に対して、白井晟一(建築家1905-1983)は「縄文的なるもの」の重要性を説いた。その論点の具象物として、伊豆半島付け根の韮山に存していた旧江川邸の内観が添えられた。1956年8月号の雑誌新建築である。
弥生か縄文か、という二元論を擁立し、伝統をどのように近代に反映させていくかがその時議論された。その二元論はさまざまな言葉に置き換えられ、輪郭を纏った。ニーチェを借りて、弥生=アポロ的(概念的・体系的・太陽)、縄文=ディオニソス的(観念的・情熱的・本能的・闇)とか、弥生=貴族的・女性的、縄文=庶民的・男性的など。二元論は、とにかくいかなる時も、どちらか一方に当てはめればよいから、物事を仕分けるツールとして便利ではある。漠然と日本の建築史に興味を持って眺めていた視点であっても、その根深いところはどちらに属しているのか、あるいはどこへ行こうとしているのか、この二者択一は良いベンチマークになる。
江川邸というと、最初に見た「日本の民家」(写真:二川幸夫)上の白黒写真が強烈で、これと白井の縄文的なる精神の託宣ともいえる文章を勝手に掛け合わせ、おどろおどろしい日本のもう一つの側面だと勝手に畏れていた。桂や、伊勢、もしくは京都、懐石、などという典型的な日本は、概ね弥生的なものではないかと考えるようになり、そうではないディオニソス的(内面的?)なものの世界に、視点が吸い込まれていく。さらには古典のみならず、日本の現代建築を構成する、もしくは日本が世界に輸出する建築デザインの多くが弥生的ではないか、などと勝手に考えがうかび始めると、なおさらに、縄文的なるものへの興味が増していく。
「文化の香りとは違い、生活の原始性の強さだけが迫ってくる」と白井が発せざるおえなかった江川邸をようやく見ることが出来た。白井の記事に先導されてかその直後、当時朽ち果てる寸前の遺構を奇しくも文化庁修理が入り、屋根が銅板葺きで覆われてしまっているが、それ以前の風景である茅葺き屋根を頭の中で想い描きながら、内部へ進む。グロテスクな大柱が林立する空間が出現する。「茅山が動いてきたような茫漠たる屋根と、大地から生え出た大木の柱群」である。「情緒や簡素という感覚的皮相」「形象性の強い弥生の系譜」「終結した現象としての型や手本」というような「表徴の被」をはぎ取って、「それぞれの歴史や人間の内包するアプリオリ(先天的なるもの)としての潜能を感得し」「自己を投入」することを伝統の創造の契機とするべきだ、と残している。そしてこんなことまで言っている。「空海や時宗、あるいは雪舟、利休を思う時、私はそれらの人々や時代のうちに生きていた切迫する縄文的な脈搏(みゃくはく)を感じざるを得ない。」ここまでくると、私には解らない境地であるが、おそらく、自己の内面を開放することができるある種の境地に至った者こそが、本当の意味での「創造」に寄与することができるのだ、と言っているのだろうか。書を通して精神世界を歩んでいった白井が言いたかったことは、もはや「伝統の」と付けることのない「創造」の境地に関することではなかったか。
ところで、江川邸の美や精神は、作者不在=アノニマスである。作り手が自らに作家と称した瞬間に、おそらく逆説的に遠のいていくそれである。現代における縄文的なるもの、は、50年前よりもさらに不可解なもの、として写しだされるのかもしれない。

 

 

 

11/02/06 第109(日)官の建築、民の建築
日本の建築の未来を担う学生が選んだ、日本の建築ベスト5なるものに遭遇した。だからどうだという程ではないにせよ、こういうのは、やはり古今東西を問わず、興味深い。
TVだったのでうるおぼえだが、
5位が確か、東京カテドラル(丹下)
4位が確か、代々木オリンピック(丹下)
3位が確か、法隆寺、
2位が確か、桂離宮、
1位だけは、はっきり覚えていて、三仏寺投入堂。

20世紀以降のものとそれよりずいぶん前の古典を同じ土俵で戦わせていいのかどうか、すこし疑問がないでもないが、まあ、それはそれとして、一位に投入堂が君臨していることに、少々驚いた。
東京カテドラルは、カトリック、(あちらでは国教)カテドラル(司教座聖堂)。代々木オリンピック競技場は、国が戦後復興の象徴として世界に示すために建てた建築、法隆寺は飛鳥時代の仏教に基づく国家政治基盤であり、桂は文字通り天皇家の離宮である。これらは多かれ少なかれ、国家的な建築といえるのだが、投入堂だけは根本的な立ち位置が異なる。
崖にへばりついたようなこの建築は、最近ではNHKはもちろん、民放のバラエティー番組などでも(珍景的な意味で)取り上げられるようになり、もはや秘密の宝ではなくなった。懸崖(ケガイ)造りという古典建築の型の一つ、文字通り崖を手懸かりに建つ仏堂の型で、山岳修験道の地であったことを物語りながら、全国の山々に点々と在する。
その山岳修験者というのは、どういう素性かというと、古代産鉄民、つまり、鉄を始めとする鉱物の探索、採鉱、製鉄技術を持った技術集団であったと言われている。彼らは農民のように王権や行政と良くも悪くも緊密な関係を持った民というより、どちらかというと、管理範疇外のアウトサイダー的な存在であった。時代は聖武天皇以降、財源確保というホンネの基、鎮守国家というタテマエでもって、彼らの生活のよりどころであった山は、国家に召し上げられる時が来る。
自らの生活を支えていた土地は王権が管理するものとなり、鉱物採掘権を奪われた産鉄民は、山中を生活の場とするサンガ、マタギ、木地師などへと転身していった。しかし少なからずが、探鉱技術の源である密教的呪術をそのまま活かしながら、修験道者、いわゆる山伏となった。かれらはそれまでの知識と技術により引き続き探鉱~産鉄に従事し、また薬草採取と処方、そしてなによりも修験道という民間信仰が、社会の背後で民たちの拠り所となっていった。
そもそも、空海が正式に国策として密教を招来する以前より、密教的な仏教の欠片=雑密はあったともいわれていて、もしくは仏教伝来以前に遡っても、古代神道としての山の信仰はあったようである。それまで洞窟などの自然地形を修行の砦としていた山の信仰者たちは、平地の仏教が次第に建築を荘厳に構える(例えば平等院鳳凰堂など)につれて、我ら山岳修験の堂宇を山崖に懸けていったのではないかとされている。(このあたりは、本来社殿を持たなかった神道が仏教堂宇の建立に触発されて、成立していった経緯と同じだろう。)懸崖造りの黎明は、やはり密教の正式な招来と山岳修験化の後を追うようにして、平安中期から鎌倉前期に集中している。その地は、修験者の聖地であったと共に、鉄を産していたであろう痕跡(地名・伝承)を伴っているという。つまりそこは、国家によって奪われた山の民たちの先住地であり、懸崖造りの堂宇が辛うじてそのことをカタチで示しているのである。

投入堂という一つの事例に、そのような山の民の歴史背景をどこまで重ね合わせて良いかは解らないが、少なくとも法隆寺や桂離宮のように、国家が擁護した建築でない。仏教ではあったが、国が認めた仏教ではなく、その管理の外にあった「私度僧」達の殿堂であった。投入堂は今でこそ国の宝であるが、当時としては反体制、とまでは言わないにしても、体制におもねることのできなかった民たちが創り出したものである。そういう背景の全てが、投入堂の存在や雰囲気といったものに顕れていると言ってもいいだろう。法隆寺~桂~代々木オリンピック、もしくは広島原爆記念館などとは、異質の何かである。国家の建築は多かれ少なかれ、人間が、人間に向かって建てたモノ、懸崖造りは人間が山という自然に向かって建てたモノ、という差があるのかもしれない。今の学生の多くは、これぞ日本建築の宝と心を寄せる建築の数々の中で、後者を最上位に掲げていることになる。新しい感性はなにかを示唆しているのだろうか。

 

 

 

11/01/09 第108(日)ミニマムリノベーション
早良区の手島邸に行った。現場でも、ヒトンチでもない。美味しい和食をたべさせてもらえる店ということで、まったく裏切ることなく、気持ちの充ち満ちたオーナーシェフ以下スタッフによるもてなしは最初から最後まですべて舌鼓であった。書き記しておきたいのは、しかしそんなことではない。あくまでもその建物の話だ。近くのコインパーキングに車を停めて、平凡な住宅街を歩くと、裸電球の光が街路に向かって照らされていて、そこが客を迎えようとしている店舗であることに辛うじて気がつく。門をくぐると少し急なスロープを蛇行しながら登る。愉しげだ。ところがスロープの途中、モルタル床が割れている。最初にこれは、と思う。そして玄関。戦後住宅をリノベーションして云々、と銘打たいところだが、当時のまま簡素な木製建具を引くと「ガラガラガラ」と乾いた音を立てて、小さな敷居をまたぐ。玄関は、ホールというより、やはり昭和住宅のスケール。一般住宅の玄関のままであるが、小さな空間に日本人的な洋静物画がかけてあって、僅かに演出性を感じる。白いシャツに黒いカーディガンをまとった裸足(タイツのみ)の清楚な女性が廊下の奥から出てきて、「いらっしゃいませ」と言う。人の家ではないことが判明して、個人宅でなかったことに胸を撫で下ろす。客はスリッパを履く。まず、通されたのは、この家の家主であった手島貢氏のアトリエ。本人の作品がそのままイーゼルに掲げてあったり、パレットが引っかけられていたり、キャンバスを収納する奥行きのある棚がそのまま残されていたりして、生々しさがある。流石にここはそうだろうという感じで増設されたキッチンカウンターに席を移されると、そこからは、割烹形式である。客席側から風景となるキッチン背面は、かつての南面開口部であり、奥行きのある庭がライトアップされている。絵筆を洗っていた水場が左側にそのまま残してあり、厨房の役割を担わず、ディスプレーとなっている。カウンターキッチンの背面という本当なら機能的にも意匠的にも手を加えたいところが基本、いじられていない。他の部屋、壁のひび割れ、出窓の床の傾き、床材、殆どすべてが、この家の元のままであることがわかる。全体を通して新しく計画されたといえるのは、照明計画ぐらいか。光は、必要なところにだけを照らし、際だたせたくない部分を影とする道具となっている。
古家を用いて店舗にしたり、住宅にしたりするリノベーションやコンバージョンの事例は、この10年で随分日常的になった。さらには、テレビ番組等によってそれは、新築以上に「劇的」に可能であることも、一般の人達は知ることができた。我々供給側も、「劇的」な改造をこそ、設計力や施工力の見せ場としながら、そういう風潮に同調してきた。だが、手島邸はそうではなかった。既存のもののよしきにもあしきにも、手をつけない、という殆ど思想的とも言えるほどに、手が加えられていないものであった。絶妙である、なにがが。壁の痛々しいとさえ見えるヒビ、どうして繕わないのかとも思える、モルタル床の割れ。こういう風景を一切合切前向きに見せているのは、料理屋としての料理の質があったからであろう。本題がぬかりないから、入れ物(建築)に仕組まれた、繕わないという不可解さを不問とすることができる。普通は、こんな(言ってみればお金の掛かっていない)入れ物(建築)から、これほどの日本料理が出てくるとは思えない、そのギャップは確信犯であろう。個人的には、空間には(お金をかけて)気を遣われていても、料理がそれに比肩しない、という料理屋が無数に在る中で、この店は、好印象である。彼らのアンチテーゼに見事に反応してしまい、また、リノベーションにおいてこういう考え方があったことに、ハッとした。

 

 

11/01/02 第107(日)モノを観る、創る。

先日、授業の後、久しぶりにk先生達と落ち合った。いろいろな話をしている内に、二件目でいよいよ互いの仕事を詮索しながら、話は核心へ向かった。君は今、何に取り組もうとしているかと聞かれ、ステンレスが意外に面白いと答えた。我が事務所は、自らの手を用いて工業的に仕上げられた既製のステン面にテクスチャというか彫りを施すのだ、と話した。すると意外にもというか、いつかどこかでも聞いたことがあるかのような手厳しい一言。自分でやっちゃだめだと。なぜ、だめなのか問い返した。誰でもできることを自分達でやっていては、拡がりがないではないかと。行間には、我々はデザイナーの道を歩んでいるのであって、自分でやっていては、本業の足取りが悪くなるではないか、ということではなかったか。K先生の指南は、常に自己反芻の中に出てくる批判でもある。身内から白い目で見られることもある。自分自身でさえ、自らの手を動かしている最中、自分が何者かわからなくなることだってある。歩むべき道を逸れているのではないかと。
杉本博司氏が特集されている番組を見た。世界のアーティストの中で、私が知る最も手のどこかぬ次元の同業者(と勝手に思う)であり、にもかかわらず、モノと対峙する姿勢に他に代えられぬ親近感のようなものを感じさせる人物。彼が、自ら鍋を振るい料理し、作品づくりのための装置や舞台を自作し、素材を手に抱え、作品を作り上げていくガテン系(≒自らの手を用いる作り手)だからではない。作品が世界を巡る写真家であり、骨董収集家でもあり、建築家でもある美術家=アーティストは、なにをするにしても、尋常でないモノとの対峙を感じさせる。海景という作品づくりの中で、「海をじっと見ていると、次第に自分が海に囲まれていって、海が自分の内面そのものになったような感覚になった。そういうことが何度かあった。」というコメントにまず釘付けになった。バイオリニスト千住真理子氏の自伝にも、これに類似例があった。「自分と楽器が分かれずに一つとなったときに、よい演奏ができた」ピアソラ楽器奏者三浦一馬氏も、ほとんど同種の体験を語っていた。否、楽器を自らに抱える演奏者の特権ではない。とあるヨガ(美容の「ハタヨガ」ではない)の指導者が「トラタカ」(ろうそくの炎に精神集中する修法)の体験談を話してくれたことも思い出す。「1時間以上炎に集中していると、自分が炎そのものになったような感覚になりました。」炎が揺れると自分も全く同じように(身体が実際に揺れるのではなく)揺れる、と。宗教的行法の目的の概ねは、私(わたくし)を止めることによって心の自由を感得する行為であるから、本来同一化できるはずのない対象と同一化できるという事例は、いくらでもあるだろう。杉本は、自著「苔のむすまで」で、日本の仏教の歴史を大変完結に、わかりやすくまとめている。だから、自らと海の同一化の意味を知っているに違いない。自分が海そのものになるという感覚を得るためには、自分への意識を抑止しなくてはならない。自らの身体のここが痛いとか、心地よいとか、うれしいとか悲しいとか・・・小さな自分という限定を離れることができた瞬間、これまで見ていた対象のより深い部分が見えてくる。近寄るから見えるといったチャチなものではなく、限定のない自由な心が対象と即非の関係(非A=A)となることによって感じられるもの=「照見」である。杉本のモノの見方というのは、このあたりの非凡さなのではないか。五感が捉えるというより、むしろ五感を抑止した上に見えてくるその深さが、作品の質となっているに違いない。
思えば、モノを創るということは、モノを見るということかもしれない。どこまで対象を深く凝視できるかということになると、もはや「見る」は視覚によるものではないであろうから、「見」よりも「観」と当てた方がよいかもしれない。結局はそこに至らぬ凡夫の我が身は、手探りを強いられる。自らの手を用いることは、単純かつ個人的な本能や習癖に過ぎないかもしれないし、モノを観ようという本能の足掻きであるかもしれない。目標は知識としてあるが、道筋は文字通り手探り。ここから始めるしか今のところ他には思いつかない。

 

 

 

 10/12/12 第106(日)古典と現代

ときどきには、良い建築をみてまわりたいと思っている。今日は、下関市の功山寺を事務所のスタッフと共に訪ねた。1300数年あたりの、鎌倉期、禅宗様の建築だ。まずは、山門でそのプロポーションに気づく。2年前、正月に奈良の寺院を見て歩き、寺院建築の構造材におけるプロポーション(木割り)の残像があったからか、鎌倉期のこの建築のそれが異常に細いことに、すぐにわかった。どちらが好きかと言われると、やはり奈良の建築は、なんだか、建築の揺るぎない安定感のようなものを感じることができるし、また、現代建築にないものを持っているということを含めて、そちらに旗を振ってしまう。しかし、飛鳥時代からの変化と、そしてそれ以降、書院や数寄屋を大成していく歴史を想像すると、功山寺を通して久しぶりに見る鎌倉期の禅宗様は、好き嫌いではなく、歴史の変化の過程として興味を持つことができる。20代前半から、古典建築に不可解さ故の新鮮みを感じ、貧乏旅行をしながらいろいろ見て歩いてはいたが、やはり歳をとるものだ。少しずつ、そのわからない古典が愉しめるようになってきた。
それにしても、功山寺は建築が黒かった。スケッチにすると、普通は屋根面が明るく、軒の下がカゲになるはずだが、そのコントラストが殆どなかった。(檜皮葺きであることが、それを助長しているのだろうか。)スケッチはそう言う意味で、シルエットを追うだけで済んでしまい、あっという間だった。そして、そのシルエットの美しさにも気づくことができた。軒先の可憐さは檜皮葺き=ザ、日本の屋根の真骨頂ともいえる。
話は、もうすこし本題に。今年の授業で、一つだけ印象に残っているクリティークがあった。東大の大野先生と早稲田の石山先生との間に繰り広げられた、「歴史教育」論争である。石山(以下呼び捨て)は、建築史を基壇に据えて、学生にデザインを伝えようとしたことに対して、大野は、課題の構築が歴史に引っ張られすぎていると。渦中で関わっていたとはいえ、ニュートラルな位置からもの申すと、大野が言いたかったことは、おそらく、歴史は知っていなくてはならないことだけれども、今この時に、ここまで従わなくてもよいはずだ、学生の自由度を損傷してはならない、ということではなかったか。石山は、それに敏感に反応した。学生が誤解してはならないということを鑑みてか、大野の短いコメントを、すべて間違っていると全否定した。
(歴史研究室に学んだ師の弟子、つまり歴史研究室の孫弟子?として、偏見を承知で、私自身のスタンスを明示すると)デザイン教育の中に「歴史」は、基本として必要だと思う。ある時期には、歴史に釘付けになり、縛られる時期があってもよいと思う。逆にいうと、教育として押しつけられるものはそれしか無い。教育がわざわざ仕組まなくても、「現代」は、その他全ての情報環境が仕組んでくれる。また、リアルタイム=変化の絶え間ないという意味での「現代」はそれを我が身の思想の基壇に据えるには、あまりにも不確定で、頼りない。生きている(デザイナー含む)個人の趣向は、もっと怪しい類(その時空を代表できるデザイナーというのは僅か)である。デザイン教育の早い時期に歴史への眼差しがすり込まれることは、100害1利をかき分けた100利1害であると思う。
歴史的なものと同一な思想や根底が、「現代」に見いだせた時、私は快感を覚える。そういえば今日も国宝は現代建築と同一の見学ルートであった。

 

 

 

10/11/29 第105(日)都市に関わる仕事

建築デザインが、リノベーションの社会性を唱え始めてから久しいが、設計をする側の動機づけはどんなだろう。医者が風邪の患者と頭痛の患者とどっちがいい、と言われて答えられないのと同じで、新築の住宅と改築で、どちらがどうであるとは本来的に言い難い。とはいえ、新築にはゼロからの造形と空間を考える楽しみがあり、改築は、既にあるものの息を吹き帰らせる喜びがある。
今年は、漆喰と無垢材による中古マンションの改装に、再度奮起する機会を得た。10年ほど前から、空き室を見つけては改装し、まずまずと言っていいほど、短い期間で入居者を得てきた。その中でも微妙な紆余曲折はあるから、そういう結果の輪郭を、もうすこし統計学的にハッキリさせたいという意味も込めて、事例を追求しようとした。賃貸の世界は、その陣中を覗くと恐ろしいほどにホットである。多大な投資をし、安定収入を目論むものであるから、昨今のようにそれが不安定となると、経営者としてはたまらない。それに応えようとする者=「業界」も熟する。だが、正直、マンションのリノベーションの世界をいくら眺めていても、建築的好奇心としては、なんの足しにもならないという感覚に陥る。恐ろしいほどに小手先の世界ばかりで、赤子をなんだか色とりどりのプラスチックおもちゃでアヤしているだけの世界にしか見えない。(失礼ながら、赤子は入居者、アヤすのは作り手)高々賃貸住居の空室対策のデザイン手法というのは、そういくつもあるわけではない。設備的な刷新、壁紙+貼り床の刷新、間取り変更、そして仕上げ素材の刷新。あとは、家賃補償などの商法的な手法。私たちは間取りの組み直し、と素材の考え直し、に特化している。正直、地味である。壁紙系や設備、もしくは家賃補償などというのは、目に見えて解りやすいが、素材などというものは人間の感覚としては、全くデリケートな感性に頼ることになる。まずもって、写真では伝わりにくい。言葉に託すと、「自然素材を使っている」「自然派指向」などの月並みな表現にしかならない。結局は、現場を確認できた偶々の人々によって支持されているのであって、社会的に隅々まで支持されているというふうには、今のところ言えない。(厳密には、訴求媒体がない)工事費についても、壁紙/貼り床系だと50万円とか60万円/一室のパッケージが散見されるが、(詳細は省くが)少なくとも無垢材を貼って、漆喰を塗る仕事は、ものすごい勢いで貼られる上記の乾式工事に、コストで勝つことはできない。家賃保証(3ヶ月以降入らない場合は、その家賃収入を補償しますなどという、)などのキャッチセールスも今のところ行っていない。
だから、私たちが行っているマンションの改装は、現段階ではまだメジャーとは言えない。類似品だってイッチョマエに出てきたから、模倣できないわけでもないが、それでもまだ、マニアには支持される、と扱われる仕様でしかない。だが、逆説的ではあるが、マニアックに留まっている事の方が健全であり続けられるのではないか。素材などというものに思いを持てる人間たちによって辛うじて支持されているぐらいが程よく、妙に商売的にヒットしてしまうと、そこからはニセモノや三流模造品の横行が始まるだろうから。このあたりのサジ加減はしかし、やっている当の本人者共からは制御不能である。
ちょっと、ここでのみ、オオゲサな妄想を暖めてみたい。マンションの各室の改装は、デザイナーにとっては誠に地味な仕事である。しかし、増え続ける空き室が無駄にならないためには、倫理的に必要なことであるし、いや、もしかしたら、これは崇高な都市論ではないが、地を這う都市政策ではないかと思う筋がある。トップダウン的に都市のカタチを扱ってきた20世紀型の都市計画論は、少なくとも私のようなネジ一本のカタチが気になる人間には本来関わりがないものだが、その前にかつての計画論は早くも自由資本主義の力に凌駕されてしまっていて、絵に描いた餅になってしまっている。一方、より多くの都市生活者に関与する、数多のマンションの住戸を一つ一つ救おうとするリノベーションの手法は、ゲリラ的に都市の計画の某かに参画していることにならないだろうか。その時、どういう生活空間を提供するのか、という造り替える側の理念のようなものの有無が、計画論や学の一旦を担えるかどうかの分かれ道である。賃貸業界の世界には残念ながらこれらが欠落している。通りすがりの人々にアンケートと称して一時的な趣味趣向を聞き取り、それを反映させ、市場原理だといって、当面の利益を目論む。それが、5年後流行らなくなれば、その時、目の前を通り過ぎる人々に又伺いを立てて造り替えればいいではないか。言い換えれば、デザイナーの理念は不要という発想である。
私たちの多くがどんな家で生活を送るのか、という理想の提示を当たり前にきちんと行うことのできる真っ当なデザイナーが、もし賃貸の世界でやって居続けられるなら、これまでの単なる野放図な都市よりも、一室を介してよりよき都市へ、という道筋が見えそうな気がする。(最近頻発しているという家賃滞納問題に即して)もし、漆喰と無垢の部屋を選んだ人が、プラスチックぺたぺたの部屋に住む人よりも、滞納率が低い、なんていう統計が導き出されたら、マンションの一室の仕様は、都市とは言わなくとも、そこに住む人間の個性を介して地域をつくることと繋がる。壁一枚、ドアノブ一つが都市に繋がる、と考えることができるなら、これは愉しい、ということになる。

 

 

 

10/11/14 第104(日)選挙、政治、ドラマ
今日は、我が町の市長選挙。所用の後、投票箱へ。その後、龍馬傳を観る。今日の「選挙=参政」の一時と、幕末当時の政治の核心を一日に観たことになるが、隔絶の差である。かたや、ドラマの上での政治ではあるが、我らがリアルタイムで接する政治とは比較にならないほど、それは、エキサイティングである。ドラマが国政の大きな歴史的転換に寄与するに等しい出来事であって、今日のその現実は、たかが市政の小事ではないかといわれるかもしれないが、しかし、そういうスケールコンシャスでは、どうしても納得できない。液晶越しのドラマはこれほどまでにエキサイティングであるのに、参政権利を行使する生身の私たちは、生きているはずの政治にさめざめとしている。どうせ誰がやっても大差ない、という感覚があまりにも定着してしまった。
「ドラマ」で時々の節目で差し出されていた、懐刀。これはなにを意味していたのだろう。命?もしくは魂?なにか、大事なものごと、部下から上司への讒言の類、もしくは上司から部下への命に関わる通達の折りには、その懐刀が差し出された。とりわけ部下が上司へもの申した折りには、それが上司にタダの戯れ言と判断された暁には、切腹をよぎなくされる、そういう命がけで国を想う一面が映し出されていた。仮に、すべて作り話であってもかまわない。志の高さだけが蒸留されて、そこに表現されていたとしたら、それでもいい。しかし物事を改革するとは、こういうことなのだということだけは事実相違ない、という気がしてくる。
単純に我が身の営み=建築を振り返る。私はなにを改良しようとしているのか?そもそも建築を独りでやっている意味があるか?単に、自由に振る舞っていたいからだけではないか?独我の温床を築くためではないか?そういうことばかりが、検証される。龍馬は亀山社中~海援隊へと営利企業の先駆けを創りながら、国政というより大きな仕事、もしくは深い仕事に関与していった。自営業にとっては、大事な活路である生活の糧としての側面は、すべて志のために注ぎ込まれた。こういう志の類は、かつての武士道であって、暑苦しい、とか、現代的ではないという話にも陥りがちではあるが、そんな安手の批判によって、これら伝記と、今ここに居る私たちとを別物としてしまってはもったいない。今は決して命をかけて、物事を行う風習ではないかもしれない。そうであるべきとも思わない。だが、我が身が、我が家が、我が組織が、満たされることがなんだかんだと言いつつも最終目標となっている事態は、どうだろう。現代社会が、エキサイティングなドラマを築けない、退屈な理由はそこにあるのではないか。
とりとめもない私事を無理にまとめても、全ては自らの棚上げにしかならない。だからこそ、歴史に美談を求めざるおえないということになる。本当に私的なものを乗りこえていることが活かされている仕事というのが、世の中にはびこりにくくなっているという空虚である。この点、政治も建築も同罪である。雄弁であり金集めの得手が政治家になり、新鮮な視覚デザインを創れる者がデザイナーになる。ほんとうはそれは目的ではなく手段にすぎない。多くがその先の目標へたどり着けない、なにか障壁のようなものが私たち現代人に、はだかっている。

 

 

 

10/10/31 第103(日)日本人がつくる和紅茶
素人ながら、紅茶もウーロン茶(その他の中国茶)も日本茶も、元の茶葉というか茶木は同じものというのが、お茶の面白いところというか、不思議だなといつも思います。原料が共通しているから、その後の加工のところに場所の差異が顕れる。ここでも日本人のモノへの対し方は、醗酵という変化、原材料から異なるモノへの変形作業をあまり好まず、最も原型を留めた製法を日本茶の中に育ててきた、ということでしょうか。そういう日本人が紅茶を作ったら、やはりイングリッシュティーとは異なるのは必然ですね。日本人が作る和紅茶、という取り組みはそのまま建築にも言えて、日本人がつくるモダンデザイン(=ヨーロッパ原産)、ということですから、案外今回の茶会は奇遇のようで、同志者の必然的な出会いではないだろうか、なんて思っています。準備、頑張りましょう。(かろき舎通信へのコメント)

 

10/10/24 第102(日)世代間格差
なぜか、母校の製図室から、このぼやきをアップロードしている。
毎年、秋から冬は、母校の3年生の設計製図の授業の手伝いをするため、毎週1000マイルの往復をしている。そして、毎年、授業にまつわる記事を日曜日に書いている。その現象そのものが、すでに愚痴にほかならない。なぜその報酬のすべてを航空会社に吸い取られていくのか、とか、一週間は7日あるはずなのに、なぜこの時期自分は5日しかないような感覚になってしまうのか、とか、なぜ、自分が金曜日の毎夜サウナに入っているのか、とかいろいろ掘ればでてはくるが、でも愚痴の焦点としては、小さい。

問題は、とえらそうに言ってはいけないが、学生たちの雰囲気の違いがやはり気になる。母校が・・というのではなく、もっと手広いと思われる。手離れがわるい、というのは一種のビジネス用語であるが、これが、学生にも当てはまるようである。ふつう、建築学生、特に「やる奴」というのは、どこか上っ面に生意気なところがあって、ある段階から他人(教師)の介入を拒み、独り図面に取り組み、生意気ながらの課題作品が出来上がる。近年はそういう、手を離れてしまう段階をとうとう迎えぬまま、どこまででも、設計課題に対する学生への助言=エスキースチェックが可能となってしまう。最後の完成まで、助言が求められるし、助言が可能な状態が持続する。だから、手離れの悪い授業というか、学生というか、そういう状況が発生する。

人間の子供が野生の動物と違って、長い時間をかけて、親の保護を要するように、最近の学生は、そのようなのである。いや、学生だけではなく、若い社会人も手取り足取りが必要だとのことである。より高等動物化していると言っていいのか、そうではないのか、即決はできない。保護があるから、保護されることにおもねるのか、保護されるべきものが先立ち保護を受ける状態ができあがるのか、わからない。いずれにしても世代間格差だけは、しっかり感じ取ることができる。

 

10/09/19 第101(日)行列ラーメン店か、接待割烹屋か

昨晩、眠れずに朝5時、仕方がないので起き抜けにとりあえず、テレビのスイッチを押した。久しぶりにA社青汁の仕込み番組に出会った。(なんとなく雰囲気で判明)おおよそいつも、飲食店等を切り盛りしている夫婦二人三脚が出てきて、苦難の末、努力の末に、お陰様で繁盛してます、というシナリオ。(毎回見ているわけではないので、飲食店経営ばかりなのか、わからない)そして結局は、これからも大切な夫にバリバリ働いてもらうために、カミサンがおもむろに、青汁を差し出す。夫は、それを美味しそうにゴクゴク呑んで、挙げ句の果てに、「いろんな青汁を飲んだが、これが一番上手い!」と吐露する。
まあ、そこまでは、毎回同じだとして。その料理人は、大学を卒業して、板前を目指し、東京の日本料理某有名店の門をくぐる。中卒の年下の兄貴弟子のいじめから脱却すべく群を抜く努力の末、そのグループ店を見晴らす総料理長まで上り詰める。どこの料理店かは空かされていなかったが、たとえばなだ万みたいなところなのだろうか。ところが、そこまで上り詰めてのち、疑問にぶちあたる。一生懸命料理をつくっても、そういう格式のある店は、接待や会合といった、食べることとは別の意味を持った客が頻繁に出入りする。料理はしばしば残され、あるいは全く手を付けられず、厨房に帰ってくる。蓋を開けた形跡さえない椀モノもある。そんなときに、テレビでふと、行列をつくる小さなラーメン店を見て、心中のモヤモヤが一瞬晴れる。その後は、水が上から下へ流れるが如く、彼は、その一流料理店の総料理長の役職を全て辞職し、ゼロからラーメン店を立ち上げていく。そして、シナリオどおり、行列のならぶラーメン店へ。
なにしろ、仕込み番組なので、単純に感動すると、感動した方がバカを見るので注意が必要である。もしかしたらその料理は美味しくなくて、残ってしまったのではないか、と勘ぐってしまいたくもなる。しかし、一生懸命つくった料理が手つかずで戻ってくるクダリは、そんな単純な理由で、片付けてしまうわけにはいかない。美味しいけれども食べている状況ではない宴席、食事のタイミングではないが、事の成り行きとして、宴席に着かなくてはならない瞬間は誰でも経験があるはずである。どんな料理人でも料理の質を追求するのは、相手に食べて美味しいと思って貰いたからに他ならない。ところが、そういうふうに、まっすぐに捉えて貰えない場合だってあるということである。名のある飲食店ほど、舌鼓の世界とは違うものを含んでくる。いくら役職があっても、報酬があっても、料理人としては、店の名前だけを食べられては、自分はなにをやっているのかわからなくなるというのは、わからなくもない。
建築デザインも、上記と似たものがあるかもしれない。作者の放ったものが、ずばり、ダイレクトに受け手に響く、といういわば椀の底まで吸い上げて貰えるラーメン屋パターンになるか、もしくは、作者の放ったものが、別の意味、役割をもって社会に有用される、接待割烹屋パターンとなるか。仮に道がどっちかしかないとすると、思いの外悩ましい二差路になる。

 

10/09/12 第100(日)老木、身をもって何申す。
屋久島の第二の屋久杉=翁杉が倒れたというニュースが飛び込んできた。自分はまだ、屋久杉を巡る旅をしたことがない。とうとう、その大樹には出逢うことができなかった。弥生時代から2000年もこの地球の、人々の歴史を俯瞰してきた大樹が、なぜ、100年の寿命に満たない私一人の人生を持ちこたえることができなかったのだろうと、思う。生あるものが必ず死を迎えるのは当然のことであるが、なぜ、今に、その大きな生命を突然終えたのだろう。
そういえば、5~6年前の台風の後、倒れた杉の大木を見に小石原へ脚を運んだことを思い出した。古いもので500年、室町期から江戸あたりに英彦山を巡る山の行者たちが植えていったとされる杉が、立派に森を形成していた。かつてはこんもりと、それこそ、陽光を容易に通過させない「黒い森」が、人間を圧倒するかのように場所を成していた。自分は幼かったこともあり、日が暮れなくとも、その森は恐れるに足る、又畏れるに足る「黒い森」であった。高々30年前の話である。それが、あの有名な1991年の台風19号の九州蹂躙によって、森を形成する大樹の少なからぬ本数がなぎ倒された。私が故郷を離れている間に、その「黒い森」は見る影もなく、太陽があっけなく降り注ぐ、スカスカの森に変わっていた。その後の台風でも、数本が倒れた。台風だから、というのは理由にはなりえなだろう。そんなものは500年の間に無数に通り過ぎていったはずである。
それにしても、寿命という意味で、人間より遙かに大きな存在である大樹が、私の人生の1/4の短い間に、次々に大地に伏していくのはなぜだろう。

 

10/08/29 第99(日)完全へ向かおうとする手

歳を取るということは少しずつ報酬とは無関係の仕事が増えるということに気づき始めた。20代のぺーぺーでは、動機や能力や時間のいずれもが不足しできるものではなかった(建築)業界への奉仕もボチボチ機会が発生する。町内会や氏子会といった我が居住区のためのお役目もいつ降り掛かってくるかわらない。家族や身内に生死があれば、人として当たり前に少なからず身を捧げることになる。同窓会の幹事も頼まれれば拒むことはできない。
思えば生まれて40のこの方、純粋に他人のためにという行為はいくつあっただろう。赤子から学生の間は当たり前かもしれないが、24才で社会人となった以降も、おそらく自分のことが中心にあった。下積み時代の仕事のすべては、施主のためでもあったが、明日の我が身のためと捉えなおすことによって乗りこえてきた。それはそれで悪いことではないとは思うが、そろそろ、大人の仲間入りをしなければという時節になってきた。
とりあえず、今年からぼつぼつ、家の仕事を手伝う。ヨボヨボの老母が30年近くやっていた、神棚の仕事を少しずつ、とりあえずは、榊の取り替え。冬はもうちょっと保つが夏は1週間で駄目になるから、その都度に榊を買ってきて、差し替える。差し替えるといっても、神棚に召すものだから、神社の神官がやっているように、白い服に着替えて、塩で手と口を浄めてからとなる。榊は多めに買っておき、選りすぐる。必ず、若芽のあるものを5本、もしくは7本の束にして麻皮を裂いたヒモで束ねる。(麻の入手は、麻薬取り締まり法と背中合わせの命がけの入手)しかし問題は、その束の全体の意匠である。葉を(理想としては)一枚一枚綺麗に拭き取り、虫喰い部分はハサミで綺麗に外形を整え、一本一本を選び、重ねる順番を、ああでもないこうでもないと苦慮しながら、全体として美しい榊の束を目指す。しかし、榊は毎回、当たり前の話、一本たりとも同じものはないから、延々と出来映えが一定しない。。神棚に据えて、引き下がって見ると、右と左のアンバランスが必ず露呈する。両翼とも良くできたと思える日は皆無、毎回、榊とのイタチごっこである。おそらくは完全へ向かおうとする人間の精神が神前で試されている。
先日、新築の地鎮祭時に、笹竹の結界に結ばれていた榊に目を疑った。見事なバランスのすばらしい榊の束であった。榊の素性も信じられないぐらいにいい。思わず神主さんに声をかけた。「すばらしい榊ですね、どこの榊ですか?」
すると、2秒ぐらい間が空いてから、「これはツクリモノなんです。毎回本物を使うと、そこらじゅうの山がはげ山になっちゃいますから。」もう一度、別の意味で目を疑った。なるほど、常緑樹の榊の、あの光沢のある単調な緑はビニールで再現しやすいのだ。それにしても、ニセモノと解らない。
結果としては美しい榊に出逢うことはできたが、厳密には、そのモノにはなんの意味もない。どんなに求めても完全にはならない「はがゆさ」とそれゆえの没入感というか、ある種の楽しみ、がつくりだす妙味もない。完全へ向かおうとする人間の手は、これからどんなところで、息づいていけるだろうか。

 

 

10/08/15 第98(日)時代劇という今

今日も龍馬傳に泣いた。

今日の龍馬は武器の購入に精を出した。それ自体は、聖人の振る舞いでもなんでもないが、そこに私利私欲から程遠い、利他の精神があった。

もちろん、そういう清き精神が、常にその後永遠に、そして万人の幸せに繋がるとは限らないが、本当の意味で矛盾を産み出すことなく世の中のタメ(=全ての人のため)になろうというなら、神様になるしか、ない。人間がやっていることなのだからそこまで見通すことはできないのだ、と応えるしかないだろう。
話はずれて、なるほどなと思ったのは、龍馬がやったことは、語学力でも、軍艦などの専門的な知識によってでもなく、日本の国を守りたいという、最上位、もしくは最根底の意志を貫いた、ということ。あとは亀山社中のそれぞれの能力がある意味分担した。龍馬自らは、トーマスグラバーという言葉の通じぬ腹黒の初動を促すきわどいコミュニケーションを果たした。どう転ぶかわからないきわどい分かれ道に無私であることが大きく働く。ここが泣き所のツボに他ならなかった。そしてこの体たらくの身体へ染み渡る。あるべき方向への初動を得る、こうなるように自分を雑巾のように絞り上げて、汚れた床に用いることは実に難しい。私利を捨てることが、いかに人の心を動かすか、志ある多くが知ってはいることであるが、それをほんとうに遂行できる者は僅かである。(政治家などはそうあってもらいたいものであるが。)龍馬傳はいわば、誰でもはできないそこをのみ一貫して描き出すために在ると思い込んで観てもいいのではないか。

もひとつ、長崎の芸子お元の一言「この国から逃げ出したい。」龍馬は自らの志しに油を注がれるように、社会の片鱗のその悲痛に反応する。この言葉は、百数十年前の当時の庶民が叫んだことであって、今の私たちに無縁な心と言えるかどうか。戦後に構築してきた豊かな日本はこの先も、「豊かな国」と言い続けられるだろうか。龍馬がそうであったように、何時の時代にも「鋭敏な感性」だけが、当たり前にあるはずの国とか大地とか空の存在危機に警鐘を鳴らす。

龍馬傳は、篤姫に比べて、人気が乏しい、その一理に龍馬傳は男の物語だとかいう話もちらほら。(経済もチャンネルも女性意見が握っているからとか・・)しかし誰にどれくらい支持されるかというマーケティングのようなものはこの際、棚上げておいて、何が今必要か?たかがテレビドラマとはいえ結局それが主題である。「私利のない鋭敏な感性」といえば事足りるとは思わないが、どちらにせよ龍馬さんはここでも、神格化される一途である。

 

10/08/08 第97(日)カーデザイン

今週半ば、カーデザイナーに出会う幸運があった。現在はトヨタのアメリカにある子会社に勤めるH氏。建築が構造や設備、サッシなどの専門のデザイナーが関わるのと同じように、車も無数の専門領域から構成されていて、やはり建築と同じように、意匠設計者が全体総括者的な役回りを行う。車は、建築よりずっと小さいが、ずっと多くの専門職を要するようである。エンジン、駆動、内装、音響、電装、その他・・。
H氏はトヨタの3台目プリウスの意匠デザイナー(そう言う言い方をするのかどうか?)であった。興味深い話の数々が、その夜の韓国鍋上空を占領した。
・車は、世界中に売ろうとすればするほど、大変になる。というか、平均化する。国の数だけ法律があるから、全部を満たしていかなくてはならない。→建築はそういう意味では逆で、その国や地域の法律にだけ従えばよい。
・CMなどで出てくるモデリング(発砲スチロールの芯に工業用粘土)は、車のデザインには必須のもの。あれで社内の検討がなされる。車はスケールが重要で原寸でなければ、評価できないとのこと。→建築もスケールは同様に重要だが、計画全体を原寸で検討できる状況などありえない。
・プリウスは軽量化を目指すために、ボンネットとバックドアにアルミのプレス材を用いている。アルミはプレスしたときにカタチが元の方向へ戻る性質があるので、その戻りを考慮して工場を回す。だから工場からは非常に嫌われる。(2台目プリウス?の時は)工場内で精度が確立されず、出荷直前まで、バックドアのかみ合わせから漏水していたとのこと。→建築にもおなじみのアルミは基本、押し出し成形材なので、むしろあらゆる他の素材より精度がいいとされている。
・プリウスのツーリングセレクション(オプション仕様の一つ)には、電池消耗を減らすためフロントライトにLEDが用いられている。これはレクサスに続き世界で2番目に採用された事例とのこと。
・最近丸っこいカタチの車が多いがこれは、なぜかというと、一つはコンピューターで描いた図面がそのまま工作ロボットに連動するCADCAMのシステムが確立し、造形の自由度が増したことによることと、そういう曲面のデザインが大衆に受けがいいからということ。→技術が先か流行が先か?これは建築にも似たようなことが言える。
・日本やアメリカでは、中級クラス価格帯のプリウスは、ヨーロッパでは、ほとんど高級車並みだという。(3万ユーロか4万ユーロか忘れたが)その理由は単純に、日本で生産したものを運ぶと結局そういうコストになるとのこと。インドでは関税の問題で500万円以上するとか。

