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2017. 5. 7

第172(日)造化のものづくり

ひさしぶりに、宝満山に登った。時折、山の精気のようなものを吸いに行きたくなる、改めて自分をそういう人種だと思った。実際、現地もそういう人で溢れていた。20年弱、年に一度は登ってきたが、これだけ時間がまたがると、そのような同種の人々の趣も異なってくる。山ガールといわれる人たちが、やはり明らかに増えていた。

歳はいろいろだが、いずれにしても山女子の多さに目をくらます反面、いつも以上にスマフォで山道の風景を撮る。初めてみる光景ではないが、いったいこの写真はなんに使う?どういう風にかみ砕こうか、わからないまま、撮る。建築物を見に来たのではないが、なにか建築物を見る以上に、建築的なものを見ているような状態になる。そんな光景が、山道の途中に現れる。

デザインに元ネタを据える=模倣をする対象は、まずは大きく二つ、分かれ道があると思っている。一つは、人間の製造物を模倣するというパターン。建築を構想するのだから、先行する名建築を思い描くのは至って自然な学習であり、意識するしないに関わらず、多くのデザインプロセスで暗黙の内に行われているだろう。また、建築は歴史的に、絵画や彫刻などの美術全般の中で互いに影響関係を持っているし、車や船などの乗り物とか、橋梁などの土木構築物においても同様である。例えば、アールデコは、近代の量産工程によって生まれた新しいカタチが、歴史上のさまざまな美術装飾の類いを咬み込みながら、建築を含めてあらゆる人間の製造物として顕れたものと理解している。人間の創り出したあらゆるものは、互いに他の製造物との影響関係下にしかない、ともいえる。

もう一つは、自然=人間が作り出したものではないモノからの発想がありうる。山や、雲、岩、樹形とか。ズバリ植物のカタチ(特に幹)をトレースしたとされるアールヌーボー。アントニオガウディーがモンセラートの奇岩の風景からサグラダファミリアの塔の風景が生まれたのではないか、という一説も思い出す。山のシルエットや、雲や岩というその土地の動かぬ風景のようなものは、言ってみれば、だれにどのように影響を与えているということを、そう簡単に白黒と議論するのも難しい類いである。だから、このあたりは、名作や名人に対しての、事後に与えられる評価であることが常である。

今のところ、自然物からの発想については、作家論にはなっても、デザインの方法論にはなりにくい、というところがあるのではないか。作家の原風景としては、語ることができても、これから、何かを構想していく時の普遍的な方法として共有しにくい。建築からかけ離れた自然物を建築的に見ようとしてみる行為は、だから、モノを作ってしまうまでは内向きの思考である。また、建築は、一方では、自然と真逆の人工物という側面を持っている。基本的な役目として、外気という自然環境の中に、人間にとってより最適な空間を得るという目的があるから。であるからこそ、「自然との共生」という言葉を使う必要が生まれる。しかしながら、似て非なる別の考え方もあるのではないか。まず最初に自然があって、そこになにがしかの人為的制御を加えていき、人間のための環境を整えていく、という思考の方向性があるのではないか。自然との共生、ではなく、自然からの精製、といったところか。

福沢諭吉の晩年の語に、「造化との境を争う」という言葉がある。造化とは、造化三神といって遙か神代に高天原に降り立った、生産生成の創造神のこと。なので「造化」の意は、人間が作り出したもの以外の全てであり、それら生物無生物の生死、更新のプログラムであり、またそのプログラムを支えている造物主そのものとなる。本来は天地創造に関わる神の次元の「ものづくり」の類い。「造化との境を争う」とは、そういう自然の摂理を追求し、人間の智力でそれを制御しながら、人類の幸福のために役立てるのだ、という意になるらしい。「争う」は「競う」という方が今にわかりやすいかもしれない。神代より受け継がれ、近代をくぐり抜けてきた現代の「造化」の意は、まさに福沢諭吉の科学論のように、神のものづくりの原理に気づき、自然にコミットした、人間の科学的思考なのだと、理解できそうである。(クローン技術やISP細胞などが、自然にコミットしているのかどうか?というのは、要検討)

いろいろと、では現代科学の問題はとなると、そこは境を越えているのではないか、というややこしい議論が出てくるから、あくまで、「造化との境を競う」のだというスタートラインに立ち戻って、改めて山道のショットをじっくりと温めようと思う。この写真を言語化するのは、この段階では野暮なので、造化のものづくりを煮詰める良い題材なのではと独りで思い耽り、今年の黄金週間を終えたい。

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