贈与論 マルセルモース 吉田禎吾/江川純一 訳 2009 ちくま書房
ふと、思いついて、マルセルモースの贈与論(1925仏)を読み返した。いつぞや、斜め読みかつ半分ぐらいで読み捨ててしまっていたものを、再度。、もしかしたら、自分がやり続けていることの根源を説明してくれるかもしれない、と思いついた。そんな名著ならば、今時であれば、AIにまとめさせて、それを読書感想文としてアップすれば、ブログとして成立するんだろう、などと少し考える。まだ今日の時点での私は、自らの人間としての機能維持を諦めておらず、そのリハビリのために、お手製で読書感想文を書こうとキーを叩く。忘却のスピードを遅らせるための書き起こしでもある。スマートではなく、センシブルに。
月並みに記せば、モースの贈与論は、当時未開社会といわれたポリネシア~メラネシア、北米北西岸地域の社会における、贈与にもとづく社会の安定と、それらの近代社会への有効性を問題提起した、人類学社会学の著作である。贈与というからには、ブツブツ交換とか、売買といった即物的なモノの交換とは別に扱われる。半ば強制的でありながら、好意を装った(私利私欲も含んだ)贈与と、それに対する、半ば義務的となる返礼が、コミュニティー間で、繰り返される。そのような社会ではある種の秩序が保たれ、これらのモノの交換を介した社会の営みを、「全体的給付体系」と名づけられる。モースは、それらのフィールドワークから、当時の先進国家においても、市場原理に従って値段が定められて行う等価交換や、売買ではなく、交換される価値の大小が当事者の裁量による贈与と返礼により保たれる社会の安定方法を、適用すべきではないかと投げかける。
一方私は、取引されるモノは、モノとしての単純な価値とは異なる何かが常にモノに付帯していることに、全意識を傾けながら拾い上げる。完全に我田引水な読み方かもしれないが、その部分を、前後から切り取って羅列する。
「贈られた物に潜むどんな力が、受け取った人にその返礼をさせるのか」
「現代に先行する時代の経済や法において、取引による財、富、生産物のいわば単純な交換が、個人相互の間で行われたことは、一度もない」
「受け取られ、交換される贈り物が人を義務付けるのは、貰ったものは生命のないモノではないということに由来する」
「その物を通じ、贈り物を受領した物に対して、影響力を持つのである。というのは、タオンガ(品物)はその森、郷土、土地のハウ(霊)によって生命を吹き込まれているからである」
「それは物そのものが霊であり、霊に属しているからである。この点から、何かを誰かに与えることは、自分の一部を与えることになる」
「要するにそれは様々なものの混淆である。魂はモノの中に混入し、物は魂の中に混入する。生命と生命が混淆する。このように人間と物が混淆し、人間と物はそれぞれの場所から出て互いに混じり合う。これがまさに契約と交換なのである。」

中西秀明+原田進 「水 湯気 泡 酒」 2023 博多百年藏
建築づくりにおいては、職人は頼まれてから、手足を動かして、モノを作り、建築として、施主に引き渡す。これは、モースが見出した彼の地の社会の、贈る、返す、とは、もはや異なる取引であるかもしれない。地理的に限定された一地域における限られた取引を超えて、現代は、貨幣により世界中のあらゆる富を交換蓄積しうる社会を営んでいる。それでも、人間と人間の間で、モノを取引するということには、(求む求めざるにかかわらず)モノにはモノ以外の概念がまとわりついているのではないか。現代は、ほぼ、モノは貨幣との交換物としてしか、生産はされないけれども、それでも、そこには必ず、両側に、人間がいる。それらが取引される場に置いて、買主はAIロボットでして、ということはありえない。取引の最奥に控えるは人間対人間である。その時、価値の交換物として移動するモノは、果たしてモノだけか?もしかしたら、重要なのは、むしろ、人間同士がそれぞれの心を交換しているのであって、モノそのものはむしろその媒介物に過ぎない、ということがいえないだろうか。少なくともその仮説を持って、「贈与論」を読むと、これでもかというほどに、モノはモノだけではないものとして、取引されてきた=存在してきた=作られてきた、ことがわかる。