2023. 5. 14

第203(日)日常景観の喪失

日常景観の喪失

20年来、時折通り抜けていた、二股のところの鬱蒼とした小さな森が、突如なくなり始めた。天神と桧原を一直線に結ぶ市道(平和桧原線)、直前まで結婚式場が営まれてた森だった。理由は言うまでもなく、マンション建設。久しぶりに心の底からの憤りのようなものを感じた。そして、この話をしたら、異口同音に皆が尋常ならぬ感情を抱いていたようなので、ちょっとこれは書かざるおえない、と思った。

日常景観の利益、という言葉を思い出した。2002年、東京国立市の大学通りのマンション建設に関わる景観論争、その訴訟の判決文から生まれた概念だった。

「ある地域の住民らが相互理解と結束のもとに一定の自己規制を長期間続けた結果、独自の都市景観が形成され、広く一般社会からも良好な景観と認められて付加価値が生まれた場合には、地権者に法的な景観利益が発生する」(A-3判決)

これは、高さ44mで計画されたマンションが、銀杏や桜並木に合わせて20mに下げるという行政指導の効力を盾に地元の住民たちが景観保護を求めて争った事件である。結局は最高裁までいきつつ、全て原告の敗訴となるが、「日常景観」という概念が生まれ、直後は学問的、社会的な議論を呼び起こした。

(左)グーグルマップで拾った、直前の風景。いざ探すと、自身のアーカイブにも、ネット常にもない。これが「日常景観」 (右)ほぼ全ての木々が切り倒され、奥の隣地マンションがぽっかり姿を現す。

 

いつも通り過ぎる時にこんもりとした小さな森(アーカンジェルという結婚式場として敷地は営まれていた)に、気づかぬうちに癒されていたものが急になくなる、という喪失感と、国立のマンションのように、急に、大きな人工物が立ち上がり、その街並みを台無しにしていくというのとは、上記の判決の上では同じものとしては扱えないらしい。とはいえ、いつもの風景が、いつのまにか、いつものものではなくなると、多くの人々の心に動揺が走るという意味では、明らかに利益を享受していた日常景観と言えるはずである。

「日常景観の利益」の言葉を直接に知ったのは、先の判決文というよりもそれらを起点にした論考、社会経済学の松原隆一郎氏の新聞記事からであった。

「景観には変わると全体が別物になる中心部があり、我々は人生の記憶をそれを頼りに練り上げている。川のせせらぎや海岸線、小学校の校舎などは、平凡ながら多くの人にとってかけがえのない景観であり、急激な改変は多くの人に喪失感をもたらす・・・」2003/4/4 毎日新聞

(アーカンジェルの森は、まさに、変わると風景全体が別物になる中心)

同じ頃、建築史家の藤森照信氏も、建築が存続することの景観的な意味を旺んに、述べていた。日々のめまぐるしい変化の中で人間が健全に生きていく為に、変わらない風景のようなものが必要で、タイムスパンの長い建築はその役割を担っているはすだ、等。それと読み合わせると、松原氏の風景も同様に、ということで理解が進む。

上記記事では、末尾に、「今後景観問題は、この概念を基礎に論じられるべきである」と締めている。つまりは、だれもが認める特別な風景の類ではなく、地域の住民が、気づかない内に拠り所にしている普通の風景の継承を考えていこう、ということである。それから20年経つが、明らかなのは、「日常景観」は社会の規範のかけらにもなっていない、ということ。20年前、この言葉は、経済的利益とは異なる、換金できない価値ある景観の利益が得られるのだから、経済的利益との天秤をかけて、地権者は互いに自己規制に励みなさい、と促したのである。団子より花、的逆行動が、法的には弱いが、裁判所の判決文として注目を集め、一般社会に波及していくイメージがあった。コラムのタイトルも「見直される日常景観」であった。が、アーカンジェルの小さな森の現地権者の振る舞いを見るに、当時の先端的な考え方は、少しも浸透していないことがよくわかる。なにも、当該敷地の地権者だけが不道徳だというつもりもない。戦後から70年以上かけて、こうやって、平和の山は、純然たる木々の生い茂る山から、逐次切り開かれてきた。一方で、全ての地面が、地権者たちの都合のみによって扱い尽くす前に、さすがここはというところには、さすがに、このご時世になり、当事者(地権者)は公共的概念でもって、自制的になれるのではないか、という少しばかりの期待はあった。しかしながら、「さすがにここは」の感覚は、ここでは、微塵も感じられない。

