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2009. 3. 22

第69(日)押し売れない感性

茂木健一郎氏の著書は、例えるなら、カランカランに晴れた地中海の青空のようである。曇りもあれば雨模様も少なからずあるのが本当の空であるが、描くならこの空、というひたむきな絵描きのように、彼は明るい世界を人間の脳内に見続けようとしている。暗い部分はそのつもりがなくともきりがなく情報として入ってくる時勢、明るい生き方の指南書のようなものともいえる。また、その明るさの背後には、自分の家族や親類を愛するのと同じように、彼の広く開かれた人間愛のようなもの、さえも感じる。人生の大先輩というほどには自分と歳の離れていない実在人をこんなふうに書くことにためらいがないわけではないが、しかしこういう徳は、歳を取れば自然に備わるというものでもないだろうから、ここは素直に賞賛したい。
「クオリア立国論」は、「manifest」などという薄文字が背景として装丁に摺られていて、すこし引いてしまう感を得ないでもないが、しかし実際はエッセーの雰囲気でつづる文化論、あるいは哲学のようなものと受け取った。(経済主導の国の骨格から文化主導へという意味も込められている?)レビューに2~3時間で読めると書いてあったが、それに間違いはなかった。食べ物にまつわる「おまかせ」文化、旅館にまつわるもてなしの文化、観光地にまつわる知名度と満足度の話、コンビニやドンキホーテの商品陳列法にかいま見える日本文化、自動車工場にまつわる集団の創造力について、など、彼が実見した様々な場面にて、彼が様々に感じた「クオリア」(質感)なるものの概念があぶり出されている。だれでも経験するであろう、なんてことない日常の中に、日本人の持つ良質な感覚の顕れが、ここでは彼のクオリアによって掘り出され、輪郭が与えられている。そして、それは本来だれしもが持っているクオリアであり、その質への探求が、経済成長を遂げた日本人がこれから見つめていくべきものである、と我々一人一人にまるで呼びかけるように、説かれている。
その人のクオリアは、しかしながら、他人が植え込むことも、のぞき込むことさえもできない。だから、一人一人が自らのクオリアの質を暖めていくしかない。自然、人工物問わず、身の回りにある美しいもの、秀逸なもの、気遣いの背景のようなものを、人が言うからそう思うのではなく、自らが自然に感じ取るれるように、と。有名だからこれはいいのだと感動したつもりになってはいないか、が検証される時代ということか。
日本には美しい建築がある、とおもむろに例として法隆寺が挙げられる。そこでそれが取り上げられること自体、驚くに至らない。だが、数ある法隆寺の建物群の中で、食堂(じきどう/奈良時代/国宝)がぽつりと取り挙げられる。いわゆる金堂や五重塔がある西院伽藍と、八角円堂の夢殿がある東院伽藍のどれにも触れず、その間の、僧たちが日常生活の用を足していたつつましい平屋を日本の美と賞した。この建物はまずもって、法隆寺の一般的紹介に添えられることはない。仮に専門家が法隆寺建築を述べる時に唯一これをピックアップするならば大変な勇気がいるだろう。だが、彼はそこに脚を止めた。西院の回廊を巡ったあと、夢殿に向かう途中にこれを発見した。実際は細殿(鎌倉時代/僧侶が食堂に入るまえの整列場所)という相似形の建物と双堂(ならびどう)の対を成していて、その関係が絶妙なのだが、区画が垣根でバリアをされていて、軒下に脚を踏み入れることができない。おそらく茂木氏もそれをじれったく思ったのではないだろうか。
ともかく、彼は得られやすい情報や知識からではなく、自分自身のクオリアをアンテナにしてこの建物に出会い、なにかを探り当てた。そして、個人の自由な感覚であるけれども、私的な思い入れとか、趣味趣向に消沈してしまうようなものではなく、皆と共有できる原石のようなものをきちんと見分けている。これは付しておく必要がある。こういう感性の持ち主が増えるのであれば、立国云々以前に、建築の文化に値するものが、ああだこうだと云わなくとも自然に備わってきて、人々の生活により関係したものになるのだろう、と思う。(まるで、他力本願ではあるが)

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