建築従事者にとっては、似ているようで微妙に異なるモノづくりの事情が連発した。が、殊、空気抵抗の話はさらに愉しい耳学問だった。

空気抵抗係数=CD値、いうまでもなく走行時の空気抵抗がいかに少ないカタチであるかの値。これに正面の投影面積A平米を乗算して、車体の空気抵抗が求められる。どんなにCD値を低く抑えたカタチであっても、車内の空間を大きく取れば結果の抵抗は大きくなるし、逆に車高をペシャンコにして投影面積を小さくしてもCD値が大きくては、結果の抵抗は小さくならない。例えば僕たちの子供時代にたくさんプラモデルとして眺めたランボルギーニカウンタック。いわゆるペシャンコの類のフォルムで、いかにも風を切りながら走る美しいフォルムで、プラモで見ていたあのカタチの実物を見た時には、身震いするほど感動したものだ。ところがこの車のCD値は0.44、今最も優秀なのがBMWの0.22などと比較すると、空気抵抗の小さいというイメージのペシャンコフォルムは、実は見かけ倒しであったことが解る。「抵抗がなさそう」というのと、本当に「抵抗がない」というのの間には、溝がある。抵抗がなさそうな全体であっても、空気は微細なところに抵抗をつくる。つまり、全体がよくてもディテイールにその概念が及んでいないと、全体がパーになるのである。
さらに特記すべきは、カウンタック(日本でしか通じない発音らしい→「クンタッシュ」の方が近い)が最初に発売された70年代から、ずいぶんと自動車における流体力学の解析技術が進んだ中で、コンピューターは思いの外サブ的で、現在でも基本は原寸モデルによる風洞実験を頼りにするとのこと。ここが、建築がうらやましいところかもしれない。建築はコンピューターのおかげで随分と構造解析技術を高め、巨大で、アクロバティックな自由造形を可能にしてきたが、原寸全体は実験でなく本番となってしまう。悲しいかな建築は、地震や台風などの天災を経験することによって、技術を発展させてきたところがある。

2代目プリウスのCD値は0.25、3代目プリウスのCD値0.24、0.01の前進の中身には計り知れない工夫が込められている。しかし、単に、流体力学の理想の一本道をつきとめたという一元的な作業ではなかった。ルーフと呼ばれる車の最も背の高い所を車長に対して何処に持って行くかで、CD値は動く。2代目はほぼ長さの中央でこれが流体力学の理想、CD値のマイナスを産み出すことができる。ところが3代目はそれを後ろへ後退させた。なんとなく速そうなイメージになるが、逆に抵抗は大きくなりCD値はプラスになってしまう。それを承知で採用し、その代わりその他の小さなところの工夫を必死になって集積し、合計すると結果的には2代目より値を低くすることができた。つまり、3代目はルーフの位置を2代目のように、真ん中あたりにすれば、さらにCD値は稼げる余裕を持っている。なぜ、それをしなかったか。単純に意匠の問題であった。中央がこんもりと盛り上がっているより、走る車は真ん中より少し後ろが盛り上がっているほうが、「かっこう」が良い。美しい車体に共通した、原理のようなものである。
1?3代目のステップアップと共に28km、35.5km、38kmと燃費の向上は確かにあった。日本ではその間、エコカー減税などの税制的優遇も進んだ。しかしこれだけで3代目の他に比較のならぬ世界ヒットを片づけることは誰も考えないだろう。燃費を何より重視しようとしたハイブリッドカーのカタチに、それと食い合う別の原理が奏功していた。思いの外人の興味はカタチに左右されていた。ハイブリッドカーという、機械的スペックによって世界中に販売されるモノのデザインの中にでさえ、美学的な原理が一定の幅を持っていることに、やはりというか、そこに人間というものの一筋縄ではないところの面白さを感じることができた。

 

10/07/18 第96(日)家型のいえ

デザイン界の巷で、ずいぶんと家型が普及してきた。子供が描くような勾配屋根をもったアレ。日本の家は昔から軒が出ているが、マンガ風に書けば、なぜかホームベースをひっくり返したような一筆書きのソレになる。陸屋根の一部の地域を除けば、この家型は万国共通のものなのだろうか。
だれでも知っているはずの、陳腐さに新たな新鮮味を再発見する。思えば、20世紀に入り、バウハウス住宅に始まり、家は無装飾のフラットルーフのでいい、と変転していった。それが、住宅デザインの現代型として世界を一巡し、そして、再び元の家型に戻って再度凱旋している。およそ一世紀に満たないその間、家は変わらず今も昔も勾配があるだろう、とはいささか呑気な意見で、この業界の先端部分は振り子のように、こっちに触れては、その反動で、反対のこっちに触れ戻るという運動を続けている。
前近代に見ていた家型の家と、現代デザインとして再発見される家型はしかし、当たり前の話、同じではない。前者は単純に、自然発生的で、慣習的なもの。今のそれには、やはり現代感覚に根ざした意図のようなものがある。バウハウス以降のフラットルーフは、例えば家の持っていた家らしさを良くも悪くも薄めた。それまでは、こういう建物はこういうカタチをしているはずだ、という社会的なコンセンサス、予定調和があった。が、フラットルーフ(に代表されるモダンデザイン)は図書館にでも、庁舎にでも、もしくは教会にも、ガソリンスタンドにも同一のカタチが適用されうるようになった。カタチはビルディングタイプに従わなくなった。そうして、もはやカタチは中身を表さない、そういう「カタチ」が氾濫してしまったあげくの果て、私たちは率直にそれとわかる「家らしき」カタチに、却って新鮮味を覚えるようになった。だが、家のカタチをしていれば、それでいいわけでもない。それならば、倉庫街にあるスレート葺きの切妻屋根の倉庫に心酔しなければならない。メーカーや工務店が作る今現時点で建っている家々を眺めつづけることができるはずである。私たちが家型の現在形として頷くもう一つのエッセンスは、そこに同時にフィクションを感じた時にではないだろうか。町並みとして、歴史として見てきたリアルなカタチにではなく、どこかに虚構を孕んだ家型に反応している。ヘンゼルとグレーテルに出てくるお菓子の家など、その他おとぎ話やマンガの中で表現される、想像上の家。もしくは、山々等の自然風景の縮図であると感じてもいい。あるいは森の木々の内側に仮想される空間を当てはめてもいい。今に再現される家型には、「家らしさ」という現実との親和性を保ちつつ、自然を抽象的に捉えるときの想像性や、絵本の中から飛び出してきたような空想性も込められる。人間はやはり見れないものを思い描くことを楽しみ、相反するものを抱きかかえる矛盾を案外心地良いと思う生き物なのだろう。決してリバイバルなどではない、そして、未来形だと銘打っているようなものでもない。たぶんここには現実と空想の双方を同時に楽しむ人間の現在がある。建築の面白いところなのだろう。

 

10/06/6 第95(日)賃貸というマジョリティー

諸処の縁により、賃貸物件である中古マンションの再生、というか空室対策に関わってきた。その後10年が経った。先日、突然電話があり、取材を受けることになったその相手は週間全国賃貸住宅新聞。業界新聞とは数限りなくあるものだと知ってはいたが、賃貸の住宅と絞ったものの存在に改めて驚いた。かつて月間左官教室というマイナー雑誌に縁があったが、こんどは、こちらのニッチへ導かれる。外から見ると全ての建築は不動産に他ならないが、内々にいると、不動産の世界と建築の世界は、二重構造的にすれ違っている。不動産の世界における建物=物件は、お金を生む価値として建物を見る。「建築」という時は、建物とか物件と言う時とは一線を画くし、お金を生むかどうかというより、作品性の有無の方を重要視する。前者が経済的な価値、後者は文化的な価値、ということになるだろうか。自分はあくまで建築の畑で育てられた。だから、経済的な効果だけで建築を紐解くことに、慣れない。人類が教会や寺院に建築的発展を注いできた歴史とは無縁ではいられない。だが、そうはいっても経済を無視しては、基礎の下の杭一本も建てることができないのが、この資本主義の掟である。賃貸の世界、もしくはマンション(英語で豪邸の意/集合住宅の意味はない)のことを勉強せねば、中古マンションの再生など、関わりつづけることはできないだろう。全国賃貸住宅新聞は、そのような無知な建築坊やに勉学の機会を与えてくれた。今年の賃貸住宅フェアでは、我が事務所より数段も大きく業界をにぎわせる業界人達のセミナーを聴いてみた。いわずもがな、当事務所のささやかな活動との隔たりの大きさだけが、明らかとなる。自分の社会における立ち位置のようなものが少しわかる。彼らは、事業者、経営者。手前は相対的に、無邪気な、という意味での芸術家?前者はいいかえれば、量的な質を社会へ提供する。後者は、稀少性という少量を提供しようとする。
中古賃貸の空室率は、残念ながら年々大きくなるばかりで、福岡では全国平均より高く、20%近くだと聞く。なのになぜ新築マンションが建ち続けるのか、という課題はさておき、とにかく増え続ける空室を減らそうと、いわゆる空室対策のリノベーションが、全国各地で様々なやりかたで行われている。全国賃貸住宅新聞は、毎週、それらの事例を逐一報告してくれる。新聞記事、セミナーを受けても思ったのだが、たくさんある「空室対策リノベ」のうち、手法として、色彩計画が多用されている。供給サイドとしての理由は簡単で、色をたくさん使っても費用は変わらないからである。(かつて、ショッピングセンターの革命児、ジョンジャーディーが繰り広げた、色とりどりの巨大空間も同様の理由による。→2009/03/01 第65(日)カラーサンプル外観)その改装事例を見ると、柱や床がマッカッカの部屋など、もはやインテリアの色彩計画というより、ポスターなどの紙媒体のデザインに近いものもある。そして、驚くべきは、そういうマッカッカの部屋が一番人気であるという。学生や若い社会人などは入居期間が短いということで、借りるだけなのだからちょっと冒険してもいいだろう、などという動機が聞こえてきそうではあるが、それにしても、である。店舗ではなく住居である、「建築」の世界の人間からすると正直、理解不能。だが、そういう老婆心とはよそに、ちまたでは、それらが大人気なのである。味覚の退行が起こっているのではないか(10/01/10 第85(日))と書き殴ったことがあったが、これはもはや他人事ではない。同時に、力が抜けた。我が事務所のなりたての所員でさえ、同様に力を落としていた。
経済原理によって導かれる賃貸、つまりマジョリティーと、建築の基本的な理想がまったくかみ合っていないのかもしれない。いや、まったくではないと思いたい。量的なものであると思いたい。比率としては僅かであるが、賃貸というマジョリティーの世界に、それらが芽吹く隙間はあると思うしかない。「建築」は決してマジョリティーの役にたつことができない、そういう落胆はもう少し先回しにしておこう。

 

 

10/05/30 第94(日)だれもがクライアント
名島の展望台計画が見直された。
経緯は、昨年の今頃に始まった4回の検討委員会により、元のコンクリート展望台のあり方を今一度再考し、保留になった、というより行き場を失った経常予算をどのように用いるか、使途を導きださねばならないというものであった。その後の2回は時間が合わずに欠席したが、結局今年に入り3月の新聞発表で、結果を知る。4.7mの木造展望台に変更、とのこと。地元の人々のたっての願いである「展望台」計画が存続するカタチとなったようだ。電子文字でいろいろと言っても全ては犬の遠吠えと化す。この一件からなにを学ぶべきか、それだけを記すとしたら、なんと書こう。
私はその見直し検討委員会の1、2回を傍聴席で眺めた。役所側の意見、地元の意見、専門家の意見が当然そこにあった。結果は大人の解決であることが一番に尊重された。そもそも最初の答えが過ちを犯したものだから、その過ちを是正し、減点を少なくするのが関の山であった。あの場所を注視し、更地から考え直すという意見は、結局は当初計画の当事者たちによって遠ざけられ、なおかつ後で起こった全ての意見を無視しない、いわば無難な妥協点に落ち着いた。ここでは、より深く関わる当事者の都合が強者で、本来的にどうあるべきかという真に純粋な立場を含む外野は弱者であった。そういう強者弱者の関係は、建築の保存の時にも同様の構図となるので、決して珍しいことではないのだが。
名島の問題は保存という「壊してはならない」とは逆に、「建ててはならない」の理想があることを示した。解ってはいたことであるが、建築はその基本的なあり方を間違うと、大変大きな間違いになるということを、こういう関わりに触れたことによって、実感することになった。そして、建築は、(そういうつもりでなくとも)だれもがクライアントになれることの恐ろしさをも考えるようになった。名島の過ちは、言ってしまえば、建築的教養の枠外から発生した。これは名島に限らず普通に起こっていることである。昨日までの門外漢が、「私はこの地域の住人である」「私は職務上この公共建築を発注する立場にある」といって事実上クライアントになる。だから、建築の研究者や職能者が豊かな教養を社会に蓄えていても、市井に建つ建築サイトの節々で、そうでないところの部分が萌芽する。教養とか文化とか、高邁に聞こえる言葉が耳障りならば、それは、自分の住まい以外の建築を観ることに深い愉しみを見いだせるか否か、あるいは、中学校の歴史で学ぶ日本の名建築を実見して感動出来るか否か、と置き換えてもいいだろう。
一般教養としての建築教育を考えていかねばなるまい。独立した建築家になるための教育を知らぬ間に享受してきた自分は、自らが育てられたのと同じように学生に接していた。つまり、設計者になることを教育の唯一の成果として臨んでいた。だが、建築教育は人間の生活に欠くべき一般教養として、まず、腰を据えるべきものではないか。□△商社に就いた〇×君はもう学んだ建築知識を活かすことが出来ない、というのは大間違いで、もしかしたら、直接的にではなくとも間接的にクライアントになることがあるかもしれない。いや、持ち家であるとか借家であるとかの別を超えて、彼は建築を用いて将来生活をするのである。そう考えると建築の伝え方も変わってくる。よく言われていることだが、建築は、国語算数理科社会に並ぶ一般教養だ、と仲間内では言われる。だから小学校から習わねばならぬとは、にわかに断言し難いが、そのようなことでもないと、建築は歴史、風土、文化、の類の退行を助長するものになりかねないシロモノなのだと思う。

 

 

10/05/16 第93(日)パワースポット

いつごろからかわからないが、聖地の類がパワースポットと呼ばれるようになった。聖地、と断言すると、例えば宗教となんとなく結びついたりして他者と会話を共有しにくくなるが、POWERSPOTと言えば、仕事に疲れたおじさんが生ビールを補給する赤提灯のような気軽な雰囲気となって、なんとなく受け入れやすくなる。おそらくこれは神という存在をSOMETHING-GREATと言いかえるとリベラルに聞こえる、のと似ている。
はやっているからではないが、気になるパワースポットに脚を運んだ。熊本の幣立神宮。九大のK先生から聞いたのが最初だったが、その後もいろんな業種の人から異口同音にこの神社の存在を聞かされ、行かずにはおれなくなった。あの有名人H氏が時々に訪れるとか、日本中からここを訪れる人が絶えないとかなんとか。出向いた時がゴールデンウィークであったからでもあるが、およそこの慎ましい神社の規模に対して不自然なほどに、参拝客が訪れていた。社殿そのものは、おそらく見るからに江戸時代のもので、スケールもこじんまりしていて、正直見応えのある建築とは言えない。そのかわりに、神域としての清らかさは、凡人の我が身にも伝わってきた。大正天皇植樹とか皇太子植樹とか、基本的に天皇、宮内庁関連、つまり我が日本国民にとっての宗廟たる内実をもっているようであった。伊勢神宮が何人にとってもそうであるのと同じように、明らかにここはただならぬ場所である。そういえば、この神域の前の国道を登れば国生みの聖地、高千穂峡に繋がっている。
パワースポットと呼ばれているものの場所的概念と、建築で議論される場所とは、重ならない部分の方が大きいと思った。なぜなら、幣立神宮の魅力は、ほとんど全くといって良いほど、建築ではなく場所そのものの価値に因っているからだ。場所が人々を魅了するには建築は要らない、ということを証してしまっている。建築にとっては場所を要するわけで、場所とどのような関係を持つかが、作者にとっての宿命となる。彼が読み取ることのできる場所は、言葉や数字に置き換えられる。気候や地形、歴史その他、建築は場所の文脈の上で構想される。そうしたあげくに建築はできれば場所へ還元したいと願う。ところが、パワースポットは、そういう建築を飛び越えて、直接的に人々を魅了する。文脈など関係がない。なんとなく心地良い、とか清々しい、気分がすっきりした、という感覚の覚えが、より大きく、そしてより多くの人々に共通して起こる、ただそれだけの場所である。
もちろん、優れた建築というものにも、難しい話抜きに、上記のような感覚の覚えはある。例えば、わかりやすいところで、ガウディーのサグラダファミリア。すこしマニアックには奈良の元興寺や新薬師寺の内部。他にあるかもしれない。だがそういう建築は、建築そのものが場所化しているようなものである。場所があって、それに即応した建築がある、というより、建築が、もはや理屈っぽい存在を通り過ぎて、場所化しているのである。建築がそうなって始めて、人々を引き寄せるパワースポットの概念と均衡し、重なり始める。もしくは場所と建築が、本当の意味で手を結び、数段上等な場所をつくる。T和尚とそのあたりの話をしていて、大分、国東の富貴寺はおそらくそうだろう、という話になった。個人的には、山陰の三仏寺投入堂などもそうではないか、と思う。いかんせんT和尚と私の共有できる建築体験が少なかったから、とりあえず事例としてはそんなところだったが。
場所に備わる、理屈では感得出来ないなにかと建築の双方による魅力をもった場所。歴史を築きたくても築けない現代建築がそういう場所を作りうるのかどうか、そこが、今を生きる作者にとっての厳しい問いとなる。

 

10/04/25 第92(日)自然好き大画面という窓

1000万円代の一戸建てがいろんなところで、売られている。2000万円に近い1000万円であれば、まだ驚きはしないが、1000万円に近くなるに従って、そのカラクリを見る目の真剣度が増す。それぞれはそれぞれなりの工夫を行っている。単純に延床面積が小さい、などから始まり、プランの融通性をなくして設計過程を合理化したり、幅木や回り縁などの見切り部材などの細部徹底的に省略したり、もしくは単純に基礎代金とか電気工事代金とかエアコンが含まれないなどの、価格表示上のトリックであったりと、とにかく様々な工夫の積み重ねにより、その価格は提示されている。その中でちょっと気になる傾向がある。外壁を潔く閉ざしたものだ。それらの(いわゆる)コンセプトによると、マンションで育った人は必ずしも、庭に開いた空間を必要とせず、むしろマンションに匹敵する防犯性を得るべく、一戸建てであっても外周を人間の進入から閉ざすような開口計画の方が好まれるはずだというもの。人間が入れぬ細いサッシだけが壁に穿ってあり、足りない光量は天窓から補うなどが成されている。風土論(和辻哲郎/昭和2年)などにも出てくる、敷地外周の塀こそが内外の境界であるという日本家屋の通念は、もはや過去の形跡にすぎず、あくまでも建物の外壁が名実ともに家の内外の境界という、ある意味わかりやすい欧米型の様相となっている。集住生活から逃避して戸建てを求めるその目的は、もはや水平方向へ庭や地面を求めるものではなく、その代わりに、垂直方向、つまり音や熱の合理性を求めて地下、もしくは、絶対に他人に侵されることのない空へ向かうことへ、なんとなく繋がっている。
犯罪過密都市とその近郊に一戸建てを目論む以上、水平に開きたくないというのは必然であるかもしれない。これをこんつめていくならば、例えば安藤忠雄氏の「住吉の長屋」になるという想像はどうか。青天の中庭のみを通して外へ開く戸建てが街のスタンダードになったりすると、灼熱や砂埃をガードしてきた中近東の家々のような町並みなども想像に加わり、面白かろうとも想像をする。が、もちろんあのような鋭敏さはスタンダードにはなりえない。そこに問題があるかもしれない。そこまで行き着いていない、地中とも天空ともさして結びつくことなく、水平へも開かずに只只、内向的な空間。長屋が持っていた健全さ、集まって住まうことの豊かさ、地面に単立していることを愉しむ感性、そのどれでもないモノものがおそらく量産されようとしている。売り手は売れるか売れないかだけを頼りにしてものをつくる。それに買い手が応える。家は、インターネットや地デジで繋がっているから世界へと開いてるのだという。春雨や夏の新緑、秋の満月や、冬の寒空は大画面の液晶越しでいいという。仮想に陥ることなく、いかに現実から離れない生活のデザインをするかは、作り手、供給者によってではなく、お金を払う人(生活者)一人一人の思量に依っているかもしれない。

 

10/04/4 第91(日)自然好き

「私たちは本当に自然が好きか?」という題名の本をたまたま、図書館の一般書コーナーで見つけた。本当に好きか?とまじまじと言われると、自信が亡くなってしまうそのはがゆさでもって、その本を手に取った。そういえば、建築と自然、というか植物との関係は、どこまででも歴史を遡ることができるし、一方では、先端的なデザインのあれこれにも植物との関係に挑んだ作品が話題になっている。それが先導してというわけでもないが、いわば植物趣味というか、巷ではちょっとした流行の感じでさえある。庭木と建築、とか、室内にプランター、などという古典的な植物と建築のありかたはもちろんではあるが、最近のものは、ありとあらゆる手法で、住宅、店舗、公共空間問わず、植物が飾られていて、目を見張るものがある。まるで絵画のように、植物で構成された壁画のようなものとか、小さなガラスの箱に閉じ込められた携帯植物だったり、空気中の水分で生き延び続ける宙づりの葉っぱとか、わずか数センチの繊維を床にした屋上緑化マットとか、つまり、それらの植物は土に根ざした固定的イメージからなんとも自由に離脱している。もはや植えられている、というより「飾られている」というニュアンスの方が近い。
学生の課題でも、こういう流行を敏感に捉えたものが少なくない。場合によっては、植物を組こむことが提案の力点だということが手法化している。雑誌で見知っている話題の作品をどこかで頭に描きながら、か細く繊細な植物が慎ましく収まった、ガラスの透明建築。植物は、決して自然の猛々しさを表すものではなく、建築も威厳とか、重厚さを世に知らしめるものではない。ガラスと細い鉄骨のフレームによる透明で繊細な建築は共に同列に置かれ、共に環境に慎ましくあろうという雰囲気である。建築(人間)が自然を制覇しようとしてきた表現や、建築(権威)が人々を統括しようという表現との潔い決別が、現代的な心地よさであるし、だから目に優しい。だがそういう建築と植物の(視覚的な)同化の面白さの一方、ある意味冷めた見方からすると、ガラスボックスに綺麗に納められた植物は、「どこかしら」かわいそう、という感覚が芽生えなくもない。そんなことを言うのなら、鉢植えの植物はみなかわいそうではないか、という微妙な話でもある。
「私たちは本当に自然が好きか?」という書では、こんなふうであった。「庭を造ることや、所有し鑑賞することがそのまま自然好きではない、趣味化、愛玩化した花卉盆栽園芸も日本の文化ではあるが、自然好きに直結はしない。」「この本来自然そのもののような日本人が、一方で「みどり」好きではないという一見矛盾するような状態こそここで問題にしたい・・」と厳しい自然観を呈示している。自然を愛玩することと、自然が好きであることは違うのだ、というためにこの書は多岐に渡る事例を引き出している。では、本当の自然好きとはどういうものかということになるのだが、ここでは、「自然の中に住んで、自然と応答すること、観察心に目覚めること、自然をかけがえのないものと考えて接すること」だと言っている。環境倫理の父といわれたアルド・レオポルド(1887-1948)は、ウィスコンシン郊外の農場や森林、草原での動植物の観察を愉しんだ。環境保護運動の先駆者と言われるヘンリーデビッドソロー(1817-62)はウォールデン湖ほとりでの2年半の自給自足生活を愉しんだ。彼らの行動と精神が再び掘り起こされている。一方、この文章を書いている窓辺から見える鉢植えの植物は、何事もないかのように、春風になびいている。
自然を愛玩するということと、それを制御し恩恵を引き出す精神とは諸刃の剣であって、同根である。愛犬を去勢することのようなものである。愛玩の中には、人間が自らの都合に合わせるための残酷さを備えている。この基本的精神は環境破壊を招いたそれとも同じだといえる。といっても、花卉盆栽をやってはいけないとか、ガラスケース樹木建築が即いけないと捉えると、これもまたせっかくの読書を無駄にしてしまう。手つかずの原生自然を信奉し、人間の干渉を排除していくという発想もやはりアンバランスである。これは自然を大事にしているのか、征服しているのかというシラミつぶしの分別もまた目的そのものではないはずだ。ただ、愛玩ではやはり不十分なのである。花卉盆栽やガラスケース樹木というだけでは、自然と人間の関係問題を良い方向へ導くことはできない。レオポルドやソローの態度は、にわかに見習いにくいかも知れないが、環境破壊の精神構造とは対局にある、これは知っておく必要があるだろう。ほんとうの意味で自然が好きだという態度は、利を引きだそうとする観察者ではなく、素朴な観察者、禁欲的な観察者のことを指している。愛玩よりも、敬愛とか、畏敬という意味が含まれるかもしれない。そして禁欲的であってもなおかつ、そこに深い愉しみを見いだすことのできる悟性を伴っている。私たちは禁欲的な観察ではとかく退屈なものである。ゆえに科学という改良手段によって利を求め、退屈を乗り越えてきた。これからは科学とはもう一方の叡智、悟性が自然を愉むことをまずは知っておいてよいもかもしれない。また、建築デザインにおいては、自然と人工の対比の中に互いが共生する視覚的美、機能美を探求してきた。だが、それらの美を超えねば、環境は存続しないのだということも、私たちは知っておかねばならないかもしれない。

 

10/03/21 第90(日)道草のデザイナー

おととい、改修工事の現場で、左官工事を行った。行ったというのは、事務所のスタッフとでにわか職人となって鏝を握り、壁に塗った意味。請け負った、と書きたいところだが、まだまだ、職人としてはお金を貰う勇気がなく、現場は高校の同級生宅ということもあり、竣工祝いとして無償で行った。一般にはどういう竣工祝いをするのか、同業者で話したことはないが、例えば施工者などが、傘立てとか、スタンドとか、蘭とか、いろいろ候補ある中、私たちは「塗り壁」をプレゼントした。だれでもは出来ない粋なプレゼントだろうと自己満足がないでもないが、内実はなかなかである。職人はダテやスイキョウで職人ではなく、毎日職人ができるから職人なわけであるが、我々は突然その日、職人をやってみるわけで、翌日以降は筋肉痛と闘う役立たずに転じる。
それはともかく、その日始めて鏝をもったという若い一人を除き、その他古株はいつの間にか、少し左官仕事ができるようになってきたと見受けた。設計者でありながらその日は職人になるというスタイルは、ごく普通に考えれば、道草する学生のように見られるかもしれない。近視眼的には、設計業務に支障する余計な行為であるかもしれない。だが、そういうふうには考えないことにしている。むしろ、ものづくりとして極めて自然な行動であると開き直っている。ものづくりに関わっていれば、買ってきたものを貼り付けるだけでは済まなくなり、となれば、モノの物性を知らずしてそれは構想できないとなり、終いには、自らの手でそれを触れずには居られなくなる。至極自然な成り行きである。かつて日本の大工棟梁はデザイナーと職人を併せ持っていたということだが、そういう風習のようなものよりもっと初源的な欲求に近い。また、その大工棟梁が我々の社会からいよいよ消えていったころ、70年代にクリストファーアレグザンダーが「アーキテクトビルダー」という、施工に直接関与する建築家のスタイルを提唱したが、こういう理想論とも同じようで違う。自分自身を問いただしてみても、先例のイメージや理想論に従っているというのではなく、率直なモノへの好奇心から起こる行動であり、只、愉しいからやっているという節がある。
最近、ただ愉しいと思ってやっていることをもう少し社会的なものにすべきではないかとも考えるようになった。きちんと業務として、報酬付きの職人デザイナーを目指してはどうかと。設計者サービスや、竣工祝いなどと言わずいま一歩。もちろん、本物の職人との棲み分けを捉えた上でである。毎日が職人という職能に、にわか職人が勝てないことを土台としていなければ単なる愚者である。だから、できることを限定し、その仕事については、本物の職人では出来ない魅力を持っていなければならないだろう。そうして、結果的に、やはり、建築づくりを通した、モノとの距離を狭めた設計者像が浮かび上がる。モノとデザイナーの間に距離があるデザインではなく、そこに距離がないデザインというものとはどんなものだろう。具体的にどういうものかと聞かれても、ここのところは文字化できない。おそらく重要なのは、モノが対象化されないデザイナーの状態であり、結果は導き出されたものである。例えば使う素材などは、今ここで相応しいものとして断定できるものではなく、デザイナーの好き嫌いに因っていて良いし、同じ人間でもその興味は歳と共に変転するかもしれない。作風などは、人によってその顕れは異なるだろうし、机の上で問題にすることではない。匂いがするかしないか、そういうことはどちらでも良くて、結果から先に構想されるものではない。必要なのは、あくまでもそれとの距離。自分の手で触っているか、どこまで深くそれとじゃれているかどうかだけ、ものをつくるとは本来そうであった、という初源が現代に芽吹けばいい。

 

 

 

 

 

 

2010/03/07 第90(日)インテリアに宿るもの
昨日は、日本を代表するインテリアデザイナー、杉本貴志氏の講演会に脚を運んだ。toto出版より事前に、たくさんの人に来て貰えるように声かけして欲しいの依頼があった。最初は50名どうのこうのと言われていたので、それくらいなら簡単に集まるでしょうと軽く受け答えをしていた。ところがその後届いたチラシには会場637名定員とある。やはり定員に近い人間の数がないと、こういう場というのは、実に寂しい。(かつて800名定員の空間に100名程度が散らばったシンポジウム関わったことがある)桜として、事務所総動員、遠方から友人、近場から身内をも動員して会場に臨んだ。しかし蓋を開けてみると、ほぼ満員である。テレビでおなじみの誰それとか、ビーズコンサート、みたいなポピュラーな催しはその範疇外であるが、建築デザイン系講演者の知名度は基本的に業界の外に拡がりにくく、この類の入場者数は、その地域の教養というか、民度のようなものを露呈してしまう。そんなだから、この満員の状態は、どういう動員があったにせよ、すばらしいことである。
内容もまた味わい深いものであった。インテリアデザイナーの仕事の舞台となる商業空間というのは、短命な現代建築以上に短命な宿命を背負っていて、なかなかものづくりとしての思想の深さが育まれにくいのではないか、などと勝手な思いこみをしていたのだが、殊、杉本氏に限って言うなら、その恥ずべき先入観は撤回されなければならない。無印良品の店や、アジアを中心とするハイアットホテルを手がけながら、人間の文化に対して思慮し続けてきた氏の内的葛藤に敬意を表しなければならない。生半可な建築家よりはよほど、哲学的な仕事だと受け止めた。
幸か不幸か、この講演会のレポートを兼ねた杉本作品集の書評を書かなくてはならない。東京の無印や、ハイアットホテルなどは一応見知ってはいるが、それだけで書評なぞ書いていいものか疑問に思った。福岡の人工島にあるアイランドタワーというお上りさんなマンションの供用部分にデザインされた氏の茶室を尋ねようと問い合わせたが、管理会社から拝観不可の門前払い。出版社~杉本氏を経由してその門前を突破することも考えたが、もっと興味深い作品が鹿児島にあることが解り、そちらへあっさり気分を持って行かれた。全国的にも、ものすごく有名だという温泉、妙見石原荘。築70年の米倉石蔵を移築し、内部をレストランや客室としてコンバージョンされているという。その他全体計画を2008年に4億をかけて改装されたという。平日に温泉に浸かるなど呑気かと思ったが、九州内とはいえ遠路、そして杉本作品が偶々温泉であったと、都合のいい解釈をし、そこに一晩泊まる計画。杉本氏が手がけた露天風呂つきの客室は平日なのに5万円/泊/人とあり、詐欺でも働かない限り手が届かない。最安の部屋を起点に、館内を眼球の底にすりつけるように見回る明日の我が姿を想像する。まるで建築学生。原稿料は、貰う前に炭酸泉の泡と化す。

 

 

 

 

 

2010/02/14 第89(日)「固執」と「確信」

言葉の意味は、時代と共に変化する。最近知ったのは、「差別」(サベツ)と元仏教語の「差別」「シャベツ」。「シャベツ」は相対的に異なる個々を双方とも分け隔て無く受け入れることをいうのだそうだ。今日に言う差別(サベツ)は平等とは明らかに対義語であり、大事にされる部類と大事にされない部類とを分別し、両者に優劣を付ける意である。かつて両語が同義語であったころとはまるで反対の意味である。
耳に入る言葉で、なんとなくいつも引っかかってしまう言葉がある。「こだわり」の語。テレビや雑誌では、匠がこだわったとか、賢人がこだわったとか、なにか一所懸命にものごとを創り出す姿勢の人やモノに対してほど、「こだわる」が当てはめられる。辞書で引くと、「こだわる」は「拘る」と書く。ちょっとしたことを必要以上に気にする、とか、気持ちがとらわれる、拘泥(こうでい)する、の意である。「拘泥する」などとくると、はたしてこれは賢人の極意を表しているのだろうか?となる。思うに、賢人であればあるほど、産み出す対象に対する固定観念や恣意的な思い入れ、いわゆるこだわりという呪縛のようなものから自由なのではないか。だから、「こだわりの逸品」というのも、おかしい。拘っているようなものはとても逸品などではないわけで、正確には「拘りの境地を脱したがゆえの逸品」であろう。
たしかに、そういう人やモノには、門外漢にとっては些細な、ちょっとしたことへの尋常ならぬ熱意と受け取れる。外から見た傍観者が「こだわっている」と印象を持つのもわからないでもない。しかし、作り手とそのモノの内部にある実況としては「こだわり」とは似て非なる境地であると問いたい。何かにとらわれるというより、突き放して見る、つまり疑いをかける連続なのである。一所懸命であることや、こうでなくてはならないと苦労を重ねてきたことを、「こだわり」という語に託すのは、あまりにも傍観者的である。むしろ、疑い続ける原動力となった「自由」の意を押し当てるべきである。
衣食住、その他クリエイティブだとされる生業は少なくとも、常に「固執」と「確信」のハザマを彷徨っている。創造行為が、固執から産まれると思われがちな報道がどうも多いような気がするが、ここからは誤解が生まれ、すれ違いが増産されるばかりである。拘泥という状態の渦中にいる自らを含む数多の賢人予備軍にとっては「こだわり」の語は決して目標にはならないはずである。そろそろ、創造的であることの本当のあり方が日常語に溢れてくるようになったらいいと思う。これしかない、こうせねばならない、と「確信」するようになるには、その前には、つまらない拘りを捨て、代わりに起こる膨大な疑問を、一つ一つ解いていくという、長旅が必要なはずである。

 

 

 

 

 

10/01/31 第88(日)叱られる環境

母校の授業が終わった。毎週1.5日を費やしていた、ある種の使役もとりあえず、春休みを迎えた。そして、改めて設計製図という授業によって学生を指導していくことの難しさを感じた。週に一度、彼らが頭の中で描いたものの図面や模型を見て、それに良かれというアドバイスを加える。次の週、またその改良を加えられた図面と模型を見ながら、3ヶ月ほどを経て一つの課題が完成される。先生はなにをしたかというと、単純にいってしまえば、言葉を発したにすぎない。その言葉が有ったことによって良い結果を導いた、と言えて始めて先生としての役割を果たすのだが、その成果のところがわかりにくい。予備校のように、志望校に合格したなどという明確な結果が導かれれば別だろうが、殊、建築設計については、当面のその課題がうまくいったかどうかという近視眼で見ることさえできない。学生は様々な意見を同時に聞き取らねばならない混乱状態の中で、十数名の教師が言い放った様々な意見を聞き分けていかなければならないが、一人一人の先生からすれば、学生へメッセージできる言葉の字数たるや、微々たるものである。そこに、メッセージとしての最適解のようなものを包含せねばならない。そういう短いセンテンスを介して、役割を果たさなければ、建築の先生としては意味をなさない。政治家のように声高らかに言い放てば良いというものでもない。それは確かに体裁は保ったかもしれないが、問題は専ら学生に深く長く響き続ける文言をはけたかどうかだ。言い放つこちら側の「含み」が多くなければならない。そして彼らの作ってきたモノを見て、瞬間芸的に即興的にその「含み」を短い言葉に要約し、明確に伝えなければならない。危うい立場である。だからこそ、授業の後、自らの発言を反芻する。発言がうまくいったということはほとんどなく、大抵、心のなかで校正が行われる。文章であれば、このように上手く手直しできるのであるが、あの時の説明は今思えばイビツで不完全であったと、いつももどかしさを覚える。
昨晩は、ちょっとしたアクシデントがあった。三年生最後の課題講評会。同輩の若い先生が、会の最後に放った総評に物議が醸された。それは、授業後の大久保の韓国料理店にまでもちこされた。「ああいう発言はまずい。」i先生が唯一堰を切った。その後、齢40を迎える子持ちの若い先生はあらゆる言葉を用いてこっぴどく叱られた。その間、料理もビールもお預けとなった。口内はキムチで燃えていたが、場は凍った。そういう場はしかし、開き直って言うようであるが、貴重なのかもしれない。場を崩すi先生も好きで崩しているわけではない。製図授業の総括の日、先生方と今日は概ね(学生の)出来がよかったと愉しい場になりつつもあった。だが、講評する側のレベルを維持したい、若い先生をも導きたいということから、そういう苦言を呈せざるおえなかった。ついでに同じ立場の私もしかられた。「君のこの10年間行った勉強量より、私の10年の方がずっとたくさんの勉強としているよ」
殆ど全ての人間は、内にある漠然とした、単純な向上心だけでは、努力の原動力として限りがある。途中、ハッパをかけられる状況、修正されなければならぬ外的な状況に衝突する痛みによって、その都度に気持ちを正し反省しながら、精進を重ねていくものなのかもしれない。ならば、どういう歳になっても、叱られるというのは、貴重である。俗に言う「愛あるムチ」=存在を肯定されるゆえの、否定である。高名な僧侶が歳を取ってから、笛や太鼓などの、彼にとってはどうでもいいとも思われる技芸を始めることによって、自らを叱られる環境に置きつづける。そんな話を思い出した。

 

 

 

 

 

10/01/24 第87(日)タダ飯食い

i会長が主催されているという飲み会?にS氏から誘いを受けて、脚を運んだ。なんでも、土を使って住宅を造るアメリカ人が遊びに来るから、是非どうぞということで。出向けば、福岡でも老舗の焼鳥屋「藤よし」。そこに11名の席が用意されていた。先ずは、アメリカ人。日大の生物資源学科の学生だという名刺をもらった。ノートパソコンでのショートレクチャーが始まる。つまりこれは只の飲み会ではなかった。話はキンバートンヒルという、障害者が集まるアメリカのコミュニティーについて、そしてストローベイルハウスについて。ストローベイルハウスについては、かつて「月刊左官教室」でも取り上げられていたから知っていたし、なによりも佐賀の田崎左官氏が取り組んでいたので、実物も見たことはあった。その歴史背景から日本における実例まで、まとまったスライドを見ることができた。だがそれよりも、キンバートンヒルの研究における巻末の考察が引っかかった。なぜ、このビレッジが長い年月の間存続し、成功したのか?それは、身体の不自由な人々は、人間同士の違いを認め合うことができる人種であるからではないか(なぜなら身障者は健常者との違いに日々突きつまされているから)というもの。アメリカ人の名字は明らかにドイツ人のそれだったが、彼はアメリカで生まれ育った。哲学の勉強を経て後、禅を学ぶために日本にやってきたという。日本語が上手いということはさておき、その関心先、着眼点はなにかこれから日本人が自らに向かって発見しなければならないことのように思った。
気づけば、場は満場、様々な人がいた。そのアメリカ人を連れてきたのは、Y棋士(九段プロ)。本業はいうまでもなくプロ囲碁打ちということだが、囲碁をわかりやすいゲーム(ポン引き囲碁)として開発し、非行少年やひきこもり、自閉症などの子供達を立ち直らせるというもう一つの社会的側面を持っている。それはアメリカでは「安田メソッド」と呼ばれているほどで、それにより培われる集中力が人の能力を引き出させるというもののよう。彼がそのアメリカ人の研究や家作りに関心を寄せ、支持するのも、専門領域の枠を拡げて、社会に役立とうとする姿勢の一つのようでもある。そのY氏の隣にはT氏。彼はかつてパニック症を煩い、農業、つまり土を扱うことによってそれを克服した。今は農業法人を立ち上げ、水田耕作を通して、ウツ病その他に苦しむ人々の回復を支援している。将来は農業法人が未だなしえていない株式上場を行い、日本全土にその療法を伝えていきたいとのこと。そのとなりがそのアメリカ人、そのまた隣にM氏。若干25歳、東大の数学科の助手を勤めていて、数学は心のための学問だということで、私たちの精神生活にこそ活用されるべきとの持論でもって鋭意講演活動を行っている。おそらく茂木健一郎氏が脳科学の世界から心の問題に取り組んでいることと同一姿勢だろうと思うが、近い将来この若者は大いに活躍するのだろうと思わせるエネルギーで溢れていた。早速この会合の後、どこかの介護施設で講演をするということになっていたようで、早々に退散された。そして、i氏。誰もが知っているi会社の会長職。結局日本はどうしてこんなに精神を煩う国になってしまったのかと自ら問いかけられた。それは、あまりにも物質的に裕福になりすぎて、初源的な目標を失ったからではないか?そういえば、発展途上国にはウツ病がありません、などの意見がおもむろに挙がると、これを受けて「これまで日本は豊かさを海外から輸入して来ましたが、これからは貧困を輸入しよう」とi氏。役職を考えるとしゃれにならない冗談であったが、同時に恐るべき核心を突いているような一言でもあった。
結局、会費は会長がすべて持った。ふつうの異業種交流会は、間違いなく割り勘なのであるが、こうなるともはや、異業種交流会とは呼べまい。振り返れば、人が人を呼ぶという感じで、全く偶然に集まった人達は、それぞれに全く異なる分野で励み、活躍しているにもかかわらず、共通していることがあった。彼らは皆、(気持ち悪いぐらいに)心の問題に通じていた。i会長は、素知らぬ顔をしながらそういう人々を集めたことになる。そして、これからいよいよ社会で必要になってくることを、そういう人達の輪として段取りした。ボランティア、というより身銭を費やすことによって。タダ飯を食った我が身は、なにかの役に経つ人間にならねば文字通り、タダ飯喰いの役立たず、となってしまうことになる。

 

 

 

 

 

