2025. 5. 25

第215(日)個人の技能、集団の技術<第117(日)改筆>

ものを作る、ということを言うときに重要な分かれ道があって、それは、集団が持ちうる技術によるものと、個人に宿る技能によるもの、とがあるように思います。集団の技術とは、資本力によって、より大きな工場と、生産設備を備えていて、人間がそれらを動かして、より同一のものをよりたくさんつくるための技術です。産業革命以降に大きく発展したものの作り方です。それに対して、個人の技能とは、より小規模な設備や道具によって、その人間の中にしか宿ることのできない技能による、通用語としては、職人技術です。別の言い方としては、富の蓄積によって、工場を構え、設備投資をし、そこに多くの人々を雇用して大量生産をする「工業性手工業」、それに対して、生産に必要な資本を自ら所有し、自らの家族や、雇用人の規模で行う「家内性手工業」とも言えます。

建築というのは、そのような集団的なものづくりと、個人の技能によるものづくりの両方が混沌と混在していて、どちらか一方に統一していくことがない、そういう性質のものづくりであると思います。なぜ一方だけにならないか、というと、建築は、毎度毎度、さまざまな条件、状況の場所に建てられ、そしてほとんどの場合、そこを動かないで一生を終えることが前提となっていることが関係しているのではと考えます。建築の敷地は生産設備(資本)の所在地とはなれないので、作り手は現場に通うことが前提となりますが、一つの建築の全てをその場所で、個人の技能で作るのは、生産性や経済性が悪くなってしまいます。可能な限り工場で作っておいて(工場生産率を上げて)、それを現場に運んで、人間によって、組み立てることになる。組立工的な技術を合理化の基本としながら、現場で発揮される個人の技能が求められる場合がある。あるいは、汎用技術としての組立工が出入りする合間に混じって、熟練した技能をもった個人(職人)が入りやすい「隙」がある。

建築はその後、その場所を動かず、可能な限りそこに長く存続していたいという、潜在的な願いを持っていて、だから、なんらかの意味で場所とつながっていたいという人間の行為とも言えます。例えば、旅先で食事をした時に、そこで採れた野菜や果物、肉魚であれば、そこまで出向いた甲斐が生まれる様に、建築も、その場所に建ち続けるということの意味=生き甲斐を、素材や、形や、そこでの人間の行為の中に含みたいのではないでしょうか。その時、場所に拠らず広く汎用的であれという根っこを持った集団の技術に対して、個人に宿る技能の有効性が見えてきます。場所に馴染んで、長くそこに存在し続けられるように、という願いは、集団として共有はできても、その場所に即してものをつくろうとすれば、より小回りの効いたものづくりの方が適しているのは言うまでもありません。個人に宿る技能が入り込みやすい「隙」とは、このことであるかもしれません。場所に根付くことが前提となる建築が、車や、家電や、家具などの屋根の下で量産できるモノと、大きく違えるものづくりであるところだと思います。

私は、個人の技能に関わるものに、興味を持っています。なぜだろう、と理由を自問自答し続けています。まずは率直に、モノに向き合って格闘し続けている一人の人間そのものに、関心を持ちます。次は、その人はどういうモノを作っているのだろう、というモノへの関心です。そして次は、日夜格闘を続けるその人間を通して、モノを見てみたい、となります。彼の存在を経由して、モノを見てみたい。という私自身の内的な欲求です。ちょっと例えが悪いかもしれせんが、カンフー映画をみて、勧善懲悪のカンフーの達人に没入するがあまり、見終わると自分が強くなった感じがする、という感覚移入の気持ちよさです。一定の共感を覚えたものづくり人間を介して、その人が生み出したモノを理解しようとする、その人の世界に(自分から)入っていって、そのモノを鑑賞する心地よさようなものです。重要なのは、モノの前後に人間像が映る、ということです。これは、私の内的な感覚から述べていますが、建築に関わらず、食や芸術他、個人の技能を楽しむ全ての鑑賞者内に起こっていることではないかと思っています。

