2019. 6. 23

第186(日)杢目に魅せられる

10数年以上前に、なにかを作ろうとして材木屋から仕入れた杉板25t×230wを、いよいよ在庫整理のために、用いて工作を思い立った。折しも、我が子供達が義務教育のステップに次々に算入してくることを考え、機能主義的にやはり本棚が良かろうとなった。彼らには家庭の事情があって、各人の個室がない。その見込みも立っていない。そのかわりに、各人専用のユニット本棚=355h×250w×230dを与えてあげよう。正確には、「これで当面勘弁して」という父親からのエクスキューズ。母親が手作りの料理でもって子に愛を施すのと同じように、イクメン脱落の父親が、辛うじて出来るコミュニケーション手段。

その薄汚れた杉板は、セオリー通り全て木表側に反っていて、そのままでは、家具の類いには使えない状態だった。まずは、電機カンナで厚みを減じながら、反った部分を削り落とす。なんとか水平な板へ近づけた後は、円形のオービタルサンダーでその表面を整える。すると、みるみる内に、美しい杢目が浮き出てくる。当たり前のことではあるが、木とは、状況が悪くなれば相応に肌合いも中身も変質=腐朽していくが、表面を削り取ると、再び新しい美しい面が蘇る。わかりきったこと、ただそれだけなのだが、改めて自然木というのは清々しい、と感じ入った。(歳取ったかな)

なぜにこの木理がこれほどに人を魅了するのか。杢目という潜在的な自然美に対して、蛇足かもしれないが、うんちくをつけたい。(≠うんちをくっつけたい)それは、微妙な間隔を持って微妙にひずみながら流れる年輪線=杢目と、其所に穿たれている節、の基本的な構成は同じくしつつも、一枚一枚、いや、只の一枚を見通しても何処として同じ箇所がなく、刻々と変化している、ということがこともなげに出来ている。つまるところここではないか。杉であれば、柔らかい肌合いであるとか、色合いである、という感覚的な魅力は言うまでもないこと。でもこれだけであったなら、差異の概念がないから、見続ける者からすれば、飽きる可能性がある。もう少しだけ、深く、論理的に言うならば、「連続的に変化する、微妙な差異」「(物体ではなく)物質として個々の唯一性」というようなことではどうだろう。自然素材を言葉として捉えるならば、ここへ肉薄する人工的な素材をどのように捉え、扱えばよいか、分別や知恵が生まれるかもしれない。

例えば、集成材は、基本的に自然木で構成されているが、存在目的が物質としての安定性であるから、当然のことながら、木材の本来的な不均質さ=連続的に変化する差異の類いは消さなければならない。人間に例えると整形美、などと例えると物議をかもすか?いずれにしても、エンジニアリングウッド=木質材料と、木材=一般製材の境界は、どうやらそこにありそうだ。あるいは、プリント合板や、杢目シートの類いにおいては、最近のものは、かなりパターンの法則性がわかりにくくなっていて、高度な酷似技術を持っている。遠目には、印刷であるとは気づきにくいから、一見さんには良いのかもしれない。(本物の振りをするという倫理性の問題は別として)一方、それを、ある人が、ある一定時間、ある一定量見続けた結果、変化の底を見てしまう=飽きる、ということになれば、やはり、人間が作ったパターン付けと、自然の造化(第172(日))によるものとの境界がそこにあるということになるだろうか。

人工素材の開発や、もしくは自然素材の工業化のプロセスの中で、作り手(人間)は、受け手(人間)の感受性のある種を不問にすることによって、製品を成り立たせている。素材開発、いや建材開発は、いわば人間が何を何処まで感じることができるのかの人間学の探索そのものだと思う。そこには、捨象されてきたものを捨てきって良いかという疑問まで捨ててよいか、というジレンマが残る。

 

2019. 1. 6

第185(日)金銀銅鉄

この日は、92才のご高齢の某建設業会長を連れまわす役の3時間。車の中で、なにかの雑談の表紙に、人生の出世の話しに。

「人間もやっぱり金銀銅鉄なんですよね」

「確かに私も建設業ですから、材料の話しは常日頃してますが、どういうことでしょうか」

と禅問答を返した。

「いや、けっきょく、鉄が銅、銀が金に変わっていくことはないんだよね、どんなに努力しても社長になれない人はなれない、もってうまれたものがある人は、するするする、ってなっていく。努力している人には本当に申し訳ない話しなんだけど。」

