2025. 4. 2 permalink
宝満堂の建つ場所1
2023年秋より、若杉山の麓の宗教施設の改修計画に関わらせていただいている。根本山宝満堂という、1990年に立教された宗教団体。教理教則については、私が伝達する立場でないが、既存とはいえ、建築が建つ場所については、できる限り、深く理解した上で、改修計画と施工に関わっていきたいと思っている。
宝満堂には、糟屋郡上須恵町上須恵に大きく3ヶ所に建物群がある。一つは最も麓に大日堂、これを中心に、高宮椙神社、社務所のエリア。二つ目は、車で3分ほど、登ったところに、宝満神宮寺と、さまざまな神仏をお祀りする境内~奥宮。もう一つは、そこから、歩いて1分のところに、唐招提寺の宝蔵を復元新築した、宝蔵と、それを観覧できる飲食店。いずれも、若杉山の南麓の半径400mの円の中に、それらが配置され、連携しながら行事が執り行われている。そのスタイルは、一言で言えば、日本の古くからある神道の形式を基本としつつ、仏教文化も含んだ神仏習合により、個人の心の成長を含めて、国や世界の平和を願うことが主題となって、祭事を中心に日々の活動をされている。これら宗教活動の主旨を頭のどこかに踏まえつつ、これらが建つ場所の歴史を、紐解いてみたい。
若杉山(681m)は、福岡市近郊における二大霊山のうちの東の一山という。神功皇后が、三韓征伐の際に、この山の霊杉の枝を手折りして、戦勝祈願としたことに始まり、弘法大師、是無畏三蔵も入山祈祷を行った神奈備(かんなび=神の宿る山)。もう一山は、西の飯盛山(356m)=飯盛神社であり、今は上宮が跡地になっているが、下宮と中宮の三段構成?となっていて、御祭神は伊弉册尊(いざなみのみこと)である。若杉山の頂上にある太祖宮が伊邪那伎尊(いざなぎのみこと)祭神であるから、国産(くにうみ)の夫婦神が、福岡市街の両翼に夫婦山として顕れている。福岡平野とはそういう構成を持っていたということをも知る。
若杉山の霊山としての性格は、どちらかというと山の北麓である篠栗町がメインではないかという印象があるだろう。これは、弘法大師が遣唐使派遣の太宰府駐留の期間(806-7)の間に、この辺りを霊場として清め巡ったという歴史、そしてそれを受けての江戸末期以降の霊場整備=篠栗四国八十八ヶ所(日本三大新四国霊場)が今に伝わっていることが大きいだろう。私自身、山頂の太祖宮と奥の院(本尊弘法大師像)を目指しての入山の際には、(温泉やキャンプ場もあるし)賑やかな篠栗から入るのが正しい?入り方ではないか、という潜入感を持っていた。
ところが、宝満堂の改修計画のご縁を得たことにより、南麓側を調べているうちに、こちらには、最澄がいた。延暦23年(804年)、伝教大師最澄は留学僧(還学生)として大阪難波を出航して唐に渡る途中に瀬戸内海で遭難した。一行は出戻ったが、彼は九州に上陸した。必ず太宰府を経由するのが遣唐使船の慣習であったため、最澄は新たな遣唐船を待つ1年3カ月ほどの間、太宰府宝満山麓の竈門山寺に籠り、修行と祈願の日々を送ったという。その太宰府(竈門神社)から9km北に2時間ほど歩けば、若杉山南麓の須恵町佐谷にたどり着く。ここに伝教大師最澄に関わる事物がいくつかみられる。佐谷建正寺は、最澄の開基とされ、木造十一面観音立像(県指定文化財)や、木造伝教大師像(町指定文化財)は、最澄の作とされている。伝教大師像を自ら彫るために、鏡の代わりに自らの姿を写したとされる独鈷水(影見の井)。その側の小さな祠の中に木彫は今も鎮座している。(最澄のゆかりのこの集落は観音谷と言われていて、実はここから若杉山に登ると、弘法大師像のある奥の院に直通している!)桓武天皇の勅命により遣唐使請益僧(しょうえきそう)であった最澄の太宰府滞在の主な目的は、卑近には、目前の遣唐使船の航海安全の祈願であったとされるが、同時に、国家鎮守や地域の安寧祈願、これから入唐して、請来する天台の宣伝も含んでいたかもしれない。それが九州の地においては、竈門神社の神宮寺であった竈門山寺、つまり太宰府を拠点に、田川〜香春町~宇佐八幡、そして佐谷が垂迹地の一つであったようである。
若杉山という、決して山深くも、高くもない霊山の南北に、空海の修行地と最澄のそれが背中あわせ、いや対面座になっているということになる。この二人は、当時世俗化した南都仏教に代わる真の仏教を請来するという国家政策に身を捧げた、歴史上の二大高僧であるのは言うまでもない。一方で同時代に生きた彼らの後半生においては、密教を間に置いて激しく交わり、決別した二大聖でもある。天台宗という顕教を唐より請来した最澄が、手弁当で動くしかなかった私度僧(しどそう)空海の持ち帰った密教を取りれようと、伝法を請うものの、最終的には、空海は制する。密教は、借経や写経といった文字で伝えられる「筆受」では、伝法できないという。「空海の風景」中央公論社/1975司馬遼太郎に、彼らの心理的な対立ドラマが想像的描写も含めて描かれている。
『空海は三密という。三密という言葉と思想は空海がもたらした。人間の活動機能を身(しん)と口(く)と意(い)の三業に分けているが、宇宙の原理にも身と口と意=三密という働きがある。人間の三業は本来宇宙の三密と本質として同じであり、さらには行者の行法しだいでは自分自身の三業を宇宙の三密とまざまざと一体化することができる、という。このことは行法としても思想としても、密教の真髄を端的にあらわしているといっていい。
「お前(最澄に対して)は理趣釈経※などというが、お前の三密がすなわち理趣ではないか。同じ意味で私の三密も釈経なのである。私がお前の体を得ることができないように、お前も私の体を得ることができない。繰り返すが、お前は理趣釈経という。お前は誰にそれを求めるのか、求めようがあるまい。また私も誰にそれを与えるのか、与えようもないことだ」』※『理趣経』の不空(705-775)による解説本
空海がこの返信を最澄に宛てて後2年半後、二人は断交する。空海から言わせれば、解説本を借したところで文字で分かるようなものではなく、自らの身口意=つまり行じて体得せよ、と。密教は頭で考えてわかる顕教のようなものではない、という内容のようである。
最澄は、803~4年(延暦22-23)の入唐前の1年半ばかりを、前述したとおり福岡各地で過ごしていて、そして空海は唐より帰国した806年から先上京までの1年ほどを、(史実としては不明ながら)太宰府、観世音寺を拠点としつつ近隣での修行、布教、慈善活動が続いていたようである。現代から見れば、ごくわずかなすれ違いがあるが、地理的には若杉山というピンポイントで両者は対面している。北麓の篠栗に空海が居て、最澄が南麓の佐谷に居た、という歴史は偶然とは言い難い因果を感じつつ、またこの偶然とは言い難い地歴が、若杉山の土地性の深くを言い当てているように思われる。宝満堂は、その南麓に建っている。
(高木)