もう一つ、理由を振り絞ります。個人の技能の存続に、不可解な普遍性がある、と仮定しています。工業的にモノをつくる目的は、考え抜いて作り上げた良質な性能の一品を、量産することによって、適正コストに押さえ、多くの人に行き渡らせることだと思います。量的な普遍化は、その性能を含めて数字や、カタチで表すことのできる明解な普遍性です。一方、個人的、職人的なものづくりの意義は、理屈として、申しにくいものです。まず、生産される量として、たくさんは出来ません。では、質的にはどうかというと(そこに存在価値が委ねられるのですが)、ここにおいても、もはや質というだけでは、手放しで職人技術の方が優れているとも優れていないともいえない時代です。ウィリアムモリス(1834-96)が、産業革命期のイギリスにおいて、粗悪な工場製品を厭い、工業技術の時代にふさわしい手工業を模索するというアーツアンドクラフツ運動は、技術史における重要な格闘の歴史ですが、現代の工業製品は、特定の生産地を除いて、かの時代のような粗悪品という水準ではなくなっています。むしろ、家内制手工業などではなしえない高精度のプロダクトが日々生み出されている時代です。IPHONEなどの携帯電話を想像すれば、分かり易いでしょう。しかし、そのような工業化時代を成就する今現在であっても、手工業が完全には無くなるという気配は感じることができません。(ビジネスとして成立しているかどうか、という問題は別にあるとして)ある種あやふやな立ち位置でありながら、また、危ぶまれながらも、手工業あるいは手仕事というのは、消えてしまわない。ならば、消えないのはなぜか?という逆方向からの眼差しが、今日的な視点に適しているかもしれません。
この不可解な取引の説明として、人間が今だ求めているから、と帰納法的に考えてはどうでしょうか。そしてなぜか無くならない不可解さは、モノを利用する消費者、需要者だけに限らず、生産者、供給者をも含めた人間社会全体に関わるものとして考えられそうです。例えば、カレー好きが、完成品として売られるレトルトカレーだけで満足できるか、という命題に置き換えます。パックに入っていて、温めるだけですぐに食べられるレトルトカレーは工業的なものづくりです。しかし、では非常食とか、安物の類かというと、今日の商品を見ていて、むしろその逆で、豪華さを唱った商品の百花繚乱です。世に出る前には、商品開発に相当な時間もコストも、才能も、おそらく費やされている。そして、(さっきまで銀色の袋の中に入っていた、という余韻を忘れれば)食べても美味しい。しかしながら、カレー好きとは、レトルトの枠内に収まる人のことはないでしょう。彼らは、店を転々と食べ歩く。そしていつしか、自家製カレーを探求し始める。市販のカレールーもありますが、場合によってはスパイスを追求し、とうとう原産地から直接取り寄せる。探求の矛先は、どんどん深くなりながら、とうとう自分の店を始める。ここまでであれば、一供給者の動機の強さだけの話ですが、その後その店が存続し続けられれば、需要側を含めて社会に成立できた、となります。

量産品を生み出す商品開発がいかに素晴らしいものでも、(大抵はそれで済ますことができたとしても)人間の感性がそれでは満たされない場合があるということです。レトルトがどのように発展的展開を拡げても、カレー人口の全てを満足しえないのと同じく、建築においては、プレファブのような資本力を前提にした技術が、建築的欲求、趣向のすべてを満足させることにはならない。汎用的工業的なものづくりではどうしても埋め合わせることができない、生理的なのか、もしくは心理的欲求が人間側にあるのかもしれない。無くならない理由が手前にあるというより、結果的にそのように、言えわざるをえないのです。

 

第117(日)個人の技能、集団の技術  改筆

2025. 5. 4

第214(日)無休店礼賛

ゴールデンウィーク後半始まりの日に、ひさしぶりにcasacuomocafeうきはいそのさわに出向いた。オープンしてから、家族を連れていっていなかったこともあり、また、トイレのサインが、未設置のままであったこともあり、また、2Fの民泊の今後の計画のこともあり、で、いそのさわの社長の家族との交流も兼ね、つまり、公私遊び仕事ゴチャ混ぜの現場入りとなった。

