2008. 12. 7

第58(日)物質とのキョリ

それへの憧憬や期待を寄せ集めるなら、そんなものは、文化財級の現場でさえ出現できるかどうかのまれなものだ、といわざるいえないから、避けるべきか。だからあえて職人技とはいわないが、それでも、「個人の技能」の果てには、必ず、彼と彼が扱う素材とのキョリの縮んだ状態を伺うことができると思っている。モノとそれを扱う人間との隔たりがない、そういう恍惚状態のような状況からの産物を信頼する。「職人的ものづくり」というと、(実際はなにも内容を示していないにもかかわらず)手放しで期待する人と手放しで躊躇する人がいるから、もはやこの使い古された言葉は誤解を伴うと思われる。「(対象と)身体化するものづくり」の方が、むしろ客観的であり、その深奥を説明しているのではないかと思う。「機械化するものづくり」がグローバリズム資本主義のものづくりにおける現れであるならば、「身体化する・・」はそういった現代の社会構造の基幹とは字面も意味もキレイに相対するだろう。この場合の機械化とは、油を注いで動くマシーンに限らず、賃金にて働く人間の場合も含む。いずれにしても「身体化するものづくり」は、太陽に対する月のように、役に立っていることが見えにくい姿勢だとも言えるだろう。
先日の辻説法では、グローバリズム社会におけるリージョナリズムという命題に答えよ、という趣旨であったから、やはり、「あるもの」を用い、「個人の技能」を用いて、それが場所の一般解になりうる、と自分が今までやってきたことから話した。挙げ句の果てに、会場から「物質へ近づく貴方の習癖のようなものは、師匠譲りなのか、貴方本来のものか?」の質問を受けた。この質問は、自問自答をくり返してきたので答えることができた。自分のその習癖は、おそらく本来的ではないかと思っている。一つの証拠が、ガンダムのプラモデル時代に有るかもしれないと。当時(小学6年生のころ)ガンブラが異常に流行り、自分たちも例外なくその虜になっていた。自分は、勉強机の隣に小さな模型専用の机のようなものを常設し、隙あらば、勉強机からそちらへお尻がすべっていった。プラモデルといっても、部品をくっつけるだけではなく、塗装工事が各人の表現の舞台となる。また、継ぎ目をどれほど消せるか、とか時には、設計上動かない関節を動くようにしたりなどの改造を小六なりにした。まるで作品と勝手に位置づけられたそれらは、当然、学校に大切に携えて、品評会なる「見せ合いこ」の壇上に載せた。自分は職人的な技術の追求もさることながら、ガンダムを戦闘によってすり切れた物体として表現することに夢中になった。シルバーを小さな筆に染み込ませ、それをほとんどカスカスになるまで塗料の含みを減らし、それから筆を本体になすりつける。そんなに難しいことではなかったが、思いの外友人は驚いた。おそらく技術にではなく、侘びたガンダムにである。
その時は、それで、それ以上何も考察の拡がりようもない、子供の趣味に過ぎないことではあったが、新品のガンダムを最初からワビさせることに夢中になるという感覚と今の自分が繋がってしまうのかと思うと、トタンに仕事上の問題のような気がしてくるのである。

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