2023. 11. 26

第207(日)金峯山寺と修行僧-2

いかに情報の雨あられであっても、SNSその中に、その時のその人にとって、珠玉の賜物的情報の類が、潜んでいる時がある。

塩沼亮潤阿闍梨の大峯千日回峰行に関わる著を、上記広告の類で見つけて、思わずワンクリックした。

千日回峰行といえば、比叡山ではなかったかという先入観もあり、吉野にもあったのだと新鮮に映った。物見遊山で二度訪れた蔵王権現堂が出発点となる、大峯山を往復する48キロの、いわば山岳修験道のメッカ?である。霊山修行の場であることは重々承知していたはずであったが、いざ何を知っているかと問われたらなにも答えられない状況に1600円、これは買いだと思った。

この修行はちょっと、尋常ではない。いかなる理由であっても、途中で中断することになった場合は、腰に伏せていた短刀で、自刃しなければならない、という掟。朝は、夜の11:30起床。現代人が、そこから寝ようかという時に起きて、死出装束(しでしょうぞく)と呼ばれる白衣の死装束に身を包み、行が中断された時に自らの首をくくる死出紐(しでひも)で体を締める、という身支度を経る。夜中から出発して16時間かけて高低差1300mを往復する。千日は、続けて千日ではなく、大峯山の戸開け式5/3~戸閉め式9/23の間の入山を毎年繰り返し、手前に必須の百日回峰行を含めて、最低でも9年の歳月をかけて行うものという。

この行は紛れもなく苦行の類だろう。その苦しい内容は、上記から先の詳細にある。私が代弁するよりも直接、体験された本人の文章を読むべきとは思うが、一つだけ印象に残ったことを。

千日回峰行、が分かりやすくタイトルに掲げられるが、その前に経なければならない「百日回峰行」もあるし、千日の後には、「四無業」(しむぎょう)というのがあった。これは、断食、断水、不眠、不臥。文字通り、生命維持に必要な食事、水、睡眠、を絶ち、体を横にするのもだめ、ということを9日間行う。ドクターストップがかかる非常に危険な行。この行はオプションだから、ここに挑むかどうかは自由ではあるが、しかし行に入るというならば、死を覚悟して行うとのこと。直前には、浄斎の儀(じょうさいのぎ)という生きたまま葬式の形式の儀式を行う。だから、身内が喪服を着て参列するのだそうだ。以下はその時の挨拶(本文引用)

「行者亮潤、今日まで自利(自分のため)の行を続けて参りましたが、本日、四無業に入ることに相成りました。もし神仏が利他(他人のため)の行を必要とせぬと判断されたならば、皆様方とは永遠のお別れになります。ありがとうございました」

この行の5日目の中日には、水を飲むのではなく、うがいをすることが許されていて、含んだ水で口を濯いで、そのみずは、また椀にもどすという行為がなされる。その時、水は喉を通らないが、口の中の粘膜が勝手に水を吸い上げるらしい。チュルチュル、といった音がしたそうである。このうがいのみが行の中日に許され、そこで体が生き返り、満行を迎えることができたというのである。

この本は、果たして自分の体たらくを戒めるに役立つだろうか?自分をなんとか変えていきたいと奮い立たせようという一方、これは、このような超人的な精神の持ち主には、自分はとうていなりえない、という「諦め」との戦いでもある。

到底及ばない、別世界の生き方と捉えるのは簡単だが、本当は、おそらく、どの人の人生も苦行なんだろう。抵抗したり保留にしたり、避けて通ることができる、というのが、普通の生活者には許されている、だけなのかもしれない。行の中身の面白いトピック(そんな軽々しいことではないが)や金言の類含めて、いろいろとこのあたりは、思うところがあるが、これくらいにしておいて本題に戻る。

金峯山寺は、前回書いたように、師匠から見るべき古建築の一つとして、教えていただき、20代そこそこで訳もわからず目に入れて、10年以上経ってから再訪もしたが、大事なものが見れていない感覚のままあった。