お昼はゆっくり、事務所で苦闘した酒枡照明含め~椅子や床や壁の小改修空間を公私混同で楽しもうと思っていたら、予約でいっぱい。ということで、3年前に作った土間のカウンター席に弾き出される。久しぶりの原田さんのグラデーションひび割れ仕上げをゆっくり見遣りながらの、ピザ、ハンバーガー。その間、インテリアデザイナーの方がお酒を買いに土間に分け入ってくると、真っ直ぐに土壁に反応し、しばし込み入った話を交わす。サルバトーレ肝入りの料理は、値段は高いが、さすがこれはという味。特にハンバーガーは、開店してのち5ヶ月間の「食べ物の恨み」がはらされた。昨年末のオープン前日、結局夜中3時まで苦闘した照明器具設置に没頭し、同行した弊社スタッフだけが試食に預かるのを横目で見つつ、自分は脚立から降りることができず、食べ逃してしまっていたのだ。

さて、カフェは、昨年末に開店して以来、基本的に休みなしで営業しているという。サルバトーレの母体が背景にあるとはいえ、店は日本酒の蔵元の直営である。休暇体系的に、無休の飲食店をよく片手間でできるなあと思う。うまいことシフトを回しているのかと、中川社長に投げかけると、一人、専任のスタッフを雇っていて、彼は、開店してからここまで、一日も休まず、働いているという。彼=ヤハタサン(名刺を交換していないので、漢字不明)は、(確か)関東の方で、不動産の営業を経験して、うきはに地縁があって、うきはにやってきて、cuomocafeの立ち上げ社員としてこの酒蔵に入社した。どうして未だ店休日を設けていないのかというと、何曜日を休みにすべきか、探っているという。さすがにいずれは、と言うことのよう。それにしても、5ヶ月、無休の店を回すために、身を投じて、フルシフトで従事し続けている一従業員の話に、涙がピザの上にこぼれそうになった。

本人が体調を壊しでもしたら経営者が責任を問われるのではないか?と中川社長に投げると、「あいつ、タイムカードつけないんだ」という。この段階で、心の中の涙腺は全開レベルである。彼がどういう思いで、この店に取り組んでいるか、本人に尋ねずに想像だけで、しばらく見ていたい気がする。恋しい人と別れて、このうきはに流れ着いてきて、その浮世をしばし忘れんがために仕事に打ち込もうとしているのか、あるいは、いずれ家族となる相方のことを想いながら、立身の糧として、今を生き抜こうとしているのか・・だがそんなことは、どうでもいい。一日も休まず、なにかに打ち込んでいる人間の精神に、素直に惚れ惚れとするのである。なぜに殊更これを書くかというと、世の中が、正反対であるから。二言目には、少子化→人手不足、で、働き手は売り手市場で、労働条件としての賃金と就労時間は、働き手に優位な状況だと。これだけ貰わないと、とか、これだけ休めないと、・・と言いながら職を選べるという傾向が隅々にまで行き渡ろうとしている。働き方改革は、雇用者もしくは資本家が労働を搾取する、というマルクス論的な実態とそれへの警戒意識が社会化したと言うこともできるが、一方で、勤め先などに身を捧げるような働き方は、自分の人生を無駄にしてしまう、というような、(どちらかというと動物由来の利己的な)個々人のマインドセットも、改革の源になっているだろう。雇い側が強いるブラック性、その範疇の企業や業態については、制されて当然だが、全ての働き手の意識の中の労働基準に、リミッターをかけるようなトレンド、ましてやスタンダードというのは、どうだろう。社会全体としてむしろ害悪ではないか。これは、日々、事務所を営みながら、規模の大きな取引先との取引で、少なからず感じている。休みやリモート、ダブルワークOKなどの高待遇を豪語する大企業の担当者の働きが、(人としては)必ずしも、良い仕事をしていないと思う。お金を払う側として、不快な思いを少なからず経験してきて、そのように思う。

国力=人口×労働時間×能力(労働生産性)という。今は、人口が減って、労働時間も減らすが、労働生産性のみを上げることで国力を回復(あるいは維持)するのだということになっている。 労働時間を一定以内に収めることによってむしろ労働生産性を上げることの合理性は、関係著書の示すところである。→ 第212(日) だが、人間は機械ではない、が逆手に言えるのだ。「機械ではないから、休まねばならぬ」は前提にあるとして、「機械ではないからこそ、休まずにやるところに何かが生まれる」可能性を持っている、のではないか。 機械はやった分だけ物事を生み出すが、人間はやった分だけ、分かりきった生産量が生まれる、というような、電気料金のような、従量的な製造者ではないのではないか。人間には(身体と)精神があって、その精神が身体に振り回されずに、より優位になっていったときに、思っても見なかった価値を生む可能性を持っているのではないか。→第210(日)