 

高宮〜平和〜大池の丘陵地帯(鴻巣山の東峰)の開発過程4コマ

どんどん、話は大きくなる。エコロジー、ガイア、サスティナブル、脱炭素、SDGs、環境配慮の掛け声が、次々に生まれ出てくるのは、一人一人の人間が如何に変わり得ていないかを顕している。その時々のそれぞれの掛け声で、制度や、技術、商品、は生まれてくるが、本当にそれらは、解決の方向を向いているのだろうか?今の現代人のマインドセットのままで、地球に住み続けることは、相当に難しい、ということを、理屈か、直感か、あるいは誰かの受け売りでも、きっかけはなんでもかまわないから、実感するならば、小さな判断が、状況の改善へ向かうかどうかの二股になっていることに気づく。

アーカンジェルの森(もはや結婚式場アーカンジェルは、地域の日常景観に寄与していた英雄的営みと感じる)の消滅に、一言では表せない違和感を感じる。憤りの類は、おそらく単純に、樹木たちがかわいそうではないか、あるいは単純に私が日々癒されていた森がなくなったではないか、といういわゆる主観に基づく抗議。そしてそれとは別に失望、というべき感覚があって、それは、私たち人間は、やはり生き延びれない、という共倒れの気配である。自然を結局は、自己都合でしか考えない、ということが環境問題の起点であり、かつ決着点である。自然へのデリカシーの類。

人間は皆、今日明日の飯の為になるのはどちらか?で判断するが、そのように動物的であることは仕方がない。しかし、文明の利器を手に持つ賢さと、動物的愚かさとが組み合わさってしまったところが問題なのだから、言うまでもなく踏ん張りどころはそこなのだろう。後者を超える人の数が多勢とならないと、環境問題は、解決の方向を向かないだろう。人間の持続は、自然科学に対する感覚はもちろん、哲学、倫理、道徳(引っくるめて宗教?)を同じ天秤に乗せた経済の感覚(仏教経済学)がないといけないから、だから、本来的に難しい。でも、そこに立てるのも、人間なのである。

自分がアーカンジェルの森に、それらを一掃してマンションを建ててくれという依頼が来たら、どうしよう?。決して頼まれることはない、とわかっていても、そこを勝手に考え続ける。やってはいけないのではないか、と勝手に余計なことを考えながら、自身の仕事を続けていく。実は、そういう日々のバーチャルな葛藤が、結果的には、そのようなことには関わらずに、今日の飯を稼げるようになっているのではないか、などと憶測を張り巡らしている。

2023. 4. 2

第202(日)眺望レクチャー2(家庭料理の会)

眺望レクチャーとしては2回目。に少々力づくでテキスト化。

ことの発端は、平瀬ファミリーから予てより何かご飯の会をしましょう、ついでに頂上の家を見せて欲しい、となり、いろいろと奥様方の検討の末、今回は家庭料理の会、となった。数十年前?、御供所町の長屋にお住まいの佐野ファミリーにお邪魔して、雑煮の会なるものに参加した。各自の出生の地域の雑煮を再現して食べ比べ、という、小さな差異に宿る文化、とそこまで言うかの実は奥深さのある企画。今回は「ふだん自分チで作っている家庭料理を1〜2品持ち寄って」の縛り。細かいこと抜きにして、実にこれが楽しい。あまりにも心地よいのでそれはなぜか、というのを考えるしかなくなる。

