2021. 1. 31

第190(日)ポスト近代的自我

父は、遊びに連れて行って欲しい子供の欲求を他所に、毎週日曜日の午前中はNHKの囲碁将棋の類いに釘付けだった。それを遺伝子で引き継いだかは判らないが、その子供の日曜日は同じチャンネルの一つ手前、「日曜美術館」に釘づけられている。

数週間前、現代美術家の李禹煥(リ・ウファン)解説による雪舟(1420~?)が取り上げられていた。雪舟は禅僧で、大陸の水墨画を輸入し、日本の水墨画として完成させた人。という以上の詳細を知らなかったから、内容は、自らの不勉強を省みつつ、驚きや発見が少なからずだった。一人で国宝六点をも残したということが偉業となっていることに始まり、空から実際に見ることができない時代に、日本三景の天の橋立の鳥瞰図を描き、「秋冬山水図」では、シュルレアリズムより500年前に、実際にはありえない風景の重なりを描き、「慧可断臂図」(えかだんぴず)では、水墨画の描き方では考えられないような筆遣いの線により主題(達磨)の姿を描き、「四季山水図巻」では、長さ16mの巻物として、春夏秋冬の移り変わりを一つの風景の連続として描き上げていた。紹介された作品を並べただけで、その時代の常識にとらわれず、それぞれが異なる手法や考え方を下敷きに、異なるトライアルが繰り返されていたことが今に伝わってくる。

雪舟等楊「慧可断臂図」国宝 室町時代(1496年)199.9×113.6㎝ 齊年寺蔵

恥ずかしながら、大型本の類いが本棚にありながら、また様々な書籍の端々に、そしてもしかしたら美術館その他で目にしていたかもしれないはずなのに、雪舟という人の作品に対して日本水墨画の大家、というレッテル以上の深い認識や理解がなかった。その事態そのものを、ちょっと客観的に裁断してしまうが、水墨画という歴史意匠が、それより奥を覗かせない被覆の某かになっていたのではないか。水墨画、という入り口の段階で、歴史上の技法であり、今はそういう手法は縁の無い遠いもの、となり、それだけで普段見ないモノを見た新鮮な感覚に浸ってしまう。現代という場所から、額に手をかざして遠景を眺めては、そこで終わってしまう。専ら日曜日の友のままでいいというのであれば、そういう目線に留まるのもかまわないのかもしれないが、先人の仕事を貪欲にも我が仕事の肥料にしようというなら、やはり、近景にまで迫り、眼前の歴史意匠の概観を突き破って入っていかなければなるまい。

よくよく考えるなら、建築にも同じことがいえるだろう。現代に生きる人間が、歴史建築から何かを得ようと言うとき。例えば家を建てようという人や、設計しようという人が、200年前の民家に対して、過ぎ去ったモノと見るか、なにかを読み取ろうとするか。民家という歴史意匠の概観を一旦度外視して、それらを見進めることができるかどうか、これによって得られるものは変わるだろう。屋根は藁葺きで、その下は扠首構造で、牛梁がここに掛かっていて、土間の三和土、畳と囲炉裏、障子、竃、大黒柱といった具体的な要素を、現代生活者の視点から遠望しているだけでは、その民家を現代生活を創造していくことはできない。それら要素のそれぞれに対して、当時なぜ、そこに発生したか、そして、無くなっていったのか、あるいは、その機能性はどうであったか、どのように改修されていったか、あるいは、カタチに篭められた象徴的な意味の有無、など、成立と衰退の背景、要因を、当時の時間にしばしタイムスリップして、丁寧に読み解いていくことによって、得られるものは大きくなるように思う。それらのいずれかにでも、現代的な課題を発見すれば、そこで初めて、歴史は、現代に活かされるようになる。