その大事なものとは、おそらく、この本に詰まっていたのかもしれない。行者が建ててそのまま生き続けてきた建築ということらしいが、行者の姿を見ることができなかった。その建築がただ単に、物理的に5~600年、あるいは創建から数えるとその地に千数百年存続している、のではなく、その源のようなものがあるからこそ、のはずだが、そこが汲み取れなかった。一観光客の物見遊山で金峯山寺を訪れても、塩沼阿闍梨の壮絶な行の営みは、かすめることすらできない。(ちなみに阿闍梨は私の歳一つ上。私が拝観した時期には、入山されていたよう)その場所で人間がどのように建築と関わっているか、建築を用いているか、の実感。建物からは、その入れ物として、空間を通して、人間の営みのエネルギーを感じ取ることはできても、直接の見聞と同じにはならない。結局、その埋め合わせはこの一冊の書物が伝達してくれたようである。これら文字情報を読み合わせることで初めて、建築の価値の源のようなもの実感するに至った、ということである。

金峯山寺、というと、山上ヶ岳の頂上と、吉野にある蔵王堂のを結ぶ全体のことを指す。山上ヶ岳の大峯山寺の方がどうやら役優婆塞(役小角)の時代からの本来の修行場のようであるが、山下の「蔵王権現堂」の方の名にこの場所の成り立ちが込められている。創建時、役小角が壮絶な修行ののち、普通の人は出会えない金剛蔵王の権現を得た、というストーリーである。法隆寺や唐招提寺、薬師寺は、同じく国が誇り世界が認める素晴らし歴史建築だが、寺院としてのアクティビティーは、一般の私たちには見えてこない。個人的には、食堂+細殿の双堂がとても好きなのだが、そこでお坊さんたちがご飯を食べている状況を見ることはない。

蔵王権現堂は、プラッと行っても、その本題の風景を見ることはできないのかもしれないが、とびっきりの人間の活動が密かに続いている、ということで、別格なのではないかと思う。塩沼阿闍梨のみなず、無数の行者の生きるエネルギーが時を重ね、建築の存在存続の底部がずっしりとあることが、この建築の魅力なのだと思う。彼らの生死をかけた行の積み重ねを通して、この寺の開祖、役小角の壮絶な行はもしかしたらこのようであったと、1300年前のことの想像がしやくすなったりもする。ストーリーは、否応なく蔵王権現堂にまとわりついていて、この建築があるから、人間の生き方の本髄が語り継がれる。人間のストーリーが豊かにまとわりつく建築、こういう建築を作っていきたい、と率直に思った。自分より一つ年上の塩沼阿闍梨の壮絶苦行への誘惑を微妙に交わしつつも、とはいえ、そんな建築をどうやって残りの人生で作るのか、ということも、今の自分には果てしない命題でしかない。

2023. 10. 9

第206(日)金峯山寺と修行僧-1

建築とそのアクティビティー、というと、今回のトピックからすれば軽く聞こえてしまうが、やはり建築をつくる人間と、そこで繰り広げる人間の行為は、背中合わせですれ違っていると思う。

もう30年以上前の話。私は大学の学部を卒業する時に、大学院との間に頂いた、わずかな春休みを使って、京都奈良の日本建築をめぐりたいと、見ておくべき建築を師に尋ねた。そこには、京都のものは一切なく、奈良より南のリストだった。それらをすべて、友人と2人でテント野宿で巡るという、実に若々しい建築行脚。毎晩の宿泊地は、用意されたキャンプ場などではなく、その日の行程で日が暮れて動けなくなった地点付近で、張れるところを探して寝床を立てる。海辺の砂浜であったり、シーズンオフのキャンプ場に侵入できればいい方で、雨が降り、橋の下の河原となってしまい、翌朝明けて目に映る光景に幻滅するような場所もあった。昼飯も夜飯も、店で食べた記憶がない。夜は、キャンピングクッカーで、ご飯を炊いて、調達した食材を調理して食べた。車は、姉夫婦にお願いして、一週間強、無償で借りた。お金をかけない豊かさというのがあるなあと、今から振り返れば、そう言える。

これらの建築リストの中に、「蔵王権現堂」があった。奈良県吉野町にある、正式には、金峯山寺である。役行者(小角)開山とされ、現在の本堂は1592年の建築。本尊が蔵王権現(インドに起源を持たない日本独自の仏様)が祀られているから、通称蔵王権現堂と言われる。建築を見る目線一般としては、そういったご本尊そのものに関心を寄せることは、ほとんどなく、いや、学生あがり程度であったことが、最大にわざわいして、やはり建築がどのようにできているか、というところにもっぱら目が向いていた。

