2025. 8. 17

第218(日)スピングラスと吉阪隆正

「spinglass exhibition」を恵贈いただく。展覧会のサブタイトルに、「非線形の物語」とある。非線形とは、本書末の鼎談で松岡恭子さんが述べられているとおり、「方程式があって、それに従い、自動的に、ルールに従って、結論が導かれるのとは異なり、結論に直結しない増幅性や複雑性を意味する語である。」この意味が、スピングラスという事務所名として結実している。「スピングラスとは、電子スピンがバラバラな方向を向いたまま凍結された物質の状態のことです。バラバラなためにスピンの間にフラストレーションが生じていますが、凍結されたことで時間的に秩序をもった状態であると考えるそうです。物質で例えるなら準安定状態の黒曜石やガラスのようなものだと説明を受けました」

建築をつくるプロセスや、建築が時間を重ねて社会に使い込まれていく生き様にも、そして各人各要素が、個性を保ちつつ、全体としての安定に寄与して、社会に成り立っている、という世界。

書籍になる前に鼎談としてこのようなお話に参加させていただき、その時は、スピングラスという普段づかいではない耳慣れない響きの背後の、その意味に、なんとなく聞き覚えのある親近感が湧いていた。その時は気づけなかったが、これは、「不連続統一体」ではないか、と後で思った。建築家吉阪隆正(1917-1980)の後半生を貫く世界観が詰め込まれた語である。暑い休みに入り、倉方俊輔さんの「吉阪隆正とルコルビジュ」王国社2005 を引っ張り出して、そのあたりを再読。この言葉には、大きく三つの柱が見出せると纏められていた。最初は「組織論」。一人一人の個性が最大限に発揮されることで、全体の調和が得られるような組織のあり方。支配と被支配の関係ではない、組織の決定機構。吉阪研究室内での設計作業の中で、吉阪が各メンバーの働きを最大限に引き出すように、その距離感を計りながら運営されていたことを事例に、「人」と「人」の間の不連続ながらの統一について。言葉の出発点はこの「組織論」だとされる。二つ目は「形態論」としての「物」と「物」の関係をさす。一見するとバラバラに見える形態が寄り集まって全体が出来上がっているさまのことだが、その時、全体の分割として部分が成り立っているのでも、部分の総和として全体があるのではない、が添えられる。部分と全体の有機的関係、形態同士のコミュニケーション。そして三つ目は「計画論」。人々が個性の元に生きる現代では、これまでのように隣り合う物同士が「連続」しているとは限らない。隣接性や類同性だけにたよらない、「分散」や「可動」「更新」といった(建築の強い枠組みとしての「集中」「固定」「不変」のイメージを解体することによって立ち現れる)「不連続」の中に「統一」を模索しようとした。不連続な個々が連続している(discontinuous continuity!)ということを、建築のみならず、工業製品から地域計画に至る人間の造作物の理想とした。

吉阪さんの「不連続統一体」は、本人が言説として詳細を定義していないため、意味深長なキーワードだけが禅語のように残った。上記は倉方さんの著書から自分が要約したものだが、言わずもがな、吉阪門下の方々はじめ、後世、歴代、さまざまに語られてきた言葉である。

そこから幾許かの時間がすぎて、全く別の場で、松岡恭子さんがスピングラスという語を用いて、吉阪さんが求め歩いた理想の何某かを掘り起こしたのではないか、と考えると、興奮が治らない。本書鼎談にも記されているが、建築を学ぶにあたって、早稲田に行きたいと思ったことがある、という衝撃的な告白と、それとこれがどう関係するかはわからないが、異口同音の両者の概念には、もはや、目を逸らし、馬耳東風を装うわけにはいかない。

