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2014. 3. 1

第146(日)士師の嘆きと夢

一昨日の建築輿論では、模型撤収のかてらに、九州の建築家の方々と学生の皆さんとで輪になって、小さな話合い。
九州各地で活躍する建築家による様々な意見が交換されるこのような場は、仕組まれたものではあったが、新鮮であった。これが自然なカタチでできるといいのかもしれない。
トピックの一つに、学生の人たちの中で、所謂アトリエ系の事務所(=建築家)に志願する人が、めっきり減ったというものがあった。時々大学に出入りする自分にとっては、この手の傾向は知ってはいたが、ここでもかという実感がこみあげてきた。
その晩、ネット上で、保育士の不足の記事を見つけて読んだ。待機児童が発生する一因でもある保育士の不足は全国で7万人を超えるといわれていて、なり手が少ない大きな理由一つに報酬としての待遇の悪さが上げられていた。全職種平均29万円/月に対して、保育士は20万円。その他の要因として保育士制度や、資格試験制度等の改善箇所が述べられていた。
別の話も思い出した。施主さんである美容師のお二人から、異口同音に若い美容師の不足を時折聞いた。業界全体の問題であるらしい。将来の独立開業を夢見る若い世代が、仮に入店してきても下働きを続けられず、途中でやめていく。その繰り返し。
上記三職種は、士や師のつく、つまり、個人に宿る技能とおそらく人格で人様に寄与する職業であるが、そのような道はいずれも薄給であり、仕事も厳しい。会社勤めが比較して楽だというつもりはないが、報酬が厳しさに比してあまにりも不釣り合いだと、やはり一段と、キビシイのである。
私がなにかを夢見て修行をしていた20年前には、建築設計として独立していく道筋にすくなくともこれほどの冷ややかな状況はなかったような気がする。良くも悪くも、誰が先に成れるか、健全なる競争倍率があった。また、そういう者共の周辺には、常に機会あらばと伺う浪人輩もそこかしこにいたような気がする。
すべてが我一人の個人技能の世界に、若者が食らいつかないのは、時代の変遷だから受け入れざるを得ない、のスマートな意見の持ち主でいられたら、さぞ楽だろう。だが、自分の職業の尻すぼみを嘆くような小さな話では納まらないと思われる。もし、経済的見返りと仕事の質量の不釣り合いを乗り越えていこうという若者が皆無となったら、それは若者の世界ではないのではないか。これは、本当に危機的な状況であるかもしれない。
犬は、ボールに夢中になっていても、ドッグフードが目の前に現れれば、そちらに気持ちを持って行かれてしまう。 人間だって、同じだという側面は持っているし、それを当然とすべき考えは基本にある。しかし 人間は時としてそうではない部分をもっている。 生理的な欲求をコントロールする、もしくはそれら自己保存的欲求とは異なる欲求を並列させることができるところが人間が他の動物から進化したところである。 そういう意味では、 建築家と呼ばれる人種の原型は、実に人間らしい生き物の部類だったのではないだろうか。貧乏自慢に開き直る姿勢は論外として、心を奪われがちな餌に対して、本来的にどこか自由な精神を持ち合わせているのではないだろうか。(歳と共に、そうではなくなるが・・。)あるいはそのような性格の資質は、どこか別の職種に移行しているのだろうか。

今日からやるべき課題を思いつく。他でもなく、それは建築の意味や面白みの深さを、一人でも多くの若い人達に伝えることである。建築家の仕事とそれ以外の仕事の境界は、常に不明瞭だが、例えば、建築家の仕事はより深い喜びを生み出すものと考えてはどうか。浅い喜びとはなにか、深い喜びとは何かの議論が有意義なものとなるだろう。いずれにしても、本当に深い喜びは、実に希有で、表で語られにくい。喜びの深さに事前の苦しみも比例してしまうからだろう。 まずは自分のために、喜びと苦しみのセットはなるべく解体しないで、真正面から目指さなくてはなるまい。どちらか一方というのは、普遍的な筋ではなかろう。
そして、もし若者に与えた喜びがある深さを持っていれば、もしかしたら、彼らのうちの誰かの、自己保存の欲求を超える精神を呼び覚ますことになるかもしれない。若者が動物のようになっていくのは、忍びない。危機感とは、このようにも限りない。

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