2008. 8. 17

第46(日)我流身体論

休みは盆正月だけは、きちんと取るようにしている。国民の休日はもちろん、日頃の日曜日も動くことがあるから、せめて職人達が休むこの時に、どさくさで長めに、を企てる。この夏は、5日間丸々、断食道場に赴いた。小さな森から相模湾を眼下に望むことのできる静かな道場だ。女性はダイエット、男性はメタボ対策とお決まりの文言を唱えながら老若男女が集まる。自分と同室の男性は皆30代半ば、会社の経営者や、これから独立起業しようと心身のリセットを目論む人も居た。
しかし、この道場は断食が目的なのではなく、ヨガ行をより効率的に行うための断食、という趣旨のものである。だからわざわざ出かけた。ヨガというと流行のものだが、本来は大変に精神的な鍛錬のための行である。辿れば紀元前2000年のインダス文明に至るという説もあるが、有名なのは紀元2~4世紀に編纂されたヨーガ・スートラという大著がある。その後、インド各地のバラモン教、仏教、ジャイナ教などの修行法にも取り入れられる。戦後アメリカのヒッピー達により、ハタヨーガとして身体的、物理的な即効性部分が抽象され、流行した。日本の場合は、ある意味インド直輸入のヨガ全体が取り入れられたが、それはオーム真理教団によって曲解され、悪用され、不完全なるゆえの完全なる過ちを犯した。だから今、日本で流行っているヨガは、基本的には物理的身体のリラックスという、ヨガのほんの一部、言ってみれば身体の柔らかい人のためのラジオ体操のようなものである。
といっても、自分の目的も呼吸法(プラーナヤーマ)までが限界で、上記ラジオ体操の後、深呼吸しているという次元に留まっている。尤も、深呼吸に過ぎないとはいえ少し違うのは、空気と一緒にプラーナ(環境に蔓延する生命エネルギー=気)を呼吸することである。これはどうやって呼吸するかと言えば、「想像する」のである。「そういうものを今吸っている」と想像するのである。その力が豊かであればあるほど、得られるという。(その程は下腹が熱くなってくることでわかる)人間の身体を維持する燃料は口から入る食料(食料にも気の次元のエネルギーが含まれているという)のみで、という私たちの常識とはヨソに、もう一つ別のもの=「気」を食べて生きている、ということのようである。取り入れられた気は身体に循環し、古くから、太極拳、気功とか、鍼灸などの東洋的な身体学が認知、利用してはいたが、身体を解剖しても、血管のように実体として見えてこないということで、西欧医学では承認されてこなかった。近年では、それは、皮膚の真皮に満たされた生理水を媒体として流れていることが確認されている。そのエネルギーの詳細な計測は、AMI経絡臓器機能測定装置によって電気的信号により可能となり、欧米などでは東洋医学的治療を行う際の国際標準となっている。
要するに断食とは、食料から得られる一切のエネルギーを一旦遮断して、気エネルギーの取得とその循環に注目してみよう、ということである。そして、それは、食べ物のように、機械的に箸でつまんで、顎を動かすと言った身体的な動きによって得ることはできず、専ら強く想像することに委ねられている。こここそが、ヨガがラジオ体操と次元の異なる部分である。想像力で食べる。豊かな想像力によって初めて、目前のものを食べることができる。未だ見えぬものを想像する力、なんだか、モノを造ることとも繋がってきそうである。
リフレッシュといえば、人によっては海外旅行、お盆と言えば、実家でゴロリ、あるいは山や海に出かけるのが普通である。美酒美食を詰め込んで、久住の法華院温泉に登るなど、普段の自身の行動もその範疇だろう。皆が温泉に入ってビールで一時の喜びを得ている時に、自分はいったいなにをしているのだろう、と思わなかったわけがない。しかし、終わってみると、身体はすっきり、頭の中もすっきり、体重が減ったという以上に、通常では得られない身体の軽快さを感じながら、仕事場に向かうことができる。本当にリフレッシュするためには、多少の我慢と、能動的な想像による飲食をしなくてはならない、ということか。人間の身体に潜むカラクリなのだろうか。

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