2007. 8. 26

第7(日)遠くの幸せ

ひさしぶりに、我が実母と外食をした。齢80に近づく母親は、もはや自分を育てた気丈な人格というより、(あくまでも)物質的には、侘びた状態、いわば余生を送る人であった。とりあえず多くの老人の型どおり、いろんなグチをこぼしていた。彼女は右手に包帯を巻き面ね、左手に持ったフォークで刺身を突いていた。なんでもないところズッこけて、完全に骨を折ったという。問題はその治療の話である。現代医療の通常なら、メスを入れてボルトによる接合となる。骨が繋がると再びメスを入れてボルトを除去する。本当なら木だけで接合できなくもないところを、より強くということで、鉄という引っ張り力に異常に強い素材に頼る、という現代の建築木造技術と相通ずる。母が受けた治療は、なんだかいわゆる名医で、メスを入れずに、完全骨折を直すそのやりかたであった。完全に折れた腕の骨は、周辺の筋力により交差し、内側へすれ違う。それを麻酔を掛けずに、引っ張って元のかみ合わせにもどす。その時に激痛を伴う。ボルト接合による治療であれば、その工程は少なくとも部分麻酔により穏やかになる。私の友人は、いっしょに行ったスキーで、肩を骨折し、やはり2回の全身麻酔を行った。
なるべく痛みを伴わないように、技術は進歩する。と言う物事の流れの中で、患者の一時的な痛みを伴う治療を敢えて差し向ける名医の話だった。20年前、私は大学入試の2週間前に盲腸を患った。その日の朝飯はヨーグルトであったが、その夜、前代未聞の腹痛にて病院に運ばれた。救急病院は申し訳ないが、そこは一次しのぎで、聞きつけた名医のいる病院に移り、そこでメスを受けた。その医者曰く、「麻酔をいれるとその後頭痛が続く場合がある。あんたは受験の身、麻酔の量は最低限にしとくよ」その量は案の定15分しかもたなかった。(盲腸の手術は当時10~15分が普通)お陰で、傷口を縫う針の動きを否応なく存分に感じることができた。その病院は3日で退院し、受験はつつがなく、自分の実力の分だけ、発露することはできた。いや、もう一つあった。小学6年の時、体育館の天井レベルから、マットに目がけ飛び降りるという遊びをしていて、ついに足首を骨折した、その治療を思い出した。そのまま、学校指定の病院に担ぎ込まれ、適当にレントゲンを撮られ、若い医者は「折れてませんねえ」と首を傾げながらギブスをはめた。2週間後、やはり患部は悪化し、聞きツテの名医のところへ転医した。そこでは、15回もレントゲンを撮り直した。折れているその部分が、内部で複雑に入り組んでいて、なかなかうまく取れないというのである。治癒されずにふくれあがった足首は、X線の都合により、あり得ない方向へ曲げられ、撮影がくり返された。レントゲン室は拷問を受けた児童囚人の悲鳴で満たされた。でもその半日の拷問のおかげで片チンバにならずに今日に至っている。
かろうじてそれら自身を救ってもらった名医のことを思い出したこともあり、ようやく母親の骨折の治療医の行っていることが、理解できた。私は厳密には職人ではないが、職人に、例えば処方箋を与える立場である。老婆の骨折の悲劇から学ぶのは、(おそらく医療のみならず)処方箋というものは、放っておくと、短期的な効果を第一義に編み出されるということである。現代の技術観とはそれであると言い切ってもいい。その中で、そういう時流とは無関係の、しかし、長い意味で正しくその人のタメになるようにと提案し、それを実行するという人がいるということである。それらには、正しければ正しい程、当たり前の痛みを伴うということだ。それを納得させるだけの度量が、そういう人にはある。
灼熱の路上によろめきながら、今度は左手を骨折しそうになる頼りない老婆であったが、そういう治療にしっかり身を預け、大事なときには人を信用するという我が母であったことに、すこしだけ救われる思いがした。

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