「堂内の柱は全部で68本あり、一本として同じ太さのものはなく、すべて自然木を素材のまま使用している。材質も様々で、杉、桧、欅などの他に梨やツツジの柱もあり一定しない」

という、堂内の表示のとおり、この建築の最もユニークなところは、檜の製材を用いるべき堂宇の柱が、上記のとおり、無作為なのである。大学院手前のその時は、こういうことの面白さは、やはりあまり気づくことがなかった。まずもって、このような自由な柱の考え方が、いかにありえないか、ということ自体がわかっていないからである。「修験道がつくる木の建築は、一筋縄にはとらえられないなにかがある」と師が、ことある度に言っていたことを、忘れないではいる。蔵王権現堂は、そのことをもしかしたら、最も良く表している建築なのかもしれない、朧げながら心に留めつつ、その後、再訪を企てた。

初訪から14年が立ち、事務所のスタッフと、今度は自分の車で、1週間。今度は、テントではなく、サウナ施設。テントもサウナも今流行りのことを先駆けているようにも見えるが、ちょっと違う。最も安い過ごし方を考えたらそうなった、という消極的な理由しかない。サウナは、そこに併設されたレストルームで寝るためだった。もっとも、この旅も、一つでも多くを訪ねたくて昼飯を食べる時間がなくなり、いよいよ年末という季節に、ひもじさ混じりの凍えた体を毎晩温めてくれたのは事実だ。奈良健康ランド、ありがとう。今でも元気にやっているようで、当時は1800円ぐらいで、一泊できた。学生時代にもらった建築リストに、いくつか自分が仕入れた関心先を加えて、このランドを寝泊まりの起点にして、巡った。第63(日)初詣、修学旅行、建築の動機

二回目の蔵王権現堂。今度は、学生の時よりも、木造を含めて木のことは知っているつもりだし、少しだけ人生としての苦労は重ねたし、違う見え方がするだろうか、という期待があった。確かに、自然木の形をとどめた柱の異様な威容を、心の奥底に止めようと努めることはできた。樹種については、確かに陳腐化(経年変化)の様子がそれぞれに異なることは、見てとれるが、大体において、木材は、陳腐化していくと、当初の樹種の違いは、小さくなっていくから、この場合も、わかりにくくなっている、というのが正直なところだった。堂宇内部の薄暗い、なにか、おどろおどろしいものが、存在している、それだけは、再確認できたように思うが、なにか、わかったような気がしないまま、2008年暮れの再訪も終わった。

(つづく)

2023. 9. 17

第205(日)身体を削る。

ダイエットや垢すりの話ではない。人間は、必死になにかをやり続けると、それは、物理的な身体を削ることになる、という当たり前なことにハッとした。

先日、鉄の中西秀明(第189日)さんの個展に、久しぶり出向いた。いつもながら、鉄で遊び続けたその造作物を見ながら、話はいろんなところを転々とする。

とはいえ、必ず溶接の話になる。ふと、溶接は目がやられるのではないかと尋ねると、それはもう宿命だという。自分はおそらくこのまま白内障になるのは間違いない、と覚悟されていた。作品の作り方においても、彼は、ガスや電気を用いて、金属に熱を与えるから、夏場の制作になると、地獄になるらしい。エアコンがあったらどうかなるというアトリエではないから、滝のような汗をかきながら塩をナメながらの、作業。近所迷惑すれすれの轟音をならし、火事寸前の火花をちらし、自分の肉に火の粉を受けながら、の作業。こんなやりかたをするから年齢が制作に影響してしまうが、そこを超えたいと、また思量が重なる。そのうち、何某ガラス工芸作家の話も引き合いに出てきて、彼に会うといつも顔が真っ赤っかっかなのだという。彼のガラスの吹き棒が、作品の細部を凝視するために60センチしかないらしく、炉の熱で顔が常に火傷状態なのだという。

そういえば、事務所の大工工事の多くをお願いしてきた大工さんには左小指がない。その前後も知っているが、あっけらかんとしている。大工作業に支障がないからか、あるいは、他人にはそういうふうに見せているのか、などとも勘繰るが、多分、それなりに心理の深いところで、そこを超えているのではないか、という雰囲気である。勝手にこちらが美化しているのかもしれないが、(実情は違っても他人を美化できるなら、それはそれで尊いのではないか)とにかく、彼は小指が短くなって、一層、良い大工になっていっているように思う。