メニューはだからそれぞれ自由なのだが、一つだけ、「卵焼き」を設定して観測定点をつくる。2012年に「ささやかな違いを楽しむ会」で桧山タミ先生を講師に迎えて、石臼挽きの小麦か、機械挽きかの違いだけの、梅ヶ枝餅を焼いて食べ比べる、という実験茶会を思い起こした。粉の挽き方の違いがこんなに違うものになるのかの驚きは今でも覚えている。自分は今回卵焼きは食べそびれたが、あの梅ヶ枝餅に近い感覚を得ただろうと、想像する。

 

百枝ファミリーの料理で面白かったのは、「初めてつくった家庭料理」、というここは禅道場かのヒネリの入った一品。初めてつくったものでも家庭料理と言えるか、の命題に、しばし頭を巡らせる。家庭料理とは、多分、そこにある材料でアドホックに作る料理、とも言えるのでは、という一定義がその場で創案された。いやこれは思いの外普遍的ではないか。家庭料理とは確かにそうである。完成形があって、resipiがあって、そのために様々が調達される営業用の料理に対して、家庭料理とは、ストックをいかに切り崩していくか、の逆アプローチのはずである。在るものに口を合わせる、それが家庭料理だ。

自分は大学時代、一人暮らしを始めたころ、ちょっと料理が面白いとハマった時期があった。一人で作って一人で食うサイクルの中で、ある日、天ぷらのネタと粉と油が翌日に持ち越してしまった。朝日を浴びるそれら残材の愛おしさに、一限のドイツ語をブッチして、朝から天丼をこしらえて貪る始末であった。これほどまでに多大なる犠牲を払わなければ、食材は合理的に消化されない?ことを学んだ。

家庭料理、と表向きはほんわりしたとっつきやすいイメージでありながら、ポテトサラダ一つとっても、いぶりがっこが入っていたり、と小さな驚きが咀嚼する口の中で大きくなる。逆に、鶏肉のオレンジ煮は、オレンチの料理だったが、人様がそこにそんなに驚くものかという驚きも発生する。1〜2品の料理をだんどりするだけで、ファミリー数で掛け合わせた数の皿が自動的に出てくる。ご飯一緒に食べようと言う時に、大枚をはたいて、美味しい料理と非日常の空間を味わうのもいいが、その正反対にも別種の愉しみが、確実にある。

一線で活躍する建築家たちに飯の話で終わるのはもったいなかったので、直近の力作を解説してもらった。大学の中でやったり、学生が同席していると、できない質問もできたりして、一味違う。場の性質が会話の方向定めるというポテンシャル。自分は、建築の話は用意していなくて、代打で子供に「プログラミング」の話をしてもらってかろうじて場つなぎした。もったいなかった。

2023. 3. 5

第201(日)内覧会というソーシャルネットワークスペース

 

 

灯明殿の内覧会、計200名近く、2日間にまたがって、来場いただいた。最初にこのプロジェクトの話をいただいたのは、2016年始めだったから、丸7年、設計の内容は様々に変化しながら、ようやく結実して、現前した。少なからずの考えが積み上がっているつもりだったが、来場者の方々からの、感想や評価に新鮮な言葉を発見することも多々。鉄骨造なのだが、内部に入ると木の割合が増える。材料=異素材の絡め方は、自分たちも、様々にエスキースをしながら、言葉を探りながら設計したものだが、それらを吹き飛ばすように、来場者の新たな言葉がやってくる。あるいは、コンクリート床スラブの研ぎ出しについても、そこに気づいた数名の方々とやりとりをした。確信犯的にやってきたつもりではあったが、違う価値を見出してもらったり、技術的なおさらいをしたりと、自分たちの意識に別の視点が上塗りされていく。

これら細部は本題にしない。建築という出来上がりのモノを介して、生の声の意見交換が行われる。建築が言葉によって練り合わせられる場、というのであれば、紙面上で、SNS上で、コンペ会場で、公演会場で、といくらでもある。しかしとりわけ現物の中で、まさにそこを指差し、触りながら、執り行われる意見交換が、単純に楽しいと思った。内覧会、いわゆるオープンハウスの意味に改めて感じ入った。