李禹煥(リ・ウファン)がなぜ雪舟を見続けているかということが、自分なりに判るような気がしてきた。雪舟の生きた時代は、まさに西欧ではルネサンスの始まりであり、おそらく西欧(あるいは全世界?)がそれ(デカルト)以降、いわゆる近代的自我を萌芽させていく直前のタイミングだった。雪舟はそのような世界的な流れにあるものを先取りする、というよりも、そこに左右されない人間像のようなものの道を歩んでいたのではないか。デカルトは、我に思いがあることを実在の証としたが、雪舟の題材は「心不可得」=自分の心は、確かめられない、であった。水墨画家である以前に、禅僧であった。自らの心を確定していこうという方向ではなく、むしろ放下して預けていく感覚。自然をありのままに描く、などという定型句は、こういう所から生まれるのだろうか。描き手が受け止めた自然、というのではなく、描き手の自我よりも遙かに大きななにかに支えられながら、描かれる。そこが、李にとって雪舟への最大の関心事のようでだった。李は自らが単独の力で、なにかを生み出しているのではない、というような意味のことを、インタビューの中で、何度か繰り返していた。単独では無く、例えば与えられた場所から、与えられた対象物から、あるいは、より大きな自然から受けるものが画家をそう描かせる、のであり、また手に取った筆や手掛けた素材が、そのようなものを描かせ、作らせる。自分だけではない何かとの相乗によって、作者になる。「自分勝手にやっているのではないのだ」と言う。第一線として作り続けてきた結果、自己の作為をそうせしむる、より大きな何かを感じ取ったのだろうか。

こういうスタンス自体が、雪舟の時代である近代的自我以前に戻るというより、ポスト近代的自我、とでも言いたくなる。自我は、まずは克明に洗い出されなければならないものであり、同時に超えていくべきもの?ちなみに李は雪舟の絵を、あるいはかの時代そのものを、「初々しい」と表現していた。その言葉の背景を直ぐには理解できなかった。でも、少し時間が経ってあえて言うなら、厳然たる作為、確たる主体性の類いとは真逆の、とびっきり鋭敏な受容力による作為を「初々しい」と言っているのではないか。このような心のあり方を求めて、李は日本にやってきたのではないか?あぶり出される哲学の類いに、次世代を感じた。

2020. 11. 1

第189(日)鉄:彫刻家:中西秀明-1(物心集)

建築を通して、モノづくりに関わってきた中で、ふと気づいたことがあります。技術というのは、素材に対して共通にあるもの、という風に捉えがちですが、もう少し細分化していているということです。例えば、木の加工、というと、家の構造フレーム=軸組、そして床や壁を作るのは大工さんですが、木の建具を作るのは建具屋さんですし、木の家具を作るのは家具屋さん、と分かれていて、それぞれ微妙に、持っている道具が、その技術が異なります。同じ木を加工する職人さんたちではありますが、単純化して言えば、作るものの大きさが異なるから、木の種類から異なり(木材は、例えば同じ杉材を用いるにしても、その杢目の細かさや節の有無等、産地含めて別物)、加工の方法や工法も異なっていきます。家具や建具の職人さん達は、かつては「指物大工」と呼ばれていました。指物とは、彫り込んで、ほぞ差しする接合方法による造作物です。そのように、素材単位で、技術(職人さん)が特定されるのではなく、その素材でなにを作るかで、最終的に技術が分かれていく、というのが、あらゆる技術の到達点になっているということです。家一軒を作るのに、左官屋、基礎屋、屋根屋、サッシ屋、電気屋、水道屋・・もっと沢山の職人さん、素材の数より数倍の職人さん達が関わって出来るわけですが、にもかかわらず、それぞれの職人さんたちを十把一絡げに「大工さん」と呼ぶ一般の方が結構沢山おられます。つまりは、知るということは、どんどん、これらの差異が、判明していくということです。細分化された技術網をほどいていけば、もっと面白い世界が潜んで居るぞ、ということでもあります。

福岡市の新宮町に、ART STUDIO NAKANISHI という工場があります。鉄の彫刻家、中西秀明さんの工場です。戦後の九州を代表してきた鉄の彫刻家、父中西久吉さんから引き継がれてきた工場です。建築設計をする者が普段に見聞きする鉄といえば、構造体としての鉄です。Hとか、コラムとか言われる形鋼をざくっと切って、15~20㍉幅などで溶接して、超音波試験で構造的な欠陥がないか確認して、その後鈍紅色の錆止め塗装を塗って出荷待ち、という風景です。ですがここには、そういうスケールの鉄はありません。紅色の形鋼もありません。布膜が掛けられた物体をめくると、様々なオブジェが隠されています。木の切り株の欠損した部分に鉄の造形が象嵌されているもの、番線の結び目が堆積したもの、えぐられた鉄、編まれた鉄、叩かれた鉄、溶け出した鉄、錆び錆びた鉄・・。鉄の彫刻家ですから、建築生産システムとして、ルーティーン化された鉄骨工場の風景とは、まるで異なります。加工製品である形鋼、ではなく鉄そのもの、あたかも鉄の元素に向かって、人間が飽くなき挑戦を試みている、そういう格闘の場のようです。中西さんは、「元素との対話」と言われました。

