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2008. 5. 4

第35(日)小さな都市山岳

4日間のゴールデンウィークが、まるで波打ち際から崩れていく海岸線のように、前後から浸食を受けた。残った2日を適当に過ごすのは簡単であったが、折角、陸続きの2日間を得られたので、山で一晩過ごそうと、犬と出かけた。子供のころから仕事の関係で父親(木こりではない)に連れられて、高くも風光明媚でもない山歩きをしたものだが、今、思い立つ行動として山に行こうと思うのは、ワンダーフォーゲル(19世紀末、ドイツで興った自然回帰運動の一つ、「渡り鳥」の意)をやっていた友人の影響であった。いわゆる登山は、ナショナルのヘッドライトを頭にくくりつけてテントの中でボンカレーを煮つつ、専ら登頂が目論まれる。ワンゲルは(その団体にもよるが)登山というより野外活動、同じ山に対して前者はストイックな対立関係、後者はどちらかというと享楽的な関係を結ぼうとする。私は後者の影響を受けた。登山者のザックの中は、登山のための装備と携帯食、そして日数分のボンカレーが、ワンゲルのザックにはペットボトルに詰め替えられたワイン3L、生ハム、薫製キット、などがそれぞれパッキングされる・・。ワンゲルは敢えて岩を登ったりのルート取りに決して危険を冒したりしないが、そのかわり自らの許容積載荷重を超える危険と常に背中合わせである。
抑えることの出来ない享楽グッズを、足腰のトレーニングのための意図的なおもりと捉え直し、既知の宝満山にハンディーを背負わせた。あわよくば、一晩過ごすことによって、日帰りでは解らない何か、とりわけ修験道の山という場所を感じることはできないかとも少し思った。標高800mのキャンプ場は、元禄時代から明治維新まで、宝満山の山伏の座主の地位にあった楞伽院の跡に設けられている。山の頂部を西に仰ぎ見、見下ろせば筑紫平野、そして、こじんまりした静かな平地。時々登山者が通り過ぎるが、テント一張りは我のみ。2時頃到着して、日没まで本でも読もうと4冊も持ってきた。新緑の楓が僅かに風に揺られながら、頂上の向こう側に日が沈んでいく。遺構としての石垣だけを頼りに、修験道時代にはどんな堂が建っていたのだろう、と妄想を自由にさせる小さな原っぱ。建築書をとっかえひっかえするが、身が内容に入っていかない。これらは本当に只のおもりであった。結局その時その場で頭が受け付けたのは、司馬遼太郎の「功名が辻(四)」。関ヶ原合戦における西軍の厳しい行軍の様子が、この山に遺構が残る朝鮮式山城「有智山城」や修験道の歴史とどこかで繋がった。かつて人々は小さくもこの峻険な山道の途中に政権の本拠地を、もしくは修験の基地群を構えていた。歴史的には(機能はともかく)建築が点在する山岳都市であった。そして、この修験道の座主跡は思いの外、世俗を遮断していないことに気が付いた。日が落ちて街に灯りがともり始めると、平野の夜景が眼下に広がったのである。電気のない時代はこんなにきらびやかではなかっただろうが、確実にここから人々の生活風景が小さな光点として映っていたに違いない。例えば紀伊の高野山のように、ここは、世俗を断ち切り深々と奥に分け入った場所ではなかった。急峻な岩山の内奥に潜伏するようでいて、むしろ、平野との延長にある都市であった。太宰府という都と文字通り地続きの関係は、ちょうど京都と比叡山の地理的歴史的関係に近いかもしれない。日本の山岳都市?都市山岳?。そんなことを勝手に憶測しながら、静かに冷えていく山中で蓑虫の人となった。

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