2023. 1. 14 permalink
死の塵、不要の屑
人様が「いらん」(要らぬ)と言った物で建築をつくれないか。
建築そのものでなくてもいい。誰かが捨てた要らぬ物を拾って、それを何らかのかたちで建築に繋ぎ留める。そのために、ゴミ、屑、スクラップ、廃材といった消費社会の中で見捨てられた廃棄物とそれらの再生方法について継続的に考え、手を動かし、新たに物をつくり直していく。旧約聖書の創世記に出てくるアダムの名が「塵から生まれたもの」という意を含んでいることから、これらの取り組みの名を「アダム計画」としようと思う。
まだ具体的に物を生み出している訳ではなく、いまは“そのまえ”の段階であるから、すこしゴミの話でもしよう。
人が暮らしていればゴミが出る。塵は積もるし、埃も立つ。ひとたび身体に酸素を取り込めば、肺は炭酸ガスを吐き出し、胃に食べ物が収まれば、いずれは便が出る。暑かろうが寒かろうが身体は熱を放ち、汗は滲む。皮脂だって染み出す。垢や角質は酸化とともに色を有しては、われわれの目に汚れを突きつけてくる。生理現象に限ってもこれだけ廃棄物が出るのだから、生きているうちは、塵、芥と縁を切ることは難しい。生きているうちどころか、死んだとしても人はこれらと無縁ではない。命が尽きたとて、急に肉体がきれいさっぱり消え去り、清らかな魂だけになるなんてことはない。肉体は多くの場合、土葬もしくは火葬に出される。土に埋められれば、土中の微生物に分解されて土に還り、燃やされれば、肉や筋は焼け、骨、灰が残る。どこまでいっても塵である。他の動物も似たようなものであろう。草木であっても、土から芽を出し、花粉を散らして、実を付け、落とし、やがては朽ちて微生物に分解され土に還っていくということを考えれば、自然物全般の生と死は塵、土、灰と切っても切れない関係にあることがわかる。
自然物が死んだ後の、塵、土、灰がおさまる先は大地である。母なる大地に収まったそれらは、植物を根から支え、土中生物たちの養分や棲家となる。自然物の死から生じた塵は、そのまま自然に委ねてしまえば、新たな生へとつながり、自ずと再生する。“自然に委ねる”を“神に委ねる”に置き換えてみてもいいかもしれない。古くから伝わる民話や神話には、塵や垢が神もしくは人智を超えた力によって命を宿すという話がいくつかある。例えば、「力太郎」の名で知られる岩手県の民話の冒頭では、垢(細胞の死)でつくられた人形が命を宿す描写を見ることができる。海を渡ってユダヤ教・キリスト教文化を紐解いてみれば旧約聖書の創世記2章に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という節を見つけることもできる。垢も塵も人智を超えた力によって蘇る。自然物の死は自然や神に委ねられることで再生する。残念ながら自然や神とは違い、人間は死んだ物を蘇らせることはできない。しかし、死んだ物(もしくは要らぬ物)から要る物をつくることはできる。人間が自然物の死から新たに“要る物”を生み出している場は暮らしの中にすでにある。食である。
わたしたちの食文化は自然物の死とつよく結びついてる。「まな板の鯉」などと言うが、まな板は自然物の生死を分かつ場であると同時に、死物から食物を生み出す重要な場である。野菜も肉も魚もまな板に上がれば食として蘇る。まな板は物の終わる場所であり、始まる場所でもある。
建築における“まな板”は、どこにあるだろうか。それは、材料の生まれる場、加工場である。古今東西を見渡してみれば、建築の始まりは木、石、土などに見いだせると思うが、それら原始的、根源的マテリアルが、明確に建築の方向を向き始める場、建築を目指し始める場は材料加工場であったと思う。20世紀に建築生産の工業化を推し進めたフランスの建築家ジャン・プルーヴェは、建築家のオフィスは材料の製作工場にこそあるべきだと言ったそうだが、まな板の傍にいない料理人を料理人と呼べないことを考えるとその哲学にも頷ける。自然から切り出された、あるいは自然の死物となった木や石などの根源的なマテリアルが、建築の方向を向き始める場や瞬間を、建築家が見守るということは非常に重要なことであるように思う。そうでなければ、物はすぐにそっぽを向いてしまう。使われなければ捨てられてしまう。特に死物は、自ずと塵や灰に向かっていくのだから、こっちを向いてくれるよう弛まぬ努力をしなければ、すぐにまた塵や灰の方を向き始めてしまう。野菜も肉も木材も石材も、すこし目を離した隙に廃棄の闇に飲み込まれては塵になる。一寸先は闇。一刹那先には塵である。そうなるとそれらを蘇らせるためには自然の、神の、力を借りなくてはならない。手遅れにならないように、物にそっぽを向かせてはならない。物を生み出す人間は、まな板に、加工場に、張り付いていなくてはならない。