ついでながら、丁度読んでいた書籍の中に、スピングラス、不連続統一体、を思い起こさせる内容に出くわしたので、以下引用させてもらう。

「家族的行動決定機構」>モノに心はあるか>森山徹>2017新潮選書

郡司ペギオー幸夫氏(早稲田大学教授)の近著、「群れは意識をもつ この自由と集団の秩序」では、お笑いトリオのダチョウ倶楽部の「熱湯風呂コント」をヒントに考案された数理モデルが、沖縄の西表島に生息し数千、数万個体から成る群れを作って干潟の上を練り歩く「ミナミコメツキガニ」というカニにおける、各個体の自由な運動と、まとまった群れを両立する仕組みとして紹介されています。では熱湯風呂コントとは、どのような内容なのでしょうか。

このコントでは、ダチョウ倶楽部の三人、肥後、ジモン、そして竜兵のうち、誰かが目の前に置かれた熱湯風呂へ入らなければなりません。もちろん、誰も入りたくないので、押しつけ合いが始まります。しかし、やがてリーダーの肥後が、「わかったよ。まあ、芸人としては目立てるんだから、それはそれでおいしい。よし、オレがやるよ!」と手を挙げます。すると、ジモンも、「いや、それならオレがやるよっ」とむきになって手を挙げます。最後に、残された竜兵が渋々と、「じゃあ、オレもやるよ」と手を挙げます。すると、間髪入れず、肥後とジモンが「どうぞどうぞ」と引き下がり、竜兵に熟湯風呂へ入る役を譲る、というより、「見事に押しつける」のです。

郡司氏らの研究チームは、群れの中のミナミコメツキガニの個体を観察した結果、個体それぞれが、肥後やジモンのような、「身を引くことを前提に、積極的に手を挙げる役」と、竜兵のような「皆がやるならと、消極的に手を挙げる役」を適当に使い分けていると予想し、そのような性質をもつ仮想のカニをコンピュータ内にばらまき、様子を観察しました。すると、仮想カニは、自分の動きを自由に決めながらも、野外における実際の力ニの群れのような、まとまって練り歩く集団を作ったのです。

各仮想カニは、自由に目的地点を決め、そこへ向かって動くことを繰り返します。しかしカニは大量にいるため、複数個体が同じ地点を目指す場面が頼繁に生じます。例えば、三匹のカニが同じ地点を目指そうとしているとします。この場面を、ダチョウ倶楽部の三人が熱湯風呂を前にハイハイと手を挙げている場面と同様と考えます。すると、二匹の仮想カニは、「どうぞどうぞ」と言わんばかりにすっと行先を変えて別の地点へ向かい、残りの一匹が、風呂へ入らざるお得なくなった竜兵のごとく、その目的地点へ「至ってしまう」のです。

このように、各仮想カニは、自由に行先を決め、あるときは肥後・ジモン役、あるときは竜兵役になることで、衝突せず、運動を続けるのです。そしてこのような集団が、結果として適度にまとまり、同時に、各カニが自由な運動を実現できる群れを形成するのです。

「家族的行動決定機構」は、メンバーが自由で、かつ、全体がまとまっていることを特徴とします。その背景には、メンバー同士の普段からの「手放しの信頼」「自由であることの尊重」があります。ダチョウ但楽部モデルは、家族的行動決定機構の要である「手放しの信頓」や「自由の尊重」といった仕組みを説明する、最も単純な原理なのではないかと、私は考えています。(引用終)

動物行動学の分野でもこのような研究がされているということが、蚊帳の外から見るほどに新鮮である。個々が(ある程度)自由であることによって、全体がまとまっている、という組織論は動物にまで遡ることができる。そのような社会環境から人が建築というモノを作っていく時に、作られたモノにもスピングラス的な同様の構造を見出していく、というモノをつくる前提となる考え方=思想である。確かに建築は、ダイヤモンドの分子構造のようなものをモデルにして目指すということもできるかもしれない。でもやはり、自分もそこは、スピングラスだな、不連続な統一の方だな、と思う。もし建築がダイヤモンドを目指す思想しか許さないモノづくりだったならば、自分はとっくに、挫折していたと思う。