働き方改革は、労働条件の平準化、という点において、むしろ、人間疎外だと思う。人間のことが本当に読めていない、人間のポテンシャルを低いところに合わせた社会トレンドにすぎない、と思っている。だから、ヤハタサンのような人を応援したくなる。こういう人は、世の中がどうであるとかから、おそらく自由である。自分ももうちょっと生きたら60だけれども、こうありたいと背骨を伸ばす。

2025. 4. 20

第213(日)大工さんの暗黙知(大工メシとハナシの会を終えて)

2023 宮前迎賓館 灯明殿 木部建具枠(引き戸エンジンのカバー)

金曜日の夜は、大工さんたちとの、現場ではないところでの交流の場だった。ゲストの方々には、普段はカッターマット台であるスタンディングデスクに、廃プリントの図面をランチョンマットがわりにして、その上で、楽しんでもらった。

山下建設の吉良大工は、彼がペーペーの時から知っていて、かれこれ25年近く。事務所で設計監理する木造や木質建築の多くに関わってもらい、最近はそれらの現場の仕切り役として重要な役割を果たす、正真正銘の大工。その仕事も素晴らしいけれども、料理もうまい。し、とにかく手際がいい。そのまま居酒屋ができると皆が口々に言った。普通のスーパーで買ってきた普通の鳥もも肉を普通にソテーしただけなのに、なんだかほくほくしている。聞けば火加減の調節だとか。それをどこで知ったか、と聞くと、料理番組でちらったコツを言っていたと。自分もほぼ毎日賄い食をつくるけど、こんなところでジェラシーがメラメラと燃える。互いに本業が別にある者として。

そしてまた、そこに、ベトナム人の見習い大工が、家庭料理としての揚げ春巻きを作ってくれた。春巻きは、こちら日本人としてはある一定のイメージがあるが、食材の調達も彼に任せた。どんなだろうと見やるとあっという間に具材ができていて、もう自分にはなにが使われているのかわからなくなっている。それを20本、あっという間に漬け揚げして、皆に配膳される。洒落た飲食店にある、生春巻きの華やかな断面とはうらはらな、地味な家庭料理風の体だったが、とても美味しかった。聞けば日本で初めて作って、他人に食べさせたという。

彼ら大工のハナシは、当然高邁さとは無縁の、大工の域を出ないハナシではある。しかし、彼らの中に、大工仕事をきわめようとする精神の中に、なんとも言葉では言い難い内容の、作家魂の感覚があることを知る。設計者たちが互いにそうであるように、大工一人一人の個、オリジナリティーがあって、それらを確かめ合っている、凌ぎ合っている、らしい。以前にも、そのようなハナシを聞いたことがある。全く同じ設計の内装であっても、面取りの取り方だけで、空間が変わるのだ、という。この和室はあいつがやった、こいつがやった、ということをその空間の面取りから読み取るという。柱や長押、竿縁などの、木の線材の角という角は、面取りをどうするかという、判断がなされる。和室ならば、人は面だらけの空間に囲まれるということになる。系面(最も90度に近い角面)なのか五厘(1.5ミリ)一分(3ミリ)二分(6ミリ)・・などの面取り寸法を、設計者が指示するとすれば、口頭か、もしくは、原寸図か、ということだが、そこを結構軽く考えていた、とその時気づいた。恥ずかしながらつまり、事務所の描く図面には表記していなかった。実際に空間に手を掛ける大工は、そこへの感覚が、自分達(設計者)より一歩前に居る、のではないか。そういえば村野藤吾の原寸図には面取りが明記されていた。さらには、吉田五十八や、吉村順三もが、それぞれが異なった生い立ちながら、結果的には、設計者(構想者)でありながら、実行者的な何某かの疑似体験か感覚によって実行者のそれを備えた人たちではなかったか。そういう大工仕事の、奥深くの、真に面白いところは、これからは、なくなっていく一方なのだろう。大工さんの絶対数が減っているだけでなく、そういうインスタ映えに寄与しないような手法、手口を追求していこうなどという大工は、さらに少ないだろう。でもこここそが大工として個の深くに宿るオリジナリティーを突き詰められる部分ということなのかもしれない。