10/01/10 第86(日)味音痴と建築音痴
大手門の檜山料理塾を訪ねた。御年80数歳?現役活躍中の高名な先生とあって、恒例の新年の挨拶に、様々な人が入れ替わり立ち替わりであった。夕刻、自分が座ったテーブルのトイメンに、面白い人物が向かい合った。吉井町の皮膚科の先生。いろいろと独自の方法を編み出し、日本中から顔などの染み抜きに訪れるという名物先生とのこと。皮膚版染み抜き王子。田舎といっては失礼であるが、出自が隣町なので、あえて言わせていただくが、そう言う僻地の研ぎ澄まされた個人に出会うと、なんだかとても頼もしく感じる。普通の田舎者は、喧噪の某かを求めて都会へ脚を運ぶのだが、こういう人は、都会の方から人々がやってきて、僻地の中に自ずと小さな喧噪が生まれる。その先生は、しかし、追求心の矛先が仕事のみではおさまらず、食の領域にも及んでいた模様であった。所謂食通。だが食べるだけにおさまらず、自ら包丁を握る。特に蕎麦打ちは定評のようで、東京から芸能人の誰それが、訪れるという。究極のそばつゆは、甘味にみりんも酒もザラメもつかわず、昆布ダシによりやる云々、その煩雑なダシの取り方すべてを話して貰ったが、職人技すぎて、聞いただけでは再現不可能な内容。こういう人が一旦建築をやり始めたら、いいものを作るだろうなということを考えながら、食べものにかかわるいろいろな話の中で、建築の世界にも通じるだろう気になるトピックが。
食文化はその場所の人々が育てる。そこまでは常識だ。しかし京都や大阪はいいが、東京や福岡には、本当にうまいものがないという。こうなると身を乗り出さざるおえない。それはなぜかというと、東京や福岡は見栄で外食文化が成り立っているからだとか。京都はやはり1000年の古都、味覚文化としての積み上げがある。大阪の人は、値段と質にうるさいから、料理人が育ってしまうという。神戸もそれら関西の雰囲気を共有している。昨今の京都や神戸のフレンチの噂はそういう土壌がたまたまフレンチとして花開いたということになる。その他、寿司は酒ではなく茶で喰うのがいい。だから本物の寿司屋は酒を出したがらない。本当にうまい寿司屋が博多にないのは、博多の人間は酒飲みだからだとか。そういえば、別のところでこういう話も聞いたことがある。レタスのキムチ鍋を食いながらだったと思うが、物知りがいて、ここらへん(町一番の繁華街)のヒットする店というのは、大抵すこし味を甘口にするというセオリーがあるんですと。マトモに絶妙な味加減を実現すると、却って一般の人たちに受けないんです。みんな味覚が鈍感になっているから、と。
こういうことが本当なら、まことにおそろしい。
豊食といわれた、この時代、実は私たちはそのことによって味音痴を育んでいる。文化的な都市生活者ほどである。
建築の世界も実はこういうことが言われていて、建築不在とか、建築の力が失墜しているとか、この先数十年の間は建築はだめだとか、いろいろと識者が警鐘している。この淵源はどこかというと、作り手の質が一方的に落ちているというよりも、むしろ、社会を構成している一般の人々の建築への教養の深さの方に深く関わっているというのである。もちろん、情報量はかつての比でない豊かさであり、人々の一見するところの教養は目を見張るものがある。ならば建築音痴などとは無縁ではないかということになるが、それがそうではない、という側面があるようだ。それは、ヒットするマス相手の外食の味が濃くなるのと同じで、情報化され、多くの人々の目に触れるための建築の持っている、濃厚さというか刺激性が、却って人々の感覚を鈍くさせているかもしれない、というのである。
食にしても、建築にしても、もはや、店主と客、提供者や享受者という対立概念で議論しても仕方がない。両者は共にその文化の育て親なのである。この情報の渦潮社会の中で、情報では伝えることができないものを感受する繊細さとその自立を目指したい。

 

 

 

 

 

2010/01/03 
第85(日)i氏の岬生活

歳の暮れに、ハウステンボスの事実上の設計者i氏の住まいを伺った。いよいよ押し迫った12/27日、先方は大掃除の途中、非常識とは百も承知であったが、船頭役の友人の持ち前の図々しさにあやかった。住まいは、ハウステンボスが臨む大村湾に同じく、しかしその対岸の小さな岬に鎮座していた。まずは、この岬の先住民?である恵比寿様に挨拶をすることになっているようで、まずそちらへ回った。恵比寿さんは、海を守る神様としてこういう岬には欠くべからずの存在、それへの敬意がなければこの住まいを訪問することは、叶わぬとでもいうかのように。
i氏はハウステンボスの計画段階から、ここに土地を購入し、構想から完成をここから見守った。ハウステンボスの様相は中世オランダの都市風景であったが、この住まいは、日本の古き良き民家であった。ゆえに、藁葺き屋根、伺った時はいろりに薪がくべられ、室内は燻される瞬間であった。
当初は、陸屋根の筒状空間が2本、互いに直行するという、いうまでもなく現代的なデザイン、それを携えて、地元の大工へ相談したという。計画を見た大工は、自分の代が終わると和小屋組を出来る人間がこの地方に居なくなる、とぼやいた。これを聞いたi氏は、自分が作り上げた図面と模型をすべて棄てた。代わりに考えたのは、木造真壁漆喰の和小屋造り、藁葺き屋根であった。築10年ほどのいわゆる日本の民家。そこから日本的とはいえない、木造のデッキが、静かな内海に向かって伸び伸びと突き出す。
i氏には社長を努めた大組織設計事務所、N設計時代、こんな逸話があるよと、案内してくれた友人が言った。指名コンペかなにかで、機能は環境保全センターかなにかで、琵琶湖畔に突き出すような巨大な計画があった。いよいよプレゼンテーションの直前になって、社長に目を通して貰おうと部下が見せたところ、i氏はその内容に激怒した。「環境保全するための施設が環境を壊しているではないか」第三者的に見れば、こういう矛盾は一目瞭然なのであるが、当事者というのは、案外こういうことをわかっていながら流してしまうのが世の常だ。花より団子、正義よりマンマといったところか。しかし、i氏は、断固としてこの自己矛盾をやり流さなかった。その後、話は見事にブッツブレタとか。
ハウステンボスの本当の存在意義は、オランダの歴史の紹介などではなく、環境との共生なのだということを、竣工当時の記事で読んだなということを思い出す。その詳細は覚えていないが、i氏の今の生活を見ていると、納得しないわけにはいかない。仕事上で構想された理想が、私生活で試されているからである。たわいもない質問の中から、ひょんと出てきた言葉が1フレーズ残る。「現代社会の人間と自然の関係はあきらかにおかしい、殆どの人間はそれに自覚がなく生きていると思います。なんとなくおかしいなと思っているような人が、ここにくるのだと思います」
友人からもう一つ、i氏のエピソードをもう一つ聞く。「彼が、こういう生活をしているのは、大組織を先導し、大きな開発や大きなビルの建設に荷担してきたことの罪滅ぼしだと言っていました。」
大きなビルが環境破壊のやり玉に挙げられるイメージは、自分にはあまりこみ上げないが、少なくとも、i氏が、そういう人間の自然に対する優位的、強位的な営みに対して、人並み外れた憂いを抱いていることだけは、よくわかった。そして説得力の源は、彼が、かつての自己行為を自己否定をすることによって次の世代に伝えようとしているところにある。

 

 

 

 

 

2009/12/13 第84(日)指示待ち

そろそろ歳寄りの仲間入りか。今の若者は・・と、こういうフレーズを肴に同年齢以上の人々と話が咲くようになってきてしまった。もちろん、若者と十把一絡げにしてはいけないのだろう。そういう年寄りが若かりしころも例外なく、同じようにして先輩たちから叱咤されるのが常だとも言われる。だから今、敢えて断言してもいいかもしれない。俗に言う「指示待ち」とは、先輩や上司から指示を待ってから行動する姿勢のたぐい。自ら勝手に判断しては、間違うかもしれないし、無駄なことをするよりは導かれるのを、また、判断者のいわれるがままに動くのがなにより合理的である、という行動美学のようなものだ。これが、どうも若い人に多いと言われて久しい。建築の分野だけではない。経済界の経営者レベルが皆口を揃えたという記事も見たことがある。もちろん、どの世代にだってそういうことはあろうが、特に今の20代あたりが、とひそやかれる。間違わないようにガイドに従って動くというのは、一見、合理的な仕事人のようであるが、実際の仕事では、そううまいばかりでもない。現場の突先では、そこに直面している者が臨機応変に判断しなければならない場合が必ずあるし、それに対して指示者があらゆる場合を想定して、完璧な指示内容を事前に用意することなど出来ないからだ。それでも「指示待ち」は、「指示者」が最短距離を示してくれると思っている。「指示待ち」のマザーボードは、最終目的へ向かって、まっすぐに走るようプログラムされている。
当然、自分が若者だったころとの比較をする。23才の学生のころ、師にとある建築のインテリアを設計せよと「指示」された。実施設計のもの、つまり実際に建つ建築ということで、奮起して、ベニヤ12tを手鋸で切って、壁や床を構成した1/20の内観模型をつくった。それを自慢げに携えて、打合せに臨んだ。開口一番、師の一言。「若者という膨大な無駄。」徹夜こそしなかったが、師を驚かせてやろう、と意気込んだ一球入魂の一作が、脆くも想像だにしなかった叱咤を受けて、目の前で存在価値を失った。この珍事を冷静に振り返るなら、その時の自分の意気込みは、ものすごい轟音を立てて社会を空振りしたという感じだ。だが、その意気込みの発生源は、さすがに歳を経て、その歳なりの判断力を兼ね備えることによって、かつてよりは意味のある行動力へと成長したのではないか、と手前味噌ながら思う。自らの意欲、好奇心で今一歩進める、という行動規範は、なにかを創るためには欠くことができない。時には、間違うし、やり直しもあるだろう。誤解も生むかも知れない。だが、それは、なにかを創るためには仕方がない。お湯を得ようとしたらそのうちいくらかは湯気で吹き飛んでしまうのを免れ得ないように、ロスは仕方がない。結局、どうして指示待ちの美学が若者を巣くったのか?という議論になり、つまるところ、社会構造だろうということになった。例えば、今では大学4年生で一級建築士の予備校に通う学生がいるということや、就職説明会に学生が整理券待ちであったり、大学は就職率でその評価の全てを表しているかのような風潮・・は、とどのつまり、皆が同じ価値観に向かって、争い、奪い合うしかない状況というか、環境というか、そのような社会構造が原因なのではないかということだ。同じ価値観云々は情報化社会と関わっているだろうから、結局、若者は彼らの先輩達が作った環境に従っているということになる。若者をののしっている場合ではない。問題があるのは、若者だけではない。

 

 

 

 

 

2009/11/22 第83(日)脱走するバカかしこ
昨晩、犬が逃げた。もともと、洋犬なので家畜度が高く、飼い主から離れたがらない習癖ではあるのだが、ふとしたスキに放浪の旅に出る。サンポは事務所の往復がメインなので、たまには新鮮な風景を見たいのだろう。それはそれで構わない(一般的には飼い主の監督不行届ではある)のだが、できれば、自分で戻ってきて欲しいというのがある。昨日の戻り方にはしかし、不思議なことを感じた。平和町の楽只庵ではぐれて、もう夜中だから捜索は明日にと思っていた矢先に、女性から電話が。
「高宮駅から自転車で家に帰っていると後ろから黒い犬がずうーっと私の後ろをついてくるので、首輪に刻印されている電話番号を見つけて電話しました。」
車で青信号だらけの夜道を15分、そこに駆けつけると、女子高生らしき子に抱かれた黒い犬が、なんの悪びれもなくそこに居た。はぐれた平和町のそこから彼の最初の目的地高宮駅は人間だと40分歩く。黒い犬の住まいは駅のちょっと手前だから、駅までの道のりがわかったのならどうして、直接自分の家に戻らなかったのか、疑問がある。そしてもっと不思議なのは、駅から家路へいそぐ無数の人々からその女の子を選び出し、彼女になにかを確信して、再び30分の別の道のりを選択したことだ。見知らぬ人の後を追っての見知らぬ方角への賭の結果、黒い犬は自分の方へ主人を呼びつけることに成功した。

ある人からこんな話しを聞いたことがある。捨て猫のシャムを飼っていて、家の近くになるとシャムが門で待っているのがなんとなく直感でわかるというのである。ある日、いつものように、シャムに「門まで迎えに来ているように」と念ずると、やはりいつものように、そういうなにかを感じることができた。しかし途中で、そのなにか交信のようなものが、突然途切れた。どうしたのかな、と思って、家に着くと、シャムが門の外に通りがかった犬と真剣なにらみ合いをしていた。これで交信が途絶えたのだと合点したという。

人間も動物と同じようにさまざまに直感によって日々生きているはずである。でも動物とちがって人間には理性がある。直感というような根拠不明なものよりも、理屈というか理性というか意識のようなものが直感や無意識の外皮を覆う。「我思う、故に我我り」理性や意識こそが、人間存在の証だとも言われてきた。それはそれで尊いことであるが、黒い犬は、では不幸な生活を送っているかというとそうは言えない。黒い犬からすれば、飼い主は、理性や意識などへの過信により、便利なものをつかわずにいることを、笑われているのかもしれない。

 

2009/09/27 第82(日)地方のカタチ、愛惜

一地方都市で、建築デザインを生業にしていると、リージョナリズム(地域主義)とか、ローカリティー(地域性)というワードを手がかりに、都会VS田舎なる構図の議論が吹きかけられる。そういう風に抱かれることによって、却って自分は地方に住んでいるのだということを他人事のように実感したりもする。
そもそも、自分がこの一地方都市にUターンしてきたのは、たいした画策もなく、只単に、修行生活に終止符をうちたかったその時の希望に対して、「オマエは田舎で独立した方がいい」の師匠の一言に素直に従ったにすぎない。独立することと田舎に住むことの結びつきは事前に考えられていたのではなく、その瞬間、突然に組み合わせられたのである。
政治~経済~文化に至り、地方が中央集権から独立したいのは、子供が親から自立したくなるのと同じように、極々自然な成り行きであって、そこを疑う必要はないだろう。また人は、他人に対しても、モノに対してもそうであるように、訪れる場所に対しても、その唯一性や個性を見つける楽しみを持っている。言うまでもなく場所の個性は観光そのものであり、その経済原理は、それを育てる手段としての地域デザイン学なるものを育てようとする。学問的には、既往の都市工学や都市計画といった都市を考えていた頭脳が地域をも考えるようになっていった。そこでは、かつて都市工学が目指していた機能主義などの普遍的な要素は対置され、地域独自の文脈をどう読み解き、どう計画に結びつけるかという個別解のようなもの、あわよくば独自のカタチのようなものが前提として探られる。こういう反・中心主義的な意識をもって、建築を考えていく態度を、建築批評家ケネスフランプトンは「批判的」地域主義といった。均一化や平準化に向かうあらゆる文化、経済、政治的なもの、例えばマクドナルドのようなものに対して批判的な視点を持つことによって見えてくるカタチ(建築)がある、と問題提起された。1983年のころである。
批判的地域主義の建築は、こういう要素を持っていると明言されている。
1.大きな計画よりも小さな計画を選ぶ
2.独立したオブジェとしての建物を強調するのではなく、敷地に建てられた構造物によって規定される領域を強調する建築である。
3.環境に対する脈絡のない挿話ではなく、構築的な事実としての建築である。
4.敷地に固有な諸要因を必ず強調している。(空調装置等を最大限に使用する「普遍的文明」と対立する。)
5.視覚的なものと同様に触覚的なものに力点を置く。(経験を情報で置き換えようというメディア全盛時代の流行に反対する)
6.地域に根ざした「世界文化」という逆説の創造に向かおうとする。
7.普遍的文明を最大限に発揮させようとする推進力から何とかして免れている文化同士の間隙において、勢力を伸ばそうとする。
(本文より抜粋)

モダニズム、国際様式が捨象していった要素が入念に拾い集められたように思える。もっとも、モダニズム黎明期のガウディにしても全盛期のアアルト、コルビジェにしても、その他多くのモダニスト達が国際様式化へ向かうどころか、各地域の土着性をその中にむき出していったことは、フランプトン自身が語り尽くしている。そして当時より今は、モダニズムという言葉は薄らいだけれども、その根底的な力としてのグローバリゼーションの進行は著しいわけで、その腕力があらゆる事物を主流と傍流とに分離していく中で、私たちは一方の傍流である地域がどうあるべきかの答えを何処からともなく迫られているのである。言い方を変えれば、グローバリゼーションの程に比例して反グローバリゼーションへの欲求は盛んであるということになる。しかし、そのようにして起こる現代のリージョナリズムやローカリズムは、モダニズム期におけるそれへの「哀惜」とはもはや異質な哀惜ではないだろうか。かつては観えていた土着的なるものが観えにくいものになってしまった今、地方の、もしくは風土のカタチは得てして空想的であり、まるで絵本やおとぎ話のようである。根深い「哀惜」が表現するものより、実感のない「哀惜」による脳天気な空想の方が多くの人々の心をつかむようになる。結局それは観光資源としてわかりやすい目印なのだということであり、実際にも案外重宝され、俗化してしまう。一方ではそんな似非地方主義とは無関係に、グローバリズムが力学をもってしてムラ模様の地理学を一色に染め拡げようとする。こうして都市で起こるグローバルなデザイン潮流と地域の某との間で微妙に揺れ動くカタチ、いわば両極が干渉してできるカタチは、デザイン的な意味においての隙間産業となる。この隙間の質をきちんと埋め合わせるためには「哀惜」の質を考えなくてはならないかもしない、などと思ったりもしている。

 

 

 

2009/08/30 第81(日)「相手を用いるの美」

合気道の老師範に会う。日本はもとより、アメリカのケンブリッジ大学や、台湾などでも教えてきたという筋金入りである。その老師範から、今日は全日空ホテルの近くの歯医者に出向く用事があるので、前後に話がしたいという呼び出しであった。話は、もちろん合気道の話ではなく、例の名島展望台の話。事務所で議論し考えた再考計画~昨年発表された行政が計画した元設計を疑うための「当て馬」~として計画したものを見て、なにか感じ入って貰ったのだろう。その評価の仕方が建築アカデミズムの論壇では得にくいユニークなものだったので、ここに書き留めたい。
「合気道という武術は、自分の腕力ではなく、相手の力を借りて、その人の力を制するものです。柔道もやりましたが、合気道は実に日本人的で、自然に逆らわない身体運動なんです。自分がなくなった時に、自然に相手をも制すようになるのです。李登輝は、「私なき私で行いたい」と言った云々・・・。」
「名島のあの場所は、眺望などと言う今ではどこにでも得られる、目に見える感動を伝えていくようなところではなく、もっと、目に見えないものを最小限の建築によって表現できる場所の底力を持っているところなんです。」
「貴方は宗像大社の高宮斎場を取り上げていましたが、当に名島はもともとそう言う場所だったのです。秀吉が築城を命じるまでは、あの丘は名島神社という御神体そのものだったのです。」

高宮斎場とは、現在の宗像大社の社の脇から10分ほど歩いた小高い丘の上にある、ユニワ(斎庭)のこと。日本の神社の初源的カタチは、社殿が無くなり、白砂の空白地であるというその典型例として、「見立ての手法」(磯崎新/岩波)に紹介されていたから何度も現地に脚を運んだ。この、「社殿のない神社」を名島築城により滅減してしまったかつての聖地=神宮ヶ峰を想像しやすくしてみようという計画であった。社殿を用いずに空白の庭をメインに計画したから、当然のことながら、物質としては最小限である。行政が段取りしたRC5階建て展望台のように、単純な足し算型の計画とはおのずと対極である。そこのところが日本の武術の粋である合気道によく当てはまるということらしい。簡素化された最小限の表現美、あるいは自らを立てずに「相手を用いる」の美はなにも、合気道に寄らなくとも、禅を元とする茶や能や書などの東山的日本文化のほとんどがそうではなかろうかとも思うが、ともかく、例えの一つに武術も加わったと考えておけばよいかもしれない。老師範はそういう建築の可能性を追求すべきだの意見を私にくり返した。日本人である我々の奥深くに潜在する「相手を用いるの美」は、建築にどのような可能性をもたらすだろうか、只只首をかしげるだけである。

 

 

 

2009/08/09 第80(日)冷えた作為

「デザインにおける私『わたくし』ということ」の言葉が菊竹清訓氏の講演会巻末に添えられた。「必ずしも『わたくし』は必要ないのではないか」と。独自性あふれる作品を世に送ってきた巨匠からそういう言葉が聞こえてくることを予想できなかった。私(わたくし)の感性を磨き、「自己表現」を目指していこうという学生が、もし、この部分を注意深く聴いていたならば、まるで出鼻をくじかれた思いであっただろう。また、このところの伊東豊雄氏(菊竹事務所の門下)からも、建築における共同作業云々の発言をよく耳にする。「自分一人でやっていると、どうしてもその限界にぶつかる。そこで、一緒に関わる人の力を借り、それを活かそうと工夫することによってよりよいものを目指すことができるようになる」といったような内容。両者の意見とも、個人の建築家として仕事を追求し続けてゆくその果てには、個人としての限界、そしてその個を超えたところの世界があることを指し示している。この話は方々へ拡がる。吉阪隆正は、不連続統一体の概念を打ち立て、個人が活かされながらも最終的には、それが全体において統一されていく=淘汰されていくようなデザインの方法論を模索していた。例えば多摩丘陵に拡がる八王子セミナーハウスの群体建築を巡ると、その建築群は四半世紀の時間をかけて設計チームが入れ替わりながら作られていったこともあり、それぞれはあたかも個人技的に自由に振る舞っている。だが、敷地全体のイメージとしては、そういう個性の粒が気にならない。まるで森が多種多様な樹種により構成されていながらも決して連続性を損なわないように、一粒一粒は場所にカムフラージュしているような印象を受ける。単体造形の独自性が、そのまま全体も独自なのだという理屈に納まらない好例だ。90年代後半には、評論家飯島洋一氏?五十嵐太郎氏の連鎖によって、スーパーフラットなる概念が提唱され、若手建築家達の傾向として、建築家=個人というイメージの崩壊があぶり出されたことは記憶に新しい。設計事務所は強い一人の統率者から複数が並列する組織へ、名称も自ずと個人名からグループ名へ、作るものも、主観性溢れるというより客観性のあるものへ。
個から社会へという論風はなにも建築家たちだけに吹き込んでいるようなものでもない。脳学者の茂木健一郎氏は、日本人が捉える創造行為というのは、個人の営みのものではなく、集団に帰属するものだと考えられてきたことを力説する。西欧における創造行為は才ある個人がなし得るものという前提があって、例えばノーベル賞という制度そのものがそれを証している。日本人はそういう考え方を維新以降、あくまで外来のモノとして受け入れてきたのであり、本来はその最大の立役者である一個人のみならず、その背景に関わった複数の人々によるものという協働感覚が強いというのである。創造にまつわる日本人の集団意識は、もちろん茂木氏が初めて言い当てたというものでもない。栗田勇氏(美術評論家)の自著「造化のこころ(1988)」では、源氏物語、松尾芭蕉、書院、数寄屋、禅、着物、民藝運動などの広範な日本文化を例に挙げながら、日本人の「創造」は個人性・主体性に力点が置かれることはなく、主体を個人どころか人間にも置かず、自然にコミットしながら、どちらかというと受動的な創造力ともいえる様であったことをたっぷりと記している。
とにかく、非作家性にまつわる思想史は、日本人にとっては掘れば出てくる風土そのもの(であった)といってもいい。関東大震災(1923)後に柳宗悦が中心になって行った民藝運動も範疇になる。個人の作為(つまり作家性)を創造の動力源とする製造物に対して、無名の工人による、いわゆる下手物(げてもの)に潜む自己愛のない素朴な探求心の尊さが、蕩々と語られた。栗田氏に曰く、こういう芸術論は日本独自の視点だという。またさらに時代は遡り、国学の祖本居宣長をも遡り、室町期。現代に伝わる日本文化というものの多くがこの時期に発祥していると言われる時代、能楽師世阿弥が書いた花鏡「批判之事」には、こういうことが書かれている。
「成功する能というのは、最高の名手が、多くの種類の能をすっかり究めたのち、謡や舞においても、演技においても、謡曲の筋においても、あまり観客をよろこばせるようなところのない能を演じ、寂び寂びとした味わいののちに、どことなく人の心を感動させるようなもので、これを『冷えた能』というのである。この芸の境地は、よほど目の利く人でも見抜けないものだ。まして田舎目利きなどは、とても思いも寄らぬものである。これは最高の名手だけが持つ天成の舞台表現というべきものである。これを『心で成功する能』ともいい、『無心の能』ともいい、『無文の能』ともいう。」
建築家菊竹清訓は、このことを私たちに伝えようとしていたのではないか、と勝手に読み込む。「か・かた」という過程を経て「かたち」が出来る。「かたち」は完成すればするほどまた、新たな次元の「か」に立ち戻る。まずは、『わたくし』は磨かれなければならない。しかし、そのことは最終目的でも、ゴールでもなく、磨かれた『わたくし』はむしろ捨てられるためにある。その工程から、より高次の表現が生まれる。代謝すべきは建築のみならず人間であるとでもいうように。

 

 

 

 

09/07/19 第79(日)「自己責任」

北海道の遭難事故のその後が、やはりというか、責任の所在の問題になって、パッケージを企画した旅行会社がメディアに現れてきた。今日は言葉を連ねるのをやめようと思っていたが、この記事に反応してしまう。内容は、旅行会社が登山の危険性を認知していたかどうかというもの。その山を知り尽くしているはずもない一介の旅行会社がそんなこと、確約できるはずがないのではないか。海外旅行でもなんでもそうだろうが、旅行会社が危険の全てをガードしてくれるなど、つゆとも思わない。寒冷地のみならず、山に登ろうと言う人は、自分がその心地良さと共に、予想外の危険性も含めて一緒に背負うというように、シンプルな考えが私たちの社会にはなかなか根付かない。これにて旅行会社の責任が問われるなら、以後旅行代金には、旅の安全性を確保するためのコストが上乗せされても文句は言えまい。そして、登山者は山の旅人ではなく、専ら旅行会社の客となる。問題はそれには収まらず。人の死に関わることだから軽率に扱うべきでないと思いつつも、だからこそ、残された人間は、事後の責任追及というやり場のない感情の泥仕合に蕩尽してはならないはずである。(そういう雰囲気に持って行っているのは、メディア?)殊、自然相手のこの事故に関しては、静かに、末永く、ミタマの成仏を祈るに勝る行為はないはずである。

 

 

 

 

09/07/04 第78(日)「建築からモノへ」

学生あがりの修行時代中、今は大学の先生となったある友人との建築談義。彼は建築~都市工学の方向への視線、ある意味大文字の建築を思い描き、自分は建築から素材へという小さな思いを盾に、考えが正面衝突した。
彼は、言った。
「無垢の木フローリングにウレタンクリアを塗る?施主がそれを希望するなら、それに従えばいい」
「無垢の木にウレタンをペトペト塗ったら台無しだろう、それも含めてデザインではないか」という自分の意見を一蹴、
「そんなことは建築という全体にとっては小さい。もっと大きなことに力点を置くべきだ」

その他、裸電球を建築のデザインとするのはおかしい、等、自分が進行形で学んでいたデザインの指向が、彼によって一刀両断されていったことを今でも覚えている。もちろん、議論であるから友情のようなものとは隔離されている。だが、自分の建築的な理想が、建築的な教養を持っているはずの、しかも近しい友人に全く通用しないことの脆さを我が心中に憶念し続けることになった。
建築の全体に対する部分(あるいは素材)の位置づけは、建築の大勢(タイセイ)からすれば、多少なりとも主従関係であったろうことは、おおざっぱに歴史を思い起こしてみれば、なんとなくわかる。意匠と技術、と言うとき、素材は議論の一方にある技術論の、そのまた一要素である。どうしてその素材を用いたかなどは、現場と産地の関係や、工期、そして工人の技術のかみ合わせにより語られる。言い換えれば地理学歴史学的関係論であり、もっと簡単に言えば、その時の「都合だった」と言い尽くせてしまえるところがある。技術論自体は、意匠(便宜的に分けている)と同一のボリュームを持って壮大に語られるが、素材に関する云々は常にその傘下である。
一棟の建築は、主要な一つの、もしくは複数の素材の集積物であって、その集積が建築という全体を構築している。例えるなら村と民のようなものともいえる。一人一人の村民は帰納法的に集積され、その暁に村のイメージが語るに値するものとなる。部分を帰納させて説明される全体、そういう見方というか一方性そのものを疑うとしたらどうなるだろう。部分は全体のパーツではないという、あるいは互いを対置させない、互いに対象化しない、対称化しない見方。また例えば、私たちは「山」を平地の盛り上がった地形の一つとして特別に名指している。考えようによっては起伏があるということを「山」と言っているだけであって、本来は土や岩や木々の集積でしかない。はたして「山」という名の指すものの実体は存在するだろうか?という積年の問い=唯名論がある。唯名論は12世紀の西欧で起こったことになっているが、このあたりの議論は既に仏教哲学においてそれより以前に扱われているらしい。(哲学的偉業の類が芋づる式に参照されうるのかもしれないが、ここはスルーしたい。)例えば、村人たちの営みはあくまで村人たちの営みであって、美しい「ムラ」とか、貧しい「ムラ」とかの鳥瞰的判断はどこかに放念されるという見方。同様の疑いと目をもって建築を観ていくと、全体の部分でしかなかった素材のいかんが単独で直視され始めるかもしれない。機能とか、歴史的意義、様式、その他、全体としての建築に対して語られるべきものは留保され、素材だけが、そこにゴロンと在り、積み(組み)重なっている。その存在の質が単独で伝わってくる。
全体は不要だとか重要でないというのではない。全体も部分もある意味等価のようになって、建築を建築としてではなくモノとして観ることもできるようになった時、変わらないある一つの建築が、別の感性により別の論理により、その魅力を別の言葉で語ることができるようになるかもしれない。もしかしたら、建築の評価ランキングさえ入れ替わるかもしれない。
建築からモノへ、の視点は、だから、社会へと意識を外向するのではなく、左手の石片にほおずりし続ける建築デザイナーの趣味的愛好のように思えなくもない。だが、そういう行為が内向への一途であるなどとは、今だれも透視することはできないはずである。先の友人とは、最近になって同一の議題を蒸し返した。すると意外な答えが返ってきた。
「実は素材が街や都市をつくってきたんだ。これからはそういう考えが有効だと思う」

 

 

 

 

2009/06/21 第77(日)ご当地、名産、好み

カレーライスに使われる食材の自給率をカウントすると67%だという。全食料自給率が40%であるから、カレーライスは、現在の食料生産構造からすれば、堂々とした「日本の食べ物」である。それに対して、「天ぷら蕎麦」は、醤油=0%、エビ=5%、卵=10%、小麦粉=14%、蕎麦=23%と、食材のほとんどは輸入していて、その自給率は僅か20%とのこと。私たちが日本食だと思っていた天ぷら蕎麦は、この切り口で見るかぎり、「日本の食べ物」であるのか、疑わしくなる。
こういう変な感覚は、辛子明太子のことを調べたときにも起こった。博多名産の明太子は、株式会社ふくやの創業者が韓国のミョンランジョという食べ物をヒントに日本人好みに仕立てた、いわば発明品といってもいいものだが、その素材のほとんどすべては、博多から外地のものである。スケトウダラはアラスカ~オホーツク海、昆布は羅臼、唐辛子は京都、酒は伏見などと、こだわればこだわるほど遠方から名品一品をかき集めてつくられている。(産地は商品にもよる)
その製品の生産履歴を辿っていく行為、そのルートの透明性のようなものを、食品業を先頭に製造業の世界ではトレーサビリティー(traceability)というらしいが、そんなふうにして迂闊にもずけずけと化けの皮を剥いでいくと、地方名産=最近では「ご当地グルメ」といわれるものの内実は、素材の出所とは関係がないという、なんとも拍子抜けの結末となる。もはや、その土地の食を示す全てには、その土地で採れたものの意は含まれていない。土地の人々がこよなく愛好している、とか、それを組み立てるための編集作業が優れている、もしくは、観光資源として育んでいる、という意味に凝縮されている。
あるいは、大川家具。筑後川の河口部に位置する小さな町、かつて内地材で家具をつくっていた時代には、上流から運ばれてきた木材の集積地という地理を活かして家具技術が栄えた。そのうち家具は内地の杉材から外材(堅木)へ趣向が変わるにつれて、材料の集積地としての利点はなくなり、専ら加工技術ということでそのブランドを維持していく時代となる。その技術が、しかしアドバンテージを維持していくには、工業の近代化(機械化)は非情なスピードを持っていた。ついに、技術の集積地である利点も(相対的に)失われていった。残るは感性(≒デザイン力)だということになった。しかし、これは最も育ちにくい。その方法も一筋縄ではない。デザインを買うことは容易であっても、それなら、大川でなくても出来るではないかということになってしまう。
天ぷら蕎麦は日本の食材でつくられるべき、の理想は確かにある。だが、これは大川家具に例えるなら、筑後川で日田杉を運んできて、家具をつくろう、と言っていることと同じになる。個人的にはキライではないが、こういう理想はだけでは、欠落するものもまた多い。天ぷら蕎麦はご当地を離れて、例えばベトナムの屋台でも喰えるようになっていくのである。そういうグローバリズム時代だからこそ、「本当にうまい天ぷら蕎麦とはどんなものかを知っている」という、とぎすまされた「好み」とその母集団こそが、ご当地に託されたご当地たる由縁なのではないだろうか。もののグレードを決定的に左右するのは、地物であることや技術を持っているだけではもはや裸の王様も同然で、最終的には時間をかけて育まれてできた感性がものをいう。そういうところへ厳しく追い込まれているように思う。

 

 

 

 

 

2009/06/07 第76(日)ライフ・フィジックス

ハウジングフィジックスと名付けられた建築の切り口に少なからず共鳴している。気鋭の若手建築家たちによる考え方の一種の傾向でもあり、ハウジングフィジックスデザインスタディーズ(小泉雅生監修/inax出版2008)としてすでに書籍化されている。彼らが同時多発的に思考する住宅への工学的アプローチは、住宅より大きくなれば、それはビルディングフィジックスであり、都市的スケールになれば、アーバンフィシックスというように、フィジックスはあらゆるスケールにおいて、適用される。
これらの物理学が扱うものは、温度、湿度、光、空気等の人間にとって必要不可欠で、かつ直接的に快不快に影響する要素であり、それぞれの理想的な数値をいかに合理的に(=少ないエネルギーで)得られるかを探求するものである。物理学が座長となって建築や都市をつくっていく。一般の人々の印象からすると、建築は工学である以上、そんなことは当たり前のことではないかと思うに違いない。もちろん、その当たり前ぶりについては上記書物の中にも記してある。環境工学的な建築の探求は計画原論という名のカテゴリで、設計者にとってはすこぶる自明のものであって、それらが建築をかたちづくっていることは今も昔も変わりないというものである。が、かつての「計画原論」は建築をつくる主導原理というより不変の底部のようなものであった。モダニズム~ポストモダニズム~数多の様式論は、「計画原論」を底部に敷いて築かれていった。例えば、コルビジェのサヴォア邸、夏涼しいのか冬暖かいのか、暖房効率はどうなのか、といった環境工学的スペックはこの住宅の主題ではなかった。一方、今日に言う「ハウジングフィジックス」は、底部であった環境工学=物理学が直接、建築のテーマになる=建築を決めていく主導原理として陽の光を受けつつあるものであり、その位置づけに大きな違いがある。

物理学で決定されていく建築があり、都市があるなら、その根本である人の生活も同じではないか、と自然に考える。ハウジング?にちなんでライフ・フィジックス。英語でいうと、なんとなく様になるが、単純に「生活のための物理学」というような意味になる。これを思いついたのは、こんなトピックからだ。

「肉を食べ続けていると、環境破壊になるのか?

建物の暖房や輸送機器の燃料などが地球に与える影響はしばしば問題にされる。しかし家畜が、食糧危機と地球温暖化という2つの問題に悪影響を与えていることは、あまり語られていない。FAO(国連食糧農業機関)の報告書によれば、2002年には6億7000万tもの穀物が家畜用飼料になっている。これは全世界の穀物生産量の3分の1前後に上る。食肉産業は、地球上の耕作可能面積の実に40%をむさぼっているのだ。

2030年までに食肉生産量は倍増すると予測される。家畜用飼料に当てられる耕地が増えれば増えるほど、食用穀物の栽培に当てられる耕地の面積は減少する。これが地球上の貧しい人々が手に入れる食料の価格を高騰させることにつながってしまう。この問題は、数億人が飢えるというだけでは済まない。食肉の生産は、アル・ゴア元米副大統領も言うとおり、暖房設備に次ぐ気候温暖化の大きな原因になっている。

AOによれば、温室効果ガスの18%は家畜が産み出している。とりわけ牛は、人間の活動により排出される二酸化炭素の9%にあたる量を産み出している。さらに、二酸化炭素の約300倍の温室効果を持つ亜酸化窒素の排出量のうち、家畜によるものは65%も占めている。大半は家畜の糞尿によるものだ。また、 二酸化炭素の23倍の温室効果を持つメタンの排出量の37%も、やはり家畜によるものだ。

さらに飼料の生産から食肉の輸送まで、莫大な化石燃料を費やしている。肉を食べるだけで、想像以上の二酸化炭素を排出することになる。一般的な4人家族の家庭で計算してみると、食肉のために年間1000リットルを超える化石燃料が消費され、2.5tの二酸化炭素が排出されることになる。これは、平均的な排気量の自動車1台の排出量半年分に当たる。 地球温暖化を避けるため、農業分野でも亜酸化窒素とメタンの排出量に規制を設ける必要がある。しかし国際会議の場では、ほとんど議論されることがない。

地球、そして人類の将来を案ずるなら、肉食にも目をむけるべきであろう。飼料生産から食用穀物の生産への転換と、食生活の見直しが今こそ必要となっている。 」

環境問題をテクノロジーによって克服するというシナリオと、生活水準を生け贄にしてこれを克服するシナリオは二者択一でよいわけがなく、もはや両方を行わなければならない。肉食を減らさなければならない、という上記の話はそれ単体で窮屈であるが、「私たちのこれからは、今までのように自由(奔放)ではない」という総論の一部が見えているにすぎない。物理が文字通りに示す理(ことわり)が私たちの日常生活を具体的に抑制する、そういう時代がいよいよ輪郭を強めてきた。只単に窮屈で、不愉快な時代とはならないように、前向きに捉えていくしかない。いずれにしても、最も改革を要するのが人の生活なのであれば、ライフ・フィジックスは招かれざる歓迎客として迎えざるおえないだろう。

 

 

 

 

 

2009/05/24 第75(日)仮想店舗の街
不況と言われているけれども、道路を走る車の数と、飲食店の入れ替わりの頻度はそれには無関係のように思える。
我が通勤路の5分の道筋にある店舗の内、今年に入ってから既に、5~6件が新しく入れ替わった。街路はいわば入れ替え戦のスタジアム、テーマパークの様相である。
1Fラーメン店+2F水炊き屋がおよそ1年たらずでごっそり居抜かれ、1F生鮮食料品+2F食堂へ。(もしかしたらオーナーは同じかも)
焼き鳥屋、これもおそらく2~3年持っていない。一室が区切られ、2店の別の小料理屋へ。
前に何屋だったか忘れたが、ある日突然、パン屋が出現。
釣具屋が、寿司屋へ。
もやし料理と銘打っていたが、僅か半年で居酒屋へ。
居酒屋から焼き鳥屋へ、居酒屋から別の居酒屋へ。
美容室から別の美容室へ、そして、廃業。
その前はなんだったかよく覚えていないが、おばさん系の洋服店がある日突然出没。

我が町通勤路の通り沿いの2~3年を取り上げると、こんな感じで店が明滅をくり返す。店が変われば、そのまま前の店のままというわけにはいかず、大抵は以前の内装は解体され、まったく減価償却されていない内外装材が取り払われ、新調される。テナントとしてのハコは着せ替え人形のような頻度で、衣替えが成される。あらゆる店舗はそんなふうに一時のものであるから、安く早くが絶対条件になる。毎日その通りを往来する者からすれば、ある意味、代謝することは飽きない町並みのようにも見える。(もちろんこれは皮肉である。)コンピューター内の仮想店舗ほどではないにしても、現実の店舗の連なりはweb上の店舗さながらの更新が成されているといっていい。
店舗経営の心得のない者が外から一方的に観察するに、店舗のオーナーは、トライ&エラーの前提で出店を目論んでいるかのようである。周到に先を見越して出店というより、なにが当たるかはやってみないとわからない、駄目だったらさっさと店をたためばいい、という思惑のように見える。数約万円から1千万円以上の創業資金でもって博打を打っているかのようである。そういうサイクルを維持するお金はいったいどこから湧いてくるのだろう。入れ替わり戦と運命を共に蕩尽される資源の類は、どれほどだろう。店舗というビルディングタイプから出た廃材の量をゴミから判別することは困難だが、感覚的に無視できるとは思えない。少なくとも5分の通勤路の間にその出来事が展開している。そういう異常なサイクルの店舗作りの世界は、豊かな空間をつくろうとする意志のカテゴリとは壁一枚で別の業界だと言い放ちたいところだが、そうともいっておれまい。空間の設計者はいろんな意味において、そういった営為のアシスタントになる、と考えておいた方がいいかもしれない。

 

 

 

 

2009/05/10 第74(日)生身の情報

アーキニアリング展という建築の模型展が今日終わった。これは是非東京等の大都市圏で独り占めすべき内容ではないという動機の他に、専門領域の趣味趣向に閉じた展覧会のようでいて、そうではない面白みがあると思い、運営に参画した。例えば医学的な探求によりしばしば創り出される人体解剖図や模型(人体プラストミック標本)の展覧会に老若男女が足を運ぶのと同じように、建築の表面をめくった内部構造が露わになることは多くの人にとって痛快であっただろう。
模型は、実物を縮小した写しとはいえ、人の手による実物が現前する。写真や映像よりも人間の営みのなにか新鮮なものが介在する。展覧会に併せて、著名なゲストを迎えてのレクチャーも同様、やはり生身の生命力を介した新鮮な情報に触れることのできる機会である。思えば、地方都市は、こういう機会が大都市圏に比べて、圧倒的に欠落しがちである。食物、映像、書籍、その他の量産できる物資については全国津々浦々ほとんどイーブンの環境を得ているが、ライブの音楽や、芝居、講演会等、人間を含めたコピーできない産物の生身情報は、いつも大都市圏に遠く及ばない。仮にこれらの都市的な産物をもって文化の度合いを測った場合はそうなってしまう。17世紀のオランダの画家フェルメールの展覧会などは関東や関西ではちょくちょく作品が開示される機会があったが、福岡などの地方都市をかすめることがない。デンマークの画家ハーマンスホイなどに至っては、展覧会が開かれることそのものが貴重で、そういうものは東京展のみとなってしまう。
大量につくるものだけが安価になり、そうでないものはそれだけで高価になるという単純な原理と似ていて、人口規模こそが複製できない産物の生身情報を担保する。だから、そういう情報の某に強く惹かれる人は、高価な旅費を払って大都市圏へ赴くのである。もし、地方が大都市圏にうずまく生身情報を精力的にたぐり寄せようとするならば、地方巡回に対しては財布のひもをいくらかでも寛大に開くことから始める必要がある。東京で1200円を必要とした入場料が福岡で1800円となるのは、人口比例(約10:1)等を冷静に鑑みるならば、むしろ安いぐらいであると考えてもいいのではないか。これらの情報に関心を示す彼らは、こんなふうにちょっと背後を想像することで、フラストレーションをやわらげることができるようになる。そして、「ちょっと高いが仕方のないことである」「東京へわざわざ足を運ぶよりもよほど安上がりである」という理知が一人ずつに芽生えていったなら、立ち消えしがちな生身情報の地方巡回は俄然確立を増してくるはずである。
アーキニアリング展は、東京展に続き、九州でも建築学生や職能者が知見を深めるのに役に立ったのではと思う。そして、専門領域を超えて、老若男女に楽しんでもらえた様子までもかいま見えたことは、なによりであった。だが、その幕内は、実に厳しい。日本建築学会や同構造家協会の主催とはなっているが、真実は少数の有志による完全なるボランティアと、蓋を開けてみると雀の涙ほどの実行予算に驚きながら個人的な配慮でかき集められた偶然の資金でもって、辛うじて成立している。なにを言いたいかというと、この先の未来、これらの生身の情報をたぐり寄せ続ける根本的な力を我々地方は育んでいないのではないか、ということである。次回も再び、限られた有志の人的金銭的犠牲の果てという偶発を期待することになる。理想はそうやってその時々の犠牲において成り立つということを、承知はしている。与える側と与えられる側が、その時々において生じることも頭ではわかる。だが、各地を巡ろうという生命力ある情報の類に、より多くの一人一人が、年に一度のお年玉感覚で生鮮情報の手前にある賽銭箱に快く投げ入れる、そういう小さなアクションが集積するなら、それはすなわち場所の底力である。例えば、「地方に人材を」という絵空事でしかなかった標語は、実像へ向かい始めるのではと思うのである。