2025. 7. 27

第217(日)贈与論×ものづくり

贈与論 マルセルモース 吉田禎吾/江川純一 訳 2009 ちくま書房

ふと、思いついて、マルセルモースの贈与論(1925仏)を読み返した。いつぞや、斜め読みかつ半分ぐらいで読み捨ててしまっていたものを、再度。、もしかしたら、自分がやり続けていることの根源を説明してくれるかもしれない、と思いついた。そんな名著ならば、今時であれば、AIにまとめさせて、それを読書感想文としてアップすれば、ブログとして成立するんだろう、などと少し考える。まだ今日の時点での私は、自らの人間としての機能維持を諦めておらず、そのリハビリのために、お手製で読書感想文を書こうとキーを叩く。忘却のスピードを遅らせるための書き起こしでもある。スマートではなく、センシブルに。

月並みに記せば、モースの贈与論は、当時未開社会といわれたポリネシア~メラネシア、北米北西岸地域の社会における、贈与にもとづく社会の安定と、それらの近代社会への有効性を問題提起した、人類学社会学の著作である。贈与というからには、ブツブツ交換とか、売買といった即物的なモノの交換とは別に扱われる。半ば強制的でありながら、好意を装った(私利私欲も含んだ)贈与と、それに対する、半ば義務的となる返礼が、コミュニティー間で、繰り返される。そのような社会ではある種の秩序が保たれ、これらのモノの交換を介した社会の営みを、「全体的給付体系」と名づけられる。モースは、それらのフィールドワークから、当時の先進国家においても、市場原理に従って値段が定められて行う等価交換や、売買ではなく、交換される価値の大小が当事者の裁量による贈与と返礼により保たれる社会の安定方法を、適用すべきではないかと投げかける。

一方私は、取引されるモノは、モノとしての単純な価値とは異なる何かが常にモノに付帯していることに、全意識を傾けながら拾い上げる。完全に我田引水な読み方かもしれないが、その部分を、前後から切り取って羅列する。

「贈られた物に潜むどんな力が、受け取った人にその返礼をさせるのか」

「現代に先行する時代の経済や法において、取引による財、富、生産物のいわば単純な交換が、個人相互の間で行われたことは、一度もない」

「受け取られ、交換される贈り物が人を義務付けるのは、貰ったものは生命のないモノではないということに由来する」

「その物を通じ、贈り物を受領した物に対して、影響力を持つのである。というのは、タオンガ(品物)はその森、郷土、土地のハウ(霊)によって生命を吹き込まれているからである」

「それは物そのものが霊であり、霊に属しているからである。この点から、何かを誰かに与えることは、自分の一部を与えることになる」

「要するにそれは様々なものの混淆である。魂はモノの中に混入し、物は魂の中に混入する。生命と生命が混淆する。このように人間と物が混淆し、人間と物はそれぞれの場所から出て互いに混じり合う。これがまさに契約と交換なのである。」

中西秀明+原田進 「水 湯気 泡 酒」 2023 博多百年藏

建築づくりにおいては、職人は頼まれてから、手足を動かして、モノを作り、建築として、施主に引き渡す。これは、モースが見出した彼の地の社会の、贈る、返す、とは、もはや異なる取引であるかもしれない。地理的に限定された一地域における限られた取引を超えて、現代は、貨幣により世界中のあらゆる富を交換蓄積しうる社会を営んでいる。それでも、人間と人間の間で、モノを取引するということには、(求む求めざるにかかわらず)モノにはモノ以外の概念がまとわりついているのではないか。現代は、ほぼ、モノは貨幣との交換物としてしか、生産はされないけれども、それでも、そこには必ず、両側に、人間がいる。それらが取引される場に置いて、買主はAIロボットでして、ということはありえない。取引の最奥に控えるは人間対人間である。その時、価値の交換物として移動するモノは、果たしてモノだけか?もしかしたら、重要なのは、むしろ、人間同士がそれぞれの心を交換しているのであって、モノそのものはむしろその媒介物に過ぎない、ということがいえないだろうか。少なくともその仮説を持って、「贈与論」を読むと、これでもかというほどに、モノはモノだけではないものとして、取引されてきた=存在してきた=作られてきた、ことがわかる。