・・・そうなんですね。と切り返すしかない。今年ど真ん中フィフティーの聞き手も、従軍し戦後の闇市行商から起ち上げ、現在従業員100名前後になる建設業を興した92才の発言と背景を、そう易々と反論することはできなかった。

いろんな人間を、すぐに想像した。肉親や、事務所のスタッフや、独立していった者や、大学の学生や、友人知人、そして、我が身。他人のことは、本来的にわかりやすいものだが、我が身のことだって、そろそろ解り始めようという矢先だった。

いろいろ考えた上で、たぶん、間違いない。社会、会社を見渡す一個人の生涯を通した統計学として、そうだったのだから、たぶん、そうなのだ。鉄が磨かれて光沢を得ることはありえても、鉄が価値ある異質へステップアップすることは、ありえない。

ただ、この金言にだって、読み替えや読み解きの余地があるのではないか。語弊を怖れずに言うなら、人間の進化には上記の材料学の例えに収まらないものがあると私自身は感じる。鉄はどうあがいたって鉄でしかない、ということは冷静な科学だが、人間には精神という科学だけでは解きにくいものが備わっている。自らのなにがしかの精神を育みながら生きている。それまでがステップアップすることはない、というのなら、生まれて苦労して死んでいくプログラムの意義自体が疑わしくなる。そんな人間をなぜ作ったと神様にクレームを言いたくなる。なにより、生きていて面白くない。

何をもって、鉄が銅になるのか。ここでいう人間の進化とは少なくとも生物学的なものではなく、むしろ他の動物には持ち得ない人間独自の部分の進化、のこと。そういう根深い部分の成長が進むと、その人自身の某かの能力が発揮され、役割が与えられ、結果、人様に寄与するようになる。世間にわかりやすく顕れるより手前のこと、ここに鉄が銅になる、に比喩されるべき根源的な成長が関係している。鉄が銅になり、それが磨かれる環境が与えられる。ピカピカに磨かれた銅が、次は銀を目指す。

とはいえ、生まれて、学歴を重ねて、就職して、働いて、家族を育てて、死んで、ということの節々に、普通に目標を立てて努力して人生を全うしていっても、鉄が銅になるかというと、それはない。と某会長はこの人の世を見通したのではないか。

とあるお坊さんから、昔、「努力の仕方が大事なんです」と伺った。人間の大事な部分が成長するには、そうなんだ、と思った。そして、たぶん、ライフワーク=一生かかることなのだ。一生が終わる時に、その成長が世間に顕れるかどうか、というぐらいに、根源的なるものの進化は、ゆっくりで見えないものなのかもしれない。自分でもしているかしていないか判らない成長だから、せめて、この努力が成長に寄与しているかどうかを、常に自己診断していくしかない。

槇原敬之の曲「世界に一つだけの花」

一人一人違う種を持つ

その花を咲かせることだけに

一生懸命になればいい

がサビとして深層を奏でる。もしかしたらこれこそが、鉄が銅になる秘訣なのか。でも案外できないから、歌として身に染みて涙を流すことになる。歌詞全体が言っているように、その時の世間一般の指標、価値判断に合わせようとしてしまう。本来的な向き不向きがあるのに、適合させようとして、うまくいかなくなる。

一方で、社会の価値基準に合わせなければならないことも沢山ある。只の非常識人が花を咲かせても、他人にとっては迷惑だろう。なにを合わせて、なにを合わせなくていいと考えるか。ここの分別が、一人一人それぞれに必要なのだ。こここそが、「努力の仕方」の標的なのではないか。

本来的な向き不向きを心から自覚した上で、これは、この人生の中で越えるのはやめておこう、これはトライしよう、という分別をする。そして、乗り越えようと決めた事に対して、「一所」懸命に努力する。自分の花を咲かせる、というのは、自分の向いていることだけ、自然と手が伸びるものだけを気持ちよくしていて、達成できる、というのはむしろ希であるかもしれない。やはり、小さな不向きを伴う環境を受け入れ、取り込み、そこを越えたときに、始めて鉄は銅になる。そのことができる人にとってはたいしたことではないことも、そのことが不向きな人にとっては、とても大変なことである。不向きな人がそれを乗り越えて出来るようになった時、根源的な成長が起こる。(それが本来出来る人が、それを続けてしていても、その人自身は極論成長してはいない。)他人にとっては、気づかないような些細なことも、当人にとっては、鉄が銅にステップするほどのハードルであり、成長の機会なのだ。

