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2020. 8. 2

第188(日)不便益

石堰(二ッ川堰/柳川市/江戸時代):ある一定の流量以上になると堰が決壊して流れを促す。また石を積み直して、復元。その時の費用は必要だが、現代の可動堰に比べると、平時のランニングコストが0円。実は賢い?

誰よりも早く寝入ってしまって、目が覚めると午前1時。仕方がなく、徐にTVの前に座っていると、ヘウレーカという番組に出くわす。そこで、目も覚めるようなおもしろい研究者が現れる。「不便益=不便が生み出す利益」の言葉。例えば、広いワンフロアで業務する大手IT会社の机のレイアウトを、動線的に迂回しなければならないようなジグザグの配置をしたところ、確かに目的の場所との往来は非合理な動線になるが、社員同士のコミュニケーションが十数パーセント増した、という話し。あるいは、分量や手順が定められていない、素材のみが与えられた、だし巻き卵のレシピを実践すると、答えに行く着くまでに時間がかかるけど、そこからいろんな原理や発見が導き出されるという風景。
これらの考えを導く川上浩司教授が、なぜこの「不便益」に至ったかも興味深い。それまでは教授はAI=人工知能を研究していた。AIは、基本的に人間がしなけれならない判断=仕事、を機械がどれだけ担えるか、という追求になるが、モノ(機械)と人間の関係は、果たしてそれだけだろうか?機械が人間の仕事を代替する=人間の省力化を担う一方の関係しかないのだろうか?の疑問が生まれる。モノが人間に便利をもたらすという以上に、人間の成長を促すためには、当面の不便を強いながらも、より広い視野での人間の利益をもたらすような関係性もあるのではないか?
その概念をより明確に浮き彫りにするために、2行2列のマトリクスが掲げられる。そもそも不便益という聞き慣れない概念の背中には、「便利害」がある。さらに、この関係の対称軸には、不便害と便利益がある。このテロップが出てきた時に、とうとうやられたと思った。
この、便利益を求め、と不便害を退ける性向は、現行の人間の、いや人間の、動物の、揺るぎない自己保存原理だから、説明の必要がない。残る、不便益と便利害の対を行き来することによって、「不便益」が浮き彫りになっていくというのである。

以下は不便益システム研究所のホームページに乗っていた一例
「富士山の頂上に登るのは大変だろうと,富士山の頂上までエレベーターを作ったら,どうでしょう.よけいなお世話というより,山登りの本来の意味がなくなります.」
山登りの本来の意味はなにか、ということを改めて何処まで言わなくてはいけないか、ということになるが、あえて言葉にして言えば、苦労して上ったからこそ、ご来迎や、その他の風景が、とても感慨深いわけで、機械が自分を運んでくれた暁に、同じ風景があったとしても、同じ受け止め方はできないのではないか、というようなことは、これ以上の説明なしに、誰でも想像ができる。だから、各地にある、景勝地のロープウェイを見て、なにか言葉に表せぬ違和感というか残念感があるのは、この富士山の話の縮小実践バージョンなのだと考えると、はっきりしてくる。

もう一つ、このサイトから、決定句を引き出すと以下。
「便利の押しつけが,人から生活する事や成長する事を奪ってはいけない」

僕が、2011年に思いつき、見つけ出した「センシブル」(センシブルハウス全7(日))という言葉。当時スマートという語が、接頭語になり、あらゆる物事の理想を指し示し始めたころ、このスマートが、怪しいのではと何となく思いかけていた。言語学的には、対義語でない「センシブル」(分別のある・良識のある)を概念として対義語、つまりスマート一辺倒の対概念=警鐘語に無理矢理仕立て、近くの人たちに通り魔的に呼びかけていた次期があった。スマートなのはモノであって、そういうもので囲まれた人間はアグリーになるのではないか?と、その危機感は決して変わらず、むしろより深く確信を深めてはきたのだが、いかんせん、共感者、というか、同期者が見当たらなかった。この日の深夜の目覚めは、10数年来、出会うことのできなかった同胞者に出くわしたという、只の目覚めでは片付けられない大きな収穫の類いであった。

川上教授は、20年も前から、この研究をされているとのこと。同朋者というより、明らかに先んじている。僕は、あくまで建築設計者であるから、建築を通して、不便益を追求するしかないのだが、考えてみると、建築は、人間が作る道具の質量共に大きな産物であるし、文化という、それこそ当面の利益では説明できないものを含んでいるから、「不便益」なる概念とは、本当は相性のいいものであるはずである。だからこそ、センシブルの語を懐で暖めていたのだが、そこに「不便益」という、体裁もなにものない日本語の造語が、しかも研究所の類いを背景に暖められていたことに、素直に感服した。
各論のことは、言い出すときりがないし、その各論を作っていく役目だと思うから、また改めて別項を設けたい。(設けられるように励みたい)

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