私が中西さんに出会ったのは、独立直前の1999年の仕事に「現代っ子ミュージアム」という宮崎市にある小さな木造ギャラリーをさせてもらった時に、施主さんの自宅の玄関取手が、当にお父さんの中西久吉さんの作品だったことに因ります。建具の引き手は、普通に接している限りの殆どは既製品の世界ですが、そうでない一品生産品には、独自の存在感が宿ります。その一本から辿り、この工場に行き着いた、ということになります。そこには、そんな取り手とは比較にならない奥深く壮大な鉄の創作物の数々と、そしてそれらを作り続ける親子が、工場脇の薄暗い応接間で待ち構えていました。

美術館などに納められる彫刻作品の類いを発注するには、相応の条件が必要ですが、彼等の鉄に対する深い思いの一端を建築の一部に投げ込むことならばできそうでした。彫刻家の彼等にとっては、間違いなく肩慣らし程度の仕事にしかならないかもしれませんが、建築側にとっては、とても重要な要素になります。それほどまでに建築は、個人の技能が応用されにくい産物になっているからです。彼等の仕事のメインは言うまでも無く、彫刻制作でありますが、それでも、建築という道具的側面に彼等の鉄が参画される、ここが大事な接点かと思います。鉄は建築の中では日常的な素材ではあるものの、個人の技能はいつの間にか、生産ラインから外れてしまっているわけです。知らぬ間に接点がなくなったところを繋ぐためには、意図的でなければなりません。彼等にとっては美術館で展示するファインアート的なものからの世界から、建具の取っ手という応用芸術の領域にまで、敢えて言えば「下る作業」です。その下る作業を、独立したばかりの何物でも無い建築者が、生意気にお願いしたのでした。当にそれらを、彼等は待ち構えていたのです。

2020/10/26工場再訪。廻りに住宅が建ち並んでしまい、中西さん達は、大きな音の出る加工がしにくくなったという。元々は市街化調整区域だったのが、緩和され、このようなことに。

建築は、あいかわらず、生産システムとしての成熟へと向かっています。わかりやすく言うと省力化です。それがいいか悪いか、便利益、便利害の判別というよりも、省力化の一途なのであれば、そうではない建築のあり方も探求すべき、のバランス感覚は、当然の帰結です。中西さんの鉄は、建築生産における重要なオルタナティブです。省力化が必ず捨象する、「人間が作っている」部分を補う何者か。建築のどこかにあることで、建築に何かが吹き込まれる。人間が鉄という元素と対話しようとして生まれた物体が、場に生気のようなものを与える。世の中に省力化が徹底いけばいくほど、このあたりの暗黙知的な価値が、必ず反動として見直される。人間の世界ですから、そのようなバランス調整が必ず発生するのだろうと思います。

2020. 8. 2

第188(日)不便益

石堰(二ッ川堰/柳川市/江戸時代):ある一定の流量以上になると堰が決壊して流れを促す。また石を積み直して、復元。その時の費用は必要だが、現代の可動堰に比べると、平時のランニングコストが0円。実は賢い?

誰よりも早く寝入ってしまって、目が覚めると午前1時。仕方がなく、徐にTVの前に座っていると、ヘウレーカという番組に出くわす。そこで、目も覚めるようなおもしろい研究者が現れる。「不便益=不便が生み出す利益」の言葉。例えば、広いワンフロアで業務する大手IT会社の机のレイアウトを、動線的に迂回しなければならないようなジグザグの配置をしたところ、確かに目的の場所との往来は非合理な動線になるが、社員同士のコミュニケーションが十数パーセント増した、という話し。あるいは、分量や手順が定められていない、素材のみが与えられた、だし巻き卵のレシピを実践すると、答えに行く着くまでに時間がかかるけど、そこからいろんな原理や発見が導き出されるという風景。
これらの考えを導く川上浩司教授が、なぜこの「不便益」に至ったかも興味深い。それまでは教授はAI=人工知能を研究していた。AIは、基本的に人間がしなけれならない判断=仕事、を機械がどれだけ担えるか、という追求になるが、モノ(機械)と人間の関係は、果たしてそれだけだろうか?機械が人間の仕事を代替する=人間の省力化を担う一方の関係しかないのだろうか?の疑問が生まれる。モノが人間に便利をもたらすという以上に、人間の成長を促すためには、当面の不便を強いながらも、より広い視野での人間の利益をもたらすような関係性もあるのではないか?
その概念をより明確に浮き彫りにするために、2行2列のマトリクスが掲げられる。そもそも不便益という聞き慣れない概念の背中には、「便利害」がある。さらに、この関係の対称軸には、不便害と便利益がある。このテロップが出てきた時に、とうとうやられたと思った。
この、便利益を求め、と不便害を退ける性向は、現行の人間の、いや人間の、動物の、揺るぎない自己保存原理だから、説明の必要がない。残る、不便益と便利害の対を行き来することによって、「不便益」が浮き彫りになっていくというのである。

