2018. 1. 28

第178(日)個人がモノをつくるということ

台湾土産ということで身内から与えられたダウンジャケットを着続けて30年。さすがにくたびれ果ててはいた。外側は安物だけど、中の羽毛はいいものだから、という言い伝えが何となく響いていて、また羽毛という天然素材は今の服飾の素材として貴重なのかもしれないという思いから、このボロボロのジャケットをリフォームすることになった。(建築ではもはや使われなくなった「リフォーム」)

Sifukuの永石さんにお話したところ、快く引き受けてくださった。小さな改装や模様替えが当然に愉しいように、身にまとう衣類の改装もまた同様に愉しい。もちろん、経済的には説明のつかない非合理がつきまとう。昨年やったもので当にそうだという事例。同じくダウンジャケットだったが、こちらは10年ほどまえに手に入れていたユニクロの製品。ピッチの細かいステッチが主流の最近のものは個人的になじめず、2007年製を長く着用してきたが、ついにジッパーがいかれてしまい、リフォーム屋へ。ジッパー部分の取り替えだけでさらっと8000円。元の本体の値段が確か7000円台だったから、本当はまるまる新調できるはずだが、これと同じモノは今は手に入らないから、その場でお願いした。通常誰もがする皮算用の心にフタをして。(ダウンジャケットのジッパーは手間が掛かるらしい。値段聞いて持って帰る人も沢山いるとのこと。)

今回のダウンベストも同様、新調できる値段で、リフォーム。古建築の改修と同じで、コストメリットというよりも他に価値を見いだすことによる、リサイクルプログラム。ぼろ切れ同然の既存のダウンに裁縫家が一対一で向き合うのは、考えてみると既製服全盛時代としては贅沢な出来事。当然、既製服では見かけないだろうという仕掛けを彼女にぶつけてみた。

用途は基本的には寒い日の野良仕事=日曜大工の類い。だから袖まである防寒服は機動性が悪く、ベストがいいとかねてから考えていた。胸から腰の前面に、マジックやカッター、ドライバーなど、職人さんたちが道具を突っ込んで腰に巻く「釘袋」の役割を果たすポケットを要望。イメージは、釣人が着るポケットが沢山並ぶベストも思い浮かんだが、それよりも、戦争物の映画で胸に銃弾の類いが整列して並んで差し込まれているベスト。反射的にすぐに取り出して使える、類い。

事務所に納品していただき、ファッション史交えた雑談をしながら、既製服+大量生産の渦中に一人洋裁家で活きる永石さんの決意のようなものを伺う。小さなリフォーム店の雇われ時代、沢山のお客さんに支えながら、一方では値段が折り合わぬと、しかられ続けた日々。何万枚も一気に縫う一枚のコストと、その一枚に一人が取り組むコストが度台異なるのは、判ってはいても容易に了解はされないのだ。自分がやっていることが万人向けでなくとも、一人で洋服を縫っていくというのは、作り手として見える量産世界に疑問があるからである。当然、原価を抑えるための様々な技法、縫い方、型紙の取り方の違いを見抜いている。売れ残ったら安売りして、それでも残ったら何千枚と焼却処分される(フードロスだけではなかった)ということも知っている。そこには加担できない、という感覚があるのだ。

作り手というのがその世界のものづくりを最もよく知っているというのは、当然のことである。米作農家が、自分達の食べるお米だけ、別の田んぼで農薬を減じて耕作しているなどという話しは、よく知っていることから生まれる行為である。では、消費する側はどうなるのか。一生「知らぬが仏」のままモノを消費し続けるしかないか。お金がかかることだから、仕方のないことなのかもしれない。私たちは日常生活の中で、様々な選択をしながらモノを得ている。同じ役割を果たすもののの中から、一人の人間が心を傾けてつくった「割高」なモノを取り入れようと考えるには、何か別な感覚が必要だ。量産世界から基礎的な生活水準がこうして担保される。そこに、「これこそは」という抑揚を発見できたらどうだろう。これはちょっと贅沢だけれども、というのをに少しだけ混ぜればいい。変な話し、2980円でシャツがそろえられるから、4万円のダウンが羽織れるのだ。経済感覚の上に美的感覚を育てればいい。

リフォーム前のダウン

あるいは、個人でモノをつくる人間は、同じように個人でモノをつくる人間の作るモノになにがしかの意味を感じることができる、もしくは信じて発注することができる。彼らは互いに生産者であり、消費者である。受注者の時もあれば、発注者の時もある。アメリカで世界初の自動車産業を創始したヘンリーフォードが、工場労働者が車の購入者となれるよう、十分な賃金を設定することによって、車の大量生産を成立させたのと同じ構図を、個人のものづくりに置き換えてはどうか。例えばダウンジャケットのリフォームに4万円かける意味を、万人に伝えようという難題に取り組むよりも、先ずは個人でモノを作る人たちの間で、互いのモノが理解されあう世界を考える方が易い。そこにノルマや文律をいきなり設ける必要はもちろんないが、個人でモノをつくる人々どうしが、互いに関心をもって知り合う必要があるだろう。個人でモノをつくる人々は、自らの制作に没入する日々が常だと思うが、たまには他人の制作物から励されることによって再び自作へ戻るというパターンも必要だろう。そういうサイクルが、この大量生産の世界の中である層をもって成立している。すでに現実にあるという側面もあるが、まだまだ、妄想の世界だとあえて言いたい。そんなことをあれこれ考えながら、ダウンベストに袖をとおす。

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