一つ反省があるとすれば、建物の説明を等しく来場のみなさんに、お話することができなかったこと。時間を決めて、スライドプレゼンテーションを差し上げるべきか、悩んだ。でも、それをしても結局、その時間に同期できない、話は聞いたがモノをゆっくり見る時間がなかった、モノを見ていて話は聞きそびれた、などというすれ違いを埋めることはできなかっただろう。今回は、作者の思いは一旦堰き止めて(サイトでは炸裂しているかも)、まずはモノを直接体験してほしかった。建築という生地に言葉を練り込んできたのは事実だが、そこに頼るモノにしたくない。(どうせ聞かれたら、堰を切って喋ってしまうが。)

また、この「内覧会」のおかげで数年ぶりの再会となり、近況報告を交わしたりと全く別の話題で盛り上がる一面もあった。主催側と来場者、の関係だけでなく、来場者同士のコミュニケーションも無数にあったかもしれない。究極的には、建築が媒介して、人間どうしの安否確認的な「場」のようではなかったか。ソーシャルネットワークのサービススペースそのものである。

SNSや、紙面に比べると、「内覧会」は場所や時間の限定、排除がある。逆に言えば、前者の実空間バージョン、となんだか立場が逆だが、そういう、直接体験できる言語空間、映像空間である。これは、やはり、建築を理解し考える場としては、最強なのだ。「内覧会」の頻度が、その地域での建築の意識度(文化度、民度と言いたいがすこし柔らかく)に寄与するかもしれない、と今更ながらである。

一方では、一時的なSNS実空間を提供してくれる施主さんには、単純に甘えることになってしまう。面白がって建築を作り語る輩たちの世界を、どこまでも支えていただく立場に、頭が上がらない。

こういうことを踏まえつつも、「内覧会」という「場」の明滅、の営みが、場所、地域を作っていくことを見届けていきたい。その可能性を見逃したくない気がする。

 

 

2023. 1. 1

第200(日)働く時間、場について。

先日、とある建設会社の支社長と、おそらく日本中で起こっている、人手不足の話し。なぜ、今、現場監督が不足しているのか?の理由の一つに、働き方改革があるのではないか、というもの。会社は、今は定時になると自動的に、電源が落ちてしまい、問答無用に、残業ができなくなるとのこと。企業というのは、なるほど、そんなにシステマティックなのだと感心しつつも、問題がそこから始まる。あー仕事が終わったと、精々しながら帰宅する社員の中に、それらに関係なく、たとえ残業代がつかなくても、たくさん働いて、早く、一人前の現場監督になりたい、という若者が、少なからずいる、とのこと。5年もやっててまだ作業所長になれないのか君は?の話しになるらしい。時間のメリハリをつける行動規範が、知らぬ間にスタンダートとなり、そういう枠にとらわれずに仕事を覚えたい若者の芽を摘んでいる、という。

規範や規律というのは、時に重要なものごとをもスポイルすることもある。とある左官の親方のぼやき。親方を慕って左官を目指す若者が、手弁当でいいから、働かせてくれ、といってきた。しかし、そういうすべての若者に、労働基準法が強いる最低賃金を払うことができないから、仕事はあるし、席はあるが、断るしかないと。互いに雇用条件が満たされているにも関わらず、受け入れができない事態、一人の若者に学びの場を与えることができない制度の限界を嘆いていた。

時間に縛られずに、気持ちの赴くままにたくさん働いて早く一人前になりたい、という時に、時間にけじめをつける仕事の仕方が果たして正しいのだろうか、と疑うのは自然だろう。時間を限って、仕事の効率を促すというのは、まずは、時間を忘れて仕事をしてしまう(ことができる)人間が考えるべきだと個人的には思っている。給料とかそういうことよりも、優れた仕事を盗みたいという感覚が、一人のペーペーな作り手に生まれるのもピュアで健全な志以外のなにものでもない。そうであるなら自由にさせてやったらどうか、という柔軟な環境であることの方が理想であるのは言うまでもない。制度整備とはかくも金太郎飴の世界である。