以下は不便益システム研究所のホームページに乗っていた一例
「富士山の頂上に登るのは大変だろうと,富士山の頂上までエレベーターを作ったら,どうでしょう.よけいなお世話というより,山登りの本来の意味がなくなります.」
山登りの本来の意味はなにか、ということを改めて何処まで言わなくてはいけないか、ということになるが、あえて言葉にして言えば、苦労して上ったからこそ、ご来迎や、その他の風景が、とても感慨深いわけで、機械が自分を運んでくれた暁に、同じ風景があったとしても、同じ受け止め方はできないのではないか、というようなことは、これ以上の説明なしに、誰でも想像ができる。だから、各地にある、景勝地のロープウェイを見て、なにか言葉に表せぬ違和感というか残念感があるのは、この富士山の話の縮小実践バージョンなのだと考えると、はっきりしてくる。

もう一つ、このサイトから、決定句を引き出すと以下。
「便利の押しつけが,人から生活する事や成長する事を奪ってはいけない」

僕が、2011年に思いつき、見つけ出した「センシブル」(センシブルハウス全7(日))という言葉。当時スマートという語が、接頭語になり、あらゆる物事の理想を指し示し始めたころ、このスマートが、怪しいのではと何となく思いかけていた。言語学的には、対義語でない「センシブル」(分別のある・良識のある)を概念として対義語、つまりスマート一辺倒の対概念=警鐘語に無理矢理仕立て、近くの人たちに通り魔的に呼びかけていた次期があった。スマートなのはモノであって、そういうもので囲まれた人間はアグリーになるのではないか?と、その危機感は決して変わらず、むしろより深く確信を深めてはきたのだが、いかんせん、共感者、というか、同期者が見当たらなかった。この日の深夜の目覚めは、10数年来、出会うことのできなかった同胞者に出くわしたという、只の目覚めでは片付けられない大きな収穫の類いであった。

川上教授は、20年も前から、この研究をされているとのこと。同朋者というより、明らかに先んじている。僕は、あくまで建築設計者であるから、建築を通して、不便益を追求するしかないのだが、考えてみると、建築は、人間が作る道具の質量共に大きな産物であるし、文化という、それこそ当面の利益では説明できないものを含んでいるから、「不便益」なる概念とは、本当は相性のいいものであるはずである。だからこそ、センシブルの語を懐で暖めていたのだが、そこに「不便益」という、体裁もなにものない日本語の造語が、しかも研究所の類いを背景に暖められていたことに、素直に感服した。
各論のことは、言い出すときりがないし、その各論を作っていく役目だと思うから、また改めて別項を設けたい。(設けられるように励みたい)

2019. 8. 18

第187(日)木造三階建を愉しむ

今年のお盆休みは、お盆の期間は工事が予定されていたため、暦通りの土日祝を狙う。休みは、計画的に何ヶ月も前に行き先を抑えておくような性格とはまるで逆で、よし行こうと前日に思いついて、そこから、空いている所を探す。案の定、世間に知られるめぼしいところは、そんな直前にウェルカムを唄っていないから、こちらも腰を低くして、ひたすら検索する。

すると日田の豆田町のど真ん中に、気になる宿を発見。木造3階建ての三階の一室が、ポツンと空いている。じゃらんか、るるぶ、か忘れたが、其所に載っている小さな写真から察するに、リノベを経たブランニューな「古民家ステイー」ではなく、元々の原型のままの、古い木造が密やかに世間に開いていたのである。木造三階の宿だから、基準法施行(昭和25年)以前、かつ、戦前あたりから続く宿であることは想像するも、どうして、そんな希有な場所が、お盆の繁忙期の前日まで空いているのだろうと、そのページをいったりきたりしながら、しばらく様子をうかがった。半日ほど、優柔不断な偵察状態が続き、その自分に嫌気がさして、エイやとクリックした。

 

