2009. 3. 15

第68(日)ガラクタに代わるモノ

第59(日)で記した、名島の展望台問題。この文書が、コピーされ、一人歩きしているから、そろそろ本人が出向くべきだと、ギャラリーオーナーから声がかかった。時間は空いていたので、残冬が最後の寒さを振り絞るある朝、名島神社に赴いた。秀吉が九州平定後、小早川隆景に与えた名島城が建てられるに際し、小さな丘の上にあった古い神社と境内は裾野に移築(1578年)された。その後博多の大名が黒田に代わった時に、城は移築(1602年)、礎石からなにからごっそり福岡城へ持って行ったから、今は小高い丘のてっぺんはがらんとした平地だけが残る、すくなくとも地表面は。秀吉が、唐津の名護屋城でかの有名な戦国武将達による仮装茶会の直前、ここ名島城に陣を取り、やはり茶会と称する軍議が行われたという。そんなような歴史をもった名島の町おこしをしたい、と、今はなにもないその丘のてっぺんに、かつてあった天守閣を偲んで展望台を作るべく10年がかりの計画がなされている。
その日は、名島神社の宮司さんの話。神功皇后、卑弥呼、徐福、聖徳太子、遣隋使、遣唐使、元寇、足利尊氏、秀吉など教科書で習った古代~近世史が、この名島という小高い丘にまつわる歴史として繰り広げられた。時に大人を釘付けにする古代史は、実話としての信憑性を横においておけば、想像することそもそもがおもしろい。既に港としての要衝でもなく、城下町としての残像もない今の名島の様子からは、なんの予備知識もなければ、なにも想像することができないが、少なくともここは古代史における人・モノ・情報の行き交うハブポートとしての最重要地点であった。確かにここに立つと、遙か朝鮮半島からやってくる舟も、そして博多の町も見事に一望できそうである。(今は雑木が邪魔をしているが)やはり視覚情報だけでは、物事の全貌は見えないもの、そういう目で見ると、セピア色の風景が頭の中で像を結ぶ。
さて、この集まりは他でもなく、名島という実は日本史の要衝地、博多のヘソのような場所に、展望台を建てるという無邪気さに疑問を持った人たちである。私もいつのまにか、そのお仲間になってしまった。だが、本来、自分は建ててナンボの者であって、景観保存論者には倫理的に為ることができない。気遣いも含めて案の定、貴方ならどうする、の設問は投げかけられた。神功皇后は本当は卑弥呼だったのお話、徐福が不老長寿の妙薬を求めて云々、の話すべては、「貴方ならどうする」の設問にさいなまれながら聴くことになった。帰りがけ、一休さんではないが、ふと思いたった。日本で最初か何番目か知らぬが、天守閣を持った城の歴史よりも、ここにはずっと前からこの丘の主であった名島神社がある。これを元にもどしたらいいのではないか。
九州北部には縁起がどこまでも遡る、つまり記紀以前の神社が多い。宗像しかり、香椎しかり、宮地嶽しかり。名島神社は小さいがその仲間である。この小高い丘、正確には神宮ヶ峰という。宮司さんがその空地へ脚を踏み入れたとき、その土地へ厳かに黙礼をした。よくよく考えれば、戦国時代の天守城はこの小高い丘にとっては壮大な歴史の点景に過ぎない。本来の聖域であるこの小さな丘のてっぺんは、かつてそうであったように、お宮が堂々と鎮座するのが最も座りがよいのではないかと。一本の老桜と雑木だけが今はある平地に社が再び鎮座する。400数十年ぶりに、そこが境内となる。今は、宴会禁止となっている老桜を春、人々が宴で囲む。海を見やるとかつて神の山とされ、畏れられていた志賀島を眼下に望むことができる。神社の成り立ちに素直に、宗像と同じく朝鮮半島への軸線を持つ。あるいは、21世紀に考え直された神社なのだから、21世紀の様相があってもいい。境内には、社殿以外の建物はなるべく低く抑えられる。地面に埋めるというより丘の斜面を利用すれば、コストも膨らまなくて済む。(鈴木了二氏の香川の金比羅宮プロジェクトが思い出される)社務所や町の寄り合い所はもちろん気持ちのよい空間として計画され、さらにはこの地に眠る、思いも寄らない壮大な歴史をかいま見ることのできる小さな回廊(ギャラリー)、そして眺望が良いので、カフェなどが仕込める空間が併設されてもいいはずである。境内は、かつてそうであったように子供の遊び場として用いられるようにすべきだが、決して、ジャングルジムなどは設けない。丘の斜面に適当な草が生えていて、麓に砂場などで受け皿をつくっておけば、それが自然に滑り台になるだろう。もしベンチを設けるなら、これも凡庸なものではなく、遊具としてとか、あるいはそうではなく神域に相応しい慎ましいものを考え出すべきだろう。肝心の社殿のスタイルはどうすべきか。これには、すこしイメージがあって、杉本博司氏が直島での護王神社の再生プロジェクトを参考にしたい。神社のカタチには、神妙造、住吉造、流れ造、八幡造、などの型があるが、そういう型、様式が生まれる以前の祖型を辿ってみたい。ここはそういう由縁の神社なのであるのだから、当然の所作である。
法隆寺や伊勢神宮などの、長らく残る建築の変遷や修理履歴を見ると、だいたいある時期ある段階で、付け焼き刃の修復とか、その時の都合にて増築、オリジナルに変形を加える時期というのがある。(詳述は避ける。)それが、後の時代になって、考証され、これはおかしいとわかると修正され、オリジナルへ戻される、というシナリオを持っている。この地で今計画されている某は、もしかしたら、後々修正される類のものではないか、と危惧する。そういう考証が必ず行われるに値する、場所の歴史的強度を名島は持っているからである。本当の意味で町の利益になるためと考えるなら、殊、名島、否「神宮ヶ峯」に関しては、個人の好き嫌いや趣味を超えた「場所」、日本人なら誰もが遺伝子共々親しんできた「聖域」を再生することに勝る構想はないように思われた。

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