 

 

 

年末の休み突入初日に、この本を読んだ。自身を三流とする世界が認めた一流シェフが、休みなく働いた修行時代を振り返っている。朝から晩まで、そして日曜日もない日々。そういうひたむきな生き方を、天才のみがなせると他人事にするか?しないか?夢や希望で自己を純化していこうとする者=志には、社会や組織が敷いた制度や世論のリミッターなんて、関係ない。それにしてもさあこれから休みだーという時の読書としては、ちょっとふさわしくなかった、「感涙」の一冊。

 

 

人間は、やはり、集団で生きている。だからこそ、最大公約数に照準を合わせて、それらが道しるべとなり、集団が成り立つ。ただ一方で、人間は、限られた個の力で、集団が引率されているのも、紛れもない事実である。そういう人種の生態への対応も、同時に、同列に、考えなければならないだろう。

もう一つ、時勢的な話しとして、リモートについて。数年前からのパンデミックにより、また、パソコン環境の社会基盤的充実により、思いの外リモートで仕事でもコミュニケーションでもなんでもできるということが、わかった。しかし今は、もう、私たちは、会わずにできる側面よりも、それでもやはり、人間が居合わせることの意義を再認している最中である。

とある神社の宮司の話し。近頃は神社のお祭りも、リモート配信しているらしく、月次祭(つきなみさい)や、交通安全、学業成就などの御祈願なども、ネット上の決済をしながら、リモートで参加できるという。そのこと事態は、へーと思いつつ、さもありなん、という内容。話しはそれから。

とある氏子さんが、こう尋ねた。「宮司さん、寒い、暑い、あるいは、感染を免れようと、出向かずに神様にお願い事をできるのはいいが、実際に出向いて参拝するのと、違うんでしょうか?」違うかというのは、おそらくストレートにいってしまえば、ご利益に差があるのかどうか、というお尋ねなのだと推測。宮司さんは、「心というのは、神様の方からすれば時間や空間の制約を受けないので、ご自宅でお祈りなさっても、多分、聞いてくださると思いますよ。」「でもですね、みなさん、この境内に入ると、家に居るのとは違う感覚になりますよね。毎日毎日私たちや氏子さんたちが掃き清めて、綺麗にされた境内と、神様にお供えする祭壇、ここにきて、ああ神様お願い、って気持ちになりませんか。」「私たちはこのように場の雰囲気というか蓄積された力、意識のようなものから多かれ少なかれ直接的に心が影響を受けながら生きています。神様は祈る人間の真心の度合いを汲み取るのですから、自宅でなさるのと同じか言われると、同じにはならないでしょうね。」

真心の話しをリモートワークと、どう重ねるかだ。事務所には神様が居て、というのではない代わりに、人間がいる。他者がいる。皆、必死で働いている。もし、必死な環境の中に、必死でない者がいたとしたら、彼は自然に居ることができなくなる。逆に必死でない者に囲まれて、必死である者が居たとしても、彼は、そこに居続けることはない。よくも悪くも互いに影響を受け会いながら、特定の物事の成就のために、そこに集まり、知らぬ間になにかを交換しあっているというのが、対面環境だ。対面環境を設ける意義は、時に眠気を起す気概の類を与え合う場、人同士で良い影響を与え合う場、つまりは各自が各自の自宅でやっているでは絶対にできないトレードがなされている、というのが底部にある。極論、IT端末を用いて、遠隔のコミュニケーションモードでの連絡に努めれば、可視的な情報そのものは、100%やりとり可能だと考えるられる。ツールを介さない対面での対話の意義を私たちはもう痛感しているが、言葉を交わすという見えやすい事象の背後に、不可視的なもののトレードが、潜在していることを、証ているかもしれない。

