2008. 12. 21

第60(日)名島、展望台-1

ギャラリーを営むその人から、ファックスが送られてきた。博多湾を臨む旧名島城(1588/小早川隆景築城)址にRC造の展望台が計画されているという。行政は10年かけて積み上げてきたというが、貴方は専門家としてどう思うか、という問いかけであった。(「建てる」専門家でいいのかどうか)新聞などにもその賛否の議論が掲載され、夕方の地方ニュース番組にも取り上げられた。突き放した言い方をすれば、良くある話、どこにでもある話、そして、批判の要素がありすぎて、どこから切り出すべきかも手が着かない話。二度と造ることができない建築がまた一つ消えていく時と同じように、地上にまた一つガラクタが床を据える瞬間にも罪悪感があるのを感じた。
まずは、最上位概念の「名島城の歴史を継承したい」という地元住民の意見?ここまではさすがに間違ってはいないだろう。その次に、名島城という天守閣を持っていたかもしれない近世の城と同じ眺望を獲得するというコンセプト、つまりは展望台という建築に繋がっていくテーマ。もうこのあたりからが怪しくなってくる。そのデザインは、そのギャラリーオーナー曰く「マンションの非常階段を持ってきて、てっぺんに瓦屋根を載っけたようなもの」である。新聞記事に掲載された立面図を見ると、なるほどこの比喩は実に的を得ている。登ってみたいといと思わせたい、というデザイナーなら持つべきだろう意志のようなものはなにもしない。登っていく過程がない。眺望は、眺望だけで価値を持っているものではないことは、何人も周知である。ましてや日本人が眺望というものを西欧人ほど必要としてこなかったという歴史も一度は考えたいところである。富士山は登るより、畏れをもって眺められた。山岳寺院や山城はそこから下界を見下ろすためではなく、下界と様々な意味で隔絶するための場所であった。五重塔は教会の鐘楼とは異なり、人間が登るものではなかった。天守閣というのも、防衛(つまり眺望)の意味はあったりなかったりの曖昧なもので、より確たる存在理由は権力の象徴、つまり、見上げられるものとしてであった。そう考えると、天守を持っていた「かもしれない」城の歴史と、それと同じ大地にに建てようとされる展望塔の間には、様々な疑いが起こるのが自然である。もしも大学の授業中に学生からこういう提案が出てきたら、教師は社会の縮図として「批判のトンネル」を用意するだろう。「通りたいなら通ってご覧、でも楽には通れませんよ」と。ここで学ぶ疑いの質こそが、現実に建てていくようになったときのモノの質になるのである。もしくはガラクタを増やさないための自己制御能力といってもいい。名島城址の展望台はそういう疑いの過程がどれほどあったのだろう。発注側の行政も受注側の設計者も、「批判のトンネル」をくぐらずに、淡々と事務処理を行った、というような無邪気が計画図からしみ出してしまっている。
もしも「本当に物見櫓を建てたい」というならそれはそれでもいいはずの一件である。建築行為というのは、時に時代や場所との軋轢を生むものであるし、そもそも人間のエゴなのだから。でも土地の歴史文脈に新しい展開を起こすのだから、社会という強い風当たりを覚悟しなければならない。それでも建ったならば、それが建築の質になっているはずであり、人間の自然な営みである。(重要なのは、金勘定に導かれた意志ではなく、建築的な創造意志/例えばこの手の話で有名なのはエッフェル塔)残念ながらこの計画はそういう意志的な水準、創造的な水準の微塵もない。だから、厳しく良質な知恵により淘汰される、と願いたい。否、良質な知恵の一定量がこの地方都市にもあることを願いたい。

« »