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2008. 1. 20

第24(日)ニヒリズム

大学の授業と自宅の往復(door to door=4.5h/way)は、決して慣れる距離と時間ではないが、なんとか前向きに捉えようと、読書の時間にあてがうことにしている。建築の議論の中で何気なく飛び交うニヒリズム(無(ニヒル)についての思想(イズム))の中身を捉え直そうと、「ニヒリズムからの出発」竹内整一/古東哲明編(ナカニシヤ出版)を鞄に忍ばせる。12名のニヒリズム論者による、結論ではなく問題提起としてのニヒリズムが顕わにされるという趣旨のものである。今からおよそ100年前にニーチェ(1844-1900)が「神は死んだ」という発言が必ず引っ張り出される。我々人間が信ずるべきもの(真理、実体)はなにもない、という思想である。いまさらのようにこれを取り上げる心境というのは、自殺と鬱病の巣窟となりつつあるこの国の歪みを果たしてこれが解き明かしてくれるだろうかという期待と、もう一つはブディズムにおける無常とどこがちがうのだろうという素朴な疑問が湧き起こったからである。
それぞれの論説には、基本的には文章がわからない(哲学書にありがちな)ものと、一般的な文章を勤めていたものとに大別されていた。詳細を記述するとキリがないので、素人ならではの印象に留めておくと、一言。この本から元気を得られる人は何人いるのだろう、の疑問に陥った。建築にも実は本来的に人々に元気のようなものを与えたいと思っている節があるのだが、時として難解なことがある。ひとたび理論を紐解けば、さらに混迷と断絶である。それを考えることを職業としている人は、箱の中でそれを培養し続け太らすことにうっかり時間を費やす傾向にあり、研究者以外の人々は、太くなくていいからその箱から取り出して血肉として見せてくれという対極がある。哲学が培養箱の外で育たない代物に甘んじているように、建築もその理想の突先はどこかに引きこもりがちで、自らの母親にさえ理解してもらう接点を見失っている。
西欧起源の「ニヒリズム」はどちらかというと、思索=理性によるものであり、東洋起源、厳密には仏教の無常は、感性(仏道者の極致は理性や感性といった知覚すら否定している)が観たものであると思った。「ニヒリズム」はおそらく理性の皿の上で延々と転がり続ける議論なのかもしれない。「無常」は(感性であるがゆえに)そういう面倒な手続きをひとっ飛びして、むしろ今現在の貴方を苦しめているものを解放する、というバカ明るい結末を呈示してくれるものに映った。現にこの書の中にもブディズムを軸足にした一説だけが、きわめて楽観的な締めくくりによって青空を仰いでいた。「無常」は人間の苦を解きほぐすための飽くなき探求から見通された認識論、「ニヒリズム」は「神を死なす」ことが隠れて目的となっていた認識論、結局その小さな違いが、行動学を導き出せるか認識論に留まるかの大きな違いとなっているように感じられた。

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