 

 

 

 

 

2009/04/26 第73(日)空き家をつくる仕事

まじめに考え出すと、自分のやっていることが、社会の役に立っているのかどうかが解らなくなるときがある。環境問題というのも、各々が人様のために、社会のためにと知恵を絞り手を握り発展させてきたことの集大成であるから、この問いは自分一人のものでもない、とも言える。中古マンションの空室が増え続けるという惨憺たる事情を常日頃肉声で聞き重ねるにつれて、空き家の存在が気になり、調べてみた。住宅総数に対する空き家の率=空き家率は1963年で2%強、それが毎年確実にステップし、2003年には12.3%になっている。人口や世帯数が増え続けながら、空き家も増え続けた。このまま、この率は上がり続けるという予想も散見される。人口は減らない(2005年まで)のになぜ空き家が増え続けるのかというと、単純な話、新しい家、新しいマンションへの住み替えが、除去される件数より多いからである。自分が住んでいる周辺を歩くだけで、新築中のマンションや新築中の分譲住宅群を直ぐに発見できるのは、統計からしても当然のこととうなづくことはできる。
悠長に統計と実感を確かめ合っている場合ではない。この状況を鳥瞰してみるなら、私たちは、「必要」よりずっとたくさんのモノを作っていることになる。つまり単純な言葉でいえば、贅沢三昧をしている。食べ物に例えるなら、食べる量以上につくり、冷めたモノから捨てる行為に近い。建築の場合は、食物ほど腐るスピードが速くないから、見た目の惨状はそれほどでもないが、計算すると新しく1戸つくるごとに、0.13戸の空き家をつくっている。
もちろん、こういう冷ややかな理詰めの論法に素直に丸め込まれてしまうほど、人間は(自分は)論理的、倫理的でないから、明日から新築をやめようなどとは思わない。土地を占有し、材料を用いて、人を用いるのだから、広く社会にとって「必要」なモノ、長く価値が保つものを目指そうと、楽天的な考えしか(自分は)むしろ思い浮かばない。そして、新築の傍ら、大小のリノベーションや中古マンション一室の再生(デベの産物のフォローに他ならない)をデザイン兼工務店業として行っている。こういうのは、木こりが植樹をするのと、また、自動車会社がエコロジカルな番組を提供するのと、ある意味同じ行為である。
少量生産者だからそういう口が叩ける。それがゆえに大きな営みほどの改善力もない。空き家を増やさないため、というより、余計な資源と労働をドブに捨てないためには、建築一つ一つの営みとは別に、都市的、公共的なパラダイムがやはり必要である。法律的な規制でも感覚的な反対運動でもない、明解な因果関係が示す抑制力のイメージである。TV番組や雑誌、著書などでおなじみの「渋滞学」が示すものはそういう意味で興味深い。西成東大教授は、自ら渋滞が嫌いな物理学者で、どうして自然渋滞がおこるかのメカニズムを研究している。過程はともかく結論は簡単。車間距離が40mより小さくなると渋滞が始まる。混雑してくると、急ぐ車が車間距離の間めがけて割り込んでいく、そうすると割り込まれた後ろの車がブレーキを踏む、そこから後ろに向かってブレーキの連鎖がおこる。割り込んだ人を含めてそれ以降が全員、損をする。個々の人間の些細な欲が原因となって集団が損をする。これを多くの人が知り、各々の行動学によって渋滞が解消方向へ向かったならば、車線を増やさずに増える車に応えたことになる。
つまりモノを作るための物理学から、モノを作らないで済ますための物理学である。人間の行動規範が絡んでいるところが味噌だろう。これを過剰に供給される住宅の「渋滞」に読み替えることができないだろうか。ある住宅地に新築のマンションが建つことによる熱、光、音、生態学、経済学、心理学、さまざまな要素や領域において、その場所の全体へ作用する複雑系の因果関係がつまびらかにされ、公共的な損得が明解に解き明かされ、一人一人の人間のための行動規範、美学のようなものが提示されたならば、と。住居の混雑は車ほど単純ではないが、もしそういうことのいくらかでも指し示していけたなら、法律による規制や反対運動のように硬直を伴わずに、抑制力と創造力が調和する社会へ向かえるのではないだろうかと思う。

 

 

 

 

2009/04/19 第72(日)残材利用のすべ

冷蔵庫の中身を一覧し、スーパーの大安売り食材を睨み付けながら立ち上がる献立。あるいは、鍋底をはう僅かに残った煮物をダシにアレコレと。財布のヒモを握る多くの主婦はこうであろう。レヴィーストロースに言わせるなら、これはれっきとした「野生の思考」である。さもなくば、栄養とか、見栄えとか、好き嫌いとか、料理本にあったとか、料理番組を見てとか、実物不在のまま全体像が先行する献立もある。ものづくりの発想は、だいたいこの二軸に分けることができる。当然のことながら、建築にもそれがある。一般的な建築、普及的な建築とは、おおよそにおいて後者ではないだろうか。つまり理性的な計画学に基づき、全体像が象られ、それを応援するべく社会が用意した素材や技術を買うことによって造る。逆の言い方でもいい。予め適所が想定され商品棚に並べられたものから、計画者はより適材を選び、部品製作者の思惑どおりに用いる。その結果物は、より一般的な建築、理性的な建築となる。トイレの洗面器をトイレ用洗面器のリストから選ぶ。そういう常識・理性はそのまま素直に一般性を得る。当にこれこそが計画であり、またエンジニアリングの筋道としてもこうである。だがそこで、いや、その機器リストはどれも面白くないから、ここにあるアルミの漏斗を洗面器に用いよう、あるいはステンレスボウルではどうか、というふうに考えてしまう一派というか一味、が必ずいつなんどきも、どこにでも居る。彼らは分厚いカタログから一つをえらび出し、英数字混じりの型番を図面に記入する作業の不得手な人々である。そのかわり、目をつむって右手に触ったモノを即座に建築の部位に押し当てる強引な読解力のなにがしかを頼りに渡り歩く。正しくは計画者とは呼びにくい計画者の類である。
実際に作る施工側の世界にも、この二軸はきちんとある。建築の規模、請け負う建設会社の大小はともかく、実際に働く単位は独りの職人である。その職人の多くは、一般化した技術、普及化した技術の持ち主である。はっきりいってしまえば、貴方がやっても私がやっても大きな差のない技術、これが今日の建築技術の到達した境地である。普及する技術はまた、普及する商品に支えられているから、彼らは商品棚から選ばなくてはならない。当たり前の話、相応の対価を払わなければならないが、乱暴にいうなら、出来映えは保証される。(かりにしくじってもメーカーへの責任転嫁という極論もある。)だから、商品は職人がしくじりにくいよう開発が進められる。職人は、問題が起これば自分の技術を疑う前に、メーカーにまず電話をかけるようになる。これを正しく「栽培された技術」という。圧倒的な大多数がそういう発想の連鎖の中でモノを作っている最中、極少数が、その道から外れる。彼らの多くに共通するのは、商品棚に並んでいないものを好む、もしくは扱うことができる。また、価値があるかないか、ではなく、使えるか使えないか、で選ぶ。大工でいうなら、古い木造の解体現場から良いと思う古材を収集するとか、楓や栃などの、建築材料的には「雑木」と言われる扱いの難しい(乾燥収縮などのクセの多い)材料を建具の枠材などに平気で用いるとか、あるいは、近くの神社で落雷した木を競り落とし、木取り(その丸太から切り出すべき部材断面を読む)のために製材所に張り付く。などの所作があれば、その大工は立派に例の一味といえる。左官でいうなら、石灰(陸地の石灰岩を焼いたもの)主体のメーカー品でなく、貝灰(缶詰工場から産廃として出てくる貝殻を焼いたもの等)からオリジナルの漆喰を作る、とか、自ら山に分け入って、土を掘り、壁土に仕立てる、とか、その他身の回りの無数のモノから壁の素材を得るなどがその範疇である。
要するに、売っているものに飽き足らない技術は、身近にあるもの、余っているものを用いることのできる技術である。今、大量に出回っている栽培された技術の多くは、なによりもこれらが不得手である。「伝統的な技術」を現代的な意味付けのために言い換えれば、それは「野生の技術」であり、「残材利用術を備えた技術」ということになる。計画的でない計画者は、その一味である「野生の技術」者が身の回りからいつのまにか消えてしまうことのないよう、努めなければなるまい。

 

 

 

 

 

 

2009/04/12 第71(日)明るいみち
建築学会+構造家協会の主催で昨年開催されたアーキニアリング展、その九州巡回展の準備に関わっている。学会員でもなく、構造家協会の会員でもない自分が関わっている訳は、昨年の東京展を見て、単純にこういう展覧会が田舎で行われるといいのにということを関係者に漏らしたことに始まる。実は全国巡回展の予定があるからこちらに来なさい、と先輩K先生に連れられて学会長の所へ、そしてそのまま即人員配置となった。今日は、自分が担当するチラシの最終確認のために会場で九大のY先生と会う。そこで、全然別の話、思わぬ話を聞いた。吉阪隆正の描くドローイングは、実は、努力して得られたものであるということ。ある時学生の吉阪は、当時の早稲田の先生であった、今和次郎と今井兼次の両方から口々に、オマエは絵がヘタクソだ、と言われた。それに奮起した吉阪は、毎日必ず絵を3枚描くことを自分に強いた。3ヶ月ほどすると、描きたいものがハッキリ実感できるようになり、なんとなく自然に手がうごくようになった。うまく描こうという感覚も薄らいで、単純に楽しめるようになった。1年もすると、吉阪にとって絵は自らの言葉そのもの、もしくは脳内そのものになっていった。九大Y先生は吉阪隆正の門下であったから、こういう話はいくらでもあるのかもしれないが、その中でもかなり重要なエピソードを伺うことができたように思った。今、我々が目にできるあの無数のドローイングは、今(コン)、今井という言わずもがな2大巨人のキビシイ目により育まれたこと、苦手克服のためのカゲ練を自らの意志で実行した吉阪の執念の上に成立していたことに、求道の普遍を感じた。繰り返し繰り返し同じことを行うことによってその「みち」ができあがる。いつものことながら、なにかを会得していく「みち」とはかくも単純でわかりやすい。しかし、思いの外そこを行くか否かが凡非凡の分かれ道となっている。チラシ一枚を介した意味深い打合せであった。

 

 

 

 

 

2009/03/29 第70(日)作り話的
たとえばアリータイムズやハーパーなどのバーボンウィスキーに対して、イングランドのシングルモルトはより地方色豊かである。蒸留所というより蒸留所の背景である場所が味を決める。ハイランド、ロウランド、スペイサイド、アイラ、キャンベルタウン、といういわば香りの地方巡りが、バーという小さなの空間の中で、しかも一晩の内に楽しめるのである。
その中でもアイラ島のモノは、スモーキーな香りで独自のもの、愛好者も多い。液体バージョンの葉巻タバコといったところか。自分が初めて口にしたのは、アードベック。入江という意味の銘柄が示すとおり、「潮の香り」と賞される風味。その他にもボウモアとか、ラフロイグなどの銘柄がこの地に9つある。この独自のピート(泥炭)臭?がやみつきになる人もいれば、ヨードチンキ、とか正露丸ではないかなどと、罵詈雑言を発しながら嫌う人も多い。
勝手知ったるハズのその香りが、そのバーで味わったものは、同じアードベックながら、全く違った。熟成年が違うとか特別なカスク(樽)であるなどではない。合成酒ではなく、100%原酒製法の時代のものだからだという。「合成酒」とはなにごとか。日本酒には醸造用アルコールに清酒の香りを付けたものが公然とある。料理用酒などはまずそうだし、そうでなくとも、「純米」を唱っていない本醸造や吟醸はすべて、醸造用アルコール(エタノール)が含まれている。(合成酒とはいわないにしても)日本酒は、ある意味、両者が明確にされ、併存している。だが、今日のウィスキーは全て合成酒だというその老バーテンダーの言には正直驚いた。合成酒でないというその時にたしなんだボトルはもちろんラベルからして現行品とは違ったし、あの強烈なはずのアイラ流ピート臭、あの不自然とも取れる香りのオリジナルは、実に自然な風味であった。これならヨードチンキなどとは言われないだろう。そして、「潮の香り」という比喩がうまれたのにも納得がいく。アイラ島という小さな島の入江の風景もぐんと臨場感をもってくる。
だが、こんなものは今はもう作っていない。従って世界中に散らばる在庫のみ。それらを一本数十万も費やしながら、その老バーテンダーは手に入れる、まるで必ず上がる株を買い集めるように。でもおそらく奥さんからはナニヤッテンダー、の扱いを受けている。つまりは、私たちが日常口にできるような代物でなない。こういう作り話的なモノづくり、作り話化したモノの類、口にする産物については、個人的には知っているつもりであってもこのように無防備であった。そして建築の材料のことを想像するなら、それもそうかも、と妙に合点がいく。私たちの日常をとりまくすべてに渡っている、ということが解る。モノから真の豊かさを得る、の深奥は幕内にてということか。

 

 

 

 

 

2009/03/22 第69(日)押し売れない感性

茂木健一郎氏の著書は、例えるなら、カランカランに晴れた地中海の青空のようである。曇りもあれば雨模様も少なからずあるのが本当の空であるが、描くならこの空、というひたむきな絵描きのように、彼は明るい世界を人間の脳内に見続けようとしている。暗い部分はそのつもりがなくともきりがなく情報として入ってくる時勢、明るい生き方の指南書のようなものともいえる。また、その明るさの背後には、自分の家族や親類を愛するのと同じように、彼の広く開かれた人間愛のようなもの、さえも感じる。人生の大先輩というほどには自分と歳の離れていない実在人をこんなふうに書くことにためらいがないわけではないが、しかしこういう徳は、歳を取れば自然に備わるというものでもないだろうから、ここは素直に賞賛したい。
「クオリア立国論」は、「manifest」などという薄文字が背景として装丁に摺られていて、すこし引いてしまう感を得ないでもないが、しかし実際はエッセーの雰囲気でつづる文化論、あるいは哲学のようなものと受け取った。(経済主導の国の骨格から文化主導へという意味も込められている?)レビューに2~3時間で読めると書いてあったが、それに間違いはなかった。食べ物にまつわる「おまかせ」文化、旅館にまつわるもてなしの文化、観光地にまつわる知名度と満足度の話、コンビニやドンキホーテの商品陳列法にかいま見える日本文化、自動車工場にまつわる集団の創造力について、など、彼が実見した様々な場面にて、彼が様々に感じた「クオリア」(質感)なるものの概念があぶり出されている。だれでも経験するであろう、なんてことない日常の中に、日本人の持つ良質な感覚の顕れが、ここでは彼のクオリアによって掘り出され、輪郭が与えられている。そして、それは本来だれしもが持っているクオリアであり、その質への探求が、経済成長を遂げた日本人がこれから見つめていくべきものである、と我々一人一人にまるで呼びかけるように、説かれている。
その人のクオリアは、しかしながら、他人が植え込むことも、のぞき込むことさえもできない。だから、一人一人が自らのクオリアの質を暖めていくしかない。自然、人工物問わず、身の回りにある美しいもの、秀逸なもの、気遣いの背景のようなものを、人が言うからそう思うのではなく、自らが自然に感じ取るれるように、と。有名だからこれはいいのだと感動したつもりになってはいないか、が検証される時代ということか。
日本には美しい建築がある、とおもむろに例として法隆寺が挙げられる。そこでそれが取り上げられること自体、驚くに至らない。だが、数ある法隆寺の建物群の中で、食堂(じきどう/奈良時代/国宝)がぽつりと取り挙げられる。いわゆる金堂や五重塔がある西院伽藍と、八角円堂の夢殿がある東院伽藍のどれにも触れず、その間の、僧たちが日常生活の用を足していたつつましい平屋を日本の美と賞した。この建物はまずもって、法隆寺の一般的紹介に添えられることはない。仮に専門家が法隆寺建築を述べる時に唯一これをピックアップするならば大変な勇気がいるだろう。だが、彼はそこに脚を止めた。西院の回廊を巡ったあと、夢殿に向かう途中にこれを発見した。実際は細殿(鎌倉時代/僧侶が食堂に入るまえの整列場所)という相似形の建物と双堂(ならびどう)の対を成していて、その関係が絶妙なのだが、区画が垣根でバリアをされていて、軒下に脚を踏み入れることができない。おそらく茂木氏もそれをじれったく思ったのではないだろうか。
ともかく、彼は得られやすい情報や知識からではなく、自分自身のクオリアをアンテナにしてこの建物に出会い、なにかを探り当てた。そして、個人の自由な感覚であるけれども、私的な思い入れとか、趣味趣向に消沈してしまうようなものではなく、皆と共有できる原石のようなものをきちんと見分けている。これは付しておく必要がある。こういう感性の持ち主が増えるのであれば、立国云々以前に、建築の文化に値するものが、ああだこうだと云わなくとも自然に備わってきて、人々の生活により関係したものになるのだろう、と思う。(まるで、他力本願ではあるが)

 

 

 

 

2009/03/15 第68(日)ガラクタに代わるモノ

第59(日)で記した、名島の展望台問題。この文書が、コピーされ、一人歩きしているから、そろそろ本人が出向くべきだと、ギャラリーオーナーから声がかかった。時間は空いていたので、残冬が最後の寒さを振り絞るある朝、名島神社に赴いた。秀吉が九州平定後、小早川隆景に与えた名島城が建てられるに際し、小さな丘の上にあった古い神社と境内は裾野に移築(1578年)された。その後博多の大名が黒田に代わった時に、城は移築(1602年)、礎石からなにからごっそり福岡城へ持って行ったから、今は小高い丘のてっぺんはがらんとした平地だけが残る、すくなくとも地表面は。秀吉が、唐津の名護屋城でかの有名な戦国武将達による仮装茶会の直前、ここ名島城に陣を取り、やはり茶会と称する軍議が行われたという。そんなような歴史をもった名島の町おこしをしたい、と、今はなにもないその丘のてっぺんに、かつてあった天守閣を偲んで展望台を作るべく10年がかりの計画がなされている。
その日は、名島神社の宮司さんの話。神功皇后、卑弥呼、徐福、聖徳太子、遣隋使、遣唐使、元寇、足利尊氏、秀吉など教科書で習った古代~近世史が、この名島という小高い丘にまつわる歴史として繰り広げられた。時に大人を釘付けにする古代史は、実話としての信憑性を横においておけば、想像することそもそもがおもしろい。既に港としての要衝でもなく、城下町としての残像もない今の名島の様子からは、なんの予備知識もなければ、なにも想像することができないが、少なくともここは古代史における人・モノ・情報の行き交うハブポートとしての最重要地点であった。確かにここに立つと、遙か朝鮮半島からやってくる舟も、そして博多の町も見事に一望できそうである。(今は雑木が邪魔をしているが)やはり視覚情報だけでは、物事の全貌は見えないもの、そういう目で見ると、セピア色の風景が頭の中で像を結ぶ。
さて、この集まりは他でもなく、名島という実は日本史の要衝地、博多のヘソのような場所に、展望台を建てるという無邪気さに疑問を持った人たちである。私もいつのまにか、そのお仲間になってしまった。だが、本来、自分は建ててナンボの者であって、景観保存論者には倫理的に為ることができない。気遣いも含めて案の定、貴方ならどうする、の設問は投げかけられた。神功皇后は本当は卑弥呼だったのお話、徐福が不老長寿の妙薬を求めて云々、の話すべては、「貴方ならどうする」の設問にさいなまれながら聴くことになった。帰りがけ、一休さんではないが、ふと思いたった。日本で最初か何番目か知らぬが、天守閣を持った城の歴史よりも、ここにはずっと前からこの丘の主であった名島神社がある。これを元にもどしたらいいのではないか。
九州北部には縁起がどこまでも遡る、つまり記紀以前の神社が多い。宗像しかり、香椎しかり、宮地嶽しかり。名島神社は小さいがその仲間である。この小高い丘、正確には神宮ヶ峰という。宮司さんがその空地へ脚を踏み入れたとき、その土地へ厳かに黙礼をした。よくよく考えれば、戦国時代の天守城はこの小高い丘にとっては壮大な歴史の点景に過ぎない。本来の聖域であるこの小さな丘のてっぺんは、かつてそうであったように、お宮が堂々と鎮座するのが最も座りがよいのではないかと。一本の老桜と雑木だけが今はある平地に社が再び鎮座する。400数十年ぶりに、そこが境内となる。今は、宴会禁止となっている老桜を春、人々が宴で囲む。海を見やるとかつて神の山とされ、畏れられていた志賀島を眼下に望むことができる。神社の成り立ちに素直に、宗像と同じく朝鮮半島への軸線を持つ。あるいは、21世紀に考え直された神社なのだから、21世紀の様相があってもいい。境内には、社殿以外の建物はなるべく低く抑えられる。地面に埋めるというより丘の斜面を利用すれば、コストも膨らまなくて済む。(鈴木了二氏の香川の金比羅宮プロジェクトが思い出される)社務所や町の寄り合い所はもちろん気持ちのよい空間として計画され、さらにはこの地に眠る、思いも寄らない壮大な歴史をかいま見ることのできる小さな回廊(ギャラリー)、そして眺望が良いので、カフェなどが仕込める空間が併設されてもいいはずである。境内は、かつてそうであったように子供の遊び場として用いられるようにすべきだが、決して、ジャングルジムなどは設けない。丘の斜面に適当な草が生えていて、麓に砂場などで受け皿をつくっておけば、それが自然に滑り台になるだろう。もしベンチを設けるなら、これも凡庸なものではなく、遊具としてとか、あるいはそうではなく神域に相応しい慎ましいものを考え出すべきだろう。肝心の社殿のスタイルはどうすべきか。これには、すこしイメージがあって、杉本博司氏が直島での護王神社の再生プロジェクトを参考にしたい。神社のカタチには、神妙造、住吉造、流れ造、八幡造、などの型があるが、そういう型、様式が生まれる以前の祖型を辿ってみたい。ここはそういう由縁の神社なのであるのだから、当然の所作である。
法隆寺や伊勢神宮などの、長らく残る建築の変遷や修理履歴を見ると、だいたいある時期ある段階で、付け焼き刃の修復とか、その時の都合にて増築、オリジナルに変形を加える時期というのがある。(詳述は避ける。)それが、後の時代になって、考証され、これはおかしいとわかると修正され、オリジナルへ戻される、というシナリオを持っている。この地で今計画されている某は、もしかしたら、後々修正される類のものではないか、と危惧する。そういう考証が必ず行われるに値する、場所の歴史的強度を名島は持っているからである。本当の意味で町の利益になるためと考えるなら、殊、名島、否「神宮ヶ峯」に関しては、個人の好き嫌いや趣味を超えた「場所」、日本人なら誰もが遺伝子共々親しんできた「聖域」を再生することに勝る構想はないように思われた。

 

 

 

 

 

2009/03/08 第67(日)骨抜き八方美人
鳩山邦夫総務相による、東京中央郵便局の取り壊し現場視察の映像は新鮮であった。建築の保存問題、問題になってもほとんどのものが取り壊し立て替えとなる事例の中、国の閣僚クラスが保存側の先頭に立ち、しかも「抜き打ち」と称し解体現場で声を荒げ異議を唱える姿というのは、めったにないことである。もちろん、この建物の保存問題が、郵政民営化という国策の結果として導かれたものであるから、政治的な意味で国がらみであることには、間違いはない。背後にあるかもしれない政治的なことについて私は門外漢だが、国としては民営化され自由競争にしたからといって、文化財クラスを壊していいことにはならない、と親離れしようとする子供を、今更ながらしつけている様子でもある。
東京中央郵便局は、旧逓信省に属していた建築家吉田鉄郎(1884-1956)の設計である。「規格化は早くから実施され、建設過程の単純化と迅速性を目指した。しかしこのことの中には、日本人が制限された型の中でつつましく彼の個性を発揮するために、型に従うことがまた表現されている。建築家の小我はそれで制限され、日本の建築は、あの落ち着いた控えめな、倫理的な美しさを発展させることが出来たのであった。」(「日本の建築」1952の結語より抜粋)彼は建築家であると同時に日本建築の研究者でもあり、海外への紹介者でもあった。また、日本建築の思想を現代(当時)において実践するモダニストであった。日本建築の清純性、日常性、規格統一性は、自然を乗り越えようと言う意志より、同化する、もしくは寄り添うという根元的な感性が造り出したモノであり、これからの日本のモダニズム建築とその作者(建築家)には、同様の感性が必要だということが述べられた。このあたりの言及は、桂離宮という歴史の中にモダニズムの美を発見したブルーノタウトの感性と相通ずるものがあるだろう。(ちなみにタウトを桂へ案内したのは吉田鉄郎である。)「建築家の小我は殺されるべき・・」の文言は建築家とかデザイナーという職域の裾野が大きく広がった今では、表沙汰にしにくい物言いであるが、それでもどこか奥の方で異様な底光りをする一言ように思われる。
また、同書のはじめにはこういうことも書かれている。「(略)仏寺の章では、法隆寺には大陸的色彩が少なくないとか、法華堂、特にその背面は仏寺建築の代表作であるとか、夢殿よりも栄山寺の八角堂がいいとか、鳳凰堂はどちらかといえば工芸的建築である上に、大衆的で薫りの高さがないとか、勝手な批評を加え・・(略)」
つまり、吉田は建築史家のように中立的な視点で歴史を見ていたのではなく、作り手としての自分が参照すべき歴史を取捨選択していた。その取捨選択が、吉田の思想に他ならないし、数々の歴史書にはない痛快さを読者に感じさせるものに仕立てた。そしてなによりも、作り手としての歴史の見方が見習える教則本となった。そういう筆跡に刻印された思想を心に留めておきながら、東京中央郵便局という実作を見ると、愉しさは倍増する。有名な建築家が建てたものだから残そう、とか、大事そうな建物といった漠然とした感覚であっても、そういう感性が多くの人に自然に起こるようになると言うこと自体、すばらしい。だがこの際、建築の話題として一般化した珍しい事例なので欲が出るが、吉田鉄郎ほどの内容がある事例なら、もう少しだけ話のディティルを、専門知識としてではなく一般知識、あるいは物語として広く社会に紹介されてもといいように思う。各メディアが限られた行間に記す「モダニズム建築の代表例」に間違いはないが、外観が単純であるのに反して、本当は日本の美にかかわる意味深長な一物なのである。良いモノが残らないといけない時は、モノが筆授(言葉)では伝えきれないものを強く相補してくれる時である。伝えていくべきメッセージがモノとして刻印されてあるから、保存の必要性が生まれる。それらのメッセージがかき消されていくような表層的な、言ってみれば思い出見出し的な残り方は、骨抜きされた八方美人ということになる。

 

 

 

 

 

2009/03/01 第66(日)カラーサンプル外観

建築をやっていて、一つだけいいことがあって、それは、どんなにつまらない町に居てもそれなりに暇つぶしができるというのがある。お金をかけて海を渡れば、もちろん目に飛び込む全てが愉しいのは言うまでもないが、そうではなく見慣れた町並みを渋滞で滞る車中から見ていても、それなりに愉しい。厳密には、愉しいの中に疑いや嫌悪感も含まれるが、とにかく子供のように、時間はつぶれる。
最近のマンションの外観デザインを見ていると、(今更というようなことでもあるが)一昔前のモノに比べて、色の多いことに気付く。そのカラフルさは、鉄と石、というような異素材の組み合わせによって出来上がるものではなく、あくまでも単一素材による色違いによる表現であるところが、これらの類の共通点のようである。私たちが普段目にするマンションならば専らタイルが外装の定石だから、既製品の某タイルの色見本を基にした「カラーコーデネート」である。その見本帳の中から何色選んでも、工事費は上下しない。お好きにどうぞと言わんばかり、子供がマーブルチョコを目前にした時の気持ちの高まりと似ている。それは、辛うじてデザインされたもののように見せつつ、工事費を上げないための方法論であるとともに、(言ってしまえば)設計作業の簡略化でもある。設計者の色彩感覚だけを頼りに、決め手のない配色へ労力がそそがれる。室内コーデネーターが裏地(内壁)に対して行っていたことを、ひっくり返して取り組むのにも似ている。
この、外観の色見本化という流儀は、アメリカの商業建築が源流として太いようである。ショッピングモールの設計者として固有名詞化したジョンジャーディーが70年代後半にアメリカ西海岸のサンディエゴにカラフルなモールを作り、それまでの退屈な大型店舗のイメージを覆した。以後彼の作品?には色による華やかさがくり返される。福岡のキャナルシティーやリバーウォークを見てもその手法が海を渡って極東に達していることがわかる。今に至り、日本中(もしくは世界の随所)の数多の郊外型大型店舗の基本的な美学は、彼が手法化した(実は安上がりの)カラーコーデネートに席巻されている、と言っていい。並ぶ商品では差別化の図れなくなった大型店舗が、色という最も容易に採用できる化粧を外殻に施し集客力を図ろうとしたそれら常套手段が、同様に過当競争に陥りながら安さを強要されるマンションの「イメチェン」手法に転移したと考えるのは、自然なことであろう。
そんなことを考え始めると、ここにもあった、あそこにもあった、とその手の外観が町中を埋め尽くしていることに気付く。と同時に、これまでなんにも気にも留めていなかった、無愛想な単一素材(おおよそタイルには違いないが)で構成された少しだけ古いマンションの中に、清々しい美さえあることに気付くようになる。そういうものには安さや手抜きを隠そうとして却って露呈されてしまった醜さの代わりに、潔さの魅力をも感じる。(単一素材でできていればいいというわけでもないが)そもそも、一つの物事を取り上げれば、そこには無数の次元、質的差異が層を成しているのは免れ得ようがない原理だから、マンション業界をまるで見下したようにアレコレ折檻するつもりなど毛頭ない。そのかわりは当面、このカラーサンプル外観の件について、ビジュアルとして目に飛び込んできたものはしょうがないが、ヴィジョンとしては違うモノを神棚に祀ることになる。お口直しならぬ、目直しとして正反対のモノをヴィジョンに据えたい。今思いつく対抗馬、というか比較にもならぬずっと上質なものづくりの例として、アルバーアアルトの夏の家(1952-53)の中庭レンガの壁、などと思う。実はまだ現物を見たことがないのだが、あえてその欲求を込めて、あの中庭だけに繰り広げられた赤煉瓦の様々な積み方を脳裏に温めている。横方向のみならず縦に、レンガの焼け具合、規格寸法、目地の巾や奥行きなど、手に入れることのできる地域の伝統的な建築材料であるレンガを基にしつつも、そのわずかな多様性から50種近くの表現のバリエーションが一つの空間(中庭)で試されている。赤煉瓦(釉薬タイルも混じっているが)のみでこれほどの複雑な各表情が編み出せた、ともいえるし、にもかかわらず破綻せずに全体が保たれているとも言えるし、意匠上、想像以上に難しい(危険な)ことを、さらっとやっている。オリンピック競技でいうところの難易度の高い技を成功させた芸術的映像と等しい。だから、成功したものに実験住宅「コエタロ」と言い続ける必要もないとさえ言える。「コエタロ」のレンガの壁も、いわばサンプル化された外観に他ならないが、マンションのそれとは次元が異なる。それは当たり前、サンプル帳をユビ指して出来たモノではない。サンプル帳を構成するべく一つ一つを作り構成したものである。眼前のマーブルチョコに心ときめかせたのか、まだ見ぬマーブルチョコを創ることに心ときめかせたのか、という大きな違いがある。

 

 

 

 

 

2009/02/15 第65(日)クソリアルライフ
色とりどりの山菜の小鉢、イワナの塩焼き、自家製の漬け物、無数の皿が薄暗い田舎間の一角に並べられた風景。ヤマブドウのジュースが垂らされ深い紫色になった焼酎お湯割り。もう一週間が経つが印象が消えない。山形のどこか知らぬとてつもない僻地の雪景色。とある雪国の過疎生活をブラウン管から垣間見た。バスでたどり着くことのできる隣町から、冬の唯一の移動手段であるスノーモービルで1時間半。積雪3mの上を滑走する。かつて林業が生きていた時代には数百人が集まり住む集落も今は一組の老夫婦と独り暮らしをする親類の計3名とのこと。先の夕食風景は、70を超える老夫婦のものだった。2人の一日は、まず雪かきから始まる。いわゆる日本海側の豪雪地だから、冬は3日に一度は屋根の積雪荷重を和らげてあげないと、建物が存続しない。住まうという営為としての雪かきが終わると、漬け物の仕込みとか、シミ大根の仕込みとか、イワナのつり上げとか、主人の本業はマタギ(猟師)であるから、吹雪でなければ、にぎりめしを抱えてウサギの足跡を追いかける。晴れた日には、丸一日かけて隣町に豆腐を買いに行く。これだけは保存が効かない。つまりは専ら、直接的に食物の調達に関わる仕事が多くの時間を占める。否、営みのほとんどすべては自らの衣食住に直結している。生活は消費する以前に生産活動そのものである。だからお金も掛からない代わりに、他者のための奉仕も少なくてすむ。逆に言うなら、自らの働きの中に他者の存在は小さい、自己完結度が高い、とそのようなことを以前記したこともあった。自給自足の生活というものが、慣れ親しんだ都市生活=消費生活の遠い向こうにあるから、そんな番組に釘付けになる。
終始自然を相手に仕事をする自給自足の生活は、都市生活者にとってのバーチャルなユートピアということであるが、その前に、消費生活そのものがバーチャル化の傾向を持っている。最も卑近な事例が、昨今の金融経済の破綻である。1でしかないものを10に見せかけたり、将来100になることを目論んだりというシステムの崩壊である。壊れるとそれはでっち上げの仮想であったことが判明する。また、これも度々話に出すが、マグロの切り身が海を泳いでいると思っている子供達の存在。モノを消費するだけの生活は生身のモノを捉える機会を得ない。また、大量生産の現場は、モノはモノ以外の何者でもない。モノに作り手の心が宿るなどとは考えない。死身か不死身かが問題であって、生身は厭われる。
都市であろうが田舎であろうが、現代生活に自給自足生活的なクソリアルな生産活動をどれだけ盛り込むことができるか。それは、モノや自然を物質としてしか捉えない非アニミズム的思想にいつのまにかすり替えられてしまった現代日本人の心身の健康回復に関わるだろうし、さらには環境問題を起こした根幹にも関わるだろう。尤も、そういう言説は私が言わずとも世間の知恵者が既に警鐘している。それらは得てして教養の一方通行であったが、今頃は妙にリアルな説得力を持ち始めてきたように思う。

 

 

 

 

 

2009/02/01  第64(日)「犠牲の燈」抜粋
「建築の七燈」(ジョンラスキン)における「犠牲の燈」を先週取り上げたが、その内容に比してあまりにも軽率に扱ってしまったように思うので、今日は訳文をピックアップして追記しておきたい。
「信仰的なものや記念的な建築は、他のものより一層精神的な事柄が深く関与していなければならない」
「我々にとって純粋な建築と為り得るものとして、望ましい「捧げ物」あるいは神への「生け贄」としての精神を有していることが重要なのである」
「最小の経費で、外見上最大の結果を生み出そうと願う、現代(これが書かれた19世紀中を示す)に拡がっている意識とは相反する法則を導く燈なのである。」
「労働の結果によって出来上がり、単に高価さだけではなく、物質とそれに見合う労働にかけた時間が、外見上の結果とは無関係であっても、神に捧げるべき供え物だと言いたい。」
「精神的な生け贄だけが必要不可欠になったまさにその時点・・・」
「技術や宝も、力も心も、時間も苦労も神へ献納物として敬虔さをもって捧げることに努めるべきだ。」
「私は大理石の教会を、教会自身のために微塵も要求していない。教会を建てる人々の精神を要求しているのだ。」

教会も寺院も、その精神的背景も縁の遠いものとなってしまった現代の私たちにとっては、これらの発言は時代錯誤で、実に暑苦しい説教に聞こえてしまうか、あるいは、鮮度のある理想として捉えることができるかのどちらかである。また、言い換えるなら、「大文字の建築」が存在した時代、「建築」の主導原理を宗教建築が導いていた時代の理想であって、現代には当てはめにくいとするか、あるいはむしろ、現代建築の空隙を言い当てている、と捉えるかの分かれ道でもある。
かつての「建築」には人による人以外の世界への「際限なき」献身の安住地があった。現代は、自由資本主義社会に根ざした対物対人的な取引だから、建築の精神力は常に対価(費用)の量、つまりモノの力に吹きさらされているということでもある。

 

 

 

 

2009/1/25  第63(日)初詣、修学旅行、建築の動機

およそ16年ぶりに奈良を巡った。前回は修学旅行、ではなかったが学部を卒業した折りに友人との古寺行脚、いってみれば建築学生としての修学旅行であった。京都は何かの用事が発生しないでもないし、1000年都としての魅力、世俗的な魅力あり、新幹線が停まると言う意味では立ち寄りやすいところであるが、奈良はそういった要素がことごとくない。もちろん、京都と奈良は少なくとも建築文化としても同じではない。土門拳の古寺巡礼を見てみると、奈良に始まり第五集にて京都で締める。奈良県から16点、京都府から11点が載っている。写真家杉本博司氏は「藤原期以前のものが好きだ」と述べてあった。我が師は「京都に行くなら奈良に行け」だった。建築家の柿沼氏も、古典といったら奈良だろうと。
ということで、16年前に見たモノをもう一度巡礼することになった。我ながら例年にないゴージャスな初詣になった。
1日目
圓成寺・・・創建は756年という言い伝えだが史実的には1026年、妙禅上人が十一面観音を祀られたのが始まり。ここは本堂もいいが、春日堂白山堂という対の神社がある。本来ならスクラップビルドされる春日神社の社殿が1226年の式年遷宮の際、永久保存が目論まれた。物理的に、日本最古の春日造りである。
東大寺・・・741年、聖武天皇の「国分寺建立の詔」「国家鎮守」のための総本山として大仏建立が目論まれた。但し前身は、金鐘寺(聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせた寺)
法華堂・・・744年ごろ、東大寺の一部、不空羂索観音を本尊とするから羂索堂、もしくは3月に法華会を行うから法華堂とも三月堂とも。
戒壇院・・・754年、鑑真和尚が日本で最初に着手した受戒のための場が縁起
新薬師寺・・747年、聖武天皇眼病平癒のために、光明皇后により建立
十輪院・・・元興寺の別院として創建か
元興寺・・・仏教伝来の始源に関わる、正式な仏寺の由縁を持つ。588年、飛鳥の地に北興寺(飛鳥寺)として蘇我馬子が排仏派の物部氏を制圧の後、創建
興福寺・・・710年、山階寺(藤原鎌足が大化の改新を成就する祈願寺として、あるい鎌足の病気平癒のために創建)が平城遷都に併せて移築され興福寺へ。
2日目
秋篠寺・・・776年、光仁天皇勅願~桓武天皇に引き継がれ創建
薬師寺・・・680年、天武天皇により発願~持統天皇により697本尊開眼~文武天皇時代に飛鳥の地~710平城遷都に伴い現在の地
唐招提寺・・759年、聖武天皇より寵招された唐の鑑真和尚の開祖。唐招提寺=「御仏の元に修業する人たちの場」という意味
法起寺・・・606年、聖徳太子が法華経を講説された岡本宮が寺に改められた。
法隆寺・・・607年、推古天皇と聖徳太子がなき用明天皇の御依願を継いで斑鳩寺(のち法隆寺)を創建
中宮寺・・・621年、聖徳太子の母穴穂部間人皇后によって創建

3日目
当麻寺・・・612年 用明天皇第三皇子麻呂子親王が聖徳太子の教えにより創建
三輪山・・・おそらく縄文時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされている。山そのものが御神体。
山田廃寺・・643年、崇仏派の蘇我氏石川麻呂の開祖
川原廃寺・・600年代半ば、創建の説、謎の大寺。飛鳥寺(現元興寺)、薬師寺などはその本拠を平城京へ移したが、川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまった。
石舞台古墳・・・蘇我馬子の墓であったとする説が有力

4日目
吉野の金峰山寺(蔵王堂)・・役行者600年代末、金峰山を道場とし修業し、蔵王権現を監督し、そのお姿を桜の木で刻みお堂を建ててお祀りしたのが始まり。
吉野水分神社・・・創建は不詳。「水分 = 水配り」の神の鎮座地
室生寺・・・山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒、その願解きのために興福寺の高僧修円らにより創建
今井町の散策・・古くは興福寺の荘園、室町時代に浄土真宗寺院を中心とする寺内町となり、環濠集落の構造を持った城塞都市として発展。大阪の堺と同様、自治都市として栄えた。

巡った古典建築と我々の時代が今建てている現代建築との乖離。それを、およそ1300年の時間の開きだということによって素直に納得していいものだろうか。そう理解する方が賢明に違いないが、そのままではどこかで先人達の建築精神に劣等感を感じながら建築を建て続けることになってしまうような気がする。手をこまねくばかりでは仕方がないので、まずは、それらの当面の建築の目的=建築の動機のようなものが現代とどう違うのかを見てみようと、巡った順番に各縁起を箇条書きにしてみた。拝観の際の小冊子に書かれてあるものをとりあえず信用するとして、いずれも仏寺であるから、仏教への帰依が土台にあるのは言うまでもない。だが、そういった信仰の動機には、人間の欲求が厳然としてある。東大寺の前身である金鐘寺にしても、室生寺にしても、また新薬師寺にしても、当時の天皇や皇族のその都度の疾病平癒を願うもの、言ってしまえば付け焼き刃の神頼みと言えなくもない。大仏建立という国家鎮守の目的は個人の病気よりは高次であるかもしれないが、政権維持の道具といってしまえば、それまでかもしれない。今は史跡でしかない山田廃寺や川原廃寺の敷地に立ち、鄙びた飛鳥の地に当時の仏寺群がたたずむ情景を想像することはできたが、それらが成立するためには、仏教の輸入を推奨する蘇我氏とそれを拒もうとした物部氏、つまり急進派と保守派の血なまぐさい争いを経なければならなかったということにも、触れてしまう。興福寺に至っては、藤原氏の氏寺であり、古代から中世に至る権力を行使するための焦臭い実質的象徴的建築だったと言っていい。仏寺とか古代の仏教(江戸以降の葬式仏教に対して)というと、現代人からするとややもすれば非日常的な崇高さが漂いがちであるが、さにあらず、仏教王国時代の人々もその思いの奥底は、今と変わらない欲得の世界であったということになる。
だが、古の仏教建築に人間の欲得を看破してみても、法華堂の内部空間、新薬師寺の内部空間、東大寺南大門や転害門の架構、当麻寺本堂の外陣、内陣、金峰山寺の内陣(今回は、脚を運ぶことはできなかったが、伊勢神宮の神域も同一例として挙げられる)等の持っている建築の力のようなものを理解したことになるだろうか。おそらくその力とは、言葉が扱いにくい範疇である。何度訪れてもいいもの、精神を障ることのない貴きもの、仮に薄暗くても清々しいもの、目では確認できない何かが存在する雰囲気、そんなことでしか言い表すことのできない根底を、もう今一歩、かみ砕きたいと思っているのだが。
今のところ、思いつきで言うことができるとすれば、「建築の七燈」(ジョンラスキン)における、犠牲の燈(第一章)ではないかと。手前の要約になるが、建築の質は関わる人間の犠牲の程によって決定される、というものだ。建築を学んだものなら皆知っているこの160年前の名著は、本来明言しにくい「良い建築の条件」なるものを、(ゴシック建築を中心に据えて)実に軽快に、しかし重量感を持って力説している。おそらく、古典にあって現代にないものは、一所にかけられた犠牲の程の差なのかもしれない。人はより少ない労力と材料で広さとか室温とかコストとかの論理的な必要を目下の目標として建築を改良してきた。言い換えれば、合理的精神を育んできた。結果、一つを造るために人間が働く量は時代を経るに付けて激減していった。さらに付け加えるなら、建ったのち、どれほどの人々がその空間にて、精神的な密度のある時間を過ごしたか、これが後の建築の力、もしくは空間の崇高さに関わっているなら、古今の差はここにもあると言える。例えば、仏像コレクター(時に仏像盗人)が祈り込まれた仏像を求めて、古物商の商品棚ではなく寺院の本堂を物色するように、モノや空間にはそれを用いる人々の想念が写し込まれる。そんなオカルティックなことはありえないと断言することのほうが、そろそろ難しい時代にさしかかっている。1000年以上の間、人々により祈り込まれた空間=人が純粋な精神で集中する(=祈り)空間がある種の場の力を作り上げていく。風呂に入る、料理を造る、食事をする、寝る、仕事をする・・は、人間の自らの存在にとっての従順な営為であって、犠牲とは言いにくい。もし「祈る」が、犠牲の行為、時間なのだと捉えると、その空間にはラスキンの言う名建築の燈火が灯る。巡った建築はそういう類のものであったような気がする。