鉄骨造の「鉄」は銅板葺きの「銅」になることは絶対ないが、人間の人間たる深奥では、鉄が銅に成り変わるような成長、(進化というと大げさか)将棋の駒が裏返るようなことは、起こりうると思う。否、より小さくはより起こりうる。それは得てして、華々しくない。がなんとなく、廻りの人々、関わっている人々が幸せになってくる。そのために、自分にとって苦手な跳び箱はなんであるかを自覚して、よしこれは乗り越えよう、と心に決めて努力する。努力の矛先を定める=努力の仕方を工夫する。小さくても乗り越えることができれば、実に愉しいから、次の跳び箱を探すことになる。

2018. 11. 11

第184(日)農山漁村の建築-1(篠山)

久しく海を越える旅をご無沙汰しているが、今年は、お盆の小値賀島に続き、秋の入り口に、日本の辺境を尋ねるもう一つの機会を経た。兵庫県篠山市。古民家再生に興味のある人であれば、NOTEの業績を知り、この地を尋ねることになる。既に彼らにとってはメッカ的聖地であり、また国策としての日本の歴史的建造物活用の先導を担い、政府は元より日本中からの視察の絶えない地。

集落丸山、という名の宿泊所。価格帯はリゾートホテルや、温泉旅館の類いの良い分類になるが、スタイルとして、ホテルとも旅館ともいうことができず、ましてや、民宿やゲストハウス、という庶民的な類いとも言えないから、宿泊所というしかない。

この日は、残念ながら、台風がまたもや近畿を通過しそうだということになり、1ヶ月前に確保した宿泊の予約をやむなくキャンセルし、日帰りとなる。ここまで来てという感じもするが、自然の成り行きにいろいろな感情を抱いても仕方が無い。道脇のコスモスが慎ましく出迎えてくれて「集落」の様相をますます醸し出している。何も知らないでこの地を訪れるなら、ここが新しいもう一つのリゾートホテルであることに気づくことはないだろう。外観上、視覚的には古き良き日常的な里山の風景があるだけだ。

辛うじて、長靴を履いた集落の人が、「こんにちは」と愛想良くあちらから声を掛けてくる。後から伺って気づいたが、ここは住人がそのままホテルの接客スタッフなのだ。本当なら蝶ネクタイはしていないにしても制服の某かをまとい、お荷物をお預かりします、という形式があるはずだが、ここは違う。里山で仕事をする恰好で出迎えるのが、彼らにとっての最上のサービスなのだ。考えてみれば、少なからずの宿泊費を払えば、かならず、何時もの形式的なサービスを受けるのを、暗黙の了解、というか、期待をしている。なんとなく自分が客として大事にされている気がしている。ここは、そういう期待する、期待されるの常識を、最初から疑うことによって、成立することができたホテルだ。

かつて江戸時代に篠山城主より賜った水源管理の役目を果たしてきた集落であるから、奥の水源地は元より、そこからの清流を含めた風景は確かに日本のふるさとと呼びたくなる。しかし、その風景をひとたび残したいと思った時、宿泊サービスを営み、来訪者を受け入れようと思ったとき、旅館とかホテルというひとつの完成された形式を一掃する勇気のようなものが不可欠だった。美しいからということだけでは、収益プログラムを組み立てることは、当然のことながら難しかった。新しいビジネスモデルを創り出さねば、今日はなかった。

未だに、ホテル運営を努める地元スタッフからは、本当にこんなことで、お金もらっていいのかね?となるらしい。それほどまでに、日本の観光地は、退屈になってきたのだ。提供する側も、される側も、予想されるものがあって、その枠内で繰り広げられるクオリティーの中で、善し悪しの競い合いをするしかなくなっている。古民家の風景を残したい、という素朴な意思によって、このマンネリ化したやり取りに疑いがかかり、そして結果新しいスタイルが生まれる。古い器に併せて、サービスが刷新される。サービスにしたがって、設計されるのではない。建築者にとってはここが却って面白い、と映る。

もう一つ、気づいた。都市に建つ事業用建築は、スタートとゴールがお金だとすると、地域に残された建築が事業として運用されるのは、(手段としてお金が必要となるが、)スタートとゴールは、あくまで建築、あるいは風景だということ。普通は、金銭的利益を計算して初期投資をして、手段として建築が存在する、もちろん疑う必要のない、人間の営為。一方、伝えていきたい建築や風景がもし僻地の類いにあったなら、お金は最終的にはつじつまをあわせなければならないものの、その手前に、建築風景への純粋な愛情と、運営上の勇気が前提になる。だからやはり、首謀者のマインドセットとしては、異なっているのだ。都市に現代建築を作るということと、地方の古民家を用いることの心理的両立がうまく出来ないでいたのだが、NOTEの藤原社長の熱い思いと手法を伺いながら、それら両方を両立させることの意義を確信することができた。