上記の作品で吹き飛ばした鉄のクズを用いて、別のオブジェが生まれる。なんとも、その生い立ちが清々しい。こうして見ると、このオブジェはスケールを超えて地質そのものにも見えてくる。クズからミクロコスモスが立ち現れる。まさにアダム。

人間は体を使って、何かをする。多かれ少なかれ、物理的に消耗する。心の消耗の方が昨今の関心ごとであるかもしれないが、究極的には、心は、制御、というかその心を越えていく道筋はある、と思っている。大変難しいが方法がないわけではない。(心の修復についてはまた壮大な話)それに反して、物理的な体は、修復できないものは絶対できない。自己修復できる鬼のようには、人間はなっていない。方法がない。

 

僕たち設計屋はというと、今は、もう、図面描画はもちろん、文章も、調べごとも、他者とのコミュニケーションも、経理作業も、ほとんどの全ての仕事がパソコンである。(電話と巨匠スケッチだけでよければ、免れるが)そうすると就労時間イコール画面を睨んでいる時間である。自分は、もうそろそろ60代が見え初めてきたというのもあり、なんだか目を労らなければならないのではないか、と怯えながら、日曜日はなるべくパソコンを見ない、などという小市民的自制心が既に芽生え始めている。

でも、そういう、身体への労わりの類を超えた心境というのがあるのかもしれない。冬の凍える寒さ中での長時間の行による疾病への恐怖を捨てて行をし続けた道元禅師は、結果的に病気になどならなかった、という説話を思い出した。

自己の心身をケアしながら、良い仕事をしていく、という仕事人としての当たり前の現代感覚が、ややもすれば不動の正解、と考えやすいが、そういう合理的精神をも固定化してしまえば、またそこで、人として頭打ちになる、ということなのだろうか。

つくづく、人の道は、一本調子ではうまくいかない、面白みがある。

 

<中西秀明 現代彫刻展 9/6-23 WALD ART STUDIO 福岡市博多区千代>

 

中西さん、いつになくカッコつけているな、と思ったら、とんでもない誤解。ウェルディンググラス。溶接用のサングラス。これつけていても、目は焼けていく。

 

2023. 6. 11

第204(日)桧山タミ台所展

様々な食材類の一角を、移設再現

桧山タミ先生、ありがとう。

なんだか、まるでお別れのようだが、この展覧会を昨日、所用の合間に見てきて、少し眼球をにじませながら、素直にそう思った。先生とは、20年弱前、早稲田バウハウススクールin佐賀で出会った、久留米の江頭さんに、大手門のキッチンスタジオに連れて行ってもらったのが最初だ。そこでそのまま素直に衝撃を受けた。何にかというと、「モノを作る時に、人間の心が少なからず関与している」ことに確信を持っておられたこと。なんとなくそれはそうだろう、というレベルでは、何人も了解されていることではある。あるいは、そんな精神論、ということで敬遠されるものでもある。そんな中、先生の料理教室では、その人の料理を食べると、あなた!朝夫婦喧嘩してきたでしょ、とか今日は風邪ひいているでしょ、とか、そういう言葉が飛び交うという。そんな非合理な料理教室がここにある、ということを発見して、その時なぜか心が弾んだ。(自分が料理をそこで学ぼうということではないのだが)

 

先生のキッチンスタジオは時折見ていたはずだが、今回の展覧会で改めて再現(移設)された箇所をみて、一つ、気づいた。自分がいっしょに建築を作る仲間である左官の原田さんや、大工の山下さん、そして鉄の中西さんの工場を見ている時の感覚と、どこか同じものを感じたのだ。それはなぜだろう、と理屈で考える。皆、一生懸命に素材と向き合って、今日より明日、明日より、と貪欲なまでの探究心、あるいは遊びの止まらぬ子供のような作り手であるのがまず一つ。しかし、でありながら、同時に言葉を紡いでいる。言葉は、自己の造作物をよりよくするために他ならないが、いつのまにか、人々に染み拡がっていくものになっている。ものづくりのノウハウレベルから始まるが、そこを超えた、人間や自然に関わる普遍的な言葉が、素材を睨み続けながら、あくまで作ることを介して、生まれてくる。