まずは場を掃き清めて、場の見えない糸をピンと張る。そして、時々の各所の整理整頓。そして、各々が各々で自己管理している心身がそこにあれば、自然に互いに他者に良い影響を与えるような場が作られていくのだと思う。人間が二人以上いて、彼らが何かの目的に向かって、一つ所で協働しようというところから、「場」が生まれる。相互扶助的な働きがある人の集まり、空間をこそ「場」と言ってもいいようにも思う。

 

 

2022. 11. 27

第199(日)信じること、愛、ルイスカーン、建築?(とある建築講義の忘備録221121)

武雄での打ち合わせを、2時間濃密に収めて、急行電車に飛び乗り大橋を目指す。九大大橋での、お三名の講義があると聞き、久しぶりに、建築の集まりに潜る。

最初の土居義岳先生の講義には、最後の10分だけ伺うことができた。会場にたどり着いた時には、「信じる」とか「愛」などの言葉が発せられていて、これは果たして、自分が目指してきた会合であるかどうか、一瞬疑った。話の文脈がわからないまま、しかし、「信じる」ということが、全てにおいて人間の根源的に重要なことではないか、の力のこもったお話に、いや、それは間違いない、と素直に頷く。信じる対象が神であればそれは宗教で、それが建築の理想に対するものであれば、それは立派に職業的な姿勢なのだと。結論のタイミングに滑り込んだ自分がいけなかったが、でも、不遜ながら、自分もほぼ同じことを、考えてきた。人間の営みは、ほぼ全て、直近であれずっと先であれ、分かり得ない、見えていない結果に向かって、行動をするしかない。「信じる」ことができなければ、行動に着手すらできない。より見えにくいもの、分かり得ないものを確信して、行動をし、その結果が社会的なものであれば、それだけ何がしかの付加的な役割が担える。より分かりやすく見えやすいものへの行動には、自明のこととして取り沙汰されない。そのグラデーションのどこに自分を置くか、は「信じる対象」と「信じる程度」の掛け合わせそのものであり、それが社会の中での自分の役割を決める。「信じる」というと、倫理的なもの精神論的なものとして、金科玉条的に仰ぎ見がちであるが、むしろ、全ての人において、本来日常茶飯事のことなのである。土居先生の、今日のお話は、最初から聞かねばならぬものに違いなかったが、自己流交えてかろうじて自分なりに受け止めることができた。そういえば「建築の聖なるもの」2020は発刊されてすぐに購入したが、そのままになっていた。再び手にとって、きちんと読破しなければならない。

風位2022 MUNAKATA 三女神の休息所 中西秀明 (宗像みあれ芸術祭2022 高宮斎場にて)

 

 

 

そして香山壽夫先生登壇。お名前はもちろん、門下の方々との出会い、実作やドローイング集などで、おなじみであるにもかかわらず、肉声を初めて伺う。そして始まりは、「建築はおもしろい」だった。いきなり観念的な投げかけに始まり意表をつかれるも、すぐにそれは、なぜか、と切り込まれた。

1.人と人とをつなぐものであること、そして、2.自然(大空の下、大地の上に)の中に建てられるものであるから、という。どちらも分かりきったことのように聞こえなくもないが、しかし、建築を60年以上続けてこられて、この分かりきったことに確信を得る、ということに、言うまでもなく重みを感じる。建築は人と人とをつなぐコミュニケーションツールである、極論すれば、ツールに過ぎない、とまで言いたくなる感覚が歳とともに増幅する。人と人、とはいろんな組み合わせがあるのかもしれないが、まずは、建築の作り手(施主、設計者、施工者)側と鑑賞する(利用する)側とのコミュニケーション、だろう。むしろ、設計者としてはここしか、関わることができない。そして、二番目の自然(大空、大地)に建つ、というのは、一瞬、拍子抜けするほどに当たり前のことのように思えたが、先生が、「だから、自分は宇宙ステーションにはまるで関心がない」と添えられたことで、合点することができた。自然の中=人間が創ったものでないものの中に親密に存するものであるからこそ、きちんと考えなければならない。つまりは、地球に対する愛のようなもの?建築設計者は、これから人類全体に求められる感覚を率先しなければならない、と言われているようでもあった。

そして話しは、水が流れるが如く、ルイスカーンの話しへ。先生は、ルイスカーンが教鞭をとるペンシルバニア大学へ留学されていた。

What was has always been.

