ものを作る、ということを言うときに重要な分かれ道があって、それは、集団が持ちうる技術によるものと、個人に宿る技能によるもの、とがあるように思います。集団の技術とは、資本力によって、より大きな工場と、生産設備を備えていて、人間がそれらを動かして、より同一のものをよりたくさんつくるための技術です。産業革命以降に大きく発展したものの作り方です。それに対して、個人の技能とは、より小規模な設備や道具によって、その人間の中にしか宿ることのできない技能による、通用語としては、職人技術です。別の言い方としては、富の蓄積によって、工場を構え、設備投資をし、そこに多くの人々を雇用して大量生産をする「工業性手工業」、それに対して、生産に必要な資本を自ら所有し、自らの家族や、雇用人の規模で行う「家内性手工業」とも言えます。
建築というのは、そのような集団的なものづくりと、個人の技能によるものづくりの両方が混沌と混在していて、どちらか一方に統一していくことがない、そういう性質のものづくりであると思います。なぜ一方だけにならないか、というと、建築は、毎度毎度、さまざまな条件、状況の場所に建てられ、そしてほとんどの場合、そこを動かないで一生を終えることが前提となっていることが関係しているのではと考えます。建築の敷地は生産設備(資本)の所在地とはなれないので、作り手は現場に通うことが前提となりますが、一つの建築の全てをその場所で、個人の技能で作るのは、生産性や経済性が悪くなってしまいます。可能な限り工場で作っておいて(工場生産率を上げて)、それを現場に運んで、人間によって、組み立てることになる。組立工的な技術を合理化の基本としながら、現場で発揮される個人の技能が求められる場合がある。あるいは、汎用技術としての組立工が出入りする合間に混じって、熟練した技能をもった個人(職人)が入りやすい「隙」がある。
建築はその後、その場所を動かず、可能な限りそこに長く存続していたいという、潜在的な願いを持っていて、だから、なんらかの意味で場所とつながっていたいという人間の行為とも言えます。例えば、旅先で食事をした時に、そこで採れた野菜や果物、肉魚であれば、そこまで出向いた甲斐が生まれる様に、建築も、その場所に建ち続けるということの意味=生き甲斐を、素材や、形や、そこでの人間の行為の中に含みたいのではないでしょうか。その時、場所に拠らず広く汎用的であれという根っこを持った集団の技術に対して、個人に宿る技能の有効性が見えてきます。場所に馴染んで、長くそこに存在し続けられるように、という願いは、集団として共有はできても、その場所に即してものをつくろうとすれば、より小回りの効いたものづくりの方が適しているのは言うまでもありません。個人に宿る技能が入り込みやすい「隙」とは、このことであるかもしれません。場所に根付くことが前提となる建築が、車や、家電や、家具などの屋根の下で量産できるモノと、大きく違えるものづくりであるところだと思います。
私は、個人の技能に関わるものに、興味を持っています。なぜだろう、と理由を自問自答し続けています。まずは率直に、モノに向き合って格闘し続けている一人の人間そのものに、関心を持ちます。次は、その人はどういうモノを作っているのだろう、というモノへの関心です。そして次は、日夜格闘を続けるその人間を通して、モノを見てみたい、となります。彼の存在を経由して、モノを見てみたい。という私自身の内的な欲求です。ちょっと例えが悪いかもしれせんが、カンフー映画をみて、勧善懲悪のカンフーの達人に没入するがあまり、見終わると自分が強くなった感じがする、という感覚移入の気持ちよさです。一定の共感を覚えたものづくり人間を介して、その人が生み出したモノを理解しようとする、その人の世界に(自分から)入っていって、そのモノを鑑賞する心地よさようなものです。重要なのは、モノの前後に人間像が映る、ということです。これは、私の内的な感覚から述べていますが、建築に関わらず、食や芸術他、個人の技能を楽しむ全ての鑑賞者内に起こっていることではないかと思っています。
もう一つ、理由を振り絞ります。個人の技能の存続に、不可解な普遍性がある、と仮定しています。工業的にモノをつくる目的は、考え抜いて作り上げた良質な性能の一品を、量産することによって、適正コストに押さえ、多くの人に行き渡らせることだと思います。量的な普遍化は、その性能を含めて数字や、カタチで表すことのできる明解な普遍性です。一方、個人的、職人的なものづくりの意義は、理屈として、申しにくいものです。まず、生産される量として、たくさんは出来ません。では、質的にはどうかというと(そこに存在価値が委ねられるのですが)、ここにおいても、もはや質というだけでは、手放しで職人技術の方が優れているとも優れていないともいえない時代です。ウィリアムモリス(1834-96)が、産業革命期のイギリスにおいて、粗悪な工場製品を厭い、工業技術の時代にふさわしい手工業を模索するというアーツアンドクラフツ運動は、技術史における重要な格闘の歴史ですが、現代の工業製品は、特定の生産地を除いて、かの時代のような粗悪品という水準ではなくなっています。むしろ、家内制手工業などではなしえない高精度のプロダクトが日々生み出されている時代です。IPHONEなどの携帯電話を想像すれば、分かり易いでしょう。しかし、そのような工業化時代を成就する今現在であっても、手工業が完全には無くなるという気配は感じることができません。(ビジネスとして成立しているかどうか、という問題は別にあるとして)ある種あやふやな立ち位置でありながら、また、危ぶまれながらも、手工業あるいは手仕事というのは、消えてしまわない。ならば、消えないのはなぜか?という逆方向からの眼差しが、今日的な視点に適しているかもしれません。
この不可解な取引の説明として、人間が今だ求めているから、と帰納法的に考えてはどうでしょうか。そしてなぜか無くならない不可解さは、モノを利用する消費者、需要者だけに限らず、生産者、供給者をも含めた人間社会全体に関わるものとして考えられそうです。例えば、カレー好きが、完成品として売られるレトルトカレーだけで満足できるか、という命題に置き換えます。パックに入っていて、温めるだけですぐに食べられるレトルトカレーは工業的なものづくりです。しかし、では非常食とか、安物の類かというと、今日の商品を見ていて、むしろその逆で、豪華さを唱った商品の百花繚乱です。世に出る前には、商品開発に相当な時間もコストも、才能も、おそらく費やされている。そして、(さっきまで銀色の袋の中に入っていた、という余韻を忘れれば)食べても美味しい。しかしながら、カレー好きとは、レトルトの枠内に収まる人のことはないでしょう。彼らは、店を転々と食べ歩く。そしていつしか、自家製カレーを探求し始める。市販のカレールーもありますが、場合によってはスパイスを追求し、とうとう原産地から直接取り寄せる。探求の矛先は、どんどん深くなりながら、とうとう自分の店を始める。ここまでであれば、一供給者の動機の強さだけの話ですが、その後その店が存続し続けられれば、需要側を含めて社会に成立できた、となります。
量産品を生み出す商品開発がいかに素晴らしいものでも、(大抵はそれで済ますことができたとしても)人間の感性がそれでは満たされない場合があるということです。レトルトがどのように発展的展開を拡げても、カレー人口の全てを満足しえないのと同じく、建築においては、プレファブのような資本力を前提にした技術が、建築的欲求、趣向のすべてを満足させることにはならない。汎用的工業的なものづくりではどうしても埋め合わせることができない、生理的なのか、もしくは心理的欲求が人間側にあるのかもしれない。無くならない理由が手前にあるというより、結果的にそのように、言えわざるをえないのです。