そして、そのような探求の魂は、必ず工場内のあらゆる物品を増やし続ける。整理しなければ、ただのゴミ屋敷の主人だが、そこは、きちんと整理する、ギリギリセーフで他人が見て愉しげな工場となる。確かに彼らは、モノに向き合いながら、心を用いてモノを作っている。どこもここも、先生と一緒なのだ。

私はこんなふうに、作ることと考えることを同時にしている人に、目が無いのかもしれない。ただ、言われたものを作るのでもなく、人が作っているのを評論しているだけでもなく、両方を並行してやっている人。前二者の立場は、もちろん世の中の各所に必要であるから、否定するものはない。だが、自分は、「両方の人」に出会うと、それはもう何を作っているかに関わらず、無条件に惹き寄せられるのである。

先生は、もうキッチンスタジオは畳まれたから、本人から発せられるものはなくなったということになる。業界が違うのに、なぜか寂しい。料理の方々にとっては、レシピの保存や公開、実行や展開が課題であり、意義深いものであるのかもしれない。一方で、レシピそのものに関わりがない人間にとっても、先生の語録は、まごうごとなき普遍的な響きをもっている。(第126日)だから、毎日数百、あるいは千人を超える人々が、来場しているのかもしれない。

料理を通して、人となる道を説かれた尊い人生が、建築を作る我が身を奮い立たせる。

探究心の塊!

綺麗に集めれば、エスディージーズの鏡。集めてほったらかしにすれば、ゴミ屋敷。

竹ザル、確かに竹の枝でできている。初めて見た。

2023. 5. 14

第203(日)日常景観の喪失

日常景観の喪失

20年来、時折通り抜けていた、二股のところの鬱蒼とした小さな森が、突如なくなり始めた。天神と桧原を一直線に結ぶ市道(平和桧原線)、直前まで結婚式場が営まれてた森だった。理由は言うまでもなく、マンション建設。久しぶりに心の底からの憤りのようなものを感じた。そして、この話をしたら、異口同音に皆が尋常ならぬ感情を抱いていたようなので、ちょっとこれは書かざるおえない、と思った。

日常景観の利益、という言葉を思い出した。2002年、東京国立市の大学通りのマンション建設に関わる景観論争、その訴訟の判決文から生まれた概念だった。

「ある地域の住民らが相互理解と結束のもとに一定の自己規制を長期間続けた結果、独自の都市景観が形成され、広く一般社会からも良好な景観と認められて付加価値が生まれた場合には、地権者に法的な景観利益が発生する」(A-3判決)

これは、高さ44mで計画されたマンションが、銀杏や桜並木に合わせて20mに下げるという行政指導の効力を盾に地元の住民たちが景観保護を求めて争った事件である。結局は最高裁までいきつつ、全て原告の敗訴となるが、「日常景観」という概念が生まれ、直後は学問的、社会的な議論を呼び起こした。

(左)グーグルマップで拾った、直前の風景。いざ探すと、自身のアーカイブにも、ネット常にもない。これが「日常景観」 (右)ほぼ全ての木々が切り倒され、奥の隣地マンションがぽっかり姿を現す。

 

いつも通り過ぎる時にこんもりとした小さな森(アーカンジェルという結婚式場として敷地は営まれていた)に、気づかぬうちに癒されていたものが急になくなる、という喪失感と、国立のマンションのように、急に、大きな人工物が立ち上がり、その街並みを台無しにしていくというのとは、上記の判決の上では同じものとしては扱えないらしい。とはいえ、いつもの風景が、いつのまにか、いつものものではなくなると、多くの人々の心に動揺が走るという意味では、明らかに利益を享受していた日常景観と言えるはずである。

「日常景観の利益」の言葉を直接に知ったのは、先の判決文というよりもそれらを起点にした論考、社会経済学の松原隆一郎氏の新聞記事からであった。

「景観には変わると全体が別物になる中心部があり、我々は人生の記憶をそれを頼りに練り上げている。川のせせらぎや海岸線、小学校の校舎などは、平凡ながら多くの人にとってかけがえのない景観であり、急激な改変は多くの人に喪失感をもたらす・・・」2003/4/4 毎日新聞

