2007. 10. 7

第13(日)支離滅裂だが健全

人の生活とは実に多用な場面によって構成されていると思う。例えば今日の自分の一日を切り取ってみる。午前中から昼過ぎまで事務所にて一応本業としての建築の設計作業と諸処の雑用。昼食後に構造家と打合せをするために市の図書館にて落ち合い、それを終えて執筆関係の調べものをする。その脚で、というかそもそも図書館は干拓地にあり、目と鼻の先の人口海岸にて、車の中で待たせていた犬を遊ばせる。毎日構ってやることができないので、この時こそ彼が息切れ(実際は嘔吐)するまで彼の運動に付き合う。夕方には自宅に帰り、今度は、自分よりも忙しい家内(普段は「家外」)が腹を空かして待っている(というより仕事をしている)ので、適当に夕飯を作り、窓を全開し僅かな秋の夕暮れを楽しむ。そして、本当は作業中のスタッフのために事務所に戻らねばならないところを、そこは日曜日という人権に甘えて食後のうたた寝をする。この小さなリフレッシュで再び机に付き、構造家とメールを通じて本業を片手間に考えながら、まさにこの脳天気な戯言を書き連ねているうちに、今日も日が暮れるのである。思えば、2日前は上京し、関与する書籍に関して出版社で打合せ、その後、場所と人を変えてこれからの建築を語ろうという新しいウェブサイトの構想に杯を傾ける日もあった。翌日は一転、東大と早大の建築学科3年生総勢200名、両大学の先生方に囲まれ、製図の授業に参加する。久しぶり自由構想が許された建築に頭を悩ます。そしてまた一転、制限だらけの実際の建築設計という今日を向かえる。明日は、頭にねじりハチマキをしてDIY漆喰塗り教室=にわか左官職人として一日を費やすことになっている。体育の日だから汗を掻こうという単純さに案外自己満足であったりする。
上記は今日を中心として2~3日前後を見渡した行動予定にすぎない。そして、あえて記すこともないプライベートに過ぎない。だが、よくよく書き出してみると、まるで夢で構成されるような実に脈絡のない場面の展開が、現実の生活であることに気付く。もちろんこれは、私個人の特殊なものだというのでなく、だれにでも起こっていることだろうと思う。今朝直前までかみさんとケンカしてきた脚で営業顔に一転とか、病院で自分の身体を気遣う一時とその後・・、スピード違反で警察と問答・・・無関係な場面との表裏一体、多重人格者ならずともある意味手のひらを返しながらの日常生活、という実態を俯瞰者側から見ることができる。
ある現場監督が話していた面白い話を思い出した。彼が出入りするある企業では、社屋に分け入るといつでも社員が全員起立で歓迎の意を表するのだが、これは会社としては合理的でないのではないかと疑問を持った。ところが、ある日、いよいよそういうしきたりの背景が見えた。いちいち来客の度に仕事を中断するというのは、マイナスの側面だけではなく、頭を常にスイッチングする効果が期待されているのでは?とその現場監督は考えた。実際のスイッチが、使わなければ接点不良を起こすのを想起したと思われる。集中を適度に疎外する環境が、却って集中力を育てる。なるほど、それは自分自身の経験にも、また他人にも心当たりがないでもない。一つのことに十分な時間が投与されれば、質が保証される、というのは実は現代に限らず永遠の盲信である、とさえ。脈絡のとぎれがちな生活に疑問を抱く人の現状肯定としては、便利な理屈である。

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