日田は後に宿の亭主から伺って判ったが、湯布院や九重、別府の宿泊客の通過交通的拠点であり、また、皆さん、盆地で暑い、というのがなんとなく定説となってしまい、このような真夏には、殺到する場所ではないとのこと。(+韓国問題)でも「木造三階」の掘り出し物に惹かれ、また我が家のお盆の墓参りの流れからしても好都合であったため、そのまま、小旅行の宿にフィットした。つつがなくたどり着いた鼻に現れた手前のファサードには、後世に立て替えた現代木造+アルミサッシの2階建てが立ちはだかっていて、「木造三階」の歴史的様相はなかった。カウンターのない、「帳場」と掲げられた部屋から出てきた亭主とやり取りの後、奥に進むと、ある瞬間=急峻な階段から、あ、ここから古い木造だ、と判る。蹴上げ、踏面共に210㍉。つまり45°。40°ぐらいまでは快適限界ということを考えると、このような旅館としては、案外、45°でも厳しいのだな、と体感。基準法の限界は蹴上げ230以下、踏面150以上の56.9°だから、これはやはりこういう場所での階段寸法ではないことも実感。

さて、この厳しい階段を2層分上がり、廊下の空気が益々暑くなっていくのを感じながら、途中途中の木造の造作に見とれる。確かにこれが昭和10年の木造なのだと噛みしめる。たどり着いた楼閣の最上階は、やはり掲載写真に嘘偽りなく、いやそれ以上に、豆田町とその背景の山並みを想像以上に一望できる殿様的な空間であった。高々3階建てなのだが、豆田町が2004年に伝統的建造物保存地区になっていて、町並みとして低く抑えられているのと、そもそも、この旅館の三階建てが、階高=3900㍉あり、4階建ての高さに近い3階となっている。さらに言うと、部屋は畳部分は8畳+6畳なのだが、畳の寸法は1900×970の京間、其所に1720幅の広縁がL字で回っていて、天井高さは2990。プリントでない天井板も清々しい。現在の住宅として伝わっている木造のスケールとは異なる寸法体系が奏功し、旅館としての非日常を今も変わらずに発している。

現代木造からの(いい意味での)時代のズレ感が愉しい箇所は、いくつもある。ガラスのファサードを見やれば、言うまでもなく、建具も木製、柱がそのまま建具枠、というシンプルな構成。歴史木造の常だとわかってはいても、現代の木造の建具納めからすると、やはりうなってしまう。木造三階建てである。上層階は土庇を構成できないので、風雨の影響は少なからず。柱の戸当たり面に10㍉角の雨返し材(=防寒じゃくり)を付けただけで木製建具の密閉性を確保?しようとしつつ、柱は当然のことながら内外一つの無垢材であるから、屋外にさらけ出された面から時間の経過分、柱は風雨による減耗=浮造りが進んでいる。現代木造からすれば、あっけらかんとした部材の用い方。

桁下〜床レベル=2375の中に3段の引き違い戸のストライプで構成されているガラスファサードも見飽きない。よくよく見ると最下段のh780の建具も、上段と同じ引き違い戸になっている。地上階ならなんの不思議もないが、2階も3階も、ここを引き開けるなら、落ちてください、の開口部になる。今、新に設計するなら、桟のデザインは変えないにしても、安全を優先して、はめ殺しにするところ。なぜ、ここを開け閉めできる建具にしたのか、という理由がとても気になり、あれこれ考える。建築とは、柱梁を大工が作って、壁は、建具屋が障子(塞ぐものという原義)をはめるか左官が塗り篭めるもの、という構法原理を崩したくなかった、か、子供が間違って落ちる、などということに建築側の責任が負われていなかったか。さらに言えば、網戸も一切ない(付いていた痕跡もない)。いずれにしても、時代の差、その時代の社会的な常識の差ということになるだろうか。

とにかく、時代のズレ、を読み取るのが面白い。個人的な判断や趣向ではなく、その時のその時代が許した、もしくは賛同したデザインと捉えると、そのデザインそのものから、安全性、耐用年数、音や光、空気の環境性能等に関わり、その時の社会が標準としていた指標のようなものが見えてくる。その時代の建築が残っていて、そこに宿泊できるということが、こんなに豊かにこれらの情報を引き出してくれる。オリジナルが何らかのカタチで継承されている宿は、宿泊者をもれなく一晩、歴史家にしてくれる可能性を持っているように思う。

 