そのような微細な個人差を追求する(が顕れる)余白のようなものが、仕事の面白さを担っているのかもしれない。この余白における実行、つまり大工が仕事の都度に、木材の面を取っては、自分が作り上げた小世界=空間を確かめ確かめ、そして面取りによって、自らの木造空間の理想を発見する。技能を通して知るという方法知、これこそはもしかしたら、『暗黙知』というのではないだろうか。マイケルポランニーの言う暗黙知は、松岡正剛氏が(1042夜)でいうように、誤解されやすい概念のようでもある。『パン職人がつくるパンのおいしさの知のようなものでも、料理人の、(レシピとして書けないような)味付けの技能のこと言うのではない』と言っている。コロンブスがインドを目指したらアメリカ大陸を発見し、アインシュタインが特殊相対性理論を求めて、一般的相対性理論を発見していく類の発見の、「プロセスに関わる知」ということのようである。・・・・大工工事は、世界を変えるような科学の発見ではないけれども、各々の大工が、自己を納得させようと幾度となく同じ手仕事を繰り返し、その技能が発見を呼び覚ましていく、ポランニーの示そうとした『暗黙知』は大工の世界にも内蔵されているのではないか。

仕事が面白くなければ、あとは、時間とお金の良い条件を目指すのみとなる。お金と時間の条件だけで比較されるから、条件の改良の難しい大工の成り手が減る。それが今日本(もしくは先進各国)で起こっていることだと思う。量産型でない建築を作っていくラインがせねばならないことは、一つ、仕事における暗黙知を涵養することだと思っている。大工工事に限らず、どの仕事の中にも暗黙知が潜んでいると考えたい。

2025. 1. 5

第212(日)労働生産性について<場所の技術>

しめ縄:高木尚子 / 背景:2023大気の窓<中西秀明>

人が働く労働環境の条件にかかわり、「最低賃金引き上げ」「時間外労働の短縮」という2軸が語られている。これらの働き方の改革は、各々の生活の快適性を求める当面のものに対して、日本の経済的な国力の回復、という背景の方が、喫緊であるらしい。日本は、他の先進国とは比べものにならないスピードと規模で、人口減少が進んでいて、それに伴って一人当たりGDP(国内総生産)が9位(1990)から28位(2018/購買力調整後)に低下しており、今後の人口減少とを鑑みると、GDPを回復するには、「労働生産性」を上げるしかなく、そのために、一定の労働時間の条件下での賃金引き上げが、第一課題である、ということのようである。

ちなみに、「女性の社会進出」や「少子化対策」は、矛盾しているではないかと言われつつも、堂々と社会政策化しているのは、すべて、上記の人口(この場合労働人口)減を回復して、GDP低迷に歯止めをかけるという大義を最大目的としているからこそ、と考えるとわらなくもない。これらいくつもの政策課題には、風が吹けば桶屋的な、にわかには合点のいかない因果関係が背後に控えているが、それは、その手の論者の理屈を単純に学ぶしかない。(「国運の分岐点」2019/講談社/デービッド・アトキンソン

では、日本の国全体が、労働生産性を上げる=賃金を上げるには、どのようにすべきか?上記の書籍は、賃金を上げることができない中小企業は、潰れてもらって、それを乗り越えて成長できる(会社を大きくできる)企業だけが存続していくように、変革していくことが、免れられない(文意)と書いてある。

ここに至り、心は折れ始める。設計事務所などは、極々限られた事業所以外は、すべて、中小企業の定義の中の、さらに小規模企業である。これらを整理してでも、という国家的政策を受け入れられるかどうか、25年、細々と営んできた我が事務所が、いつの間にか処刑前の囚人であったことに、ようやく気づく。「日本の生産性向上の障害となっているのは、日本企業の99.7%を占めて、これまで日本経済を支えると言われてきた357万の中小企業なのです。」「(日本は)中小企業が多すぎるということが、社会保障システムの崩壊だけではなく、日本社会に様々な暗い影を落としてしまっているのです。」いや、自分自身の設計業のみならず、これまで、少なからず事務所が設計の建築づくりにつきあってきてくださった、固有名詞で動く職人さんたちの顔が、浮かぶ。新年早々、全く明るくないイメージ。

