2010. 5. 30

第95(日)だれもがクライアント

名島の展望台計画が見直された。
経緯は、昨年の今頃に始まった4回の検討委員会により、元のコンクリート展望台のあり方を今一度再考し、保留になった、というより行き場を失った経常予算をどのように用いるか、使途を導きださねばならないというものであった。その後の2回は時間が合わずに欠席したが、結局今年に入り3月の新聞発表で、結果を知る。4.7mの木造展望台に変更、とのこと。地元の人々のたっての願いである「展望台」計画が存続するカタチとなったようだ。電子文字でいろいろと言っても全ては犬の遠吠えと化す。この一件からなにを学ぶべきか、それだけを記すとしたら、なんと書こう。
私はその見直し検討委員会の1、2回を傍聴席で眺めた。役所側の意見、地元の意見、専門家の意見が当然そこにあった。結果は大人の解決であることが一番に尊重された。そもそも最初の答えが過ちを犯したものだから、その過ちを是正し、減点を少なくするのが関の山であった。あの場所を注視し、更地から考え直すという意見は、結局は当初計画の当事者たちによって遠ざけられ、なおかつ後で起こった全ての意見を無視しない、いわば無難な妥協点に落ち着いた。ここでは、より深く関わる当事者の都合が強者で、本来的にどうあるべきかという真に純粋な立場を含む外野は弱者であった。そういう強者弱者の関係は、建築の保存の時にも同様の構図となるので、決して珍しいことではないのだが。
名島の問題は保存という「壊してはならない」とは逆に、「建ててはならない」の理想があることを示した。解ってはいたことであるが、建築はその基本的なあり方を間違うと、大変大きな間違いになるということを、こういう関わりに触れたことによって、実感することになった。そして、建築は、(そういうつもりでなくとも)だれもがクライアントになれることの恐ろしさをも考えるようになった。名島の過ちは、言ってしまえば、建築的教養の枠外から発生した。これは名島に限らず普通に起こっていることである。昨日までの門外漢が、「私はこの地域の住人である」「私は職務上この公共建築を発注する立場にある」といって事実上クライアントになる。だから、建築の研究者や職能者が豊かな教養を社会に蓄えていても、市井に建つ建築サイトの節々で、そうでないところの部分が萌芽する。教養とか文化とか、高邁に聞こえる言葉が耳障りならば、それは、自分の住まい以外の建築を観ることに深い愉しみを見いだせるか否か、あるいは、中学校の歴史で学ぶ日本の名建築を実見して感動出来るか否か、と置き換えてもいいだろう。
一般教養としての建築教育を考えていかねばなるまい。独立した建築家になるための教育を知らぬ間に享受してきた自分は、自らが育てられたのと同じように学生に接していた。つまり、設計者になることを教育の唯一の成果として臨んでいた。だが、建築教育は人間の生活に欠くべき一般教養として、まず、腰を据えるべきものではないか。□△商社に就いた〇×君はもう学んだ建築知識を活かすことが出来ない、というのは大間違いで、もしかしたら、直接的にではなくとも間接的にクライアントになることがあるかもしれない。いや、持ち家であるとか借家であるとかの別を超えて、彼は建築を用いて将来生活をするのである。そう考えると建築の伝え方も変わってくる。よく言われていることだが、建築は、国語算数理科社会に並ぶ一般教養だ、と仲間内では言われる。だから小学校から習わねばならぬとは、にわかに断言し難いが、そのようなことでもないと、建築は歴史、風土、文化、の類の退行を助長するものになりかねないシロモノなのだと思う。

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