この日は、集落内の「ひわの蔵」という蔵を改修したレストランで最高のフレンチを頂いた。列車の都合で、19:00には現地を絶つことになり、デザートをいただくことができなかったが、こんなところに、こんなクオリティーの食事が出来る、という現代の里山を堪能することができた。(ワイン付きで1.5万円/人)このような新しいスタイルが創造された背景は、残念ながら建築デザイン力ではなかった。古民家に分け入るのであれば、もはや、デザインだけしていても仕方がない。デザインの幅は自ずと拡がらざるおえない。

2018. 9. 9

第183(日)技術のデザイン-5(クラゲスツール)

IKEAのALSEDA。なんとも高さの曖昧な、たぶんそれが面白くて、宛てもなく衝動買いをしていた。その後、どの生活のシチュエーションにもフィットすることなく、屋根裏行きとなっていた。暑い季節になって、バナナ繊維の座面が気持ちよさそうに思い起こされ、仕事用の椅子として使ってみようと思いたった。背もたれはないが、背筋を鍛えるのだと諦め、この不思議な厚みの座椅子に脚を付けた。

脚材はこれまたホームセンターなどで売っている竹製の伸縮フェンスの竹部分。フェンスをゴミ箱に改修した時に分解して出たφ12前後の細竹。ALSEDAはビニールコーティングされた鉄網を心材にして形作られていて、その既存フレームを頼りに竹材をプラスチック結束バンドで結びつける。竹を用いると、ビスとかなんとかは効きづらいので、自ずからこういう接合になる。

行けるかもと頭で描いていたイメージが、実際にそのとおりになると、発想〜製作作業は俄然愉しくなる。竹材は斜めに拡がるように取り付けることが出来たので、安定感も良いし、椅子としての強度も得られた。脚の数は蛸と同じ8本。ALSEDAの骨組みの構造に従うとこうなった。それではタコスツール、と行きかけたが、極細の脚とモッタリした頭のカタチから、これはクラゲ以外の何者でもない、と命名神が降りてくる。ひっくり返すと傘の内側が垣間見えて、なんだか気持ち悪いクラゲの懐と益々似るなと思い、バンドの余長は切らずに、野放図なチョビひげをそのまま蓄えた。元の値段4000円の椅子。クラゲのシーズンインと共に、クラゲスツール。

物作りの種類としては、既成の即席ラーメンに、タマゴとかゴマとか海苔とか、あれやこれや足してカスタマイズする類いと同じだろうか。みんな知っているアレ、だがちょっと違う。既製品の完成度を利用して、別の新たなモノを作る。

建築一棟だって、おそらく同じ考えで作ることができるはず。あらゆるリノベーションは、そうではないか、となりそうだが、ちょっと違うだろう。リノベーションには、既存に対して必ずしもポジティブなだけではない。悪いと思うところは大きく切り取る外科手術の側面がある。もう少し既存の完成度に対して全肯定的な付加作業なのだ。みんな知っているアレ、であることも話しとして重要だろう。事例を頭の中から探るが、まずは、石山修武のコルゲート作品だろう。コルゲートの部材がつくりだす既成のR寸法の組み合わせからあの断面形状が生まれて、本来空洞にしかならないところに、工芸レベルの鉄の壁がはめ込められ、下水管は空間になる。この話しに完全一致する。あるいは、坂茂氏のコンテナ美術館や仮設住宅もそうだろうか。紙管による一連の作品は?素材レベルであれば、この技術の醍醐味が呆けそうな気がする。それ以上が、直ぐに思い当たらない。いずれにしても、完成度を借りて新しいものを作るというのは、狭義には成立しにくいものづくりなのかもしれない。

2018. 8. 26

第182(日)小値賀島・野崎島-2

地ノ神島神社(小値賀島)の軸線上に沖ノ神島神社(野崎島)を望む

 

佐世保から五島列島の合間に分け入るようにフェリーが近づいた時に見上げた野崎島の偉容が未だに忘れられない。最初は五島列島の人里乏しい東端だと思っていたが、それは野崎島だった。偉容を感じた理由もなんとなく後でわかった。ここは、遣唐使船の航路に定められた古代の海道だった。野崎島の東端には、704年に当時の律令国家より創建された、沖ノ神島神社が据えられていた。そこは急峻な島の標高200mあたり、人間業を超えた神がかりの石積み=王位石の直下。その神社は海から望むことはできるが、そのまま寄りつくことは難しく、正面から裏側に舟で廻り野崎港から山伝いを歩き2.5時間の行程、現在はガイドを付けないとアプローチできないとのこと。当時の神官は毎日、往復5時間かけてこの社殿を守っていたという。