グローバル経済の中で、日本という国家が溺れてしまわないために、の結果、中小企業はこのような立ち位置に立たされている。逆になぜ、日本がこれまで、中小を優遇する経済政策活動をしてきたか、という風土のようなものに、関心が生まれるが、なかなか、それを立て切りするような論説に、すぐに出会うことができない。

ここからは、手前味噌な意見を言うしかない。

私の事務所は、設計の趣向として、開室当初より、資本力にささえられた工業技術に対して、個人に宿る技能を組み込みながら、現代建築を作っていこうという姿勢を、これまで続けてきた。延床面積がおおよそ1000㎡を越え始めると、元請の施工会社も(会社規模として)自ずと大きくなっていき、作り方として、工場生産、であったり、汎用技術であったりの合理的な現代の工法を前提としつつ、それでも、そこに個人の技能を絡めるという、技術のデザインをしながら、建築のデザインをしてきた。と思っている。技術の使い分けをするという設計の仕方が、設計者としての個人の技能であったとも言える(言われる)かもしれない。

そこに、わかりやすいマルクス論が食い込んできた。斎藤幸平氏によるカールマルクスの資本論の読解である。19世紀のマルクスが予言的に危惧した資本主義の成れの果てが、我が建築現場にありありと映し出されていることに気づいた。建築に限ったことではないと思うが、個人が体得する技能的な格差をなくすために、技術は平準化される。それが産業革命以降の工業の主旨に相違ない中、建築行為は、言うまでもなく、常に各現場で作る必要があり、平準化の難しい生産行為の一つでもある。無数の地域と現場に争いながら平準化を求めて、建築基準法始め、JIS、ISO規格や、その他の規格、フォーマットが、各工程にまとわりつく。それらを、一つ一つクリアしながら、一つの建築が出来上がる。目的としては、品質管理の一言に収められる。一方で、作り手個人の判断は、限りなくゼロに向かって、決められたやりかたに合致するかどうか、だけが求められるようになる。

「価値のためにものを作る資本主義のもとでは、立場が逆転し、人間がモノに振り回され、支配されるようになる。この現象をマルクスは『物象化』と呼ぶ」「労働者の自発的な責任感や向上心、主体性といったものが、資本の論理に『包摂』されていく。」「資本主義のもとで生産力が高まると、その過程で構想と実行が、あるいは精神的労働と肉体的労働が分断される」労働者のこのような状況を『疎外』とマルクスは言ったという。

昨年末、イチローがテレビに出ていた。元大リーガーの松井秀喜と高級そうな鉄板焼き屋で鉄板を囲み、今のメジャーリーグが面白くない、という話を交わしていた。理由は、すべて、データ管理による戦法であるから、だという。saber metricsといって、徹底した過去の対戦データの詳細をパッドに映し出し、ベンチから選手に指示を出す。個々の選手は、なにも考えなくなるではないか、そしてかならず日本の野球もそうなるだろう、と二人は嘆く。野球にさえ、『物象化』が巣食っている。

品質が担保されるプロセスとして明快であり、迷いも不安もなく、ものづくりができるようになる一方、みんな、どこかでおもしろくないな、と思っている。しかし、それをしないとお金がもらえないので、それに従うしかない。そして、いつのまにか、それさえすれば、お金がもらえる、と考えるようになる。あとは、どれだけ時間を短縮できるか、という思考パターンへ。

僕たちの事務所の建築づくりは、そういうルーティーンな建築づくりが魂レベルで受け入れられず、そんなものなら仕事にしないほうがいい、という言葉にならない反動でやってきた。そういうものづくりに同調してもらえる作り手と共感を求めて、一緒にやってきた。マルクス的に言うなら、すこしでも関わる個々人が『疎外』されないものづくりを通して、苦しみや不安90%と楽しみや悦び10%(時間比)のプロセスの結果、瑞々しい建築となり、それを施主に届けよう、とイメージしてきた。マルクスはあくまで後付けではあるが、でも、このように、非合理なものづくりにまだ未来がありそうであることを、感じさせてくれる。

