2008. 9. 28

第51(日)華の共同体

とある工務店の社長から声がかかり、そのパーティーに出席した。博多百年蔵の工事が一段落したので、関係下請け会社を交えての交流会とのこと。行けば40~50名もいる。普段は作業着の職人たちが、クールビズの類の出で立ちで会場に浮かんでいる。我が身は最上段に席を促され、なすがままに、しかしなんとなくむずがゆく、収まる。月並みな挨拶をしたあとは、宴もたけなわを迎え、案の定堰を切ったように設計者めがけて、というか最上段めがけて、赤ら顔の豪腕職人たちが次から次へと杯(=コップ)を持ってやってくる。これはいかんと、自ら逆手に酒を持ち替えて各テーブルへの回遊を計る。
若い大工と、話す。プレカットの木造は、仕口が甘くて建て方の時に揺れるから怖い、やっぱり家は在来工法の方が正しいのではないか。
アルミサッシ屋と話す。同じ開口寸法のサッシで○○メーカーと□□メーカーの重さを量ってみたら、○○メーカーの方が明らかに重かった、とか。
左官屋と話す。ここの仕事をやることにはじめは緊張した。でもあのテーパーの付いた開口部の漆喰塗りは案外おもしろかった、とか。
材木屋と話す。梁材は外材ばっかりで面白くない。地松の材料がどんどんなくなっている。杉は〇□産のものがいいとか。
たわいもない話あり、職人ならではの視点に目から鱗あり。でも数千万円の建築工事に関わった人間を一同に集めると、これだけの数になるということは発見であった。(工事は入れ替わり立ち替わりだから)いずれにしても、こういう一種の共同体意識の場が設けられる事に心が動いた。
全てが競争の時代。世界の隅々が競技会場となるグローバリズム。工務店が、限られた下請け業者と村社会をつくることは、これとは逆。短絡的な理屈で言えば価格競争、技術競争、納期の競争原理は保証されない。知らぬ間に元請けもろとも陸の孤島ということもありうる。だが、実際には村社会においてさえも競争原理に変わる原理が働く可能性はある。共同体意識が甘えの構造に支配されるか、社会に有益な柔軟さを導き出すかの分かれ道である。もし後者が醸し出されれば、これは、世智弁聡から産物を得るグローバリズム原理とは異なる可能性を持ってくるのではないか、と期待している。理知的だけれども見えないスケールの何かに絞られる生産行為に対して、共同体の穏やかな厳しさを持った原理、もしくは自律的な向上心に基づく生産行為。競争原理だけが、人間の向上の源なのだろうかとも。モノに取り組む精神の励起はそこからだけしかありえないのだろうかとも。やっているのは生身の人間である。競争に加わるのは良いが心身を疲弊し続けなければならないでは、そんな世界はいつまで保っておられるだろうか、とも。すくなくとも、これとは異なる世界が同時に必要のように思われる。
もちろん、今更モノと情報のクローズされた村社会に戻るべきという意見ではない。あくまで、グローバリズムのただ中で、並立していく方法の一つである。細々とでいいから人間が機械とならないものづくりの慣習を洗練させるのである。甘えの構造に沈潜してゆかない、グローバリズムに立ち向かえる共同体。おそらく個々の人格が鑑みられる。しかし、疑うこと、疑われることにエネルギーを浪費されない。品質の及第点は当人達によって自ら決めらる。落第点が設定されない代わりに、及第点は無限化する。全く無邪気な発想だと言われてもいい。

 

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