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2017. 12. 31

第177(日)技術のデザイン-4(石灰壇)

石灰壇(いしはいのだん)といえば、知っている人からすれば、それがお前の造るモノとどう関係があるのだと、言われるしかないかもしれない。現京都御所 清涼殿にある、歴代天皇が「毎朝御拝」を行っていた6畳ほどの祭祀空間のこと。版築工法により、高床のレベルまで突き固め上げられた「地面」に表面を漆喰で塗られた床である。漆喰とは基本的に壁や天井を塗るものであって、床面には、通常想像すらしないものであるから、その手の人々(左官技術を面白く今に用いようという人)には、目から鱗のもの。歴史的な事例としてもおそらく唯一の事例ではないだろうか。

その手の研究書(※)を読むと、石灰壇の始原は、宇多天皇(867-931)が天皇祭祀として、888年に定め、創祀された。以降、途中中絶する時期も含みながら明治維新を経て4年後に、祭祀制度としての発展的解消に至る。とはいえ1000年以上、原則は伊勢神宮への毎朝の礼拝空間であり続けた。

どうして、木床組の建物の一部にそのように異質な素材の床が設えられたか。本来ならば正式な祭祀空間である庭の地面に平伏して拝礼をするところを、地面を建物の室内に取り込み祭祀空間とした。つまり、人間が神に祈るヒエラルキーとしては、屋外の地面であることが常であった当時、それを保持したまま、室内空間を得たという経緯。天候等に左右されず毎朝の祭祀を行うため、いわば疑似地面を室内に構築して、祭祀空間の簡便化、恒久化を計った結実である。

また、石灰壇には、310φ×470d(安政時代再建)ほどの円形の火を起こせる「塵壺」という炉が併設されていて、冬の朝の暖房設備として用いられていた。この塵壺の併設を手がかりにすれば、寝殿造の平面の一部に「地火炉(じかろ)」という今日の囲炉裏空間が、石灰壇へ発展したのではないか、の別ルーツも並立している。

また、塵壺を設ける石灰壇は、神聖な祭祀のためだけではなく、酒宴や料理にも平然と用いられていたという史実もあるようである。

さらに、毎朝御拝という天皇祭祀の以前には、「元旦四方拝」という祭祀が行われていたようで、こちらは唐文化の影響のものらしく、宇多天皇は、宗教改革の一貫として、毎朝御拝+石灰壇という形式を創始し、祭祀における国風文化化へと向かっていたらしい。こんなに不思議な空間が、当時としては国風文化を担っていた、というのである。

前置のつもりが本題そのもののようになってしまった。この部屋は、一室の壁天井床全部を一つの素材でやってみようということで、12年前の自宅の一室を左官の原田さんに、全部土で塗り込めてもらったものだった。その前は、実につまらない新建材の張り詰められたつまらない空間だったが、それを仕上げのみで生まれ変わらせる力業を試したもの。問題は床だった。壁天井は普通にラスモルタル下地土壁でいいとして、表面強度を維持しながらそのまま床へと、しかもできれば色調はそのままで、というのが挑戦であった。土に対して強度を得ようと石灰とセメントを多くすると、色がそちらに引っ張られていくので、これらを抑えて施工したが、やはり室内床としての強度は不足していた。様々な家具により、表面は剥がれ、子供が手に持っているもので突き、またある時は、犬がココホレワン、と地面と見紛う土の床を掘った。土は土然としたまま、これらの仕打ちに抗することはできなかった。

この空間が、事務所の執務室となることになり、この床の惨状は急遽補修されなければならなかった。くぼみを、同一の材料で埋め合わせた後、表面を全体にタナクリームと土のパウダーをその場で合わせながら、折り重ねた。タナクリームとは、西洋漆喰(生石灰クリーム)で、日本の漆喰より粒度が細かく、表面硬度が堅くなるので、日本の漆喰よりはわずかに床に適していると言える。生石灰クリームといえば、軍手磨き、というほど、磨くとピカピカ光るので、軍手を、となりそうなところ、軍手ではなく、そこに転がっていた、プチプチで磨いた。片面がでこぼこであったから、手との相性もよく都合よかった。プチプチでピカピカ。

冬至の日の9:00〜14:00、たった6畳ほどの床に飲まず食わずのノンストップ作業。技術として、今回は、誰でも出来る、というものではない。数種類の左官材料を顔料に見立てて、抽象絵画を描くのに近い。絵と違うのは、人や物が踏むから表面強度や平滑性も求められる。そして、二度と同じパターンはできない。その時の作業者の体調や精神力、天候(気温、湿度)の影響を大きく受けやすい。アクションペインティングよりも、同一再現性は乏しいだろう。どんなに頑張っても結果の詳細までを制御できないから、習作を繰り返すしかない。油絵より水彩画であり、書。

さて、この床と日本の祭祀制度における国風文化を担ったとされる石灰壇が、どう繋がるかというと、決して深くは繋がらない。まず、ここは祈る空間ではない。営利をむさぼるために画策し、作業し、挫折する場所。地面のメタファー(暗喩)でもない。ここは二階なので、地面から版築で突きあげて、地球と直結するなど想像するだけで恐ろしい。ただ、土の下地の上に石灰が塗られているという共通点。もう一つ、石灰壇という土の塊に塵壺という暖房機能と同様に、ここでは、ガスの元栓を設けて、輻射式のガスストーブを置き、床やその他に蓄熱し、放熱して、輻射暖房の合理性を見込んでいる。

さらに強いて言えば、この空間が「今に有る」ことによって、石灰壇という歴史上の面白い空間の物語にハイパーリンクするバナー役となれば、というぐらいである。

※参考文献:石灰壇「毎朝御拝」の史的研究 平成23年 石野浩司著

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