「木造三階 旅館」で検索すると、いくつか見知った名前が挙がる中、この「若の屋」は見当たらない。そういった、カテゴリーにおける有名どころにはなりきっていない。理由は様々あろうが、一つ明確なのは、アイコンとなるファサードがないことがあるだろう。街並みのスキマから、辛うじてこの三階の楼を垣間見ることができるだけ。これはこれで街並み側からすれば愉しい風景だが、旅館からすれば、人々をここまで呼び寄せる風景にはなりえていないのだ。やはり建築は、正面から堂々と仰ぎ見ることのできる外観も大事ということに気づく。そして、繰り返しになるが、まるでお殿様になったような眺望、絶景は、何十階もの高層でなくとも、高々3階建てで可能なのだ、ということにも気づかされた。他が低ければ、それでいいのだ。皆が高望みをするから、より高層を競い、互いに総倒れになっていく現代都市にはない価値、あるいは社会スピードの価値基準、センシブルな営みのようなものが、地方には潜在している。

2019. 6. 23

第186(日)杢目に魅せられる

10数年以上前に、なにかを作ろうとして材木屋から仕入れた杉板25t×230wを、いよいよ在庫整理のために、用いて工作を思い立った。折しも、我が子供達が義務教育のステップに次々に算入してくることを考え、機能主義的にやはり本棚が良かろうとなった。彼らには家庭の事情があって、各人の個室がない。その見込みも立っていない。そのかわりに、各人専用のユニット本棚=355h×250w×230dを与えてあげよう。正確には、「これで当面勘弁して」という父親からのエクスキューズ。母親が手作りの料理でもって子に愛を施すのと同じように、イクメン脱落の父親が、辛うじて出来るコミュニケーション手段。

その薄汚れた杉板は、セオリー通り全て木表側に反っていて、そのままでは、家具の類いには使えない状態だった。まずは、電機カンナで厚みを減じながら、反った部分を削り落とす。なんとか水平な板へ近づけた後は、円形のオービタルサンダーでその表面を整える。すると、みるみる内に、美しい杢目が浮き出てくる。当たり前のことではあるが、木とは、状況が悪くなれば相応に肌合いも中身も変質=腐朽していくが、表面を削り取ると、再び新しい美しい面が蘇る。わかりきったこと、ただそれだけなのだが、改めて自然木というのは清々しい、と感じ入った。(歳取ったかな)

なぜにこの木理がこれほどに人を魅了するのか。杢目という潜在的な自然美に対して、蛇足かもしれないが、うんちくをつけたい。(≠うんちをくっつけたい)それは、微妙な間隔を持って微妙にひずみながら流れる年輪線=杢目と、其所に穿たれている節、の基本的な構成は同じくしつつも、一枚一枚、いや、只の一枚を見通しても何処として同じ箇所がなく、刻々と変化している、ということがこともなげに出来ている。つまるところここではないか。杉であれば、柔らかい肌合いであるとか、色合いである、という感覚的な魅力は言うまでもないこと。でもこれだけであったなら、差異の概念がないから、見続ける者からすれば、飽きる可能性がある。もう少しだけ、深く、論理的に言うならば、「連続的に変化する、微妙な差異」「(物体ではなく)物質として個々の唯一性」というようなことではどうだろう。自然素材を言葉として捉えるならば、ここへ肉薄する人工的な素材をどのように捉え、扱えばよいか、分別や知恵が生まれるかもしれない。

例えば、集成材は、基本的に自然木で構成されているが、存在目的が物質としての安定性であるから、当然のことながら、木材の本来的な不均質さ=連続的に変化する差異の類いは消さなければならない。人間に例えると整形美、などと例えると物議をかもすか?いずれにしても、エンジニアリングウッド=木質材料と、木材=一般製材の境界は、どうやらそこにありそうだ。あるいは、プリント合板や、杢目シートの類いにおいては、最近のものは、かなりパターンの法則性がわかりにくくなっていて、高度な酷似技術を持っている。遠目には、印刷であるとは気づきにくいから、一見さんには良いのかもしれない。(本物の振りをするという倫理性の問題は別として)一方、それを、ある人が、ある一定時間、ある一定量見続けた結果、変化の底を見てしまう=飽きる、ということになれば、やはり、人間が作ったパターン付けと、自然の造化(第172(日))によるものとの境界がそこにあるということになるだろうか。

人工素材の開発や、もしくは自然素材の工業化のプロセスの中で、作り手(人間)は、受け手(人間)の感受性のある種を不問にすることによって、製品を成り立たせている。素材開発、いや建材開発は、いわば人間が何を何処まで感じることができるのかの人間学の探索そのものだと思う。そこには、捨象されてきたものを捨てきって良いかという疑問まで捨ててよいか、というジレンマが残る。