 

 

 

 

 

2009/01/18 第62(日)典坐教訓

この事務所をふりかえるに、いかに雑用の多いことか。その原因の一つに、マカナイ食制度がある。昼と夜、一汁一菜のイメージで各人当番で飯炊きを行う。朝から晩まで事務所にへばりつくのだから、コンビニ弁当や外食で毎日の食事を済ますよりは皆で工夫をして、安く、健康的で、美味しい(美食ではないが)飯を生活の基礎にすべきだとの考えからである。ワイマールバウハウスの黎明期、グロピウスがお金のない学生達のために台所を設け、自分も学生といっしょに食事をしていたという逸話も、どこかで見方に付けている。一説には、事務所から離れる時間がなくて窮屈だという意見もあるが、所長の顔を見ながらの飯が消化不良になるか、外で添加物をとり続け歳を取ってから身体がおかしくなるか、どちらがましかという問題でもある。個人的には後者を回避するためだと思っている。
このまえは、包丁研ぎをシンマイへ命じた。研ぎ方の1から教えるはめになる。人造石は一定の時間水を染みこませていないとうまく研げない、自然石のそれだとそういう必要がないこと、研げたかどうかの確認の仕方、云々。そんなことを言っている自分がなんだかよくわからなくなる瞬間でもある。が、そうではないはずというつもりはある。直感的に、理屈抜きに、人間の生活とはこういうものだ、と。食べ物も建築で言ったらプレファブリック化、つまり現場生産ではなく、工場にて加工されたもので市場は溢れているから、うまくやれば包丁など用いずとも済む。世の中を取り巻く全てに渡りアンリアルな、とかくモノが抱える真実の世界から遠いところに追いやられてしまった人々にとっての料理は、包丁が切れるとか切れないとかの感触などに敏感になりようがない、ということか。いずれにしても、料理をするのなら、切れのいい包丁でさくさくカタチを作っていくのが圧倒的に楽しい。材料の加工そのものに快感を得るために、鋭く輝く道具を持っている大工や左官などの職人となにも変わらない。
道元禅師は、あの正法眼蔵を完成させる以前に、「典坐教訓」(てんぞきょうくん)という料理に関する作法を詳しく戒めた著書を書いている。永平寺建立(1244)の前に京都の宇治に興聖寺を建てた頃の話である。米を研ぐときには桶に穴が開いていないかどうか確かめよ、とか米に異物が混入していないかどうか、とか・・コマゴマとしていて実にほほえましい。正法眼蔵という人間の深奥に迫る壮大な宗教思想を著した才が、そのまえに飯釜の底の穴を確認する旨を教典化していた・・いや、まずは、食という日常生活の基本を問い直そうとしていた。これには宋における修業のエピソードがある。中国の港で禅師は当地の老僧に出会う。彼と仏法の話をしたく、一晩ここに留まらないか尋ねたところ、彼は食事の役僧(典坐)であるため帰らないといけないと辞退した。禅師はそんなものは若い僧にゆだねて、もっと法に関する本質的な話でもしましょうと切り返したところ、老僧は、「若い日本の僧(当時の道元)、あなたは仏法のなんたるかがまだわかっていない」と一笑して、帰路についたという。順不同になるが、こうして典坐教訓が導かれたという話である。
こういう話を掘り起こすと、設計の指図に混じって漬け物桶の具合を所員に尋ねる我が身は、幾ばくか救われる。

 

 

 

 

2009/01/12 第61(日)モノ化するヒト

派遣労働者の解雇の様子が、年を越えても止むことなく聞こえてくる。自分は同じ立場ではないとはゆえ、人ごとではない某かを受け止める。雇用と被雇用の関係は言うまでもなく互いの利益が根底にあって、これら派遣の人々はそれらの取引が極めて短期的、言葉が悪いが「行き摺り」の関係が露わになったということだろう。表には企業側の非情が伝わりやすいが、関係は両者によってつくられる、と客観的に考えることもできる。とはいえ、大手企業(特に大手自動車会社)のこれらの迅速非情な対応から見て、資本主義経済がこういうリセットが必要なことぐらいは予め解っていたのだろうから、確信犯といえなくもない。
この問題は、源流を遡ればキリもない。雇用者を単なる労働力としか見ていなかった経営者が悪いとも、そもそもそんな経済状況を制御できなかった政治がいけないとも、なんとでも言うことができる。殊、同じものづくりに関わる立場としては、モノを作る量、すなわち大量生産に多くを支えられた社会構造を今更ながら疑問視したくなる。もちろん、大量生産社会への体系的な批判はすでに過去にあった。70年代始め、シューマッハ(経済学者/F1レーサーではない)がスモールイズビューティフル、そして大量生産と手工業の中間規模の生産が相応しいという中間工業の概念を打ち建てた。もっと辿るなら、19世紀にはアーツアンドクラフツ運動もあった。工場で生産されるモノの質への疑い、工場労働者の非人間的な生産環境への疑い、といったものであった。他にもあるのかもしれない。だが、そういう「警鐘」の時代をくぐり抜けて、量産社会はグローバリズム社会へと発展、改名し、その核心は不幸にも今日に「継承」されてしまった。生産物も生産者もモノ化の原理を強めていく、これが継承されてきた。モノの原理とは、受容的であるより排他的であり、唯一無二というより代替可能であり、恒久的というより消費され、古くなる類のものである。その極まりが、今、ヒトの身の上に起こっているということになる。
もちろんモノ化は、大量にモノをつくる大企業だけに起こっているのでもない。ヒトをモノのように殺める理解しがたい犯罪もさることながら、ペット税導入議論の中に取り上げられた、「大きくなりすぎたから引き取って欲しい」という、何よりも利便が勝ってしまう飼い主の話などにも現れている。ヒトとヒト、ヒトとイキモノ、ヒトとモノ、ヒトはあらゆる他者をモノとして見ているし、そのように見られている。日常に巣くう「モノ化」が日々、顕れている。
石原慎太郎氏が、年始の新聞コラムで、人間の欲望が今日の世界規模の問題の根源である、と述べてあった。単純であるが正しい。そして、モノ化の原理とは当にその欲望が育てたものの具体的な表現に他ならない。石原氏はそれ以上説教がましいことを書いてはいなかったが、言うまでもなく現代人は各々の欲望を抑制すべきだと行間に述べていたことになる。それに対して、モノの原理に陥らないということはどういうことかというと、受容的であろうとすることであり、代替できない特質を見つけることであり、使い古されないなにかを大事にすることだ、ということに、自動的になる。欲を棄てよと言われるよりなにかができそうな気がする。

 

 

 

 

2008/12/21 第60(日)ガラクタが床を据えるとき

ギャラリーを営むその人から、ファックスが送られてきた。博多湾を臨む旧名島城(1588/小早川隆景築城)址にRC造の展望台が計画されているという。行政は10年かけて積み上げてきたというが、貴方は専門家としてどう思うか、という問いかけであった。(「建てる」専門家でいいのかどうか)新聞などにもその賛否の議論が掲載され、夕方の地方ニュース番組にも取り上げられた。突き放した言い方をすれば、良くある話、どこにでもある話、そして、批判の要素がありすぎて、どこから切り出すべきかも手が着かない話。二度と造ることができない建築がまた一つ消えていく時と同じように、地上にまた一つガラクタが床を据える瞬間にも罪悪感があるのを感じた。
まずは、最上位概念の「名島城の歴史を継承したい」という地元住民の意見?ここまではさすがに間違ってはいないだろう。その次に、名島城という天守閣を持っていたかもしれない近世の城と同じ眺望を獲得するというコンセプト、つまりは展望台という建築に繋がっていくテーマ。もうこのあたりからが怪しくなってくる。そのデザインは、そのギャラリーオーナー曰く「マンションの非常階段を持ってきて、てっぺんに瓦屋根を載っけたようなもの」である。新聞記事に掲載された立面図を見ると、なるほどこの比喩は実に的を得ている。登ってみたいといと思わせたい、というデザイナーなら持つべきだろう意志のようなものはなにもしない。登っていく過程がない。眺望は、眺望だけで価値を持っているものではないことは、何人も周知である。ましてや日本人が眺望というものを西欧人ほど必要としてこなかったという歴史も一度は考えたいところである。富士山は登るより、畏れをもって眺められた。山岳寺院や山城はそこから下界を見下ろすためではなく、下界と様々な意味で隔絶するための場所であった。五重塔は教会の鐘楼とは異なり、人間が登るものではなかった。天守閣というのも、防衛(つまり眺望)の意味はあったりなかったりの曖昧なもので、より確たる存在理由は権力の象徴、つまり、見上げられるものとしてであった。そう考えると、天守を持っていた「かもしれない」城の歴史と、それと同じ大地にに建てようとされる展望塔の間には、様々な疑いが起こるのが自然である。もしも大学の授業中に学生からこういう提案が出てきたら、教師は社会の縮図として「批判のトンネル」を用意するだろう。「通りたいなら通ってご覧、でも楽には通れませんよ」と。ここで学ぶ疑いの質こそが、現実に建てていくようになったときのモノの質になるのである。もしくはガラクタを増やさないための自己制御能力といってもいい。名島城址の展望台はそういう疑いの過程がどれほどあったのだろう。発注側の行政も受注側の設計者も、「批判のトンネル」をくぐらずに、淡々と事務処理を行った、というような無邪気が計画図からしみ出してしまっている。
もしも「本当に物見櫓を建てたい」というならそれはそれでもいいはずの一件である。建築行為というのは、時に時代や場所との軋轢を生むものであるし、そもそも人間のエゴなのだから。でも土地の歴史文脈に新しい展開を起こすのだから、社会という強い風当たりを覚悟しなければならない。それでも建ったならば、それが建築の質になっているはずであり、人間の自然な営みである。(重要なのは、金勘定に導かれた意志ではなく、建築的な創造意志/例えばこの手の話で有名なのはエッフェル塔)残念ながらこの計画はそういう意志的な水準、創造的な水準の微塵もない。だから、厳しく良質な知恵により淘汰される、と願いたい。否、良質な知恵の一定量がこの地方都市にもあることを願いたい。

 

 

 

 

2008/12/14 第59(日)小さきの難

同世代の現役パイロットと雨の日の屋台で杯を傾けた。話は、一方的に飛行機の話へ。福岡~宮崎間などの地方都市を結ぶローカル線に就いているという。自宅は関東だが、羽田発でない時は、出発地までまずは客として運ばれてからの勤務となる。現場通いで2年前に対馬を往復しているときに、それまでの飛行移動歴最大の恐怖体験をにわかに思い出した。ローカル線勤務に肩を持つつもりはなかったが、より小さい飛行機と小さな空港の方が、ジャンボとメージャー空港の組み合わせより、よほど操縦は難しいのではないかと疑問をぶつけた。案の定、二つ返事で図星の意見。対馬は基本的に山の頂上がかろうじて海面より顔を覗かせたような複雑な地勢、空港は自ずと断崖に削り込まれた僅かな直線にすぎない。パイロット曰く、「空母に着艦するような感覚」を伴う。福岡~対馬間はよく強風の理由で欠航されたが、その日は不幸にも決行された。島に近づくにつれて、小型ジェット飛行機は前後にではなく左右に揺れ始めた。あの断崖が見えてくると、恐怖感が倍増した。車輪が着地する寸前まで、機体は小刻みに風にあおられ続け、素人目には寸でのところで大事には至らなかった、というような着艦であった。心身の疲弊は今でも覚えている。ドル箱といわれる福岡~羽田を往復しても、あのようなことは二度と巡り会わない。羽田空港は平たい海に突き出しているし、福岡だって山に囲まれるなどの悪条件の空港ではない。設備としても自動誘導装置が設置されているから、風の条件が悪くなければ、操縦桿から手を離していても、着陸できる空港である。同じ風であっても、737の小型と747ジャンボでは、当たり前の話、揺れの体感は異なる。「小さいモノを転がす方が技術を要する」という積年(たった2年であるが)の疑問は、そのパイロットの証言により、まず一つは証されたように思えた。
予てより建築も、ある意味大きいモノより小さいモノの方が難しいと思っていた。大きな建築は、大手ゼネコンといわなくとも、請けた地方工務店が普通にきちんとしていれば、やはり規模に即した体勢を整える。現場小屋が設置され、現場監督は専任、他に手下を抱えることもあり、議事録が完備される。施工図が描かれる。等。そして新卒の素人設計士が、その大きな建築の現場小屋にたたき込まれるという教育セオリーが生まれる。住宅などの現場では、数億規模の建築と同じ体勢を組むのは経費上不可能であるから、それらの温床のようなものは基本的に見あたらない。言い換えれば設計者の力量そのままがモノに反映される。モノは小さいけれども、設計者が守るべき問題解決の守備範囲はずいぶんと広くなる。住宅の現場、もしくは中小店舗などの現場は、逆に言えばローカル線の小型飛行機でたたき上げられた、もしくは風にあおられ続けるパイロットのように、より身体で建築を覚えることができる場なのだということになる。

 

 

 

 

 

12/07 第58(日) 物質とのキョリ

それへの憧憬や期待を寄せ集めるなら、そんなものは、文化財級の現場でさえ出現できるかどうかのまれなものだ、といわざるいえないから、避けるべきか。だからあえて職人技とはいわないが、それでも、「個人の技能」の果てには、必ず、彼と彼が扱う素材とのキョリの縮んだ状態を伺うことができると思っている。モノとそれを扱う人間との隔たりがない、そういう恍惚状態のような状況からの産物を信頼する。「職人的ものづくり」というと、(実際はなにも内容を示していないにもかかわらず)手放しで期待する人と手放しで躊躇する人がいるから、もはやこの使い古された言葉は誤解を伴うと思われる。「(対象と)身体化するものづくり」の方が、むしろ客観的であり、その深奥を説明しているのではないかと思う。「機械化するものづくり」がグローバリズム資本主義のものづくりにおける現れであるならば、「身体化する・・」はそういった現代の社会構造の基幹とは字面も意味もキレイに相対するだろう。この場合の機械化とは、油を注いで動くマシーンに限らず、賃金にて働く人間の場合も含む。いずれにしても「身体化するものづくり」は、太陽に対する月のように、役に立っていることが見えにくい姿勢だとも言えるだろう。
先日の辻説法では、グローバリズム社会におけるリージョナリズムという命題に答えよ、という趣旨であったから、やはり、「あるもの」を用い、「個人の技能」を用いて、それが場所の一般解になりうる、と自分が今までやってきたことから話した。挙げ句の果てに、会場から「物質へ近づく貴方の習癖のようなものは、師匠譲りなのか、貴方本来のものか?」の質問を受けた。この質問は、自問自答をくり返してきたので答えることができた。自分のその習癖は、おそらく本来的ではないかと思っている。一つの証拠が、ガンダムのプラモデル時代に有るかもしれないと。当時(小学6年生のころ)ガンブラが異常に流行り、自分たちも例外なくその虜になっていた。自分は、勉強机の隣に小さな模型専用の机のようなものを常設し、隙あらば、勉強机からそちらへお尻がすべっていった。プラモデルといっても、部品をくっつけるだけではなく、塗装工事が各人の表現の舞台となる。また、継ぎ目をどれほど消せるか、とか時には、設計上動かない関節を動くようにしたりなどの改造を小六なりにした。まるで作品と勝手に位置づけられたそれらは、当然、学校に大切に携えて、品評会なる「見せ合いこ」の壇上に載せた。自分は職人的な技術の追求もさることながら、ガンダムを戦闘によってすり切れた物体として表現することに夢中になった。シルバーを小さな筆に染み込ませ、それをほとんどカスカスになるまで塗料の含みを減らし、それから筆を本体になすりつける。そんなに難しいことではなかったが、思いの外友人は驚いた。おそらく技術にではなく、侘びたガンダムにである。
その時は、それで、それ以上何も考察の拡がりようもない、子供の趣味に過ぎないことではあったが、新品のガンダムを最初からワビさせることに夢中になるという感覚と今の自分が繋がってしまうのかと思うと、トタンに仕事上の問題のような気がしてくるのである。

 

 

 

 


2008/11/23 第57(日) 新旧のハザマ

昨年に引き続き、母校早稲田と、東京大学との合同課題となる設計製図授業に関わっている。先日、できたてほやほやの福武ホール(安藤忠雄氏設計)にて、最終講評会を終えた。課題は急速に多国籍化する西葛西の公団団地周辺への提案。今年は、講師陣同士のクリティックに接近戦の一場面があった。その前衛でサヤを抜き合ったのは、双方を代表する諸先生であったので、自分を含めて若い先生達は蚊帳の外、フォローコメントにてむしろ場を沈める立ち回りに終止した。問題となったのは、建築という歴史的概念への疑いであった。この時争点となった歴史的概念というのを平たく言うと、建築は動き得ず、なにか歴然としたカタチをもってそこに在るモノ、という見地になるだろう。さらには、西欧建築でいうならカテドラルの壮大な空間と、その上部からこもれる光、といった聖性なる要素、もしくはハイアートの側面を加えていいかもしれない。日本の建築でいうなら、播磨の浄土寺浄土堂の内部空間がそれに当たるだろうか。早稲田の学生のある提案の一つは、明らかにそれらの建築的古典の理想美を根底に暖めて、現代建築として表現しようとしたものだった。懸命ではあったが、古典美であるがゆえにその根拠は棚上げされ、自明のこととしてプレゼンテーションがなされた。そういう態度に対し、ある若手建築家から「私的な愛好にすぎない」の類の厳しい言葉を受ける。サブカルチャーとの垣根の不明瞭な現代の建築の潮流からすれば、そんな古典的な理想を盾にされても手放しで認めるわけにはいかない、というような行間であっただろう。そこから双方、大小の論争が始まる。東大の提案のいくつかには、歴史的な建築概念(美)とは決別したもの、(古典的)建築的な提案にはこだわらないものがいくつも見られた。住人のめいめいが傘をさすことによって一時的に緩やかな空間をつくる、とか、植物が整然と内部に並んだ白い抽象的なフレーム、とか、カーポートだけで団地をよみがえらせようという案、本棚のようなものがひたすら団地内を増殖するプラン、など。いずれもが、モノモノしい提案を避けて、人間の生活をダイレクトに扱おうとしている。不況時代の風を敏感に受け止めていて、それ自体、時代に相応しい。
一旦、そのように受け入れたときに、あの、建築の古典美、歴史意識のようなものはどこに置いておくべきなのだろう。暗闇を抱えた物体、星霜を積み重ねてそこにあり続ける物質、存在の力強さ、鈍い光、深い光、濃密な空気、そんな類の建築は僕たちにはもう必要がなくなったのだろうか。にわかに理屈が見つからない。

 

 

 

 

2008/11/16 合同講評会(東大福武ラーニングセンターにて)

 

 

 

2008/11/09 第56(日)最先端の不安

昨日、とある講演会に事務所スタッフ総出で押しかけた。地方都市には、数少ない貴重な機会である。実務漬けにならざるおえない輩にとっては、気分転換でもある。話は海外建築家の近作について。これらスーパースター達の作品は、彼らの自国内に建てられるよりも、国境を跨ぐことが普通になってきたとの事実を知る。普段あまり雑誌を見ることのない自分にとっては、貴重な最新?情報であり、学生達が必死になって造形している、その模倣元を嗅ぎつけたことのいささかの快さをも感じた。
だが同時に、(不本意ながら)これらの最先端デザイン群からいささかの感動も得ることができなかった。新しい建築に感動することは建築をやっている者の特権であるはずなのに。正確にはいくつかはその範疇を逸れるが、多くは世界の建築の最先端と言えるにも関わらず、感動の代わりに、これが英知の見ている世界なのだろうか?という疑い、もしくは不安のようなものを感じてしまった。その理由はいくつもあるだろうし、この日曜日だけで言い尽くすことは、基本的に無謀である。あえて乱暴に一言で表現したら、それは、肥大化した人間のエゴイズム、のようなもの、そんなようなものを作品の背景から一方的に勝手に感じ取ってしまった、ということになろうか。そしてそれは、作者に問題があるのではなくて、現代人が共有する根源的な問題が露呈しているのだろうか。
明日、グローバリズム時代のリージョナリズム(地域主義)について、という命題の基で、自分は話をすることになっている。昨晩とはある意味180度逆である。共通部分はあるが明らかに異なるのは、他の追従を許さない、唯一無二の傑作だけが建築の目的ではないという論旨。それから、やはり、人間のエゴイズムを利用して拡大するようなシステムに依存しない、つまりエゴイズムを放任しない、という態度が昨晩とは異なる、と思っている。ここらへんのことをもう一度励まして貰おうと、ドイツの経済学者シューマッハ(1911-1977)の言説を読み返す。昨晩とは異なり、華々しいスライドは一枚たりとも呈示できないが、果たして、その背面を伝えることができるだろうか。

 

 

 

 

2008/11/02 第55(日)エゴロジー

テレビでお馴染みのエジプト研究者、吉村作治氏の講演会に立ち寄った。「エゴロジーからエコロジーへ」ダジャレで始まる表題が臭わせるごとく、冗談の中の真意か、真意かと思えば冗談か、徹底した受け狙いの話ぶりであった。そんな内容のさなかからおもむろに、簡潔明瞭な結論が導き出された。それは、日本の神社で行われるお祭りが、古代エジプトの祭祀慣習ととても似ているというもの。人間という存在の上に、姿の見えない神が存在し、自然を支配している。人は八百万の神たち、そして自然を畏れ、敬う。こういう構図が、結局は政治キャンペーンや、科学技術による解決よりも、環境問題の解決に有効なのではないかというものであった。こういう多神論的、古代思想的なアンチ科学論は、哲学者梅原猛の著書でも読んだことがあった。また、第52(日)で書いた佐伯啓思氏の書でも、近代資本主義の盲点として、宗教(心)の欠落が指摘されていた。ドイツの社会学者マックスウェーバーは、資本主義社会の源流の一つとしてキリスト教プロテスタントの一派、カルヴァン派を辿っている。彼らは、カトリックの教会内における宗教的儀式の類を信仰の形骸化とし、その代わり、自身の中に内なる神を見いだすべく、日常生活の中に勤勉・粛正の戒律を打ち立てる。これらの日々の行いの結果物として、資本という富が結実し、これが信仰の証となる。そして、これらの富は積極的に社会に寄進するべきというメセナの精神が伴う。このような宗教的倫理は、産業革命、科学の進歩に従い、個々人の宗教観の弱体化と共に、次第に精神的な根幹が骨抜きにされ、「富の蓄積」ということだけが輪郭を残すようになっていった。つまり、今日の資本主義は、この勤勉と粛正という宗教的思想が変形し、不完全なものとして継続しているもの、であるという。
大学時代に、宗教などの是非論を肴に夜通し議論しあう友が居た。彼の意見は終始、「宗教は科学が進展する以前の、人間が仮に必要とした便宜的な真理であって、事実を言い当てているものではない」というようなもの。それに対して「宗教を持たなかった民族というのは歴史的に存在しない、それを全部否定できるのか」というように。UFO、幽霊などの存否説さながらの紋切り型をくり返した。もはや、議論は地球の存亡にまで繋がっている。ひとまずは、宗教の信心不信心などというところには触れないにしても、(哲学を含む)科学は人間や自然が生きていくための規範となりうるのか、というシンプルな問いから発するのが良いのかもしれない。

 

 

 

2008/10/26 第54(日)ルサンチマン
蒟蒻ゼリーをのどに詰まらせて、という話題に、思考回路を詰まらせた。死者の報道に添えられるものは「欠陥商品」のレッテルであるが、そのほとぼりがさめる一方では、「餅や飴に詰まらせる事例の方が圧倒的であるのに、なぜこんにゃくゼリーだけがとがめられるのか。」という意見が勃発する。現実には米やパン、そしてお粥でも詰まらせる事例があるのだということが浮き彫りになった。水でさえ窒息するのだから、あたりまえといえばあたりまえか。「餅を食べる頻度の方が、こんにゃくゼリーを食べる頻度よりも圧倒的に高いからこの統計は鵜呑みにできない」「餅はむかしから詰まりやすいことがわかった上での過失である、餅のせいではない」擁護説、駆逐説、盛んな議論が林立する中で、こんにゃくゼリーを含めて、その過失が咎められるものとそうでないものの違いに関して、不謹慎ながら心が留まる。どこに分岐点があるのだろう。
例えば餅の場合は、仮に事故が起きてもその商品が、昔から在る餅より詰まりやすいというものでないなら、本人がいけなかったで済んでしまう。米やおにぎり、パンしかり。もし、こんにゃくゼリーという食べ物が手工業の時代から私たちが慣れ親しんでいたもの、つまり、餅と同じようなものであったなら、仮にそれが工業製品であったとしても、事件は事件にならなかったのではないだろうか。だがこれらは特定の企業が開発し、創り出し、量産して商品として初めて世に現れた。製造を中止した会社のものは販売からおよそ20年、同種の製品の2/3をシェアしていて、昨年の売り上げは100億云々。彼ら製造者は蒟蒻の健康性を遍く社会に恵むために、誰もが作り得ない製品の質を追求してきた。だが、同時に利益も得た。被害者はこういう社会的優越のバックボーンを放任することは出来ない。それどころか、優越していればいるほど、憤りの感情は芽生えるはずである。それは決してこれらの製造に関わった全ての人へではなく、その本質的努力と賞賛と報酬を得た、限られた人たちに対してであろう。工業製品、もしくは工業化社会のモノを介してルサンチマン((http://ja.wikipedia.org/wiki/ルサンチマン)→wiki)が巣くっている。

建築も、モノを創り出す行為であり、場合によっては不特定の人々がそこに居合わせる。(その普遍性に対して追求心の灯火が宿るのだが)例えばここに手摺りをつけたくなくても、そこから落ちる人を想像すると、建築的理想は抑制せざるおえない。山に登れば、手摺りなどなくもっと危ない場所が、堂々と公に公開され、毎日何百人とそこを通過し、そして時々に事故も起こる。海水浴で海に入れば、溺死の門戸を叩いたのと同じである。だれも海の構造を疑うことはない。だがそんな場所が建築にあるなら、そのままでは済まされないわけである。
建築は、餅ではなくこんにゃくゼリーと同じ運命である。

 

 

 

 

 

2008/10/19 秋晴れ

 

 

 

 

2008/10/12  第53(日)「危機の時代」

「人間は進歩してきたのか/佐伯啓思/php新書」を移動の間、読み直し始めた。新書然とした、なんとも仰々しいタイトルが恥ずかしいので、表紙を隠すように。だが中身はというと、やはり新書である、不勉強の我が身にとっては、思想史の通史として大変勉強になる。その中で、スペインの哲学者オルテガ(1883-1955)のいう「危機の時代」の記述に目がとまった。
「古い世界観や信念体系がもはや十分な説得力を持たない、しかし、かといって過ぎ去ってしまったわけではない。一方、新しい世界観はまだ確立せず、様々な新しい試みが出てくる。こうした中で、人々は確かな信念をもつことができず、古いものと新しいものの狭間を彷徨い、世界観の混乱に陥る。」このような「危機の時代」が西欧史には少なくとも3度あったいう。一つはローマの共和制~帝政の崩壊(古代の崩壊)、次に中世から近世へ移項する14~17世紀の間、そして第三は20世紀の初頭。例えば、14世紀のヨーロッパでは、それまで中世世界が握りしめていたキリスト教による神を中心とした世界認識、ローマ教皇を軸にした社会観がうまく機能しなくなってくる。1517年にはルターが宗教改革を促し、ヨーロッパ中に宗教戦争が蔓延する。そういった古いパラダイムが崩壊し始めることにより、ルネッサンスという神ではなくあくまでも人間を中心にして生きようという人文主義や、ローマ、ギリシャ等の古典の再解釈といった新しい試みが為されるが、次の確かなものにはなりえない。(ルネサンスは思想史的にはパラダイムシフトに値しないという扱いである。)もはや何の確信も確かな信念も持ち得ない混沌とした状況のなかで、唯一確かなものはなにかと模索がくり返される。デカルト(1596-1650)は「我思う、ゆえに我有り」に至った。つまり、何も信ずることができない中で、何も信ずることができないと思っている、自分の存在は少なくとも信じられる、いうことである。そうして、それまでのスコラ哲学にもとづく信仰による真理の追究ではなく、人間の理性による真理の追求として近代哲学、自然科学への一歩が差し出される。1610年にガリレオが初めて造った望遠鏡により木星の衛星を発見したり、ニュートン(1643-1727)が1687年、万有引力の法則を発表するなど、という連鎖である。暗い中世から200年以上の空白を送り、ようやく近代合理主義に基づく社会の萌芽が始まる、というのである。
なにか新しい世界観が展開する直前のというのは、その世界観の前身なるものが堂々と積み上げられている、というのではなく、むしろ混沌としていて、先行きがほとんど不透明な状態に陥る「危機の時代」。思いたる節有り。グローバル資本主義の煮詰まりはいうまでもなく、宗教戦争、様々な試み、古いものと新しいものの間の彷徨、確信できるものの欠落感、当に今は「危機の時代」と疑いたくなるのである。

 

 

 

 

2008/10/04 第52(日)ソフトウェアアップデート

ちょっと前になるが、携帯電話を取り替えた。ナンバーポータビリティーを利用して、ドコモからソフトバンクへ。言わずもがなIphone。ロジョーに並んだりはしていない。持っていた携帯のカメラは壊れるわ、電池はイカレルわ、ソフトバンクが事務所から歩いていけるわ、で後は自然の成り行きであった。猫も杓子も、といったものへ手を出すのは本来憚れるが、あまり売れていないということと、元来のマックユーザーなのだからという、よくわからない理由に促された。使い始めて直ぐに気づいたのは、指先が鈍重なフォルムの輩にはこのタッチパネルはナカナカというもの。つまり指太鳴かせである。この人に掛けたいと思う、必ず上か下かのリストに電話が掛かってしまう。そして電波の調子がすこぶる悪い、電池の消耗がものすごく早い、でこれはいかがなものかという状況になった。仕方ないとは思いつつも、やはりというか、パソコンに繋がれたiphoneは勝手に自らのドライバをアップデートし、能書き通り、「通話切断のエラーやバグに対応」と「バッテリー寿命の改善」がなされた。これは見事であった。ハードウェアはなにも変わらないのに、それを動かすソフトが入れ替わるだけで、こんなに充電の持ちがよくなったり、電波授受が良くなったりするものだろうか、というほどのもの。もはやそういった基本性能はハードウェアに依るのではなく、それを動かすソフトが決めるということである。人間もこんな風にして、図体は変わらないけども、中身のなにかをアップデートしながら改善できるなら、さぞいい世の中になるだろうなどとばかげたことも考えたくなる。
そういえば、パソコン本体の不具合を直す「Disk First Aid」(マックの場合)というのがある。ハードディスクやリムーバブルディスクの検証と修復の機能を持つユーティリティソフトウェアである。システムを動かしている起動ディスクに対しては、自らを検証することはできるが、修復するにはDVD等の外部の起動ディスクにより立ち上げてそこから行うしかない、というところが意味深い。つまり自分で自分の悪いところを発見することはできるが、それを修復することは出来ないというものである。人間の場合も、外部の起動ディスクから立ち上げることが出来た暁には、(ソフト面の)壊れた部分を修復することができるということになる。この場合の「外部起動ディスク」とはなんだろう。あれかなー等と思い描くも、確信の持てぬ一物である。

 

 

 

2008/9/28  第51(日)華の共同体

とある工務店の社長から声がかかり、そのパーティーに出席した。博多百年蔵の工事が一段落したので、関係下請け会社を交えての交流会とのこと。行けば40~50名もいる。普段は作業着の職人たちが、クールビズの類の出で立ちで会場に浮かんでいる。我が身は最上段に席を促され、なすがままに、しかしなんとなくむずがゆく、収まる。月並みな挨拶をしたあとは、宴もたけなわを迎え、案の定堰を切ったように設計者めがけて、というか最上段めがけて、赤ら顔の豪腕職人たちが次から次へと杯(=コップ)を持ってやってくる。これはいかんと、自ら逆手に酒を持ち替えて各テーブルへの回遊を計る。
若い大工と、話す。プレカットの木造は、仕口が甘くて建て方の時に揺れるから怖い、やっぱり家は在来工法の方が正しいのではないか。
アルミサッシ屋と話す。同じ開口寸法のサッシで○○メーカーと□□メーカーの重さを量ってみたら、○○メーカーの方が明らかに重かった、とか。
左官屋と話す。ここの仕事をやることにはじめは緊張した。でもあのテーパーの付いた開口部の漆喰塗りは案外おもしろかった、とか。
材木屋と話す。梁材は外材ばっかりで面白くない。地松の材料がどんどんなくなっている。杉は〇□産のものがいいとか。
たわいもない話あり、職人ならではの視点に目から鱗あり。でも数千万円の建築工事に関わった人間を一同に集めると、これだけの数になるということは発見であった。(工事は入れ替わり立ち替わりだから)いずれにしても、こういう一種の共同体意識の場が設けられる事に心が動いた。
全てが競争の時代。世界の隅々が競技会場となるグローバリズム。工務店が、限られた下請け業者と村社会をつくることは、これとは逆。短絡的な理屈で言えば価格競争、技術競争、納期の競争原理は保証されない。知らぬ間に元請けもろとも陸の孤島ということもありうる。だが、実際には村社会においてさえも競争原理に変わる原理が働く可能性はある。共同体意識が甘えの構造に支配されるか、社会に有益な柔軟さを導き出すかの分かれ道である。もし後者が醸し出されれば、これは、世智弁聡から産物を得るグローバリズム原理とは異なる可能性を持ってくるのではないか、と期待している。理知的だけれども見えないスケールの何かに絞られる生産行為に対して、共同体の穏やかな厳しさを持った原理、もしくは自律的な向上心に基づく生産行為。競争原理だけが、人間の向上の源なのだろうかとも。モノに取り組む精神の励起はそこからだけしかありえないのだろうかとも。やっているのは生身の人間である。競争に加わるのは良いが心身を疲弊し続けなければならないでは、そんな世界はいつまで保っておられるだろうか、とも。すくなくとも、これとは異なる世界が同時に必要のように思われる。
もちろん、今更モノと情報のクローズされた村社会に戻るべきという意見ではない。あくまで、グローバリズムのただ中で、並立していく方法の一つである。細々とでいいから人間が機械とならないものづくりの慣習を洗練させるのである。甘えの構造に沈潜してゆかない、グローバリズムに立ち向かえる共同体。おそらく個々の人格が鑑みられる。しかし、疑うこと、疑われることにエネルギーを浪費されない。品質の及第点は当人達によって自ら決めらる。落第点が設定されない代わりに、及第点は無限化する。全く無邪気な発想だと言われてもいい。

 

 

 

2008/9/21 第50(日)吉阪さんへ-2

吉阪隆正の父、俊蔵は京都の造り酒屋に生まれた。東大卒業後、内務省を経て1919年のパリ講話会議全権随員~28年には国際労働機関理事会日本政府代表事務所長としてジュネーブに駐在した。息子隆正は当地にて国際連盟が用意した中学校に通う。そこでデュプイという先生に影響を受ける。世界各地の地図を描きながら、各地の風土やその価値観がその地の住居に表れるということを学び、後に各民族間の相互理解のためには建築学を学ぶべきと志を定めたという。ついでに集印帳にスケッチを描くという父俊蔵の習慣をも素直に受け継いでいる。
建築を目指す動機というのは、人それぞれである。子供のころ、赤いスポーツカーに乗ってきた設計士がかっこよかった、とか、テレビに出てくる有名な建築家にあこがれて、とか、後世に残る仕事だから、とか。ちなみに自分は、そういう話になる契機のようなものは殆ど皆無で、建築家といえば、大学に入るまでガウディーも丹下健三も知らなかった。強いて言えば、幼稚園のころから国語の点数が悪かったので、理系しか道が残されていないという切実な消去法だけがあった。そこから建築に絞ったのも、建築家になれば、そこら辺では見たことのない建築を造ることができる、というナイーブな期待であった。こんな感じで、自分には話になるようなはっきりとした物語がないものだから、人には、建築を志す動機というのはさして重要ではないなどと言い続けてきた。だが、吉阪さんの生い立ちを見ると、動機は重要ではないとはとても言えない。建築は面白そうである、という思いつきの背景が大きい。建築が雨風をしのぐだけではなく、その時の社会のパラダイム(規範)、文化、あるいは所有者、設計者の個人的な背景といった、いわゆるメタ概念を含みうることは言うまでもない。吉阪さんの場合は、建築が考え方の異なる人同士のコミュニケーションツールとなることを期待した。それは地球の平和という最も大きな宿命であった。吉阪さんの父は、先に触れたとおり、国を代表する外交の人であり、文字通りその背中を見ながら育った。そこからごく自然に、人と人との和を大事にしようという思想の基壇が築かれていったことを想像する。かっこいい建築家像とか、自己実現、自己表現(自己満足)が起点となった建築とは、少なくとも背景において次元が異なるのである。
吉阪さんの起こした概念の一つ、「不連続統一体」。これは、相反する小さな個が尊重されながらも、大きな全体が調和を保つように個々が働いている、というもの。この構造、もしくは思想が言葉になったのは、ブラジルのサンパウロのコンペ(1954)の時だという。「共同設計をやっていくためには個々の力を出し切ってようやく全体が出てくるのであって、組織が先にあって個々の役割を分けていくのではない」。結果としての形よりも、その過程の設計方法として考えられたものだという。つまりは、個々を束ねる、より大きな骨格よりも、互いのコミュニケーション能力を頼りに全体をまとめていこうというものだ。当に今、世界の構造がそうならざる負えない状況である。国家、県、市、地域(共同体)という個人から見たより大きな骨格はいみじくも形骸化の方向にあり、むしろ個同士のコミュニケーションの集積でしか全体を作り得ない、という創発的な構造である。吉阪さんをとりまく評伝には、「その時はよくわからないが、ずっと時間が経ってからじわじわと解ってくる」といったものが多いが、この不連続統一体もそういう側面を持っているようである。

結局は、あたかも形とその構成図を想起させるような不連続統一体という概念も、発端は人間同士の関係構造に関するものであった。結果としての形である前にそれを産むプロセスの構造を重要視したということである。各々が単純に全体から与えられた役割を分業するというのではなく、各々の力量に応じてその能力を発揮しつつ全体が形成されていく。語弊があるかもしれないが、このことは結果物よりも上位の概念だ、と言わんばかりである。出来上がった一つの建築が、世界の人々との交流を媒介する、そこから吉阪さんは建築を目指し始めた。そしてその後、一つの建築をつくる過程の中にも人間同士がコミュニケーションを良く行わねば、結果をもたらさないことを力説し続けた。そして、良く行わねば、建築云々以前に、人間が集まって出来る全体=地球社会が立ちゆかなくなることの原理を先読みした。

吉阪さんは早稲田での最終講義にこんな締めくくりをしたそうである。
「どうしたら寛容をもって人と人とが仲良くし、戦争のない生活を送ることが出来るだろうか。どうしたら人間は機械とならずに人間らしい生活を営むことができるだろうか。私はそのことのためにいろいろとやってきたように思う。」

 

 

 

 

2008/9/14  第49(日)吉阪さんへ-1

吉阪隆正(1917-1980)を少しずつ紐解いている。建築家、登山家、国際交流人、そして、早稲田大学教授(=教育者)。私はここの門をくぐっておきながら、他界された時点で、自分はまだ近所の小学校で鼻を垂れていたから、残念ながら吉阪さんの生身を知らない。しかし早稲田には吉阪さんを語り継ぐ先生は多かったし、なによりも吉阪さんのデザインが校風として染み込んでいるような環境でもあったので、一方的な親近感のようなものだけは自然と自分の中に醸し出されていたように思う。そう言えば、大学に入るや否やまず、八王子セミナーハウス(1965/docomomo100選)に連れて行かれた。たくさんの建築が群体として丘陵に散りばめられていて、統一的でない自由な造形はこれからデザインを学ぼうという者にとっての、いわば洗礼水であった。1995年のベネチアビエンナーレ参加時には、ジャルディーニ公園の中にある日本館(1956)の実物とその独自の平面図(オリジナルではなく後の再現)とに付かず離れず、というか、機械室の裏まで隈無くなめ回す幸運を得た。
この春にはデザイン教育に関する研究会にいつのまにか加わっていたこともあり、教育者、学問者としての吉阪さんを見てみようと、ものの書をおそばきながら開き始める。すると吉阪さんの建築ではよくわからなかったこと、というよりバックボーンのようなものが、これらをとおしてすこしずつ見えてきた。吉阪さんの脳中にあったものは言葉として残っている。必ずしも体系的でない部分は思想になる前に、語録となる。論理的な体系ではないから、生身の人間としての魅力のようなものが伝わってくる。
「頭がふさふさしている。これがだんだん毛が薄くなって最後には禿頭になる。これが量から質への転化だ」
「固い柿が熟して、触れるとグジャグジャになる。薄い皮なのにそれでもカタチを保っている。だから柿の渋(=いわゆる柿渋)を塗ると紙でも傘になる」
「コミュニケーションというのは、吸う息と吐く息が向かい合えば出来るんです。」
(「吉阪隆正の迷宮」2005toto出版より抜粋)

一方で、学問者としての真摯な取り組みは、例えば「不連続統一体」とか「有形学」というものへ結実している。不連続統一体とは、相反する小さな個が尊重されながらも、大きな全体の調和を保っている、という関係論である。極めて抽象的であるから、国家や共同体の構造にも、都市にも、村にも、一つの建築にも何にでも適用できうる。有形学もまた、広大な抽象論で、「人工的な世界をうまく造るために、あるいはこれをうまく活用するために、今までになかった研究が必要だ。人工化することは、自然の法則に反抗することであるから、思わぬところで大被害を生じないとも限らない。この形、人工的に造られた形について、これをあらしめるための学問が必要なのではないか。」(「有形学へ」1983)