(アーカンジェルの森は、まさに、変わると風景全体が別物になる中心)

同じ頃、建築史家の藤森照信氏も、建築が存続することの景観的な意味を旺んに、述べていた。日々のめまぐるしい変化の中で人間が健全に生きていく為に、変わらない風景のようなものが必要で、タイムスパンの長い建築はその役割を担っているはすだ、等。それと読み合わせると、松原氏の風景も同様に、ということで理解が進む。

上記松原氏記事では、末尾に、「今後景観問題は、この概念を基礎に論じられるべきである」と締めている。つまりは、だれもが認める特別な風景の類ではなく、地域の住民が、気づかない内に拠り所にしている普通の風景の継承を考えていこう、ということである。それから20年経つが、明らかなのは、「日常景観」は社会の規範のかけらにもなっていない、ということ。20年前、この言葉は、経済的利益とは異なる、換金できない価値ある景観の利益が得られるのだから、経済的利益との天秤をかけて、地権者は互いに自己規制に励みなさい、と促したのである。団子より花、的逆行動が、法的には弱いが、裁判所の判決文として注目を集め、一般社会に波及していくイメージがあった。コラムのタイトルも「見直される日常景観」であった。が、アーカンジェルの小さな森の現地権者の振る舞いを見るに、当時の先端的な考え方は、少しも浸透していないことがよくわかる。なにも、当該敷地の地権者だけが不道徳だというつもりもない。戦後から70年以上かけて、こうやって、平和の山は、純然たる木々の生い茂る山から、逐次切り開かれてきた。一方で、全ての地面が、地権者たちの都合のみによって扱い尽くす前に、さすがここはというところには、さすがに、このご時世になり、当事者(地権者)は公共的概念でもって、自制的になれるのではないか、という少しばかりの期待はあった。しかしながら、「さすがにここは」の感覚は、ここでは、微塵も感じられない。

 

高宮〜平和〜大池の丘陵地帯(鴻巣山の東峰)の開発過程4コマ

どんどん、話は大きくなる。エコロジー、ガイア、サスティナブル、脱炭素、SDGs、環境配慮の掛け声が、次々に生まれ出てくるのは、一人一人の人間が如何に変わり得ていないかを顕している。その時々のそれぞれの掛け声で、制度や、技術、商品、は生まれてくるが、本当にそれらは、解決の方向を向いているのだろうか?今の現代人のマインドセットのままで、地球に住み続けることは、相当に難しい、ということを、理屈か、直感か、あるいは誰かの受け売りでも、きっかけはなんでもかまわないから、実感するならば、小さな判断が、状況の改善へ向かうかどうかの二股になっていることに気づく。

アーカンジェルの森(もはや結婚式場アーカンジェルは、地域の日常景観に寄与していた英雄的営みかもしれない)の消滅に、一言では表せない違和感を感じる。憤りの類は、おそらく単純に、樹木たちがかわいそうではないか、あるいは単純に私が日々癒されていた森がなくなったではないか、といういわゆる主観に基づく抗議。そしてそれとは別に失望、というべき感覚があって、それは、私たち人間は、やはり生き延びれない、という共倒れの気配である。自然を結局は、自己都合でしか考えない、ということが環境問題の起点であり、かつ決着点である。

人間は皆、今日明日の飯の為になるのはどちらか?で判断するが、そのように動物的であることは仕方がない。動物的本能の上に、地球や宇宙のかたちを短時間で変えうる文明を持ち合わせている。だから、本能を超える何か(単純に言えばデリカシーのようなもの?)が必須な存在である。人間の持続は、自然科学に対する感覚はもちろん、哲学、倫理、道徳(引っくるめて宗教?)を同じ天秤に乗せた経済の感覚(仏教経済学?)も必要だろう。本来的に難しいかもしれない。でも、人間ならではの踏ん張りどころとも言える。

自分がアーカンジェルの森に、それらを一掃してマンションを建ててくれという依頼が来たら、どうしよう?。決して頼まれることはない、とわかっていても、そこを勝手に考え続ける。やってはいけないのではないか、と勝手に余計なことを考えながら、自身の仕事を続けていく。実は、そういう日々のバーチャルな葛藤が、結果的には、そのようなことには関わらずに、今日の飯を稼げるようになっているのではないか、などと憶測を張り巡らしている。