ゴールデンウィーク後半始まりの日に、ひさしぶりにcasacuomocafeうきはいそのさわに出向いた。オープンしてから、家族を連れていっていなかったこともあり、また、トイレのサインが、未設置のままであったこともあり、また、2Fの民泊の今後の計画のこともあり、で、いそのさわの社長の家族との交流も兼ね、つまり、公私遊び仕事ゴチャ混ぜの現場入りとなった。
お昼はゆっくり、事務所で苦闘した酒枡照明含め~椅子や床や壁の小改修空間を公私混同で楽しもうと思っていたら、予約でいっぱい。ということで、3年前に作った土間のカウンター席に弾き出される。久しぶりの原田さんのグラデーションひび割れ仕上げをゆっくり見遣りながらの、ピザ、ハンバーガー。その間、インテリアデザイナーの方がお酒を買いに土間に分け入ってくると、真っ直ぐに土壁に反応し、しばし込み入った話を交わす。サルバトーレ肝入りの料理は、値段は高いが、さすがこれはという味。特にハンバーガーは、開店してのち5ヶ月間の「食べ物の恨み」がはらされた。昨年末のオープン前日、結局夜中3時まで苦闘した照明器具設置に没頭し、同行した弊社スタッフだけが試食に預かるのを横目で見つつ、自分は脚立から降りることができず、食べ逃してしまっていたのだ。
さて、カフェは、昨年末に開店して以来、基本的に休みなしで営業しているという。サルバトーレの母体が背景にあるとはいえ、店は日本酒の蔵元の直営である。休暇体系的に、無休の飲食店をよく片手間でできるなあと思う。うまいことシフトを回しているのかと、中川社長に投げかけると、一人、専任のスタッフを雇っていて、彼は、開店してからここまで、一日も休まず、働いているという。彼=ヤハタサン(名刺を交換していないので、漢字不明)は、(確か)関東の方で、不動産の営業を経験して、うきはに地縁があって、うきはにやってきて、cuomocafeの立ち上げ社員としてこの酒蔵に入社した。どうして未だ店休日を設けていないのかというと、何曜日を休みにすべきか、探っているという。さすがにいずれは、と言うことのよう。それにしても、5ヶ月、無休の店を回すために、身を投じて、フルシフトで従事し続けている一従業員の話に、涙がピザの上にこぼれそうになった。
本人が体調を壊しでもしたら経営者が責任を問われるのではないか?と中川社長に投げると、「あいつ、タイムカードつけないんだ」という。この段階で、心の中の涙腺は全開レベルである。彼がどういう思いで、この店に取り組んでいるか、本人に尋ねずに想像だけで、しばらく見ていたい気がする。恋しい人と別れて、このうきはに流れ着いてきて、その浮世をしばし忘れんがために仕事に打ち込もうとしているのか、あるいは、いずれ家族となる相方のことを想いながら、立身の糧として、今を生き抜こうとしているのか・・だがそんなことは、どうでもいい。一日も休まず、なにかに打ち込んでいる人間の精神に、素直に惚れ惚れとするのである。なぜに殊更これを書くかというと、世の中が、正反対であるから。二言目には、少子化→人手不足、で、働き手は売り手市場で、労働条件としての賃金と就労時間は、働き手に優位な状況だと。これだけ貰わないと、とか、これだけ休めないと、・・と言いながら職を選べるという傾向が隅々にまで行き渡ろうとしている。働き方改革は、雇用者もしくは資本家が労働を搾取する、というマルクス論的な実態とそれへの警戒意識が社会化したと言うこともできるが、一方で、勤め先などに身を捧げるような働き方は、自分の人生を無駄にしてしまう、というような、(どちらかというと動物由来の利己的な)個々人のマインドセットも、改革の源になっているだろう。雇い側が強いるブラック性、その範疇の企業や業態については、制されて当然だが、全ての働き手の意識の中の労働基準に、リミッターをかけるようなトレンド、ましてやスタンダードというのは、どうだろう。社会全体としてむしろ害悪ではないか。これは、日々、事務所を営みながら、規模の大きな取引先との取引で、少なからず感じている。休みやリモート、ダブルワークOKなどの高待遇を豪語する大企業の担当者の働きが、(人としては)必ずしも、良い仕事をしていないと思う。お金を払う側として、不快な思いを少なからず経験してきて、そのように思う。
国力=人口×労働時間×能力(労働生産性)という。今は、人口が減って、労働時間も減らすが、労働生産性のみを上げることで国力を回復(あるいは維持)するのだということになっている。 労働時間を一定以内に収めることによってむしろ労働生産性を上げることの合理性は、関係著書の示すところである。→ 第212(日) だが、人間は機械ではない、が逆手に言えるのだ。「機械ではないから、休まねばならぬ」は前提にあるとして、「機械ではないからこそ、休まずにやるところに何かが生まれる」可能性を持っている、のではないか。 機械はやった分だけ物事を生み出すが、人間はやった分だけ、分かりきった生産量が生まれる、というような、電気料金のような、従量的な製造者ではないのではないか。人間には(身体と)精神があって、その精神が身体に振り回されずに、より優位になっていったときに、思っても見なかった価値を生む可能性を持っているのではないか。→第210(日)
働き方改革は、労働条件の平準化、という点において、むしろ、人間疎外だと思う。人間のことが本当に読めていない、人間のポテンシャルを低いところに合わせた社会トレンドにすぎない、と思っている。だから、ヤハタサンのような人を応援したくなる。こういう人は、世の中がどうであるとかから、おそらく自由である。自分ももうちょっと生きたら60だけれども、こうありたいと背骨を伸ばす。