この「有形学へ」という本がくせ者で、「形あらしめる」というところの具体的な提案が基本的には皆無である。その代わりに、いかにこういう学問が必要であるかがひたすら述べられている。例えば人口の爆発的増加が発端となり、貨幣による価値の交換、専門分化、単能化、量産化(工業化)、高密度に住まう都市が発生し、自然から人工環境へ・・・、といった人類の過去の分析=文明論である。だから、吉阪論は概ね「有形学は前書きで終わっている、実行されなかった」と評される。たしかに、吉阪さんは自作の建築を有形学の説明材料にするには至らなかった。壮大な前書きとしての問いを残して、この世を去ったということになる。

それにしても自然環境を代替するという、人工環境のための学問、あるいはドアノブからアーバンデザインまでを貫通する造形、もしくはその理論とは、果たしてどんなものだろう。吉阪さんの脳中にあった未来を想像してみたくなる。

 

 

 

2008/9/7 お休み

 

 

 

2008/8/31 第48(日) 生活者の密かな楽しみ

リノベーションという言葉が、世間一般に浸透して久しいが、それにも及ばぬ小工事、小改築が建築には付きものである。我が住処にもそういうのが、ついて回る。ここはそもそも親に寄生している身、20数年前、住宅メーカーが建てた木造の2Fである。当時は中学校2年生の時の計画であったので、建築のケの時も備わっていない輩にすぎず、当然、構想の傍観者であった。今はもちろん傍観者になりたくてもそうはなれず、住処を見れば見るほどフラストレーションが溜まる厄介な関係である。あげくのはてには、目をつむる時間になってから自宅に脚を踏み入れるという習慣が出来上がった。とはいうものの、メーカー設計者の構想そのままに住まうというほど寛容でないから、住み始めの第一歩の前に、すでに天井や壁を取っ払っていた。問題は目障りな壁天井をはずしただけであったこと、つまりはそのまま小屋組が露出し断熱材のない空間、などというヨソ様のお宅ではできないような荒削りな状態であったから、灼熱と凍結の劣悪環境に甘んじることになった。5~6年そんな有様であったが、いい歳してさすがにそれはないだろうと自戒し、同居人からの他の手入れの依頼も背中を一押しし、重い腰を上げることになった。いや、全く世間一般のいう「大工の安普請」「紺屋の白袴」、「寿司屋のチキンラーメン」でもなんでもいいがそれにスッポリ安住していたということである。
とにかく至上命令である「屋根に断熱材を」という人並みの仕様獲得を大義名分にして、床に杉板30t、高演色LED照明、木造+ガラス床デッキなど、寿司屋が客に食わせるネタをちょっと我が家の食卓に拝借、というようなことであった。ある意味それは非日常であった。仕事としての工事は見積書というのが付きものであるが、ここは小工事、小人でも太っ腹のまねごとができるだろうと、常雇い(掛かった分を後見積で支払う)で着工した。大工工事精算となると、覚悟はあったが、(だいたいがそうであるが)予想よりすこし高い金額が出てきたことによって、脆くも小人ぶりがここで露呈され、最後に締めくくられるはずのガラス床があっというまに保留となった。もちろんそのままでは、階段を上がってから玄関に到達することができないので、杉の足場板を仮に敷いた。犬がその上を安心して歩くようになるまで3日を要した。
こんなようにして、設計者にとっての自宅というのは、紺屋が自分たちの衣などその気になればいつでも染められるというような心境が造っていくという、利点とも難点ともつかぬ特徴がある。場合によっては、最後まで白袴であってもいっこうに構わない、と思いつつ、えっちらおっちらといじっていく。生活者の密かな楽しみのようなものが、とりわけて感動的というものではないにしても、場合によってはイヤミとかケレンミのない家を造っていく、という代物である。

 

 

 

 

2008/8/24 第47(日)世代間リレー

画面を通してオリンピックを見ていると、やはり、なにがしかの感動とか、元気が伝わってくるものだと思う。数々の結果の中で、特に印象に残ったのは、陸上の400mリレーだ。「トラック競技80年ぶりのメダル」のフレーズが連呼された。併せて、選手たちの止めどない喜びのシーンも画面にくり返された。まるで金を獲ったかのようなその喜びの様子に、観ている者までが引き込まれる。ある意味、メダルの色、順位よりも、選手達の達成感の程に、我々傍観者の感動は支配される。そして、400mのあの4人、塚原、末続、為末、浅原選手達が異口同音にもらした、「諸先輩方の努力の積み重ねが・・」という言葉の背後を考えると、再びメダルの重みを感じることができる。なにしろ80年ぶり、その他の順位を見ていても解るが、短距離トラック競技という性質が、黄色い肌のアジア人には本来的に不向きであることは、多くの人々の暗黙の了解のものである。日本陸上界ではメダルという言葉すら口に出せない目標不明の時代もあったという。誤解を恐れず言うなら、結果に結びつかない無駄な努力とも捉えられがちなこの競技を、うまずたゆまず、80年努力し続けてきた。そこに敬服するのである。一人の人間の数年の努力とは異なる、地道に、かつ壮大な世代間のバトンタッチを行いながら、ようやく獲得されたメダル。
そう考えるとこの4人のメダルは、清々しい、と思う。

 

 

 

2008/8/17 第46(日) 我流身体論

休みは盆正月だけは、きちんと取るようにしている。国民の休日はもちろん、日頃の日曜日も動くことがあるから、せめて職人達が休むこの時に、どさくさで長めに、を企てる。この夏は、5日間丸々、断食道場に赴いた。小さな森から相模湾を眼下に望むことのできる静かな道場だ。女性はダイエット、男性はメタボ対策とお決まりの文言を唱えながら老若男女が集まる。自分と同室の男性は皆30代半ば、会社の経営者や、これから独立起業しようと心身のリセットを目論む人も居た。
しかし、この道場は断食が目的なのではなく、ヨガ行をより効率的に行うための断食、という趣旨のものである。だからわざわざ出かけた。ヨガというと流行のものだが、本来は大変に精神的な鍛錬のための行である。辿れば紀元前2000年のインダス文明に至るという説もあるが、有名なのは紀元2~4世紀に編纂されたヨーガ・スートラという大著がある。その後、インド各地のバラモン教、仏教、ジャイナ教などの修行法にも取り入れられる。戦後アメリカのヒッピー達により、ハタヨーガとして身体的、物理的な即効性部分が抽象され、流行した。日本の場合は、ある意味インド直輸入のヨガ全体が取り入れられたが、それはオーム真理教団によって曲解され、悪用され、不完全なるゆえの完全なる過ちを犯した。だから今、日本で流行っているヨガは、基本的には物理的身体のリラックスという、ヨガのほんの一部、言ってみれば身体の柔らかい人のためのラジオ体操のようなものである。
といっても、自分の目的も呼吸法(プラーナヤーマ)までが限界で、上記ラジオ体操の後、深呼吸しているという次元に留まっている。尤も、深呼吸に過ぎないとはいえ少し違うのは、空気と一緒にプラーナ(環境に蔓延する生命エネルギー=気)を呼吸することである。これはどうやって呼吸するかと言えば、「想像する」のである。「そういうものを今吸っている」と想像するのである。その力が豊かであればあるほど、得られるという。(その程は下腹が熱くなってくることでわかる)人間の身体を維持する燃料は口から入る食料(食料にも気の次元のエネルギーが含まれているという)のみで、という私たちの常識とはヨソに、もう一つ別のもの=「気」を食べて生きている、ということのようである。取り入れられた気は身体に循環し、古くから、太極拳、気功とか、鍼灸などの東洋的な身体学が認知、利用してはいたが、身体を解剖しても、血管のように実体として見えてこないということで、西欧医学では承認されてこなかった。近年では、それは、皮膚の真皮に満たされた生理水を媒体として流れていることが確認されている。そのエネルギーの詳細な計測は、AMI経絡臓器機能測定装置によって電気的信号により可能となり、欧米などでは東洋医学的治療を行う際の国際標準となっている。
要するに断食とは、食料から得られる一切のエネルギーを一旦遮断して、気エネルギーの取得とその循環に注目してみよう、ということである。そして、それは、食べ物のように、機械的に箸でつまんで、顎を動かすと言った身体的な動きによって得ることはできず、専ら強く想像することに委ねられている。こここそが、ヨガがラジオ体操と次元の異なる部分である。想像力で食べる。豊かな想像力によって初めて、目前のものを食べることができる。未だ見えぬものを想像する力、なんだか、モノを造ることとも繋がってきそうである。
リフレッシュといえば、人によっては海外旅行、お盆と言えば、実家でゴロリ、あるいは山や海に出かけるのが普通である。美酒美食を詰め込んで、久住の法華院温泉に登るなど、普段の自身の行動もその範疇だろう。皆が温泉に入ってビールで一時の喜びを得ている時に、自分はいったいなにをしているのだろう、と思わなかったわけがない。しかし、終わってみると、身体はすっきり、頭の中もすっきり、体重が減ったという以上に、通常では得られない身体の軽快さを感じながら、仕事場に向かうことができる。本当にリフレッシュするためには、多少の我慢と、能動的な想像による飲食をしなくてはならない、ということか。人間の身体に潜むカラクリなのだろうか。

 

 

 

2008/8/10  第45(日)外飯の憂鬱

事務所の真下に焼鳥屋がある。春先の新歓コンパ時期には、若者達の一気コールが夜の製図作業のBGMとなる。悔しいから時には、当然、客となる。
昨日は、上半期ご苦労さんということで、その焼き鳥屋の炭火の香りを肺に吸い込んだまま、勇気を絞って道路を渡り、トイメンの料理屋に事務所で押しかけた。星の数ほどあるのは設計事務所のみならず、外食産業も同じだ。その中で、値段と味にほどよく満足できるという所は、考えてみるとすくない。(おそらくこれも設計事務所とおなじなのだろう。)しかしそのトイメンの料理屋は、それら広大な裾野の数々よりは明らかにぬきんでている。ゴマサバや汲み豆腐などの居酒屋定番メニューを頼んでも数多のものとの違いを感じることができるし、さらには、トウモロコシのゼリーの入った夏野菜のサラダなどといった、明らかにオリジナルな、手間の込んだ料理が楽しげにメニューを飾っている。そのレベルの感性が作っているのだから、どれを頼んでも舌鼓を鳴らすことができる。ビールと日本酒を1~2杯ずつ、腹九分の料理を頼めば、3000~4000円/一人という場末の居酒屋のクラスよりワンランク上で、5000~7000円/一人といったところか。だが満足度は金額の比率以上である。機会は少なくてもどうせお金を払うならこういうところで英気を養うべきと戒められる瞬間である。3~4軒のその列びの中で、この店のみが、朝から仕込みの作業を行っているという事務所スタッフの偵察内容を鑑みるなら、値段はむろん然るべきものである。3000~4000円/でその場の用足しといった使い方のされる店と、もう少し値段は高いが、完成度のある料理を出す店との境界は実に大きいということに気づく。これらの店の列びを図像化するなら、ちょうど富士山のような風景が見えてくる。ちなみに一つだけ苦言を呈するなら、インテリアが料理の質にまったく追いついていない。気の利いた繊細な料理の数々は、悲しいかな中途半端な感性の間(ま)で一人歩きしている。逆の現象はよくみかけるが、こういうパターンは珍しい。

 

 

 

2008/8/3  第44(日)時計の針2

よく生きるということは、生きるスピードによってもたらされる、ということになっている。否、よく生きたいかどうかは実は関係がなく、なにかを取引する人間同士が互いに強いる。それは時流という川の流れそのもので、流されたくなければその川の流れから岸辺に上がる必要がある。皆が流れに従っているのに自分だけそうではないというある種の勇気、そして対称化されたメインストリームとの距離観も必要になってくる。
例えば鎌倉時代前期の鴨長明などは、厭世を実行した世俗の人であった。移り変わりの激しすぎる世の中に辟易し、その川岸へ身を引いた。つまり、地位や名声欲、物質欲等全てを捨てて、方丈にて山居した。人や情報とのコミュニケーションをほぼ絶った。確かにリアルタイムの世俗とは断絶したのかもしれないが、そのかわり方丈記をはじめとする名作を書き記すことによって、却って本質的に太く長く社会と繋がった。彼はその文才によって、只のホームレスから歴史的な存在への昇華を果たしたといえる。
「モモ」は時間どろぼう達を退治することによって、時間を節約し合理的に生きるという息苦しさから人々を開放した。人間にとって本当の豊かさは物質的な富ではなく、売り買いの出来ないはずの平穏な心なのだという。ところがそういうものが実際には(時間として)簡単に売り買いされているところに現代の病理を見いだしている。人間自らの欲得と本来の生きるスピード(時間)をトレードしてはならないというメッセージである。

急ぎ足の主流を果たして恨むべきか。
だとすれば、個々に備わっている本来の生きるスピードこそ尊重されなければならない。

また、禅寺に住み込んだことのある建築家にこんなことを聞いたことがある。
「一汁一菜の食事当番があるんですが、15分で作らないといけないんです。和尚さんはそれは見事な出来映えをホントに15分で・・。」
800年前、道元禅師は寸刻を惜しんで行に励むよう弟子達にくり返した。

時計の針に扇動されているのではないかという我々の日常。が、限られた時間を大切に用いるべき、は針のスピード云々に関わらず、時間のあるなしに関わらす、今昔相変わらずの命題なのかもしれない。身体の生命に限りがあるのだから当然であろうか。

2008/7/27 東北、鳴子町へ~ネット環境のない2日間

 

 

 

2008/7/20 第43(日)移動授業 

容赦なく上昇する都市熱から逃げるように、我々は小石原へと向かった。そこは標高500mそこそこであるが、夏だとだいたい5~7度ほど市内より低い。学生の一人が図々しくも学外、できれば見応えある建築の中で講義を受けたいといったことから、機会を得たところにてそのようにした。あるときは、真言宗の小さなお堂を借りて不動明王をバックに、あるときは、ギャラリーを借りて、そしてあるときは改装された酒蔵の一室を借りて、スライドを回した。少人数であることが、そのようなイレギュラーな移動授業の形態を可能にした。そして今回の最終回は、学生のたっての希望にて小石原(今は行政区の統合にて東峰村となったがあえて)へ。小石原のsh360は友人のプロダクトデザイナー下島氏のアトリエ兼自宅である。建物はなんてことないが築60年を超える2棟が朽ちながらも無手勝流の面白さをもっている。だが、ここを訪れた人が真から感嘆するのは、樹齢500年クラスの杉林に囲まれたその周辺環境=場所に対してである。こんな場所を個人の専有地として囲い込むにはもったいないということで、ことあるたびに人の集まる場所として活用してきた。
今回は最終回ということで、「デザインする意味」なる、なんとも大げさな表題を引っさげて臨んだ。最後はあえて建築の具体的な知識には触れず、デザインする主体の姿勢のありようについて、いってみれば精神論のようなもので締めくくろうというものであった。およそ学生時代、自分のことを振り返るなら、そんなことの意味なんてものを考える繊細な神経と頭脳は持ち合わせていなかった。だが、よいデザインが他者から賞賛を受けることの社会的意味というのは、例えば医者が難病患者の命を救うといった明解な成果に比べてどうなのか?まったく及ばないのではないか?という奇妙な比較をする習癖はあった。そのような疑問はしかし、それ以上に旺盛なデザインへの興味と欲求に常にかき消された。その若さゆえの欲求はやはり、よくも悪くも落ち着きをもってくる。周りを俯瞰する余裕が出てくる。
つまりは、自分の中のもやもやしたものを、授業の表題にしてしまったのであって、果たして大学院生の段階でそんなことを掘り起こさせることが必要だったかどうかというのは、正直度外視していた。話の締めくくりは「内的必然性」の必要性について。社会に役に立つものをデザインしようという姿勢は、外的必然性に応えるということである。だが、それ以上に重要なのは実は内的必然性なのだということを、北九州の河内貯水施設群を設計+監理した沼田尚徳の土木事業をめくりながら、話した。「内的必然性」というのは外的必然要素を了解しながらも、それにとらわれない、もしくはそれを超える作者の「意思」である。何かを伝えようと全15回をかけて掘り下げていったが、その話の結末は、どうしたらその必要なものを得ることができるのか、全く教えることのできない代物についてであった。
後味の悪い内容のお茶を濁すように、カンカンに明るい満月が野天の食卓を照らし続けていた。

 

 

 

2008/7/13 第42(日)時計の針

工務店の社長との談話の中で、その一言の残響が今日まで響いている。
「親父の時代はゆったりしていた。」
人件費はもちろん今より安かったけれども、生活はむしろゆったりしていた、という。もちろん普通に食べていけた。
「村の長老」的この類いの発言は、上記に限らない。例えば、家一軒を建てようと思い立つと、まず材木屋に足を運び、そこで、一軒分を建てるための丸太を買ったものだ、などと。いわゆる旦那衆の普請道楽である。その丸太は2~3年寝かしてから、ようやく切り込み作業にかかる。軸組が建ったかと思うと、そこでまた数ヶ月~場合によっては数年「素建て」というフレームの状態で木材変形を落ち着かせる。昔の壁は木舞+泥壁と決まっていたから、荒壁(土壁)を塗ったら硬化のために再び放置された。そんな感じでえっちらおっちらと、家は造られた。
もちろん、かつての建築がすべてこのように呑気であったかというと例外は無数にある。例えば、これはいきなり城郭になるが、白鷺(はくろ)城といわれる姫路城は、大天守と小天守の部分に限っては2年そこそこで造り上げられた、法隆寺に並ぶ日本最初の世界遺産は恐ろしい突貫工事の賜物であった。だが、そのような話をいくつ挙げても、総量としての家造り、そして人間の生活全体を司る時計は、やはり今より針の動きが遅かった。
世界には、息の長い建築行為がたくさんある。やはりのサグラダファミリア聖堂。ガウディーは1882~亡くなる1926年迄これのみに専念したが、その後も今に至り建築が続いていることは、有名である。南フランスのかの有名なル・トロネ修道院は50年。ニューヨークへ渡る鉄のハープと云われるブルックリン橋(世界初の鋼製ワイヤーを用いた吊り橋)は、親子2代とその妻によって14年かけて完成させた。(ちなみに瀬戸大橋は9年強)親子というと、(これはあまり有名でないが)デンマークコペンハーゲンにあるグルントビー教会という白レンガだけで造った教会も、画家とその息子によって27年をかけて端正に構築された。オーストラリアというとコアラが先かシドニーオペラハウスが先かというほどのその有名建築は、1955年に基本設計~1973年竣工という難設計、難工事であった。(工期を10年もオーバーしてしまい、途中、建築家ウッツオンは解任された。)否、前近代を見渡せば、タイムスパンの長いものがゴロゴロある。思い出す範囲でいうなら、インドのアジャンター石窟群は馬蹄形の渓谷に大小30の寺院が前1世紀から後6世紀の700年以上をかけて出来上がった(出来上がりの途中のまま)ものである。お隣のエローラ石窟群は5~10世紀に渡り、しかも仏教~ヒンドゥー~ジャイナ教と時代の宗教を超えての構成を今に伝えている。世界最大の構築物、万里の長城のおおかたは、明時代(1368年 - 1644年)のものであるが、その建設の始まりは秦の始皇帝時代に遡るからおよそ2000年の営為である。
建築は、よく地図に残る、とか死後に残るなどと云われる行為であるが、作者の方から見るならば、その一作に人生を捧げうる可能性を持った行為「であった」と言える。現代はその一件をライフワークとすることなどは希有の事態である。設計者も施工者もたくさんの数の仕事をこなすことによって、ようやくその全体がライフワークと言えるかどうかである。かつての、人生を奪ってしまうような建築行為は、技術の進歩、時間感覚の小スパン化、貨幣経済の発展その他、つまるところ「時計の針」が速まることによって、基本的には現在から消えた。「ローマは一日にして成らず」の時代から、「ドバイや上海は一日で出来まっせ」の時代である。

一億総自転車操業。
環境問題を考えるとは、多かれ少なかれ、人間の進歩を疑うことである。人間を取り巻く「環境」の中には目に見えない、触れることのできない「時間」も含まれる。その時間感覚、『時計の針』が、やはり明らかに以前よりも速いということである。その速まりによって我々は何かを得ているだろうか。生活は時間的ゆとりを生んだか?資産的な余裕を作り出したか?心身の平穏を得たのか?ごく卑近な利便性への追求心は、大局的な人間の幸福につながっているだろうか?
ミヒャエルエンデ「モモ」を再び本棚から引きずり出すことになる一言であった。

 

 

 

 

2008/7/6  第41(日) 先導者、孫悟空

そういえば「世田谷美術館で、来年個展をやるから」と一年前に一言。取りかかりからはや一年、美術館のメインフロアを埋め尽くす物量が準備された。学生のころに足を運んだ、群馬県立美術館での磯崎新氏還暦の回顧展。物量その他、周到な展示計画、秀逸な木製模型の数々、相当なものであったことを記憶するが、中身は基本的に回顧展、既に建った作品であった。対して石山修武は、これから実現していくプロジェクトの提案をメインに据えていた。私の在籍時に関わった、代々木の GAギャラリーでの個展の時もそうであった。終わったものへのあっけらかんとした無関心、かわりに見たことのないモノに対する強い創造心。その未来というのも、おびただしい量のスケッチや添えられた詩文に「遠い未来」が深く埋蔵されているということがあっても、立体に結実しているものを見ていると、力点はそんなに遠くない未来、現在にほど近い未来にあるのではないかという印象を受けた。
早稲田が輩出した村野藤吾(1891-1984)は「現在主義者」と宣言し、過去の様式や未来の皮算用lから自由になって、建築をあくまで現在のものとして考えようとした。同じく吉阪隆正(1917-1980)は新宿の百人町にて自邸を建てた。そして屋根で野菜を育てた。また、建築家であるとともに教育者として生きた。もっというなら建築家という範疇を窮屈と感じ、全人格として生きようとした。時間の縦軸ではなく横軸を見渡そうという脈歴が、見えてくる。

研究室を退職してちょうどこの夏で10年になる。1000km離れた僻地から我が出生を見つめる。自分がどういうところで学んだのか、つまりはどういう限定を持っているのか、少しずつ客観的に捉えられるようになってきた。また、建築のデザインというのが、社会にとってどんな、もしくはどれほどの意味があるのかという素朴な疑問が、実は学生以来からの疑問として少しずつ自覚症状を帯びてきた。それをのり超える道筋の一つは、やはり作り手の意思の程ではないかと思っている。作りたいから作る、というのならば、既に総論として社会に認められているわけだが、それが各論としても了解されうるためには、その意思が強くある必要があり、そして実行される=口先だけではなく実体として結実する、ということである。俗にセンスというのは、これは筆授ができないから、行間にしか記せない。言葉として明解なのはやはり「意思とその実行」でしかない。その意思というのはどこから生まれるのだろうか。そういうのが錠剤にでもなっているなら、今日の昼食後にも服用したい。

それにしても、圧倒的なエネルギーを見せつけられた。世間では定年と言われる歳の人だということで、(質はまだしも)そろそろ量(密度)においては師を超えたいものだという生意気の鼻っ柱は、ポキっという音すら鳴らないまま、ヘシ折られた。言葉ではなく行動にて今だ先導を受けていることは、この私にもわかった。

 

 

 

 

2008/6/29   第40日 孫悟空?

金曜日、世田谷美術館へ足を運んだ。師の個展のオープニング。建築、美術、デザイン界の大御所がちらほらと。道すがら平松剛の「磯崎新の都庁」を読みながらここまで来る。ついさきほど砧公園のベンチで読み当たったシーンに登場してきたばかりの人々が、現実の人となって目前に現れた。磯崎氏が出てくれば当然、宮脇愛子氏が、そして当時丹下健三の元で都庁を設計した古市徹雄氏、というぐあいに、なんだか不思議な感触であった。
立ち見を含む100名前後が囲む小ホールにて、(建築家の)磯崎新氏、メディアアーティストの山口勝弘氏、そしてインダストリアルデザイナーの榮久庵 憲司氏の順に祝辞が述べられた。それぞれ、「シェイクスピアに出てくる道化」「奇想の人」「孫悟空みたいな人」という喩えをこの度の主人公石山修武に貼付けた。当人の資質の只ならぬ様子を、やはり凡庸な褒め言葉に託すような人たちではなかった。その中で、最も印象に残ったのは言わずもがな「孫悟空」である。猿みたいな人は世の中にたくさんいるけれども、石山修武に限ってはそれとはほど遠い。キントン雲に乗って飛び回っているような、という比喩でもない。三蔵法師に仕えながら長い道のりを同行する悪そう坊主、ではなく猿。天竺からありがたい教典を持ち帰るという大きな目的を孕んでの道程、孫悟空は必ずしも従順に滅私奉公を勤めたわけではなく、数々の出来心、不祥事を繰り返した。ある意味小さな悪事の積み重ねの末、万人を救うための役目を果たす。最後は悪事=利己的ではなく、大きな利他行を遂行する。榮久庵氏いわく、最後に仕上げとして天竺にいけるかどうか、これからが楽しみだと。
なるほど、孫悟空。あれは猿だったが、人間の一つの筋道を暗喩していたのだ。小さな悪事と大きな利他。

 

 

 

 

2008/6/22  第39日 単刀が直入

一昨年のちょうど今頃、「なにもしなくてもそこに居たくなる空間」という課題を学生に投げかけていた。大きさは一室、茶室程度で、場所は、小石原の行者杉林のどこか、という条件。敷地設定はともかく、なにもしなくて・・そこに居たくなるとは、今思うとずいぶん抽象的な投げかけ、というより建築というハテナマークの海へ学生を放り投げたような課題であったことを思い返す。建築は絵画や彫刻などのファインアート(純粋芸術)には収まらない=実利的な機能があって初めて社会に現れるから、「なにもしなくても」ほんとにいいのか?あるいはどういう状態が「なにもしない」状態なのか?息をすることだけが許される空間?などといった安手の禅問答が飛び交った。なにもしないことを前提にした空間など建築ではないというとらえ方があっただろう。しかし、出題者の意図は逆で、建築の究極の目的は、つまるところ、機能的(=実利的)か否かを超えたところにあるなにか、ということを呼びかけたのだと思う。そういう意味では、極めて建築の基本に忠実な与件であったと、今でも思える。
小雨の降る中、高速道路を1時間半。今日会ったお医者さんは、別荘を建てたいという。数件の医院や老人施設を切り盛りされていて、24時間、出動の可能性あり、寝ても覚めても医者を止めることができないという。前日の夜になってみないとその日を休日にできるかどうか解らないという過酷な労働環境だから、旅館の予約さえママならぬ。経費はかかるが別荘だという。ちなみに、どんな空間がいいか聞いてみた。すると、「心地よい空間」の一句。これが打合せの最後までくり返され得た。
単刀直入とは当にこのこと、真髄にグサリと入ってきた。「せっかくの別荘地なので、風景が美しく見える」とか「小鳥のさえずりが感じられる」とか「ゆっくり音楽が聴ける」などという各論を軽く飛び越えてきた。同時に、どこかでそんな答えを予測していた我が身を少し縮めた。心地よい空間の中身は貴方が考えなさい、ということである。2年前、学生を放り投げたところに今度は自分が入る番が来た。

 

 

 

2008/6/15 終日雨

 

 

 

2008/6/6
第38(日) ハンディーキャップ

不必要に朝早く目が覚めてしまうことがある。寝なければいけないと思っているうちに雑念が、こちらも不必要に膨らんでくる。いっそのこと諦めてテレビをつけたり、本を読み始めたりしてみる。早朝のテレビに格別用事があるわけはないが、今朝は思いも寄らぬ番組に出くわした。「回峰行に生きる」教育テレビ5:00~比叡山のあの有名な苦行である千日回峰行を満行した人の一人、光永覚道氏のインタビューであった。「行の期間は7年。白装束に草履履きで頭には開花前の蓮の花を象ったヒノキの笠を被り、途中で行が続けられなくなったときに自決するための死出紐と短刀を携える。行を許されるのは、百日回峰行を終えた者の中から、更に選ばれた者だけ。延暦寺の記録に残る満行者は、50人ほど」(番組案内より)
行が完成されないと、本当に自決するのかという素朴な疑問はさすがにインタビュアーも触れなかったかと思われる。覚道氏に限っていうなら、自決云々の前に、自らの腰には既に椎間板ヘルニアという短刀が突き刺さっていた。肉体的ハンディーとのすさまじい格闘であった。25KMの山道を一日も欠かさずおよそ1000日行う行者にとっての「腰痛」は泣きっ面に蜂、これ以上の不幸はないというもののはず。一歩一歩が激痛であり、激痛が一日一日を貫通した。常人を超えた強靱な精神、肉体を超えることのできる精神。
そういえば、今週、友人の平松剛から新しい著書が届いた。6年近く連絡を取り合っていなかったから、よほど自分から声を掛けようと思っていたところに、自らの新作を一冊、出版社経由(献本)でよこすという、粋な交信をしてきた。装丁は前作(光の教会・安藤忠雄の現場/建築資料研究社2000)<大宅壮一賞>と同じ和田誠氏。そのイラストがまず目に飛び込んだ。今度のタイトルは「磯崎新の「都庁」戦後日本最大のコンペ」。出版社は文藝春秋に切り替わっていた。建築専門書からの離脱という彼の思いが伝わってくる。磯崎新氏のコンペの一件は建築設計の関係者は皆知っていることであるが、平松は当然のことながら、周知の事実の背後に隠れている事柄を、内側からえぐり出している。まだ数ページではあったが、知らなかったことが。磯崎氏は建築コンペという闘いの以前に、持病の腰痛とも闘っていたという。こちらは歩くことによる激痛ではなく、座することによる痛みだった。
健常であっても為すことの容易でない難関に、身体的なハンデが重なる。そこで手を緩めるか、構わず突き進むかが試されているのだろうか。

 

 

 

 

2008/6/1 現場、終日雑工事

 

 

 

2008/5/25 
第37(日)鳴きのバイオリン

現場でもらい受けた木クズや石灰の粉を洗い流し、いつになくスーツに着替えて小さな音楽ホールへ向かった。古田茂稔のバイオリンを聴くためである。私より一つ歳は上、バイオリンという人生を歩んできた人、この先も。修道士。そういうヒトトナリから発する音楽とはどんなものだろう。
想像を超えていた。だが素晴らしい演奏とか、美しい音色、という表現が当てはまらない。凄い演奏。音を媒介にして、なにか別のモノ、魂のようなものが伝わってくる。かの有名な千住真理子さんが著書で、「自分がなくなっていって、自分がバイオリンそのもの、あるいは音そのものになっていく」というようなことを述べられていたが、そういう境地よりは、どちらかというとバイオリンや音という媒介物の方が消えて、丸裸の演奏者が見えてくるイメージである。いずれにしても言葉の遊びでしか表現できない。

「傑作には独自の世界、一種の宇宙がある。それがある種の世界観や感情を醸成する。もしある人がそれを気に入れば、その人は他人が作った世界を自分のものとして感じられる。」スイスの建築家ピーターズントーのコメントを思い出した。

床、壁、天井全てが、人間によって丹念に突き固められた分厚い三和土で出来ている。そんな空間に立ち入った瞬間に、スッポリその宇宙に浸りきってしまった。あの演奏会を空間体験に例えて言うならこんなことだろうか。

 

 

 

2008/5/18 晴れ

 

 


2008/5/10 
第36(日) 三角スケールとサシガネ

子供の頃、クラウンライターライオンズの試合を見に今は無き平和台球場に2回程行ったが、眩きプロの試合であるにもかかわらず、見ているより自分が野球している方が楽しいと思った。大学時代の早慶戦などは、人を応援する遺伝子を自分が持ち合わせていないことにハッキリと自覚する催し物であった。ガラス越しに年越し蕎麦を打つ職人を見ては、自分もやってみようと、思いたってしまう。自分は傍観するというのが苦手である。
今週から来週にかけて、左官工事の現場に入り浸っている。左官の壁はいつもながら、お好み焼きと一緒で、作るたびに新しい工夫をしてみたくなる。そうなると、現場から目を離せなくなる。結局、職人さんとああでもないこうでもないと言葉で伝達していることにじれったさを感じるようになり、いつのまにか、仕上げの時は「マイコテ」持参の輩となってしまう。設計者として現場に居る時のなんともいえない手持ち無沙汰は、思えば左官工事のみならず、大工や塗装、などの各職種に対しても分け隔てなく働く。なにかの職人に扮して現場に常駐できることが、自分には最も心地よいということに気づいていながら、設計者として俯瞰せねばと、理屈で説き伏せている節がある。設計者は実行犯ではなくて黒幕でなくてはならないはずだが。
そもそも建築家という職業は、ルネッサンス期に、近代的な個人主義の確立と共に成立していったと言われている。ルネッサンスの建築家といえば、ブルネッレスキ、アルベルティー、ミケランジェロの三強が挙げられる。もちろん今に言う専業の建築家という枠組みに誰も当てはまらない。ブルネッレスキは彫刻家でもあったし、ミケランジェロも彫刻家であることが有名だし、同時に画家、詩人でもあった。アルベルティに至っては、劇作家、法王庁書記、美術理論家の経歴を持ちながらの建築家、同理論家であった。「家政論」「絵画論」「彫刻論」を著している。今日的な視点からすると、これほどの領域横断は容易ではないと、のけぞり気味ではあるが、本来建築とはそのような人間にまつわる用や美の雑学を集積したところから生まれるものであるということを改めて感じさせてくれる。建築学、というカテゴリーは本来的に独立独歩の学問ではない=虚学の側面を持っている。
ところで、そのアルベルティーはモノの書によると、初めて設計と施工を分離させた人、ということになっている。それまでは、設計者が直接現場監督であり、つまりはお金の監理も行い、工事の主体者でもあったのが、それをあっさり他人に依頼することにした、のである。それが今の常識に繋がっていると考えると、実にたわいもない、常識のように見えてくる。少なくとも言えるのは、設計と施工を分離したのは、一流の学者でもあった建築家の都合であったということである。
つまりは、設計者が施工を依頼する原点は、理論の構築~実践者という側面の重視によるものである。そう考えると、今の常識はもうすこし自由に考えてもいいのかもしれない。理論だけを構築しているわけではないとすれば、である。

 

 

2008/5/4 
第35(日)小さな都市山岳

4日間のゴールデンウィークが、まるで波打ち際から崩れていく海岸線のように、前後から浸食を受けた。残った2日を適当に過ごすのは簡単であったが、折角、陸続きの2日間を得られたので、山で一晩過ごそうと、犬と出かけた。子供のころから仕事の関係で父親(木こりではない)に連れられて、高くも風光明媚でもない山歩きをしたものだが、今、思い立つ行動として山に行こうと思うのは、ワンダーフォーゲル(19世紀末、ドイツで興った自然回帰運動の一つ、「渡り鳥」の意)をやっていた友人の影響であった。いわゆる登山は、ナショナルのヘッドライトを頭にくくりつけてテントの中でボンカレーを煮つつ、専ら登頂が目論まれる。ワンゲルは(その団体にもよるが)登山というより野外活動、同じ山に対して前者はストイックな対立関係、後者はどちらかというと享楽的な関係を結ぼうとする。私は後者の影響を受けた。登山者のザックの中は、登山のための装備と携帯食、そして日数分のボンカレーが、ワンゲルのザックにはペットボトルに詰め替えられたワイン3L、生ハム、薫製キット、などがそれぞれパッキングされる・・。ワンゲルは敢えて岩を登ったりのルート取りに決して危険を冒したりしないが、そのかわり自らの許容積載荷重を超える危険と常に背中合わせである。
抑えることの出来ない享楽グッズを、足腰のトレーニングのための意図的なおもりと捉え直し、既知の宝満山にハンディーを背負わせた。あわよくば、一晩過ごすことによって、日帰りでは解らない何か、とりわけ修験道の山という場所を感じることはできないかとも少し思った。標高800mのキャンプ場は、元禄時代から明治維新まで、宝満山の山伏の座主の地位にあった楞伽院の跡に設けられている。山の頂部を西に仰ぎ見、見下ろせば筑紫平野、そして、こじんまりした静かな平地。時々登山者が通り過ぎるが、テント一張りは我のみ。2時頃到着して、日没まで本でも読もうと4冊も持ってきた。新緑の楓が僅かに風に揺られながら、頂上の向こう側に日が沈んでいく。遺構としての石垣だけを頼りに、修験道時代にはどんな堂が建っていたのだろう、と妄想を自由にさせる小さな原っぱ。建築書をとっかえひっかえするが、身が内容に入っていかない。これらは本当に只のおもりであった。結局その時その場で頭が受け付けたのは、司馬遼太郎の「功名が辻(四)」。関ヶ原合戦における西軍の厳しい行軍の様子が、この山に遺構が残る朝鮮式山城「有智山城」や修験道の歴史とどこかで繋がった。かつて人々は小さくもこの峻険な山道の途中に政権の本拠地を、もしくは修験の基地群を構えていた。歴史的には(機能はともかく)建築が点在する山岳都市であった。そして、この修験道の座主跡は思いの外、世俗を遮断していないことに気が付いた。日が落ちて街に灯りがともり始めると、平野の夜景が眼下に広がったのである。電気のない時代はこんなにきらびやかではなかっただろうが、確実にここから人々の生活風景が小さな光点として映っていたに違いない。例えば紀伊の高野山のように、ここは、世俗を断ち切り深々と奥に分け入った場所ではなかった。急峻な岩山の内奥に潜伏するようでいて、むしろ、平野との延長にある都市であった。太宰府という都と文字通り地続きの関係は、ちょうど京都と比叡山の地理的歴史的関係に近いかもしれない。日本の山岳都市?都市山岳?。そんなことを勝手に憶測しながら、静かに冷えていく山中で蓑虫の人となった。

 

 

 

2008/4/27 
第34(日)不器用な人

実母であるこの老婆とあと何回一緒に飯を食べるのだろう。時には世間一般に行われる親孝行をとも思い、日曜の夕方から、早い夕食に出かけた。もちろん、久しぶりに舌鼓を楽しむという自己保存の法則も含んでいた。あえて名指しにするが、「たか埜」は福岡でもうまい和食を食わせるところの一つである。7品目、大将の施しそれぞれに、まるでグルメ番組のヘタクソなリポーターのような感嘆を漏らし続けた。だが大将の下積み時代の話が、筆舌に尽くしがたい料理の質を超えて身に染みこんできた。「弟子時代、自分は人一倍怒られた」「結局要領が悪かったんです、自分は・・」どういう会話からそんな話が引き出されてきたかは記憶にないが、出される料理からは想像のできない話が出てきたのである。もし、この手の話が初めてであったなら、むしろこれらは聞き流されていたのかもしれない。だが、さまざまな達者の口から同質の話を聞いていたから、今日のこの話をかろうじて心に留めることができた。
もはやカリスマとなった故西岡常一棟梁(法隆寺宮大工)の一番弟子小川三夫氏は
「要領のいい人間だけがいい職人になるとは限らないんです」「むしろ決断に時間のかかる人間からいいモノが産み出される可能性がある」
人間国宝の文楽人形方(?耳学問)
「手先の不器用な者がずーっと長い時間を掛けて体得したものから発する独特な雰囲気もいいんです。」
そして、我が幼少期の童心を釘付けにした「できるかな」(NHK番組1970~90)のノッポさん言。
「自分は本当は手先が不器用で、ずっと工作の技術指導を楽屋で受けながら必死になって辛うじてやっていたという感じです。むしろそれが、子供達へ伝わる力になっていたんじゃないでしょうか。自分がもし手先が器用であったら、20年間続けられたかどうかもわかりません。」

分野を問わず、人は能力としての即戦力を問われる。「不器用であることを超克することによってようやく得られる能力」の存在は、実業における表の世界から隠れている。

今はなんとなく小器用に振る舞っている自分も、思い起こすと20代はたか埜の大将に負けじ劣らじの暗黒時代であった。これには結構自信がある。詳しくは書かないが、問題を変えて未だにそう(不器用)であるという節もある。もしこういう自分を見放さずに、やり続けられる世界があるのならと思うことによって、時々に起こる自己嫌悪が慰められる。折り紙付きの原石ではなくとも、磨き続けると宝石には叶わないなにかを見いだすのだと言われると、やはり人間はやめられないのである。

 

 

 

2008/4/21 「平屋のような家」工事契約のため久留米へ

 

 

 

2008/4/13 
第33(日)常識と非常識

自分の中に、常識的でない、つまり世間一般と(意見の)異なるところが目下の所3つある。一つは朝飯。健康的な生活基盤を問う時にかならず挙げられる。食べないと頭の回転が上がらないとか、いい仕事ができないとか、あの手この手で脅かされるが、自分に限っては、まったくそういう状況には身に覚えがない。午前中はコーヒー一杯、前日接種した食料を内燃させることにより、この20年生きてきた。「栄養学的には前日のもので午前中は十分活動可能である」という、朝飯不要説をようやく先日、小耳に挟んだ。狭かった肩身は少し広くなった。
二つ目は、職住分離説。これも独立するにあたって、ほとんどの人から、仕事場とプライベートな生活とは切り離した方がいいと言われた。北九州の研究所から事務所機能を回収する時に、1年だけ自宅を事務所としたことがあった。スタッフが朝勝手口から入ってくるという状況に対して、案の定身内からブーイングが起こり、その後事務所を近くに移した。だが、少なくとも心理的には、事務所が寝室の隣にあっても、私はいっこうに構わないと思っている。仕事や建築に関する想念を押さえることは出来ないから、実体としての事務所が近かろうが遠かろうが、関係がない。むしろ仕事机の側に寝床が横たわっていて欲しいと思う。眠くなる寸前まで仕事が続けられる。起きたら、起きあがったその身で仕事が始められる。職住近接というより、職住不二。これでいい。
そして三つ目は、昼休みについて。二つ目に続いて、職食不二の問題。昼に1時間の休みがあるのは現代日本の、もしくは労働環境における世界基準なのかもしれないが、私にはこの風習がまったくない。昼ご飯の時間は正味10分。その日の午後を俯瞰する10分でもある。そこでボーっとすることができずに、机に直ぐ戻る。ちなみに昼も夜もそこにある食べ物口に運びながらパソコンで仕事をする人間を私は知っている。仕事は質量共に天才の領域であるが、彼女のキーボードは隙間が食べ物のカスで目詰めされている。結局、私の昼休みを堪能した記憶は、幼稚園~高校ぐらいまでで、この風習の定着は勤め時代からであったと思われる。改めてこう書くと、自分はまるで便利な機械のようなイメージになるが、ちゃんと休憩に変わるなにかが行われていることも触れなければなるまい。かつて勤め時代(大学の研究室)は、眠たくなれば学内の図書館で調べモノをすると言って、1時間ぐらい寝にいっていた。今はそんなアリバイに寄与する図書館はないが、飯当番(当事務所の)を率先してやるところなどは、気分転換のさいたるものである。昼休みは飯込み10分というこの労働環境に、最近ブーイングが起こった。スタッフからである。昼休みをくれと。制限したつもりではなかったが確かに。労働組合が発足される前になんとか考えなければなるまい。
しかし、これら3つの非常識を単純に足し合わせるとえらいことになる。ベットから起きあがったら朝飯も喰わず、そのまま図面に張り付き、昼飯10分、夜飯10分、そして眠りこける寸前まで机にこびりついている製図マシーン。現実はそうなってはいない、というところでかろうじて社会と繋がっている。