前段の話とあわせみる。建築行為が国家が運営指標とするGDPに寄与するには、作り手は全員『物象化』しなければならない、ということになるだろう。労働生産性を旨として産業を改善すべき、は、国民全員が加担すべき経済立国の前提に立っているが、面白くなくて、経済だけが成り立つ、という文明国でいいのだろうか。経済が成り立った後、とりかえしのつかない退屈が社会に巣食ってしまわないのだろうか。中小企業は、もはや、整理淘汰されるべき対象かもしれないが、マルクスの危惧からすれば、生産性が低くても中小企業の何某かの類は、人間が物象化しない、疎外されないために、むしろ救済されるべき対象なのではないか。当面は労働生産性の低い事業者が淘汰されるという方向性を回避するのは、グローバル経済として考えると不可能なことはわかる。ならば同時に、現資本主義という社会フォーマットからよくよく考え直すべきだろう。その上で、労働生産性は、本来、語られるべきである。

2024. 8. 18

第211(日)喫茶スイスの喪失

全てのものは、いずれなくなることは、わかっている。わかってはいても、それがなくなると、衝撃を受ける、類のものがある。無視できぬほどの衝撃、心の空隙の埋め合わせとして、一つは、そのかけらを何らかの形で、再利用する、保存するというのがある。人間のオコツもそうだろうか。そして、そのような実物保存の他に、情報として残すという方法がある。

閉店したとある喫茶店の記録。場所は滋賀県彦根市のこと。彦根城の近くで50年ほど営まれた、地元のみならず、県外の常連客にも支えられた有名店が、2022年にその幕を閉じた。きちんと写真に収め、図面に描き落とされ、店主との回想録含む、一冊。

著書は、川井操氏。滋賀県立大学で教鞭を取る建築家である。彼は、集落研究という、作家性とは真逆の、時間軸の長い集団による自然発生的な建築の原理を探るその視線で、一軒の喫茶店を眺めていたのだろうか。昭和の中盤以降に流行ったという喫茶店のスタイルを色濃く留めた建築の、ロードサイドショップ化していく50年のサバイバル。建物が、というよりも美味しいメニューを値段を抑えて作り続けてきた夫婦によって、建物が生き続けた。人間の営みがセットになった建築にこそ、おそらく著者は強い関心、愛着を寄せている。その感性が、出版社を自ら立ち上げ、本を作らせた。著者は、学生時代からこの喫茶店の客として、愛着を積み重ねてきたのだと思うが、この本の出現を、彼の一客としての履歴を一旦横に置いて、受け止めてみたい。

ハンバーグや、オムライス、定食などの、ご飯のおいしさと、そのリーズナブルさが、忘れられない、と常連だった寄稿者全員が口を揃える。その描写がみなそれぞれの表現で繰り返されていて、次第に読んでいる方まで、口内に唾液が分泌されながら味が伝わってくるようなのである。百聞は一見に、の逆説になるが、歳をとると、老獪な仮想現実によって、知らない味であっても、なんとなく想像できそうなのである。一喫茶店の全存在が、こうやって記録として結実することによって、5~600キロ西に居る無縁の一人に、身に覚えのない、けれどもなぜか深い喪失感を伝える。

最近、とある駅前で、約束時間の直前の20分の合間に、昼食をとってしまおうと、何某ギュードンチェーン店に入った。700円弱の出費だったが、正直、胃は食物らしきで満たされたが、心は満たされなかった。はずれない、が入店動機のチェーン店が、結局ははずれてしまう。申し訳ないが、これだったら断食した方がよほど身体によかったと後悔した。こういう店の正反対なのだろう、喫茶スイスは。やはり、個人で頑張っている「飯屋」を、こちらも頑張って探して、そこにお金を落とすべきだと反省した。その人個人が頑張っていて、その気概のようなものが、地域にもなんとなく浸透しているような店、こういうのがなくなったら、この世(その地域)は本当に終わりだ、と切に思った。喫茶スイスの喪失は、それを知っている人たちだけの喪失ではない、と思った。