しかし、近代を起点として状況は大きく変わっていっている。食について言えば、冷蔵技術により食材は簡単には腐敗しなくなった。高速道路等のインフラ整備と輸送技術によって、野菜も肉も魚も生産地から全国各地へ十分な量が供給されるようになり、まな板の上にのる食材には事欠かなくなった。また、防腐剤と食品加工技術の進歩によって気軽に手に入るようになった加工食品や、安価で手軽な飲食を提供してくれるファストフード店などの台頭により、われわれは、自分で、まな板の上にある自然物の生を絶たずとも食っていけるようになってしまった。物は増え、便利にもなったが、自然物の死と人間の食との距離は着実に離れていっている。また、供給される物が増えた分だけ余る物や要らぬ物も増えた。放っておいても腐りもしない食材が溢れている現代においては、生死を分かつ場、食を生み出す場としてのまな板の意味は薄まっているのかもしれない。
建築も同じ潮流の中にあるように思う。もともと加工場や建設の現場は、死物としての木や石といったマテリアルと人が向き合い、それら根源的なマテリアルを建築の方向へと向かわせる場であったが、工業化の流れの中でその意味は薄れていっている。工場機械で複雑に加工された均質な建材や、現場でシステマチックに接合できる材料や工法は非常に便利であり、有益である。しかし、その反面、自然物の死と建築の距離は遠ざかったようにも思う。便利な人工物が増えた分だけ、自然物と人との親密さは幾分か失われた。また、食がそうであったように、建築においても加工技術と輸送技術の進歩によって十分な量(もしくは十分すぎる量)の建材が供給されるようになった結果、それらの中には余る物や要らぬ物が目立つようになってきた。
便利さのために過剰に供給される物と、結果的に使われず余ってしまった物、不要になった物。現代は、便利で快適な時代ではあるが、その快適さを成立させるために用意された過剰な人工物は、生活から溢れ、こぼれ落ちては不要な物として廃棄される。人間社会が便利さや快適さを追い求めるのを突如として止めることはないであろうから、人工物の供給は止まらない。それらの廃棄も止まらないであろう。こうなると人間は不要な人工物を灰にするために躍起である。出来るだけ早く効率的に、廃棄されたものを燃やしては埋める。要らぬと判断されてゴミ箱に捨てられた可燃ゴミは、一週間も経たないうちに収集車に積み込まれては焼却場に持ち込まれる。可燃性の化学繊維もプラスチック屑の類も、その出自を問わず、効率的に燃焼するようにピットの中で均質に混ぜられ、焼却され灰になる。最近では、ゴミ焼却場と発電設備を合わせて計画するのが一般的になり、「ゴミは電気になる」と言えるようになったので、「廃棄と焼却」の大義名分、建前にも事欠かない。人工物であっても可燃でさえあれば、無用の長物をエネルギーとして蘇らせる活路を人間は見出したのである。しかし、不燃ゴミ、粗大ゴミの類は、まだそうはいかない。人間による処理が必要である。自然から生まれたものであれば、どれだけ複雑な生き物であっても、極論、土に埋めるか燃やすかしてしまえばいいが、人のつくった複雑な機器や設備を野に放って神や自然の力で葬ってもらうことはできない。可燃ゴミとして燃やす事のできない複雑な人工物は人間による解体と分解が必須である。現代の建築などはその最たるものである。足元に埋まっている杭や基礎も、頭を飾る屋根材も、自然に還るようにはできていない。不要となれば、人間が屑、塵となるまで解体・分解して処分するか、何かしらの形で新たに“要る物”として蘇らせるしかない。死んだ自然物が人を待たずして腐敗していき、塵の方へ向かっていくように、不要となった人工物も人を待ってはくれない。不要とされたその瞬間からそれらは分解屋へ、スクラップ置き場へ、焼却場へ、処理場へ、塵、灰へとつながっている道に沿って遠くへ行ってしまう。そうなる前に、それら不要な物たちを“要”に変換する場を設けなくてはいけない。自然物の生死を分かつ場、自然物の死を食として蘇らせる場はまな板であったが、人工物の要・不要を分かつ場、不要な人工物を“要”として生み出す場はどこにあるべきだろうか。どこにつくれるだろうか。前述のプルーヴェの哲学を借りれば、不要な物が生じる現場にこそ、その場はあるべきである。要・不要を分かつ場と、新たな要を生み出す場は同じである方がいい。溢れる不要の屑を建築に繋ぎ留めようとするのなら、解体の場、分解の場にこそ飛び込んでいくべきである。解体場が原寸場である。
冒頭にこの取り組みの名を書いたが、その名は、この取り組みを進めていく上で、「アダムの誕生」をいつも念頭においておくためのものである。旧約聖書において、神が自然物の終わり(死)と始まり(生)をつなげたように、この取り組みを通して人工物の終わり(不要)と始まり(要)をつなげること。人間が自らつくりだした物の屑で、新たに物をつくり直すこと。神が塵からアダムを生み出したように、人間も屑、ガラ、スクラップから道具を、家具を、建築を生み出せる。最初の人間アダムを生み出すための塵は、大地の中にあった。不要から要を生み出すための屑は、いま建築の中にある。その建築は大地のように深い。
仏滅
文責・牛島