 

 

 

 

2008/4/6 第32(日)にわか花見て句を詠むの会
   「 さくら咲き つかの間の春 ゆめかうつつか 」
   「つかの間の 夜桜の間を 身に染ませ」
   「写メに花 おじさんおばさん 芸術家」
   「ゆめウツツ 花がなくとも ゆめウツツ」
   「さくら下 見上げる夜空 ときトマル」
   「花見上げ  こんなに広いと  宇宙(ソラ)を知る」
   「春風に  背中をおされ  大空へ」

 

 


   
2008/3/31 
第31(日) fictionary-1

会社員事務がその会話を切り出した。
「ねえ、もし次に生まれかわったらなんになりたい?」
電機メーカークリエーター:「そうだなあ、俺はミュージシャンかな。いや、音楽家っていった方が本意かな。ロジョーでやる感じのイメージじゃあない。後年の坂本龍一なんかがいいなあ。今は会社員なんかしているけど、本当は好きな音楽で食えたらいいなあと今でも思っているよ。でも当然、食えないからな・・」
公立中学教員:「俺は料理人かな。食うこと好きだから」
ライター:「それ、料理が「好きだ」というのが先だろうが」
公立中学教員「・・」

カラスの鳴声が、静かな住宅街にコダマした。こじんまりした街であることが室内に伝わった。

広告代理店勤務:「私は男に生まれたい。女って、やっぱりなにかをしようと思ったら損よ。やればやるほど、今の日本ではなんだかんだいって女であることが壁にぶつかるのよ。」
会社員営業:「そんなことねーだろー。今は女の方が伸び伸びしているだろー。男の方がなんかセコセコ生きてるじゃねー。」「そういえばおまえはどうなんだよー。」彼は気をきかせてあまり場の盛り上がりに乗らない自営業主に話を振った。
自営業主:「・・俺は正直、生まれかわりたくねーなー。。もう一度ここまでの人生をまた、ゼロから築きあげなきゃいけないと思うと、ちょっとなー。小学校高学年ぐらいから受験戦争に参戦だろ?高校は、1~2年はよかったけど3年になるとやはりそれに立ち向かう兵士。受験という重圧の日々の夢を今でも見るよ。なんか妙な病気もたくさんしたし。大学の1~3年までは人生最大の小休止だったけども、4年生の研究室配属から以降は、登る一方の山登りさ。おそらく社会人引退まで、自分の能力とそれを取り巻く社会との決闘が延々とつづくんだ。夢や希望もあるけど、そのぶん傷つき、落胆が尽きない。それをくり返しているうちに、傷つくのが怖くていつもびくびくしながら仕事をするネガティブな自分がむくむくと育っている。これを老獪というのかと。老いるって、中国の七賢人みたいに、時間と心の余裕が出てきて、世の中を達観するような生活環境を得ては、大局的な視野、そして寛容な人間に成っていくんだろう、とガキの時はおもっていた。けど、とんだ誤算だった。そんな人間殆どいない。自分の身の回りの老人を見る限り、老化とは少なくとも心の次元では退化しているんじゃないかとさえ思う。寛容や、利他の反対。こうでなくてはいけない、という不自由な見方、そして自分にとっての利害の分別。まあ、老化の問題以前に、人は本当に進化しているのかと疑うほどに、今のニュースの内容は厳しいよね。自分の子供が将来人を殺しはしないかと思うと、気が気でなくなる。気が付くとこんな思いしてまで自分はなんで存在しているんだろうと。生まれなくて済むんであれば・・・」
ライター:「オマエ戦いすぎなんだよ、手に握っている竹槍を下ろせ。」(一同、笑)
そして、たわいもないこの話は、その就職浪人生の話を最後に再び蒸し返されることはなかった。
「僕もずいぶんそのことに悩みました。なんで生まれてくるんだろうと。でもいろんなものを雑読しているうちに、もしかしたらって思った。精神と物質という対比の時の「物質」って人間にとってどういう意味が在るんだろうって考えたときに、坂口安吾の「日本文化私観」(1946)の内容を思い出したんです。ちょっと正確な文言は忘れましたが、おおよそこんなでした。<京都や奈良の社寺をはじめとする国宝や文化財は、太平洋戦争で燃えてしまっても一向に構わなかった。それがなくなって日本の文化が継承できなくなるようでは、それは本当の文化ではない、継承すべきはモノではなく人の心に宿り続ける精神的な文化である。>つまりモノって本当は要らないんじゃないかって、いうことですね。でも、僕たちはそんなこといったってモノに依存していますよねー。坂口安吾の理想は正しいけど、僕たち凡人はそこまではいっていない。むしろモノの助けを借りて漸く生きていられる。これは、例えばタンパク質の接種により肉体が維持されるなどという以上の役割のことです。飯を食うということは、物理的な維持のためであることを超えて精神的な何かを補給しているんじゃないかと思います。なにかに対して煮詰まってしまう、あるいは疲労してしまう精神に対して、肉体の維持行為が、小さなリフレッシュをもたらす。読書、映画、テレビ、音楽、絵画、会話、恋人、ときどき変人、青空、山、海、・・。多かれ少なかれ躁鬱をくり返す精神に対して、いい意味での邪魔、いやインターバルが入り、それは単なる邪魔ではない意味を持つ。」
ライター:「爆笑問題の太田さんが、こんなこといっていました。年末に大風邪を引いて身体がぼろぼろになった時に、例え哲学的な思想を持っていても、そういうものを含めて精神なんてものはもろいと思いました、と」
就職浪人生:「そう。もちろん肉体の疲弊が精神を道連れにすることもある。逆の構図もあるでしょう。でも問題は、そこからの回復の方法じゃないかな。単純な肉体の疲弊は医療などの物理的な働きかけができると思います。精神が病んだときにどうやって回復するかという時に肉体、つまりモノの世界の有効性があるように思うのです。仮に坂口安吾のような強靱な精神の持ち主であれば、モノは不要なんだと思います。そう言う人は、貴方がいうように、生まれてこなくてもいい。でももしあの世があるとしたら、そこには物質はないんですよ。心だけ。ちょっと気晴らしにアイスクリームとか、ビールとか、あるいは気の合う仲間との夜行とか、温泉とか・・心を慰める外的な、そして偶発的な刺激=物質がないのですよ。夫婦ゲンカして不愉快な気分を忘れさせるレモンソーダのようなものはないんです。傷ついたり疲れた心は、なんの力も借りずに自らの心で癒さなければならないんですよ。これはむづかしい。もしかしたらこの物質に囲まれた世界に生まれて来れたということは、ありがたいことなのかもしれないと思うのです、それだけで。」
彼は恥ずかしそうに、「自分は本当は小説家を目指している」と言っていた。

 

 

 

2008/3/23 
第30(日)子守歌に抱かれて眠る

両足が建築に浸っている我が身が、腕先から引き上げられる。僅かな時間。週のど真ん中の休日の晩に、「植物文様」と題した音楽会にお誘いを受けたので、脚を運んだ。
「<植物文様>という藤枝守の作曲シリーズは、植物研究家でありメディアアーティストの銅金裕司が考案した「プラントロン」という装置との出会いから生まれた。この装置から採取された植物の葉表面の電位変化のデータに内包された音楽的価値に着目しながら、MAXによるコンピュータープログラムによって、この電位変化のデータをメロディックなパターンに読み替える」(パンフから引用)
つまり植物が発する音楽に人間が耳を傾け、それを演奏しなおした。現代音楽である。今回はピアノ(砂原悟)にオイリュトミー(藤原馨)が併せられた。オイリュトミーとは、
「ドイツの教育哲学思想家、ルドルフシュタイナーが生みだした身体運動芸術、空間芸術で、ギリシャ語に源を持つ言葉で、オイ=美しい、リュトミー=リズムの意である。オイリュトミーが表現するものには<言葉>と<音楽>があり、言葉から始まる身体の動きを基本とし、詩や物語などの言葉を発する時にノドの発声器官に生じる動きの形を全身の動きへと変容させたものである。つまり見える言葉となる。音楽オイリュトミーでは、音程、音と音のインターバル、和音等の音楽の合法則性がやはり身体の動きとなって表現される」(パンフから引用、修正)
ここまで理屈を聞いたらもう行くしかない。だが、前半ピアノのソロ、最初の2曲目で眠りこけてしまった。まるで催眠を掛けられたような、いつになく深い眠りへの誘いを振り切ってようやく眼を開いたときには既にオイリュトミストが天女のように舞い降りていた。おそらくプログラムの半分は睡魔との戦いであった。モーツアルトやシューベルトやショパンもいいが、現代音楽もいいと思った。(決して眠れたから言うのではない。)
80分の会が終わり、お誘い頂いた藤枝守氏、藤原恵洋氏と歓談している内に、あの睡魔の原因がつきとめられた。この音楽は「純正調」「純正律」といってバッハにまつわる「平均律」以前のもので、子守歌の原理を備えているらしい。
この日曜日の朝、自分を眠らせた原理、純正律と平均律のことが気になり、ウィキペディアなどを斜め読みした。簡単には、平均律は1オクターブを分割する12音程の間隔が一定であるということ。それまでの純正律は、その曲に併せて、これらの音程の間隔が操作され、互いは一定の間隔ではなかったという。つまり私たちがカラオケボックスでキーを♯へ♭へと移動(移調)しながら歌い続けられるのは平均律の賜物であって、あのマシンが純正律で調律されていたら、移調と共に曲の雰囲気が変わり、素人は歌えないというのである。さらには純正律と平均律が、古典と近代という対立と批判を歴史的にくり返してきた(マックスウェーバーやジャンジャックルソーなどもが)。最近は古典音楽が見直されている傾向にあるとも書いてあった。
いずれにしても、純正律という、言葉が悪いがあえて「音痴」な音楽が人を眠りに誘うということに驚きであった。そういうものを、人間はその時の別の都合で削除しているということにも心が留まった。

 

 

 

2008/3/16 
第29(日) なんとかの思し召し

仕事というのは、与えられた運のようなものか。施主さんが皆いろいろである、という以上に、本業としての設計業務とは異なる仕事が、求めざるにもかかわらず、訪れる。何度もここに書いたが、母校の設計製図などは、正直想定外であった。オマケに東大との競争原理が働いていて、できることならそんな教室から逃げたいという心が確実にあった。自信のない自分をだましだまし用いた。(こういうことは終わってから言う。)思えば研究室在任時代に、ある日師から、「来月から左官教室の原稿はオマエが書くように。自由に書いていいが、評価はする。」と。実際の設計がようやく、というかボチボチ出来はじめるようになったころであった。いや、それすらままならない状態という時に、新たな難関が頭上から覆い被さった。私は子供の頃から国語という教科の克服できない人間であった。小学校に上がるまで自分の名前以外の文字を書けなかった。高校受験のために死ぬほど勉強をしたが国語は5段階の3止まりであった。生まれつきの障害であった。そんな自分が超マイナー専門誌とはいえ、印刷物になり全国に頒布され対価を貰うなどとは、想像ができなかった。案の定、毎月15日のシメキリ付近は、睡眠時間を犠牲にした。内容に関してもやはり厳しい意見の風当たりを受けながら、気が付くと10年の連載が終わっていた。その間、文章にて何かを伝えることが単なる苦ではなくなってきたころに、どこからともなく他の一般紙や専門誌からの原稿依頼が舞い込んできた。
こういう受難にも等しい、「与えられた仕事」はなんとかこなしていると、そのうちふと振り返った時に「天の思し召し」としてようやく前向きに捉えることができる場合がある。今週、TOTO出版の建築マップ九州ができたてホヤホヤの湯気を立てて送られてきた。ちょうど3年前に突然編集部に呼ばれて、複数の監修者といっしょに九州のマップをつくりませんか、とお声を掛けて貰った。だがやはりこれも、受難的な「与えられた仕事」の類であった。監修者の中で最も若年で、そしておそらくこの手の仕事のエキスパートではない。日常は本来的に本業にエネルギーを奪われる。左官教室に書き始めたころの気負いと状況の再来であった。いつになく原稿用紙と執筆の資料を携帯し、時間が出来たその場所で推敲を重ねた。そうでもせねば、関わる全ての人の名を辱めるではないかという脅迫に等しいものがあった。出来てしまったあとは、すっかり気が晴れ、得るモノを得た実感と共に「天の思し召し」だったとその受難を肯定することができる。
一難去って、また一難。4月から造形特論(全15回の講義)が今どんよりと頭上にのしかかっている。大学に本属する本物の先生ならば、たった一教科の授業の準備など些細なことだろう。自分はそうではないから、どうしても時間が掛かってしまうのである。今はまだ、これを天の思し召しとアリガタることは到底できない。

 

 

 

3/9  もうすぐ春です。

3/2 日中、現場にて施主さんと打合せ、夕方から翌朝の打合せのための図面を・・。

 

 


2008/2/24日 
第28(日)そこに在るもの

昨日から今日に掛けて、2日連続して異なる施主さんとの打合せの中で、ピンと引っかかったものが共通していた。昨日の打合せでは、お風呂で使ったお湯をどう使うか、今日は、金属加工品のスクラップの中に紛れているこんなに立派なものをなんとか前向きに使えないか、という双方の命題。前者について、家庭菜園へと引き込めるバルブ経路を設けるか、通例のように洗濯水に用いるかの議論の中で、「予算」ではなく「理念」という選択基準に対して少し響いた。後者について、これらの銅板やステンレスをスクラップとして処理するより、手間を掛けてでも住宅の部位=仕上げにでも用いるべきではないか?という意見にまたもや。
そもそも、きちんとデザインしようとすればするほど家をつくる過程における資源の浪費の程は、増えているのかもしれないという脅迫がある。デザインの役割の重要な社会的目的の一つは環境にやさしいことであると(あたりまえのようでそうでない)常々心がけてはいるものの、実際にこれが確実なものかどうかを試算すると微妙な立ち位置なのかもという恐怖心がある。設計段階においては、図面という紙の浪費がまずあって、そして模型をいくつも作っては壊しという、模型材料としての浪費。設計過程の資材の浪費は、実際の建設過程においてもそのまま同じ原理が持ち越される可能性をもはや隠し通すことはできない。もちろん、こういった製造過程を含めた環境学的な脅迫は工業一般の概念であり、とりわけ建築の世界においてはライフサイクルco2(LcCO2)(製造工程から廃棄処分に至る二酸化炭素発生量の指標)と称して、自戒を込めたこれらの概念を持っている。
住宅に限って言えば、一方では、明日にでも費用を用意すれば、即カギが手渡されるといういわば商品としての住まいがあり、その対極に何年もかけて家を構築するというスタイルがある。いえづくりというものづくりから環境問題という問題の端緒を見いだそうとするなら、家を得るという過程が端折られた前者にも、なにがしかの原因がありそうである。よく言われるように、海ではマグロの切り身が泳いでいると考える人間は、対象に対して残酷になることができる。そうではない生身の状態=過程を知っている人が辛うじて、その尊さを承知できる。
美しいという価値は、造形をする立場から無視することはできない。しかしながら、美しいの根拠は一定しない。「そこに在るモノ」を用いることによって、その物語が(古典的な)美しいという視覚を越える、そういう仕掛けを講じることが、デザインの役割の一つなのかもしれない、と思った。

 

2008/2/17 第27(日)出口は後ろに開いている

昨年の秋口に手に入れた「道元とヴィトゲンシュタイン」(春日佑芳/ペリカン社)をようやく読み終えた。ヴィトゲンシュタイン(1889~1951)は我々建築を学んだものは、ストンボロー邸(ウィーン/1926)という唯一の建築作品を通して知っているだけで、本来の思想者として全容を知り得る機会を持っていなかった。寸法美、空間美にこだわり尽くしたあの住宅の作者がなぜに仏教者の道元(1200~1253)と並んで述べられるのか、大変に気になった。正直、それぞれの論文を読み口説いた論説の、更なる読み口説きとなるのは避けたいところだが、自分が受け止めたこととして、また多くの人に薦めたいと思い、書きとどめる。
ヴィトゲンシュタインが語ったのは、人間としての生をありのままに受け入れて生きることによって結果的に立ち現れる「天上よりの贈り物」=心の安らぎは「語り得ないもの」であり、それを直接求めてはいけない、ということであった。
「いま大事なのは、君が置かれている世界の中で生きることです。君が住みたいと思う世界について考え、夢を見ることではないのです・」(友人への手紙)
「万事好都合なこうあって欲しい状況を夢見てはいけない。現実の状況を受け入れ、むしろ自分の方を変えていく、ということである」(本文解説)
「彼(ヴィトゲンシュタイン)は常に自分を虚栄心から純化し、他の人々の助けとなる仕事のできる人間になることを願い、自分をまともな人間に変えていこうと努力し続けた」(本文解説)

一方、道元には正法眼蔵という世界的な名著がある。その中から「修証一等」が取り上げられる。修=修業、証=悟り、一等=同一の意、つまり修業の結果に悟りが得られるというのではなく、修業の過程の中に既に悟りという結果に値するものが在る、というもの。言い換えれば、悟りを得ようという意志の先立つ修業からは、むしろ悟りは得られぬ、という諭しでもある。もちろん今の我々にとっては、修は仕事、証は報酬?名声?評価?といくらでも置き換えることができる。私たち人間は放っておくと知らぬ間に、与えられた仕事そのものよりもその対価、もしくは未来といったものに夢うつつとなる。そういうところからは真の心のやすらぎは得られない。むしろ修という行いそのものにぐっと入り込むところに、語り得ない喜びがある。気が付くと天上からの贈り物が届くというのである。目的意識は視界の前方に出口を見いだしがちであるが、実はそれに構わず出口は後ろに開いている。
時代も場所も大きく異なる両求道者が到達した出口は、簡単なようで、難しく、でも心がけ次第によっては、というような・・少なくとも最も信頼できる出口であることだけは、直感できた。

 

 


2008/2/10日 
第26(日) ホームセンター

深々と冷えるなら、風呂屋にでもいって本でも読み耽ろうと思ったが、美しく晴れたので、犬の散歩に出かけることにした。気温が上がったので、いつになく魔法瓶にコーヒーを詰めて、僅かに雑木林で休息、こんな日があるものかと。少しは働けと思い、gooday(地場のホームセンター)の屋上駐車場に車を移して、車磨きをする。晴れた日は薄暗い車庫ではなく、広々と日を浴びながらボロ車に光沢を被せるのもいい。いつも買い物をするgooday長尾店だ、といくらいったところで、そのまま帰るのは営利企業に対して失礼かと思い、下って商品棚を物色する。女性がウィンドーショッピングを楽しめるように、自分はホームセンターで1~2時間ほどの時間をつぶすことができる。趣味欄を埋める数少ない要素かもしれない。ホームセンターはしかし、(自己弁護だが)発見の連続である。洗剤を付けなくてもいい食器洗いスポンジとか、退色した畳を青畳に復帰する塗料とか、1万円台のカラー液晶インターホンセットとか、いわゆるテクノロジーの先端、厳密には商品化されるに至った先端がここにある。そういう意味では日経新聞の新製品コーナーを実物で閲覧している感覚と同じである。と同時に、主婦がマーケットに並んだ食材を見ながら献立を決めるように、いろんな建材や素材を見ながら、これを繕う、あれを作ろう、これを用いたらあの現場にいいかもしれない、と思い描く。人が生きる環境は常に修復や手入れの連続であるにもかかわらず、とかく普段は課せられた責務に脳裏は占領されていて、その一つ一つの不便な瞬間は過ぎてしまえばなかなか思い出すことができないものだ。しかし、ここ(ホームセンター)にくると当に生活環境整備に旺盛な営繕部長に変身することができる。私目に限っては仕事上の知識としても役に立つことになるが、本来的にそのためにやっているというのでもない。
それほどまでにホームセンターは家作りの総合力を身につけてきたということでもある。見本は米国だろう。あちら(上海もそういえばそうだった)のホームセンターは、もっと巨大で、家が数件立てられるだけの建材その他設備部材が全て備蓄されている。プロが用いる流通経路のオルタナティブである。素人が行くと、あなたに意欲があるなら素材は全てここにある、と暗に示されているように山積みされている。家を建てるための基本的な素材はすでに実物によっても開架書庫に並んでいる時代(の到来というべきか、すでにというべきか)、我々設計業の現代における役割というものは益々ピンポイントに追い込まれていることが、(見ようによっては)あぶり出されている場所である。

 

 

 

2008/2/3日 
第25(日)利害と理念

今年の授業が漸く終わった。母校での最後は、課題地となっている調布市にて、一般の人々を交えての公開講評会となった。東大との合同課題という試みと、市長と市民への提案という試みが組み合わされた、通常の学内授業を遙かに超えた大盛りの仕掛けであった。デザイン教育における競争原理の明確化は、学生はもちろんであったが、教える側への重圧であり、刺激であり、また収穫であった。ナーナーでことを済ませていく教育の日常とは打ってかわって、そこには常に摩擦があったといえる。摩擦は人的エネルギーと模型材料と時間を消費した。そしてその半期の摩擦の結集として、講評会は公開された。内容は京王線地下路線化に伴う駅前空地の利用計画。公共的、都市的提案に値するということで、当然のことながら、市民レベルでの議論、民間委託による考察が先行していた。難波和彦氏の進行の下、講評者は最前列に並んでいた両大学を併せて30名前後の先生方を差し置いて、これら一般の参加者にゆだねられた。私たちは、学生と市民の間に発生した摩擦をしばし傍観する側に立たされたのである。
「スロープは長すぎて車いすの人には酷ではないか」
「地下水は防災時に使うなども考えられるべきではないか」
「自転車道路はどのような構造なのか」
「構造的な合理性からいえば、直方体の方がいいのではないか」
「段差のない施設にして欲しい」

預けられたマイクは、プロとしての講評者に戻るヒマもなく、市民の声を拾い続けた。一方がお高く留まったプレゼンの場ではなく、市民が能動的に参加する都市作りを垣間見た気がした。

だが、学生たちがとりくんできたことと市民の声の間に発生したのは摩擦ではなく、すれ違いではなかったか。学生は建築を提案しようとした。市民はそれを建物として捉えたことによって不備を感じた。建築と建物が似て非なる概念であるから、学生と市民はすれ違った。「受容的に学生の考えを聞いてみてください」との石山修武氏の冒頭は、このすれ違いを予告していたことになる。

誰かが、この事態を整理しないといけないだろう、自分だったらどう伝えるだろう、と頭を掻いている内に鈴木博之氏がこの場そのものを締めくくった。
「利害と理念」
建物と建築の違いが、簡明な一言句に置き換えられた。
今日の提案者(学生)と講評者(市民)のすれ違いを明確に、いやそれだけでなく、双方に対して、互いの欠如を指摘する意味深い言葉となったに違いない。

 

 

 

2008/1/27  公開講評会へ出席のため調布市へ

 

 

 

2008/1/20   
第24(日) ニヒリズム

大学の授業と自宅の往復(door to door=4.5h/way)は、決して慣れる距離と時間ではないが、なんとか前向きに捉えようと、読書の時間にあてがうことにしている。建築の議論の中で何気なく飛び交うニヒリズム(無(ニヒル)についての思想(イズム))の中身を捉え直そうと、「ニヒリズムからの出発」竹内整一/古東哲明編(ナカニシヤ出版)を鞄に忍ばせる。12名のニヒリズム論者による、結論ではなく問題提起としてのニヒリズムが顕わにされるという趣旨のものである。今からおよそ100年前にニーチェ(1844-1900)が「神は死んだ」という発言が必ず引っ張り出される。我々人間が信ずるべきもの(真理、実体)はなにもない、という思想である。いまさらのようにこれを取り上げる心境というのは、自殺と鬱病の巣窟となりつつあるこの国の歪みを果たしてこれが解き明かしてくれるだろうかという期待と、もう一つはブディズムにおける無常とどこがちがうのだろうという素朴な疑問が湧き起こったからである。
それぞれの論説には、基本的には文章がわからない(哲学書にありがちな)ものと、一般的な文章を勤めていたものとに大別されていた。詳細を記述するとキリがないので、素人ならではの印象に留めておくと、一言。この本から元気を得られる人は何人いるのだろう、の疑問に陥った。建築にも実は本来的に人々に元気のようなものを与えたいと思っている節があるのだが、時として難解なことがある。ひとたび理論を紐解けば、さらに混迷と断絶である。それを考えることを職業としている人は、箱の中でそれを培養し続け太らすことにうっかり時間を費やす傾向にあり、研究者以外の人々は、太くなくていいからその箱から取り出して血肉として見せてくれという対極がある。哲学が培養箱の外で育たない代物に甘んじているように、建築もその理想の突先はどこかに引きこもりがちで、自らの母親にさえ理解してもらう接点を見失っている。
西欧起源の「ニヒリズム」はどちらかというと、思索=理性によるものであり、東洋起源、厳密には仏教の無常は、感性(仏道者の極致は理性や感性といった知覚すら否定している)が観たものであると思った。「ニヒリズム」はおそらく理性の皿の上で延々と転がり続ける議論なのかもしれない。「無常」は(感性であるがゆえに)そういう面倒な手続きをひとっ飛びして、むしろ今現在の貴方を苦しめているものを解放する、というバカ明るい結末を呈示してくれるものに映った。現にこの書の中にもブディズムを軸足にした一説だけが、きわめて楽観的な締めくくりによって青空を仰いでいた。「無常」は人間の苦を解きほぐすための飽くなき探求から見通された認識論、「ニヒリズム」は「神を死なす」ことが隠れて目的となっていた認識論、結局その小さな違いが、行動学を導き出せるか認識論に留まるかの大きな違いとなっているように感じられた。

 

 

2008/1/13   
第23日(日) 晴耕雨読

今年は、私的な日曜日から始まった。親元の木造二階建てに寄生して6年、ささやかな改築歴の中でなぜか取り残されていた寝室に手が加えられた。最初はトイレ、そしてダイニングキッチン、仕事場、籠もり部屋と目に触る内装を順番に、手当たり次第、漆喰と土を塗ってきたが、とうとう最後に残されていた寝室へ、となった。どうして寝室が取り残されていたのかは決して自覚的ではなかったが、今思うに、目をつぶれば気にならない「だろう」、と今考えると恐ろしい屁理屈がなかったわけではない。だが、そうではないだろう、と当然の理由も眠っていた。少なくとも一日の1/4以上、そこで、目はつぶっていても息はするのである。
壁を塗っていかによくなったかは、まだ硬化中でもあり言及するに値しない。強いて実験要素があるとすれば、既存のクロスを剥がさずにその上から直接漆喰材料を付けたことである。設計監理をする人様のモノには出来ない、怪しい実験である。通常は、セッコウボードに必ず下地材(石膏系)を塗り、一日存置してからの仕上げである。クロスからの改装であれば、クロスを残さず剥がしてからの、同じ工程を経る。改装で常に問題となるのは、クロスの剥がれにくいところが、後で水を含んでボードから剥離するという現象で、これを回避するために、既存のクロスを剥がさずにその上から下地を塗る、という実験は行ってきた。今回はさらなる実験、というか手間抜きである。当面はなんの異変もなく漆喰は壁に食いついているもので、もし問題があるとすれば、地震の時だろうか。
それにしても、その時間を自由に遊んでいいといわれて何をするかは、その人の道(=人生)そのものであると、つくづく思う。私自身、そんな時間は今日のように身体を動かす、具体的なモノをいじりまわす習癖がある。身体の新陳代謝が明らかに促されるのを感じ、食事も格段に美味しくなる。いつになく内燃機関が燃えるので今日のような温暖化された冬の一日には、暖房も不要。しかし、どちらかというと自己反省に近い意味でこれを書いている。本来ならば、勉強(したい)しなくてはいけない書物、知(りたい)らなければならない事実がたくさん本棚にも脳裏にもある。そういうものと日がな一日戯れることを自然に行なうことがない、ということは、真の理論家には成れない、ということでもある。
自分で自分を突き落とすという自己審判の末は、それでも明るく照らされていたい。文武の両道にバランスを得て、あるいは晴耕雨読に生き、やはり、きちんと社会に深く有用なものを探したい。一流のインテリジェントからはおそらく一生バカと言われ続ける。ならば、それには出来ない芸当を身につけたいものだ。

 

 

 

2008/1/6  
第22(日)消去法の営み

地下鉄車両のドアガラスに貼ってあった小さなシールに目がとまった。スガシカオ言、「20代でサラリーマンを止めて、音楽の道に進んだ。どんどん時間が過ぎていく内に、自分は天才だと思う反面、ひょっとしたらだめかもしれない、と思うようになった。でも自分にはもう音楽以外残っていなかった・・(の意)」転職情報誌かなにかの広告だった。「それ以外に残っていなかった」という表現はどこかで聞いたことあるような、成功者の慣用句のようにも受け取れたが、聞き捨てられなかった。音楽でうまくいかなかったからといって再びノコノコとサラリーマンに居戻るというのも?あるいは、やりたいことは音楽しかなかったということを確信したという?
話は飛ぶが、歴史上の数々の偉人の中で個人的に関心のある人物を挙げよといわれたら、その内の一人に鴨長明がいる。「無常」を建築とその生活者として表現した人だと捉えている。だが、ゆく河の流れは絶えずして・・の方丈記(1212?)だけなら、このタイミングでは挙がらない。「発心集」(1216前)は、仏僧ではない町人や商人などの庶民の中に発心(=仏心に目覚めること)を得たに値する人々を発見しようという随筆である。例えば、笛吹法師の話。笛を吹いてばかりいる、いや笛しか吹かない日々を送る人がいた。そんなだから生活はすこぶる貧しいが本人はお構いなし。廻りの住民は一日中笛が鳴り響いていてうるさいためか、いつのまにか隣人は一人としていなくなるが、これも一向に気にしない。高官を勤める親戚がなにか支援することがないか尋ねたところ、唯一の望みがあるという。ところが、笛の良材を作るための漢竹を九州から取り寄せて欲しい、というささやかな欲望に拍子抜けする。話はその法師が後に笛吹の名手として世に知れ渡るというので終わる。そこには、こんなような、殆ど狂人的なもの好きばかりが登場し、それらは発心の集まりとされている。この本を読んでいる間の世界は、環境問題など起こりえない、楽しげな風景として映し出されてしまう。
スガシカオと発心集の登場人物を重ねることができるとすれば、それは、(やはり)それしか残っていなかった、気付くとそれ以外なにも出来なくなっていた、もしくは、それ以外のことへの欲求がない、という状況であろう。ミュージシャンになりたいとか、笛吹になりたい、というのではなく、歌っていたかったのであり、笛を吹いていたかった、ということである。

 

 

 

2007/12/30 蒸気の中で骨を蒸す、鉄輪

 

 

2007/12/23 
第21(日)ベビーメリー

札幌のモエレ公園が盛況だという。イサムノグチが世を去る年、1988年の5月~11月に基本設計を行ったものだ。ゴミ処理場の跡地に彫刻的な地形が造成され、彼のデザインした遊具がおよそ120基点在している。見所というのは人それぞれだろうが、最も一般的な人気は、「海の噴水」である。40分かけて、霧状の水、打ち上げられる水、大波の水といった、水で表現されるあらゆる造形が現れては消える。このプログラムの詳細までイサムノグチがデザインしたというのではなく、実施設計者がマイアミのベイフロントパークのものを模したという。リカルドリゴレッタ設計のホテルカミーノリアル(メキシコシティー/1968)で同様のものを見たときの新鮮な感動によって、個人的には辛うじてこの噴水を疑似体験させてくれる。
話は飛ぶようだが、今年オープンした防衛庁跡地の再開発東京ミッドタウンにも、各所に水と光の造形意匠が施されていた。ガラスの屋根に水が流され、そこから透過してくる光が動く陰影となって地下に光をもたらす。思わず立ち止まる。その他各所に水と光、共通するのはすべてが動いているということ。考えを走らせれば、動く光という意味では、なにも風光明媚な繁華街に限らず、店舗や住宅の別を問わず、町中に点在し、点滅していることに気付く。LEDと点滅装置の量産化により装飾化した人工照明は、もはや日常の光である。
年間200万人以上の来訪者を呼ぶ門司港レトロ。街の見所の一つに「ブルーウィング」という跳ね橋がある。港を回遊するための人間の動線である。第一船だまりに入港する船の動線と交差するということで、それらが往来する度にアナウンスが流れ、橋はつり上げられ、真っ二つに分かれて八の時にそり上がる。船の動線を温存するというより、橋が動くということが街のアトラクションとなっていることの意義深さを感じる。
私たちは明らかに動かぬものより動くモノに反応するという自らの習性を利用し、利用されている。そういった意味では、私たちはいくつになっても、赤ちゃんの関心を釘付けにするベビーメリー(くるくる回る玩具)の原理をいつまでも持ち続けているのかもしれない。動かない建築、動くものを引っ付けていない建築が、いつかは大衆の関心から除外されるという老婆心が芽生えなくもない。そういう風に一歩引いて見ると、すこし滑稽な人とモノとの関係である。

 

 

 

2007/12/16  原稿2本書いて腕しびれる。

 

 

 

2007/12/09  
第20(日)クリスマスツリーになった家

自宅から事務所へ向かう道筋の突き当たりの家に、今年もクリスマスを祝う電飾が光りはじめた。その住宅は外観からはもう解らないが、3年ほど前の建設時には明らかに「パナホーム」の看板が掲げられていた。前面道路に面してカーポートが配置され、BMWと国産のRV車が並んでいる。おそらく発光ダイオードによる電飾キットは、波形や星形などにかたどられていて、ファサード(建築の正面)を包囲し、かなり大がかりである。妻入りに構えた家はまるで巨大なクリスマスツリーである。T字路の根本に位置しているので、300m先からもその仕掛けは十分に冬の夜をにぎわせてくれる。住人はどのような思惑で、これらのデコレーションを施しているだろう。もしかしたら、単なる自己主張かもしれないが、もしかしたら、地域の人たちがクリスマスというなんだか楽しげな気分に浸れるように、という社会的善意があるかもしれない。だが、クリスマスにも電飾にも反応しない人種が少なからず近くにいる。ここはラスベガスではなく、一地方都市のしがない住宅地なのだという感性がある。こうして目の当たりにすると、建築の外皮というのは個人の表現の自由だから、というだけでは許されない部分を含んでいることに改めて気付く。かつては、それは経済的な格差が生み出すいわばスラム的街区がいたしかなたくその範疇にあったかもしれない。だが現在は、それは経済的なものではなく、専ら表現意欲の仕業である。赤白ストライプの外観が問題視されている東京吉祥寺の「まことちゃん御殿」がその一例である。この経緯はニュースとなって公開されているから深入りしないが、とにかく人様の家であるとはいえその外観が特異なものであると、廻りの人々は黙ってはいないのである。もちろんそれは、自らの仕事にも似たようなことが発生する。すべての施主さんから事後報告をうけるのは、おしなべて家が注目を浴びてしまうことである。家の外でカメラの三脚を立てている人がいる、とか、無断で敷地に入り見学している人が居る、とか、遠足の集団が家の前を通り過ぎる時に、子供全員がこちらを見ている、とか。これらの報告は必ずしもネガティブな意見として受けたのではないが、だが、個人的な反省として、クリスマスツリーやまことちゃん御殿の目立ち方と同じであってはモトモコモナイと苦悩するのである。いろんな弁解?の仕方があると思うが、前者は建築をシンボルツリーや、看板広告と考えたときの主張、表現であるのに対して、後者は建築を建築のままとしてその理想を描いた結果に起こる現代一般解とのズレ、と言い逃れることができる。すなわちプロとしてのデザイナーがラスベガスと福岡市南区を読み間違えたとなると、後に仕事はない、ということである。建築=住宅像の一般とはそれほどに保守的である、と共に、私たちはこうした小さなズレを生じさせながら、竪穴式住居から現代住居へと導いてきたのかもしれない。こういった言い逃れは私一人のものでもはなく、建築としての住宅を目指す者の共通であろう。

 

 

2007/12/2  
第19(日) カイキゲンショウ

古くはローマ時代のコロッセオ(0080)やパンテオン(0128)などの国家事業を成立させた火山灰コンクリート。エッフェル塔(1889)やクリスタルパレス(世界初の温室建築/1851)などは、鉄やガラスの質的、量的生産力の向上がもたらした。コルビジェのドミノシステム(1919)はそれまでの煉瓦にとってかわるコンクリート構造物のプロトタイプであった。建築史の重要な節目には、技術を背景とした素材革命のようなものがかならずあった。
泥土の家構想のミーティングのため、日田へ。話の発端は左官Hからであった。現代の家に土の可能性がもっと活かされるはずだ、という彼の直感によるものであった。いわば開祖様的告白に私たちはそそのかされたことになる。主観に陥らぬよう様々な分野の人々の関わりが必要とされ、江副氏プロデユースにより私もプロトタイプの構想の一員に加えて貰うことになった。土は元々建築史の始まりと共に建築材料であった。それゆえに、これまでの建築史にあるように、歴史を刻印するような大きな飛躍をもたらすということは考えにくい。当面は、時代が必要とする「回帰」とはなにか?その土台を作る、という取り組みになるだろう。
回帰現象は様々な分野に出没している。稲作における合鴨農法などは技術的回帰のわかりやすい一例である。その他、食の世界におけるマクロビオティック、医学におけるホリスティック医学などは思想的、体系的な回帰例である。こういう事例を取り上げると建築(住居)においては回帰の体系化が進んでいないことに気付く。健康住宅、自然住宅、無添加住宅、標語化したゲリラの無政府状態こそが、我が国の住居における回帰現象のメーンストリームである。これらに対する意見「そう謳っているものほど怪しく見える」というのが昨晩の会議で最も心に響いた。食品表示における「地鶏」に似た構造がここにもある。
体系的な回帰としての泥土の家。まずは土の家とそうでない家の客観的性質としての環境特性を比較していく必要があるかもしれない。そして、もっとも言語化論理化の難しい、主観として捉えられてしまう性質のものをどう扱うことになるだろうか。手応えたっぷりのライフワークを授かった感がある。

 

 

2007/11/25 
第18(日) 競争社会2

一週間前の月曜日に東大と早稲田の合同授業による最終講評会があった。中間発表ではホームの早稲田、最終はアウェイ戦というわかりやすい交歓試合。私にとってはしかし赤門をくぐること自体が始めてであった。職業病上、柱をコツコツ叩いてみたが、どうやらコンクリートであった。それよりもむしろ、建築学科棟の前の大きな象徴的なイチョウの木に驚き、そしてかねてより噂に聞きし建築学科製図室に驚いた。1935年内田祥三設計によるゴシック、そのロの字プランの空洞にガラスの空間を香山壽夫氏が10年ほどまえに増築したものだと聞いた。4方を学科の研究室が囲み、学生はここで課題に専念することを許されると共に、そのまま学科全体という公然に問われる、という構図となっている。全員が製図室という空間と机に有り付け、常に仲間や先生との議論が彼の仕事を研磨していく。デザインの作業は独りよがりとの戦いでもあるから、その矯正が自然に行われるのである。さらには建築学科の製図室ではあるが、論文発表会や建築系ワークショップなどにも利用され、その場は社会に公開されている。早稲田の学生は、最近でこそ小さな製図室らしきものが設置されてはいるが、基本的には各自の自宅という極めて閉じた世界を作業場とすることが基本となっている。教育環境としてのなにがしかの敗退を感じる瞬間でもあった。
もう一つ、東大との比較の中で明確な違いがある。東大は約50名全員が作品の講評を受けることができるが、早稲田は歴史的に、上位10名程度しかその権利を得ない。一学年200名ということで物理的にできないというのもある。全員講評という公平は、プレゼンテーションというコミュニケーション能力も評価軸に組こまれていて、わかりやすく言うなら、拾い上げようという姿勢である。選抜講評という不公平は、とにもかくにも紙面に現れる初歩的な熱意の程を問われるから、わかりやすく言うなら、そこで切り捨てていく姿勢である。切り捨てると言うと聞こえは悪いが、しかし、社会の構造はこれに近い。言わずもがな早稲田は在野的であると言われるから、それに従っているのだろうか。
とりわけて講評後の早稲田の学生の顔色が印象的であった。彼らのうちの頑張った上位は早稲田建築という途方もないものを背負っていたから、その重圧は計り知れないものであった。その重みにそそのかされて、結果を導き出したのであり、終わるや否やその手応えと共に肩荷が下ろされ、代わりに絵も言えぬ笑顔が現れた。課題が始まって以来、彼らから失われていた人間性がもどったという感だ。上位の連中ほど前後の差は大きく、下位に行くにつれて小さい、というのが見て取れた。競争原理の長短は言い出すときりがない。少なくとも、社会の縮図がとうとう学部学生の世界にも持ち込まれた、という実感があった。

 

 

2007/11/18 都心の空の下2。

 

 

 

2007/11/11  
第17(日) そば粉

今年も、そば粉が送られてきた。友人の勤める会社が運営する実験農場からのものだ。そば粉は生ものと同じ原理でどんどん風味や水分が変化していくから、やはり巷の蕎麦店と同じように旬のものとして、楽しむことになる。日曜日はスタッフを呼び足して云々といわぬようにしているが、新そばを食わすとなると歓迎されぬはずはないと思い、図面にしがみつく者を引っ張り剥がして自宅に呼び寄せる。蕎麦打ちだけば、事務所では行えない。いや、行うことが憚れる。
超我流蕎麦打ちの発端は、学生時代、友人と大晦日を過ごすに当たり、普通に店に行くとか、もしくはストアで購入したものを茹でて食べるなどというのでは面白くない、ということになり、ヒマを利用して、粉から打ってみようということからだった。そこにあった包丁、まな板、ボウル、鍋、そして、近くのストアに並んでいたそば粉によってであった。惨憺たる蕎麦を皆で突き合った。だが、とりあえずやってみよう、という若気の至りはその20年過ぎた今でも断続的ではあるが続いてしまっている。
10人前近くの蕎麦を打つだけで、にわか蕎麦職人は結構ヘトヘトになる。と同時に、生活の糧として同じことをしている職人達のことが思い浮かぶ。やってみてなるほどであるが彼らには脱帽である。これほどまでに単純、単調な作業でありながら、結果が一様ではない、保証されないという営みの最たるものである。かの高名な高橋翁(今は達磨?)の弟子、伊豆の小林さんが言っていたことを思い出す。その日の朝、例えば10個練った玉のできはみんな違う。今日はこれが一番できがいい、と指を指せるのだという。僅かな違いを感じ取る感性、そして取り組む者の追求心こそが、毎日同じ事を続けていくための動力源なのだろう。ウンチクの多すぎる蕎麦店主は頂けないが、でも蕎麦打ちという技術文化そのものが、現代の職能構造からはずれていて興味深い。今は、たくさんの情報を取捨選択し、複雑な演算をし、より短期に、明示可能な成果や新しさを導き出した者がある種の達成者である。社会的要求や期待の成熟と共に、建築の追求も多彩な価値や方法を選べる情報戦のような見え方をしている。常に「外」への意識、交渉である。本来は蕎麦打ちと同じく、本当に重要なものはすこぶる単純で、既にあるものの「内」へと入り込み、そこに広大な海を発見し、トツトツと理想を目指して渡るような道であったと思われる。

 

 