この神社と鳥居が、対岸の小値賀島の地ノ神島社の鳥居、本殿含めて一本の軸線に配置されていて、その軸線を1300年前、遣唐使船が横切っていた。海上に、聖域として構成された関門のようなもの、もしくは見えない海上曼荼羅のような地理歴史がこのスポットの雰囲気に某かを与えていたと思いたくなる。

この神社を拠り所とする島の歴史は、キリスト教禁教時代=潜伏キリシタンの時代を迎えて、少し変形する。言うまでも無く全島民は沖ノ神島の氏子であったのだが、そこに1800年代になり潜伏キリシタン数名が長崎本土から移住してきた。理由は、潜伏キリシタン弾圧からの逃避は言うまでも無く、本土の人口増大も背景にあったらしく、そこに未開地開拓事業を展開する五島藩の工作によって、野崎島を含む周辺の島々への彼らの移住が促された。これらに天草を含んだ12地域が今年の世界遺産として登録されるに至った。

野崎港 2001年に無人島となった廃屋の風景

当に神道アイランドであった野崎島、その閉じた小さな世界に2家族7名のキリシタンが舞い込んできたのだ。結果どうなったかというと、そのままま神道とキリスト教とが習合することになった。この日本人らしい結末が当に世界遺産として認められた価値の一つなのだろう。そしてその後、明治維新を迎え、しばらくは幕府の禁教体制が継続されるも、1865年に大浦天主堂にて「信徒発見」の契機を経て、世界中からの賞賛とバッシングを受けつつ、その体制自体が弱まっていき、ついに1873に禁教が解かれる。野崎島ではそれまでは木造の教会が用いられていたが、いよいよ公に信仰を続けることができる時代となり、島の17世帯がキビナゴ漁と倹約生活によって資金を蓄え、大工鉄川与助の設計施工により、1908年に煉瓦造の教会を完成させる。その後は、高度成長期を迎えて、島民の一斉離島が進む。

日本土着の神を祀る信仰の島は、キリストの民を迎え入れ、禁教時代を含む200余年を乗り越え、少なからずの時間を共栄してきた。しかしながら、貨幣経済+物質社会という新たな社会の構造には、抗することはままならず、2001年最後の島民であった神官が離島し、あえなく無人島となった。いうまでもなく、高度成長というものが、前社会に対して及ぼしたもののの大きさを物語っている。その事実を伝えるために残ったかのような美しい教会建築。長崎県が作成したその美しいポスターに魅了されて、私自身、この島へ渡ることになった。

建築は使われてナンボ、の大命があるが、この教会は実用を終えて、語り部としての余生を送っていた。結局、伝えられるその中身は建築のことを越えて、人間のことである。決して住むには適さない、美しくも厳しい島に移り住み、ひたすら信仰のために生きる。という人間の意思とはなんだろう?それが今の私たちにとっては最も未開である。容易に「開けない」その最大の要因は、貨幣経済+物質社会に育った思考態度なのだろうか。最も抽象的、観念的な人間の意思としての信仰と、最も具体的、概念的な人間の本能としての経済活動。こういうふうに言葉を捏ねながら旅行をする人はそうはいないかもしれないが、ここに渡る人々は皆、知らぬ間にこの大きな二項対立を跨いでいる。

小値賀島、単に立派な古民家に泊まれることが唯一の魅力なのではなかった。加速的に営まれる経済活動とその合理精神とは異なる世界が、柔らかく背景や外周にあった。移住制度が先か、人間の何かに対する免疫反応が先か、昨今の、農山漁村各地へのIUターン移住というのは、これらの背景の類いを一瞬垣間見る=観光では飽き足らず、其所に住み込むということに踏み込める感性なのだろう。

人間が動物として生存するための経済活動の概念では捕らえきれないなにか。地域主義とか、農山漁村とか、観光、移住、古民家、潜伏キリシタン、の各ワードとして分解されつつも、どれ一つの言葉にも集約されない、単に歴史と片付けるわけにもいかない、人間の本性を巡る旅、野崎島。(長崎県からPR費欲しい)

旧野首教会1908 設計+施工=鉄川与助(長崎県指定有形文化財)