What is has always been.

What will be has always been.

これは、ルイスカーンの言葉の中で、唯一自分が(日本語で)記憶していたものの原文だった。『あったものは、常にあったものである。今あるものも、常にあったものである。いつかあるであろうものも、常にあったものである。』この言葉は、カーンは、本当にいつも、いろいろな場面で、いろいろな人に語っていた、という。カーンは、たくさんの哲学的な言葉を遺しているのは有名だが、この言葉にどっしりと軸足を置いていたというのは、知らなかった。カーンがいかに、人が歴史とつながっているか、あるいは、つながっているべきかの確信の強さがこれどまでとは知らなかった。そして、香山先生は、この名文に続く手書きの英文章をスライドで紹介をされたのだったが、一番最後に会場に到着した自分は、会場の再奥から、メガネ矯正視力0.7の性能でもって、その文字を書きとることができなかった。上記の有名な What was…に続く文章には「歴史的には、豊かな宝物のようなものが潜在している。しかしそれを発掘し自らのものにするためには、穴が開くほどに、それを見続けなければならない」というような意味のものであった。これらには、もうなにも付け加える必要がないだろう。(正確に把握されたい場合は原文を探索ください。)

 

 

 

最後、トリは、安倍良さん。なぜ先生がつかないかというと、石山研究室時代の直上の先輩だから。 リアスアーク美術館に始まり、早稲田の観音寺や、淡路島のプロジェクト、他、自分たちが本当にペーペー時代に、実務的なこと、石山さんとの接し方等を学びながら、長い時間、緊張感しかないあの研究室で共に過ごさせてもらった方の一人。その方が、建築学会賞を受賞されてその記念講演をされると聞いて、呼ばれていないにもかかわらず(井上先生からは、なんで高木さんがここに居るんですかと、注意された。)、なんとしてでも、駆けつけなければならないの動機によるものであった。

いうまでもなく「島キッチン/2010/豊島」の話し。室内空間のない、おそらく学会賞としては前代未聞の作品の、そのストーリーは、ネット情報を撫でているだけだった自分にとっては、言うまでもなく圧巻だった。詳述は避けるが、豊島という離島に、島の人々と外からの人をつなぐ何か、建築でなくてもいいので、そのようなものを創って欲しい、というオーダーに始まり、建築とは言い難い屋根だけの仮設物を工作し、それが、パーマネントな建築へと代謝していく10年のストーリー。受賞作品の類、もしくはみんなが見上げるような建築作品にはおおかれ少なかれ垣間見える、お金の匂い、というか、高度資本主義社会の大前提のようなものが、感じられない。(語弊を恐れずにいうなら)そういうしっかりした社会性、あるいは経済のあるべき循環のようなものがすっぽ抜けている代わりに、人の心と心のトレードだけが、豊かに渦巻いている建築。騙されているのではないか、と思うほどの清々しさを感じた。安倍さんはどうやって、離島の人々や建築と10年付き合うための、フィーをもらっているんだろう、などと、邪な質問さえも思いついたが、井上先生が、(あくまで)「学生さんから質問はありませんか」の進行に、アラフィフは口を紡ぐ。

他者になにかを伝えたくて、建築を通して、それをしようとした時に、必ずお金が物を言う要素、プロセスがある。お金の量が乗り越える糧にもなる。そういう宿命の構図から自由になることが建築にはあり得る、と立証されようとしている。このようなプロジェクトをもって立派に建築なのだ、と皆が同意する(満足する)時代になれば、もしかしたら、人間は地球に存続し続けられるのではないか、とさえ思った。