2007/11/04 
第16(日)競争社会

本業はあくまでもモノを作ることだと思っているが、普通の人より大学に長く居たせい(留年ではない)か、今だに大学に脚を運ぶ癖がぬけないままでいる。この秋は2つの大学の授業(厳密には3大学)が重なってしまい、両者を気ままに往復する、遊撃手のようなあやふやな先生業を渡っている。地元F大では大学院1年生、T大とW大は学部授業(3年生)としておそらく日本初の統一課題による合同製図授業に紛れ込んでいる。授業だからどちらも毎週の出来事である。一週間は本業5日、先生業2日の配分に分けられるが、目下のところ心身の摩耗が大きいのは、合同授業である。往復2000kmを越える通勤?だけが、摩耗の原因ではない。大学の授業を越えた、ただならぬ空気がある。WはTにライバル心を燃やし、Tはプライドを燃やす。学生だけが競い合っているのではなく、先生同士も、純粋学内にはない肩の張り合いがあるのは否めない。「若い先生」と称される我が身の属する階層は、殆ど学生と同じ緊張感でもって、この競い合いの先陣に立たされているのが実状である。
こんなのっぴきならぬ状況は、ひとえに大学同士が誇りをかけて、将来を掛けて競い合っていることが根元であるが、元々、こういう状況にでもしないとグローバリズムという厳しい環境に生き残れそうにもないから、というふうに個人的には受け止めている。少なくともデザインの中央集権である関東、の2大建築学科が競い合う、同時に企業合併のような原理の生き残り作戦を行い始めた時に、その他の地域の建築教育と実務はそのまま傍観者でいいのかという意見が自動的に湧き起こる。関西を九州と同列に扱うわけにはいかないと思うが、すくなくともそれよりも地方的な地方は、それこそ教育的合併によって、人的可能性の底上げと適度な緊張感を得ねばならないだろうことはいわずもがなである。実際、そう言う動きもたくさん出てきているが、これらは過渡期的実験的であり、建築学生にとっては、選択科目もしくは課外授業でしかない。おそらく、TとWの闘争的合併事業は、これからの建築教育の焼き入れ法として各地へ波紋を及ぼすのではないかと思っている。
競争原理の浸透は実社会と受験戦争の間に小さな聖域を為していた大学の学部教育にまで及んでいるということである。まるで筆者は内野VIP席から早慶戦でも観覧しているかのような書き方であるが、これだけは誤解を払拭しておかねばならない。なにも学生だけが、競争社会の地域差に甘んじているのではなく、そのまま社会人的領域まで同じであるということを実感してのことである。つまり、競争とそれによる産物のレベルはより都市が先導しているという地方停滞「節」である。いまのところそういう構図を覆す本格的な論理は存在しない、もしくは発言権に値するものを得ていない。収入や賞賛がその人の存在意義のバロメーターとして優位である以上、競争は過度に向かうのみであり、良きに付け悪しきに付け勝者と敗者の輪郭を強める方向に働くのみである。勝者をあぶり出すだけならよいが、(他人が彼を貶めるというより)自らを進んで敗者に陥れるナイーブをも生み出す。一方、競争の少ないところでは、決定的な勝者を生み出さないかわりに泥沼の敗者になることを免れる。このことをどう受け止めるか、二者択一では解決しない難しい岐路が内蔵されている。

 

 

2007/10/28  
第15(日) サンマの思いこみ

もう聞かれることもめったにないが、趣味は?と聞かれると、食べることと寝ること、と言うことにしている。普通の人であるなら、それは自らの「家」での行為であるから、普段の仕事は人様の食う寝るに関与していることになる。
今日は、夕方から(他人様にとっては面白くもなんともないが)自己完結的なその趣味に従事することにありつけた。食べるといっても、出されたモノを食べる前に、料理そのものに身が躍動する。季節は当に秋。文章的には一句詠みたいところであるが、無学を露呈することにする。午後3時ごろ、日が低くなりはじめるころ、「炭火」を心に決めて、市場に出かける。秋の炭火、といえばサンマというのが犬でも思いつく。それが、珪藻土を圧密成形した七輪の上に乗っていれば、りっぱな日本人の秋だ。だが、この固定観念は、残念ながら駆逐せねばならない。思えば、20年近くまえ、出来たての水戸芸術館(茨城/磯崎新設計)を見学の後、九十九里浜に抜けて、寝ていた魚問屋をたたき起こして譲り受けた秋のサンマを、太平洋に向かって七輪と共に差し出した。その時は、無邪気な自分と仲間達、そしてなによりも大きな海が、料理の精度をうやむやにした。単純にもそれから十数年、サンマを美味しく食べようというときは、七輪という固定観念がぬぐえなかった。
だが、まずは、長さが合わない。Φ100直径程度の七輪から、サンマはいつもオーバースケールであった。それにも増して、炭火はサンマの脂に我慢することなく発狂の一途であることが常で、挙げ句の果て、身も油も燃え尽きた肉片に甘んじることを余儀なくされた。その現象に疑問と解決をもたらしたのは、漸く齢30代も尽きようと言うこの秋であった。道具はもはや、風流な七輪などではなかった。ミツロウワックス製造の抜け殻、転がっていた「一斗缶」である。この処分に困り、上面をベビーサンダーでくり抜き、下方側面に穴を空けて、即席バーベキューキットとした。想像のとおり、七輪や市販のバーベキューキットなどより火元と網の距離が長い。遠火の強火とはかねてより知ってはいたが、これほどの不合理が有利に働くとは思っても見なかった。いうまでもなく、熱力学的には、効率をいくばくか失ってはいる。そして、代償として時間を払わねばならない。だが、あらゆる食材をじっくりと旨く料理してくれる。内部から旨味がしたたるものであればなんでもそうであるが、サンマのように、内部の油を外皮が保つことができる構造であれば、それが保たれる程度の環境を維持してあげれば、もうそれでいい。つまり原理としては、起こったばかりの炭火にサンマとは、火に油を注ぐ行為でしかない。前座、というか若々しい火にはイサキや、イトヨリ、焼きなすに長野産あたりの長ネギ一本焼きあたりでヒマをつぶすべきである。家族からどんなにせがまれようとも拒否する権限を行使したい。いよいよ、死にかけの弱々しい火になったころを見計らって、刺身にもできるサンマを一斗缶コンロに載せる。30分ぐらいは、それから執着をはなれる。ビールの宣伝に出没する七輪の上の黄金色のサンマは、本当はあれでは難しい(私の今の力量では)のである。
七輪に限らず、ヘッツイなど伝統的な熱源の原理は、最小限の燃料にて最大限の火力を得るようにできている。今の車が燃費を競い合っているのと同じ原理の賜物だ。だが、それが作り上げた慣習のようなものをカタチだけ、イメージだけで引き入れようとした自分は、長らく過ちを犯し続けていた。その原理的なニアミスを20年掛けて漸く是正するに至ったのだと思う。サンマと七輪がどこで幸福に暮らしているかという問題は、私には解らず仕舞いであるが、まあ、それはまたいつか判明するであろう、と頭は日曜日に甘んじることにする。

 

 

 

2007/10/21 都心の空の下。

 

 

2007/10/14 
第14(日) 技術を超えるもの

かの禅僧、仙崖さんの登場する日曜美術館で目を覚ました。仙崖和尚(1750-1837)は、博多の地にはなじみの深い歴史的な偉人の一人、であること以上の知識を持ち合わせていなかった。西の一休さんといわれた仙崖は、美濃(岐阜)の生まれで、所縁により日本で最初の禅寺、聖福寺の代123代住職として迎えられた。禅の思想を庶民にわかりやすく伝えるための墨絵、禅的戯画の描き手として、国内のみならず世界的にも評価されているという。
ピカソもそうであったが、仙崖さんはいわゆる写実という基本的な素養ははやくに卒業し、人や動物をまるでマンガのような、しかし屈託のない画風の境地を追求していく。1801年まで生きた伊藤 若冲による精緻な風景の対局にあると言えば当場はわかりやすいだろう。若冲の精神論を直ぐに述べる知識がない一方、仙崖さんのそれは、いうまでもなく、「わだかまり」のなさである。ものごとをうみだそうとする人間が追い求める、技術的な「うまさ」のようなものへの執着がまったくない。あるのは、難しい思想をやさしく語ろうという姿勢、もしくはそんなたくらみすら薄らぐほどの、ヘタウマ加減である。只、好きで絵を描いている。只、している。作意が否定される、といより自意識がみなぎるような心のあり方では創造の究極には至らない、という日本の技芸の真骨頂である。
こういう視点で、建築の世界を見てみようといつも思うのだが、どうもうまくいかない。建築は絵と異なり、風雨に抵抗しなければならないからだろうか、仙崖さんの絵のような建築を、にわかに思いつくことができない。日曜日の朝から難問であったが、これはゆっくり考えていかねばなるまい。

 

 

2007/10/07  
第13(日) 支離滅裂だが健全

人の生活とは実に多用な場面によって構成されていると思う。例えば今日の自分の一日を切り取ってみる。午前中から昼過ぎまで事務所にて一応本業としての建築の設計作業と諸処の雑用。昼食後に構造家と打合せをするために市の図書館にて落ち合い、それを終えて執筆関係の調べものをする。その脚で、というかそもそも図書館は干拓地にあり、目と鼻の先の人口海岸にて、車の中で待たせていた犬を遊ばせる。毎日構ってやることができないので、この時こそ彼が息切れ(実際は嘔吐)するまで彼の運動に付き合う。夕方には自宅に帰り、今度は、自分よりも忙しい家内(普段は「家外」)が腹を空かして待っている(というより仕事をしている)ので、適当に夕飯を作り、窓を全開し僅かな秋の夕暮れを楽しむ。そして、本当は作業中のスタッフのために事務所に戻らねばならないところを、そこは日曜日という人権に甘えて食後のうたた寝をする。この小さなリフレッシュで再び机に付き、構造家とメールを通じて本業を片手間に考えながら、まさにこの脳天気な戯言を書き連ねているうちに、今日も日が暮れるのである。思えば、2日前は上京し、関与する書籍に関して出版社で打合せ、その後、場所と人を変えてこれからの建築を語ろうという新しいウェブサイトの構想に杯を傾ける日もあった。翌日は一転、東大と早大の建築学科3年生総勢200名、両大学の先生方に囲まれ、製図の授業に参加する。久しぶり自由構想が許された建築に頭を悩ます。そしてまた一転、制限だらけの実際の建築設計という今日を向かえる。明日は、頭にねじりハチマキをしてDIY漆喰塗り教室=にわか左官職人として一日を費やすことになっている。体育の日だから汗を掻こうという単純さに案外自己満足であったりする。
上記は今日を中心として2~3日前後を見渡した行動予定にすぎない。そして、あえて記すこともないプライベートに過ぎない。だが、よくよく書き出してみると、まるで夢で構成されるような実に脈絡のない場面の展開が、現実の生活であることに気付く。もちろんこれは、私個人の特殊なものだというのでなく、だれにでも起こっていることだろうと思う。今朝直前までかみさんとケンカしてきた脚で営業顔に一転とか、病院で自分の身体を気遣う一時とその後・・、スピード違反で警察と問答・・・無関係な場面との表裏一体、多重人格者ならずともある意味手のひらを返しながらの日常生活、という実態を俯瞰者側から見ることができる。
ある現場監督が話していた面白い話を思い出した。彼が出入りするある企業では、社屋に分け入るといつでも社員が全員起立で歓迎の意を表するのだが、これは会社としては合理的でないのではないかと疑問を持った。ところが、ある日、いよいよそういうしきたりの背景が見えた。いちいち来客の度に仕事を中断するというのは、マイナスの側面だけではなく、頭を常にスイッチングする効果が期待されているのでは?とその現場監督は考えた。実際のスイッチが、使わなければ接点不良を起こすのを想起したと思われる。集中を適度に疎外する環境が、却って集中力を育てる。なるほど、それは自分自身の経験にも、また他人にも心当たりがないでもない。一つのことに十分な時間が投与されれば、質が保証される、というのは実は現代に限らず永遠の盲信である、とさえ。脈絡のとぎれがちな生活に疑問を抱く人の現状肯定としては、便利な理屈である。

 

 

2007/9/30 
第12(日) 不完全な法律

外に吹く秋風が心地よいこの日、我身は事務所に捧げられた。いや、厳密には確認申請の作業に捧げられた。構造偽装事件に端を発する今年6/20の基準法改正に伴い、極度に煩雑化した役所への届け出のためである。言うなれば、意味の極めて薄い膨大な作業が平日に収まりきれずに日曜日になだれ込んできたことになる。日本中の設計士がブログに書かずにはおれないグチネタであるだけに、その典型に陥るのはやめようと思っていたが、もはやそんなことにこだわっている段階ではなくなってきた。
構造偽装という犯罪の発覚を受けて国(国交省)が対処すべきであったのは、犯罪行為的な設計、あるいは不真面目な設計を許さない、ということであったはずだ。だが実際はまじめな設計、もしくは誠実に挑戦する(構造)設計姿勢の持ち主までもが、性悪説的に疑われ、建築を拒否されるという事例が日本中で多発している。「本来、いかがわしい者だけを捕まえるべき法という編み目に全員が引っかかってしまい目づまりを起こしている状態」と表現する友人のブログもあった。今、建築関係の人々に会うと、必ずこれらの話になる。市には60件の確認申請中の物件が止まっているとか、住宅着工件数が20%ダウン、経済的な問題に発展するだろうとか、6/20までの駆け込み着工が引き起こした皮肉な建設ラッシュにより現場の職人が手配出来ずに、完成が延々と遅れているとか。
確認申請の責任を預かる建築設計者の中には、休業するとか、あるいは施主から契約解除されたなどという話もニュースから聞こえてくる。だが、個人的には、理想に向かうためなら一次的な不便は耐えられぬことはない。問題はそこではなく、創造行為としての建築が法律的に否定されているということにある。ものをつくることに「一所」懸命に取り組む人にとっては、これは不便とは比較にならぬ抑鬱状態に似たものである。自らの努力によってもたらされるその人自身の生き甲斐と、同時にもたらされる他者への恵みが、少数の不正行為を前提とするために抑制される。その連鎖を企てているのは、他でもなく法律である。(ベタと言われてもいい、)ものづくりの喜びとか楽しみとか夢といった人の生活になくてはならない、慎ましくも尊厳に値する部分が、法律によってヘシ折られる。代わりに無意味な書類(=検査側の責任回避のためのもの)の作成、問答が設計作業を占拠し、結局、最終的には建て主への負担となっていく。
正しい法律とはなにか?一級建築士が疑わしい存在とし再認されたことに引き続いて、立法の質をも疑わねばならない事態が起こっているようである。

 

 

2007/9/23  
第11(日) 非思量という徳

今日は猿仕事(猿でもできるが量のある仕事)の日であった。朝から自宅の雑巾掛け、家業の身辺整理により発生した古本の処分、そして、カルダモンの身解き。カルダモンは数年前シンガポールムスタファセンター(日本で言うならドンキホーテ)にて購入したもので、たまたま奥底から発見し、使う直前の状態にするために、すりこぎでつぶし始めた。カレー香辛料の中では、比較的高級なものの一つである。だからだと思うが、これが良く効いたカレーを食べたのは、本国インドではなく日本のどこか忘れたが高価な一皿であった。尤も、例えボンカレーであっても、このカルダモンを加えるだけでずいぶん雰囲気のよいカレーになるから、事務所にあったら重宝するだろうと思い、汗を流しながら1時間ほどの単純作業を続けた。思えば、この週の初めは、別の単純作業に身を清められたことを思い出した。エコポ×100展。エコポをいろんな人に作ってもらって、それを100個、てのまの天井から吊そうというもの。企画そのものは、誰が発起人であったか忘れたほどに互いに2つ返事であったが、天井から吊そうと言ったのは他でもなく自分であったから、そのオトシマエは自分で付けるしかなかった。9/17日の敬老の日、展示のバランス上100個には満たなかったが約70個分のテンション構造をテグス6号とクリップにて製作。1個につき2本、その数140本。クリップ取り付けという意味では280本。残暑、というより明らかにおかしな気候としての酷暑の中、ひたすら数を要する各工程に私とその道連れになった事務所の2人は、普段とは異なる仕事に顔色が蒸されていた。いや、最もその蒸され方の激しかったのは、他でもなく自分であっただろう。単純作業はキライではない。むしろ人として本当は必要なトレーニングではないかとさえ思っている。だが、複数の物事を進行させなくてはならないという普段の頭が合目的論に染められていたのだ。
機械は壊れるまで飽きずに作業を続けてくれる、という恩恵を知らない時代は、ものづくりの工程は人間の精神力がその推進力であった。人間側にとってはどうであったかというと、(うまく言えないが)必ずしもラクチンな仕事とは言えないが、ここからは鬱病やノイローゼは生まれなかったのではないかという直感がある。むしろ古のこういう単純かつ共同作業の中からは歌(労働歌)が生まれた。いや、(今はやりの)ヨガにおける瞑想や、座禅に似たところがあるように思えて成らない。前者は「心を滅せよ」(ヨーガスートラ第1章)ことが目的、後者は(も)非思量(思惑がない)状態が最終到達点である。我が身体の営みを最も単純な状態に置いて、心の働きを止める。そういう極致の人間の営みと、私たちが日常生活において遭遇していた単純作業には、どこか共通のものがあるような気がしてならない。例えば広大な田んぼに稲を一本ずつ植えていくといった単純作業などは、「いつになったら終わるかな」といった雑念をコントロールできなければ、作業を継続することが出来ない作業であったはずである。
いずれにしても、功利的に考えれば、エコポを吊すなど考えなければもっとラクチンであっただろうし、カルダモンは少々の対価を払って、粉末状のモノを手に入れればそれでよかったところを、お馬鹿な寄り道をした、この一週間の締めくくりであった。

 

 

2007/9/16 
第10(日) 建築という寺院

京都から社寺建築専門の建築家が事務所に来場。福岡市内の禅寺のプロジェクトの手伝いを依頼される。もっとも、突然依頼を受けたのではなく、春先にすでに伺っていたこと。どういう配分で仕事を分担するのか、またどれほどの量の仕事が任されるのか皆目検討がつかず、既に抱えている仕事のことを考え、「あまりお力になれるかどうか」とは伝えてきたが、本当は、木造で本堂と庫裏を新築するという、滅多にない仕事に関わらせて貰うということに明らかなる意欲を感じてもいる。建築(といっても概念も名称も明治になってから作られた言葉であるが)といえば本来、古今東西?宗教建築のことを指してきた。建築=architectureはarchi(万有の)・tecture(製造物)の意であったから、一般的な個人住宅はおのずと万有の製造物たりえなかった。20世紀を迎えて、住宅が建築家の重要な表現手段となり、作品となっていったにもかかわらず、住宅は建築か?などという議論がやまなかったというのは、そういった根底が尾を引いていることの証であろう。
今日の宗教、もしくは仏教が、その建築に万有の概念を封印できるほどの積極的な意味づけを行うのか、あるいはその必要があるかどうかはわからないが、少なくとも雨風をしのぐだけではない製造物、ビルディングタイプであることを期待させる。雨風をしのぐとか、機能的であるというのは、ある意味持ち主にとっての当然の奉仕であるが、それだけでは「建築」ではないのである。(あたりまえのこと。)今日、私たちが触れることのできる仏教のコンテンツには、釈迦が説いた本当の仏教から大きくはずれたものがあまりにも多い。つぶさに挙げると、営業妨害の範疇になるという代物でさえある。だからというべきか、私たちは生きる糧としての仏教という、中身の美味しい果肉の部分に出逢うことなく、表面の無味乾燥な厚皮に辟易してしまう。あらためて「寺」とはなにか。人を幸せに導く場所?本来の意味で建築になっていく可能性を秘めたビルディングタイプ?はたしていかに。

 

 

2007/9/9  
第09(日) モノは持続するか?刹那滅。

左官教室が休刊となった。編集長は廃刊とはいわなかった。1500字程度であったが、ほぼ10年、毎月原稿を書き続けた。書き続けることによって、自分と左官の距離を(離れないまま)維持し続けたし、主観的な好き嫌いを客観視する環境を与えられてきた。左官教室を意識するのは、原稿締め切り毎月15日前の5日間であった。自分は文章のプロではないから、さらっと書いてそのまま入稿というわけには行かず、最初に書いてから5日間の熟成と校正が必要であった。だが、本業の設計業に比べれば、(誤解を恐れずに言うなら)殆ど仕事というには及ばない、わずかな所作であった。
その左官教室が、もう、今月から、編集長から、原稿の催促がない。たしかに、すこしは楽になったという感はあった。だが、その報告から2日経つと、そういう安堵感よりも、寂しさの方を強く感じるようになってしまった。なんでもないが毎日見慣れていた古い建物が、あるとき突然空地になった時のような寂しさである。自分自身にとって、経済的な痛手やその他なにか具体的に失うようなものは心当たりがない。自分の仕事や方針は相変わらず存続できる。だが、そういう世の中という漠然とした全体に対する虚しさ、寂しさを感じるのである。
ついこの間、建築の生命観などと称して、手の間にて、辻説法を行ったばかりだ。そこで話の基軸にしたのは、刹那滅であった。1秒前の自分と1秒後の自分は、同じではない、という時間概念である。1秒は、1万分の1秒であっても同じである。つまり、物質は発生と消滅をくりかえすことによって、さも存続しているように見えるのであって、実際は、なにも持続する実体はない、という存在論である。そうすることによって、モノへの執着を取り払おうという宗教的な考えでもある。私たちは、有史以来、この刹那滅、あるいは無常(あらゆるモノは常に変化し移り変わる)といわれる世の中をどう越えようかという命題に取り組んできた。我々は少なからずモノの世界に頼って生きている。建築は、西欧の概念が入ってきて以降特に、あらゆるモノが移り変わる中で、変わらない風景を構築するものとして考えられた。それまで風雪や天災、もしくは人為的に早いサイクルの代謝をくり返してきた私たちの建築は、反省され、存在として残っていくモノ、無常感を乗り越える不動点であることを期待されるようになった。本当は、建築という大がかりな構築物も、日本においては仮設物にすぎないものであるにもかかわらずである。観察者である自らの身体を含めて、あらゆるモノは必ず滅びる。だからこそ、変わらないモノ、持続するモノへの心理的依存が大なり小なり生まれる。そういう思いが虚しさをまた生む。
左官教室という情報媒体は一旦世間から消えるのだろうが、考えてみればその中身、情報そのものは様々な場所で同時多発的に明滅をくり返しながらも、存続していくのだろう。

 

 

2007/9/2 
第08(日) セルフビルドという過程主義

手の間で「知恵の輪講座」と称する、いわゆる説法の場が始まった。余り詳しいことは聞いてはいないが、手先という身体的な感性の秀逸に敏感になろうとするその大前提を元に、取材と記録、催し物にて情報発信しながら、一方ではやはりそれらを相補する理論の肉声を必要と感じての企てだと理解している。私は、伊東啓太郎氏からやはりという指名を受けて、今日は事務所の休みのつかの間、3日後に預かった説法をゆっくりと練ろうと思った。
自分の生業としての設計業は、モノが建った、もしくは工事が終了した瞬間に全報酬をもらいうける権利を得る。もちろん、その後のなにがしかを保証するということを含めてである。しかし、自分で屋号を構えて以来、どうもよく解らなくて思いあぐねているのが、建築の生命観についてであった。生命観というとさも大仰だが、人間に例えるなら、死生観、つまり、免れ得ぬ生死の宿命から端を発する、生きているその者の哲学をあぶり出す行為だ。建築のデザインを評する世界は、出来た瞬間、もしくは、観察者がその建築を訪れた瞬間によって行われる。もちろんこういう世界に心身が興味を覚えたから、今此処に立っている。だが、出来た瞬間の評価と、その後の評価の大きなズレに興味を覚えるようになった。ガウディーのカサミラも、ミースのファンズワース邸も、いや、エッフェル塔も、ポンピドゥーセンターも、竣工直後のいざこざや不評があった、ということを責めたいのではない。それらは、長く深い社会的な賞賛を得るためには、決して本意ではないが、ある意味避けては通れない課程なのでは、と今のところ咀嚼している。一週間前に書き連ねたことの重複になるが、本当に正しいものを遂行するには、一瞬、大きな反感を買う「可能性がある」ということである。問題はどちらにも該当しない、最初からガンガンと世の中の賞賛を浴びるモノでもなし、ましてや、問題作そののち名作の道のりを得るのでもないモノを作ってしまうことである。つまり、ホドホドの満足は得られる(これは、当たり前である。どんなつまらない空間でも壁を張り替えたり、設備を新調したりしたら、こざっぱりするのと似ている。新築はなおさら、どんなものでも当人たちにとっては新鮮である。)が、そんなに深く長く世の中に愛されないモノを作ることへの恐怖心である。他人事とは思えない。
そこで、かねてより考えているのは、というより、辻説法の場を頂いたときに相応しいと思う題材として、建築のその後のことを切り出すようにしている。聞いてもらう方々には、明日の私のお客さんとしてではなく、今住んでいる建築を楽しめる人になって貰いたい、と思う方が、話がきな臭くならなくて済む。そういうふうに日々過ごしていると、そういうふうな人々に出会うことができるようになるから、世の中は不思議である。今日は、そんな人に出会うことができた。歳はもしかしたら20代、新居を構えるに当たって、マンションでも新築でもなく、古家付き土地を合計1000万円で購入し、これをいじりながら過ごしていきたいという。私への依頼は、劇的ビフォーアフターの匠としてではなく、専ら漆喰の塗り方であった。練った漆喰の販売と、お節介な塗り壁講座を商品にしている風変わりな設計事務所を彼らは身逃さなかった。瑞々しい若夫婦(私から見るとそう見えた)が、古家を購入して、これから、どこをこうしようああしよう、と相談しあっている風景を目の当たりにし、こういう人達は私がとやかく言わなくても、その家と共に楽しい生活を送る人たちなんだと、自然に親近感を覚えてしまった。

 

2007/8/26  
第07(日) 遠くの幸せ


ひさしぶりに、我が実母と外食をした。齢80に近づく母親は、もはや自分を育てた気丈な人格というより、(あくまでも)物質的には、侘びた状態、いわば余生を送る人であった。とりあえず多くの老人の型どおり、いろんなグチをこぼしていた。彼女は右手に包帯を巻き面ね、左手に持ったフォークで刺身を突いていた。なんでもないところズッこけて、完全に骨を折ったという。問題はその治療の話である。現代医療の通常なら、メスを入れてボルトによる接合となる。骨が繋がると再びメスを入れてボルトを除去する。本当なら木だけで接合できなくもないところを、より強くということで、鉄という引っ張り力に異常に強い素材に頼る、という現代の建築木造技術と相通ずる。母が受けた治療は、なんだかいわゆる名医で、メスを入れずに、完全骨折を直すそのやりかたであった。完全に折れた腕の骨は、周辺の筋力により交差し、内側へすれ違う。それを麻酔を掛けずに、引っ張って元のかみ合わせにもどす。その時に激痛を伴う。ボルト接合による治療であれば、その工程は少なくとも部分麻酔により穏やかになる。私の友人は、いっしょに行ったスキーで、肩を骨折し、やはり2回の全身麻酔を行った。
なるべく痛みを伴わないように、技術は進歩する。と言う物事の流れの中で、患者の一時的な痛みを伴う治療を敢えて差し向ける名医の話だった。20年前、私は大学入試の2週間前に盲腸を患った。その日の朝飯はヨーグルトであったが、その夜、前代未聞の腹痛にて病院に運ばれた。救急病院は申し訳ないが、そこは一次しのぎで、聞きつけた名医のいる病院に移り、そこでメスを受けた。その医者曰く、「麻酔をいれるとその後頭痛が続く場合がある。あんたは受験の身、麻酔の量は最低限にしとくよ」その量は案の定15分しかもたなかった。(盲腸の手術は当時10~15分が普通)お陰で、傷口を縫う針の動きを否応なく存分に感じることができた。その病院は3日で退院し、受験はつつがなく、自分の実力の分だけ、発露することはできた。いや、もう一つあった。小学6年の時、体育館の天井レベルから、マットに目がけ飛び降りるという遊びをしていて、ついに足首を骨折した、その治療を思い出した。そのまま、学校指定の病院に担ぎ込まれ、適当にレントゲンを撮られ、若い医者は「折れてませんねえ」と首を傾げながらギブスをはめた。2週間後、やはり患部は悪化し、聞きツテの名医のところへ転医した。そこでは、15回もレントゲンを撮り直した。折れているその部分が、内部で複雑に入り組んでいて、なかなかうまく取れないというのである。治癒されずにふくれあがった足首は、X線の都合により、あり得ない方向へ曲げられ、撮影がくり返された。レントゲン室は拷問を受けた児童囚人の悲鳴で満たされた。でもその半日の拷問のおかげで片チンバにならずに今日に至っている。
かろうじてそれら自身を救ってもらった名医のことを思い出したこともあり、ようやく母親の骨折の治療医の行っていることが、理解できた。私は厳密には職人ではないが、職人に、例えば処方箋を与える立場である。老婆の骨折の悲劇から学ぶのは、(おそらく医療のみならず)処方箋というものは、放っておくと、短期的な効果を第一義に編み出されるということである。現代の技術観とはそれであると言い切ってもいい。その中で、そういう時流とは無関係の、しかし、長い意味で正しくその人のタメになるようにと提案し、それを実行するという人がいるということである。それらには、正しければ正しい程、当たり前の痛みを伴うということだ。それを納得させるだけの度量が、そういう人にはある。
灼熱の路上によろめきながら、今度は左手を骨折しそうになる頼りない老婆であったが、そういう治療にしっかり身を預け、大事なときには人を信用するという我が母であったことに、すこしだけ救われる思いがした。

 

 

 

 

2007/8/19 
第06(日) 岡本太郎のワビサビ


久しぶり街へ出て、本屋で買い物をした。帰り際の三越デパート(駅が2階に内蔵されている)にてあてもなプラプラしていると、9Fにて「北大路魯山人と岡本太郎」という展覧会の最終日という張り紙に出くわした。デパート内のこうした催し物は、その時の私のように思いつきの行動を誘引する。容易になびく自分に悔しさを感じながらも、とりあえずそれに従うことにした。
内容は、両者がいかに親交の深い関係にあったかということに始まり、次第に互いの作品が対峙するように配置されている不思議な間へと続いていた。もちろん、岡本の絵画彫刻と魯山人の器に通底する何かを見いだそうとする姿勢は、会の趣旨ではなかったかに思われる。浅薄な見方をすれば、作者同士がいかに家族的な親交をしたからといって、その作品まで親交していることにはならないわけである。
そんなことよりも、「実験茶会」という岡本が開いた茶会、というより超前衛のホームパーティーの事実の方が発見であった。坂倉順三の設計による当時岡本の自宅(南青山)にて、各方面の人たちを招来しての「茶会」。岡本は、当然と言えば当然であるが、格式や形式にもとづく茶会はもとより本意でなく、青青とした西洋芝の庭先で、アルミのヤカンを茶釜に見立て、自ら能楽の家元野村家から借り付けた付け焼き刃の袴姿にて茶をたて、茶会石にあたる彼の料理は、生卵のトッピングになる生肉、これらを客の魯山人や丹下健三などに喰わせたという。岡本自身は、形式としてのワビサビ文化を否定し、前例や格式を壊すなどと、語気を荒げながらの茶会であった。
ワビサビ文化の否定、という言句が気になった。そもそもワビ茶そのものの始まりは、結果として前衛に映るものであったはずである。実験茶会はそう言う意味では、見事に数寄であり、これこそ茶会だといってもいいと思う。ワビはもちろん茶が育てた文化であったが、概念としては、それ以前からあった。鎌倉初期の鴨長明はワビを自らの生活そのものに体現しようとした人物である。そのワビはさらには、仏教がもたらした無常観によるものとも考えられがちであるが、水尾比呂志によると、原始神道的ともいえるほど、日本人の自然観そのものであるとされる。ここまでワビの淵源をたどるなら、ワビという日常的な自然観が凝縮して作り上げた高度な哲学は、私たち日本人の共通の持ち物というように言えなくもない。だが実状からしてそうは思わない。生死を繰り返す自然、特にその表現力に裏付けされた日本の風土が人間に植え付けたワビという現状肯定の哲学は、今私たちに探し当てることは難しいと言わざる終えない。私たちが未だにワビサビと唱えること自体、すでに形骸である。岡本太郎は、そんなワビサビなど、言葉にも出したくなかったはずである。

 

 

2007/8/12日  
第05(日) ゲニウス・ロキ

あまりのつらさに山をのぼる意味を失いそうになった宝満山登頂から一週間が経ち、再び宝満山へ。これはもう、体力において昔の若さに戻るまで登り続けるしかない、と開き直りの発想に至る。この山は今日の観光登山のための山である以前に修験道のための山であり、また山全体が御神体としての山(竃門山)である。山中には五井七窟をはじめとする山伏の修業場、堂塔や坊の跡、磨崖、城跡など山の歴史、というか歴史の山を散歩することになる。7世紀後半、心蓮という僧による竃門神社の草創伝説、役行者(小角)の霊場整備に始まり、9世紀の最澄参籠以降の比叡山との繋がり、太宰府政庁との繋がり、宇佐八幡との繋がり、というかシガラミを持ち、当然のことながら、英彦山(日本三大修験の山)という霊山の本社末社関係を持っている。鎌倉期の最盛期、370の坊には学問を専らにした衆徒方、山伏にあたる行者が居し、戦国時代には権力者により山城の争奪がくり返される。明治維新の廃仏毀釈により、それまでの堂塔や坊、つまり山伏の場としての山は、近代合理主義からみた前近代として一掃された。
こんな予備知識は本来山歩きに必要であるとは思わない。宝満山がただ普通に澄んだ空気と美しい木々、頂上の爽快さを与えてくれるだけであれば、それらを紐解くこともないだろう。同時に自分自身こんなに繰り返し登ることもないだろう。現に私のみならず、その小振りさに反してこの山はいろんな人々、多くの人々にリピートされる山である。それはなぜかという疑問に歴史が答えてくれるのではと思っただけである。興味深い事実をもう一つ、最澄の参籠に始まり天台密教を基礎とした宝満山は英彦山と小石原(現東峰村)の地理的関係において、マンダラを想定していた。小石原と英彦山の間を胎蔵界、小石原と宝満山の間を金剛界マンダラとしているという。先に述べたとおり、小角の時代に霊場として整備が始まり、鎌倉末期に整ったとされる。現実の地理をマンダラ、つまり宇宙の真正なる構造に見立てて、そこを現実の人々の道場とする、修験~密教に至る考え方の真骨頂が、この地にも与えられていたということになる。山という単なる物理的な地形が霊峰という意味を持った場に仕立てられる、あるいは成熟することによって、歴史が積み重なる。歴史家に描かれる以前に人々によって地面が踏み固められるような歴史である。建築も概ねそう言う王道的シナリオの可能性を持っていると思う。単に雨風をしのぐ建物が、なにかの理由で特別な意味を持つモノとなり、人々に踏み固められ確固たる場となる。そして人々がリピートしたいと思う場になる。リピートされない場=また行きたいと思えない場が増え続ける現代に、この山歩きはヒントを与えてくれないだろうか。

 

 

2007/8/5日  
第04(日)説明の付かない営み


午前中、ミツロウワックスづくり。ネット上で販売しはじめて何年経つだろう。自分の設計した内装に用いるためというのが始まり。樹脂ペイントとは異なり、時々塗り足す必要があるので、お施主さんは買い続けるという理屈になる。なのに市販のモノは高い。蜜蝋を溶かしてテレピン油と混ぜるだけで出来るならと自分で作り、低価格にした。せっかくいくつか作るのなら、ついでにサイトに掲載して販売の姿勢を曝してみるのもいいだろうと、極めて遊び半分に展開した。数年が経ち、少しずつであるが、注文の頻度が増えてきた。在庫が切れるとお客さんが思いの外残念がる。設計の仕事も当時よりも明らかに混雑気味になってきて、遊びであったミツロウワックス販売は遊びとして温存することの難しさを感じるようになってきた。一度販売を休止したが、注文者の熱意に対し丁重に断るのに心労を費やす。矢面に立つ塩谷が、お断りの電話ファックスに時間を取られる。それなら作る手間に払いたいと。
久しぶり、自分一人で作った。夏だと蜜蝋が溶けやすいので1.5時間ぐらいで15缶出来た。一つ一つの缶々に9杯ずつ高温液状の蜜蝋ワックスをお玉で入れていく。テレピン油は芳香族の溶剤なので臭いもきつめ、楽しい作業ではない。自分は日曜日の朝からなにをしているのだろうと、思わないでもない。詳細は省くが金銭的な利益というようなものでも決してない。設計の仕事はひとりの施主さんと、住宅であれば最低でも1年はお付き合いするという意味で、キャベツ158円ハイサヨナラの仕事とはちがうのだといつも言い放っている。だがそういう当の本人が、行ったこともない地域、会ったこともない人との缶々を介した一期一会に、なにがしかの重みを感じているということになる。クレームが出たらそれを契機にして止めようと思っているが、そう思うと不思議にない。ようはこれを続けている理由が自分でもよくわからないのである。
午後は心機一転を計るべく、事務所で明日の段取りを済ませた後、犬と宝満山(868m)に登りに行った。標高はそれほどでもないが、延々と縦移動が続くので、楽とはいえない。普段よりも息切れが深く、身体に応えたせいか、「なぜそんなにしてまで山に登るのか」と一瞬だけ考えてしまった。今日は、理屈では説明のできない挙動の一日、感覚的にはすこぶる充実の一日、であった。

 

 

2007/7/29  
第03(日)  理屈と感覚


3年前の施主さんに髪を切って貰う。HairTerraceと名付けられたそのお店のいわゆるコンセプトは、博多駅前の一等地に各階に3坪弱のテラスを抱えてそこに植物を育てようというもの。コンセプトというほどのことでもないが、溢れているかというとそうでもない。3~4万円/一坪(室内)/月の価値の土地に対して野放図にエクステリアを許す貸し主は希である。店舗デザイン(インテリア)の依頼に始まり、気が付くと3F建てを設計していた。「建て貸し」の案件、つまり借り主と建て主の二者から設計依頼を受け、一つの建築とインテリアを作ったという不思議な経験であった。
それはともかく、久しぶりの談話にはっとした。新人美容師の話。女性と男性はどっちがどうですかという私の思わせぶりな質問に対して、3年前の施主曰く、女性は感覚的に優れている子が多く、男性は理屈で学ぼうとする傾向があると。女性は技術やデザインの習得が早い人が多いが、最初のころは優等生だなどともてはやされていた者もある段階でその成長が止まってしまうことがある。男性は初期に女性同僚の背中を見るような日々が続くが、筋がいい者はその成長が止まらないという。理性と感性。右脳左脳。技術と意匠。男と女。どんな世界も根っこは同じである。建築も当然のことながら、それらの双方で成り立っている。若き村野藤吾が、機械学科から建築学科へ転入する際に、当時の主任教授に尋ねた「建築をやるには何が必要ですか」の答え「文学と数学である」との答え

 

 

2007/7/22 第02(日)  
人によってとらえ方が変わる


家内の雑事を急ぎ終えて、太宰府に走った。実際に走ったのは電車であったため、僅かながらポッカリできた思考の空洞を愉しんだ。車窓の共は「道元とヴィトゲンシュタン」。当の用件は太宰府天満宮入り口脇に控える築100年の甘味処の改築についてである。だが、私が直接的に依頼を受けた訳ではない。既にこの一年、知り合いの設計士が新築の案で取り組んだあげく、着工寸前のところで待ったかが掛かった。掛けたのはある中~古典建築の愛好家、とだけ触れておく。私は、遅れてその会合+検証会に流れ込んだという、バツわるい立場であった。そもそもそんな割り込みの状況が発生したのは、自分が僅からながらではあったが、日本の中古典建築をいじくる仕事を行っていたからというに過ぎない。この建築をいったいどうしたら構造的にも機能的にも現代に適応することができるのか、また、それを家主に伝えるコトができるのか、という議論の渦中に私は参列することになった。問題は、話の中核に。やはり主人と奥さんとの意見の相違にあった。ご主人は家が代々作り上げてきた場所であるから、これを存続していきたい。奥さんは、それはわかるが、具体的な維持は全部自分に降りかかってくるので、それに対して所定の費用の中で現代的な利便を追求したい。そういう要求に改築案は答えられるのか?、というもの。
建築学、もしくは、設計その他に関わっている人間にとっては、おそらく殆ど前者の疑問、というか意志に対しては答える準備はできている。それに対して、後者の疑問には用心深く答えなければならない。NOではないが、軽はずみなセールストークを控えるならなにも計画をしていない段階でYesとは言えない。夫婦における二項対立は、建築行為に必ず現れる。常にその中立位置に立たされる。断言できるほどの類似形をやっていれば何でもないことだが。私個人、建築行為が主婦労働の軽減を最大の目的にしている、とは思っていないこともあり、個人的には前者の意見に傾倒しがちである。しかし、この発想にも待った、がかかる。昨晩議論した、局思量=その人が見ている世界の限り、を思い出すと、奥さんの立場もまた、一つの世界である。自分の思量の限りを自覚せねばならない。
そこで思い出したのは、泰仙先生の、「ものはいずれこわれていきますからね・・」という一言。建築をなまじかじるとそういう基本的な立脚点を打ち建てることがままならず、古き良き建築を見ると=保存論となる。そういうのも局思量ということになり、普遍性がないという発想もありうる。これは、その甘味屋の主人と奥さんの二項対立を題材にした、私の思量の問題である、と思った。

 

 

2007/6/10 
第01(日) 自給自足は本当に理想か?


テレビも時々に命題を与えてくれる。日曜日の夜、野良仕事に疲れて発見した番組の特番は自給自足をしている人々の暮らしであった、海に山に、一族、夫婦、一人住まい、様々な事例の報道に時間を忘れた。澄んだ空気と当たり前の美味しい食事、ストレスのない日々の光景が、どれもうらやましいという個人的な願望の一方、これは全ての人間にとっての目標でもユートピアでもないことをうっすらと感じた。学生時代は、ヘンリーデビッドソローの「森の生活」が建築を考えるときの「生活」の原典であったし、もっと言うなら、日本にはその800年近く前には鴨長明の方丈記なる哲学+生活録がある。これは恐れながら座右の銘にしたい、と憧憬の対象でもある。全ては貨幣によって手に入れることができるという成熟の結果が、自給自足なる理想の相対を導いたという因果関係は、誰もが自然に気付くことができるだろう。しかし個人的には、かつて輝かしき強き独立した人間像としての自給自足が、単にうらやましがるだけではなくなってきたというのが正直なところである。その理由が、自給自足における日々の生活が、ワタクシのための働きであるのに対して、通常の貨幣経済では、他人のための働きである、ことにあるのではないかと思う。もちろん、自給自足のスタイルも様々だから、共同体への労働提供など他者のための使役もあるだろう。しかし、貨幣経済上の営みの他己尊重はその比でない。ここが現代ストレスの発生源でもあるが、逆にいえば、他者という概念は人間に与えられた命題の一つでもある。やはり、現代が、自給自足の原始時代から時を経てきた理屈を考えたい。
「天才の読み方」<斎藤孝>の本には、人間は他人のために役に立つことに喜びを覚える。天才は自分ためというより人のためにエネルギーと持続力を注ぐ、なる(原文ではない)趣旨があった。実はほとんど全く同じ理を、ある宗教学者の著書にも心当たりがあたので、この部分が心中におのずと強調された。もしかしたらこういう共通項が真理というのかもしれないと。いかにお金を貰うとはいえ、他人ために、他人の立場に立って物事を考えなければ物事がうまく運ばないという自然則は、一方では試練であるが、一方では万人にとっての必修科目であると。自給自足の生活が自ずと孕みがちな、欠落をふと考え込んでしまった。