2025. 7. 6

第216(日)個人技能×地域=場所の技術<第140(日)改筆>

人間には、場所の隔たりを小さくしようとする営みと、場所による差異を愉しみたいという矛盾した欲望があるように思います。日本中、風景も人も言葉も、モノも、一見するところの地域差が見えなくなる一途であり、さらに、世界の隔たりも小さくなる方向=グローバリゼーションを経て今があります。その反動として、地域主義に回帰しようという議論が生まれる。建築家という職業は、ビジョンと行動力に比例して場所の限定を受けず、広範囲に仕事をしていく職業、ナショナルブランド、もしくはワールドブランドへ道が通じていると言えます。その道へ通じていることだけは、全ての建築家に共有されていて、それぞれの近代的自我を燻っています。もちろん、道は開かれてはいても、実際にそのような歩みは誰でもはできません。大多数の建築家にとって、あるいは作り手を含めて、否、すべての建築従事者には、基本的には場所の限定を受けている、という前提があると思いますが、そちらに注目する方が面白いかもしれません。最初から「リージョナルブランド」に目標を据えて生きる道もあるのではないかと思います。

とは言いつつ、建築には、「ご当地グルメ」と称して発掘される地域の食べ物のようにはもはや地域差を見いだせてはいないようです。差の大部分は、地域が生み出したもの、というよりは、やはり、設計者である建築家個人か、住み手使い手持ち主個人の表出でしょう。そうでないとすれば、寒冷地と温暖地の大きな気候差の間には違いが見えるでしょうし、技術的、工法的、舞台裏的な小さな差異であれば、それなりにあるのかもしれません。一方で、古民家、と今呼ぶかつての住宅には、技術的な地域差、意匠的な地域差が明快にありました。間取りと言われる平面図においては、まずは、畳の大きさが、大きく3地域で異なっていました。京間(1910×955)中京間(1820×910)関東間(880×1760)という寸法規格=モージュールが異なっていて、そこに間取りの法則の差異が加わります。そして最もわかりやすいのは屋根の形状です。著名な観光地同士で比較するなら、例えば、岐阜県白川郷の合掌造りと、福島県大内宿の寄棟造りです。その他、佐賀~熊本の有明海沿岸を中心とした「くど造」も全国でこの辺りにしかない、独自の屋根の形状でした。屋根の形状は、とにかく一目瞭然の地域差ですから、地域間をめぐる旅行者にとってはさぞ楽しかったのではないでしょうか。

建築はおそらく、食べ物以上に、時代と共に劇的な変化をしてきました。情報化×グローバリズム化の社会と共にモダニズム建築は、世界に広がり、国際様式化へと向かいました。20世紀に世界で起こったことと同様の原理が一国の内側にも起こり、建築の作り方は、国内で一つの方向へ向かいました。国内様式化という言葉はありませんが、そんな実態があります。特に戦後以降の、日本各地に建てられた建築には、近代化への目覚ましい発展がありましたが、地域差をなくしていく考えのものでした。平準化へ向かって、劇的な変化を遂げた、ということになります。日本中何処でも同じ味が流通できる冷凍食品と、その土地土地のsolefoodは、一つの地域の中で、それぞれがそれぞれのままで併存できると思いますが、日本中どこでも建てられるメーカー住宅と、地付きの大工工務店が建てる注文住宅とは、構法や建材、間取りに至り、底辺で共有され、同一化の方向へ向かいます。1960年ごろまでは、日本の住宅のすべては、各地での地付きの工務店により建てられていましたが、その後プレファブ住宅が世に現れ、工業化された住宅が全国に展開していきます。プレファブメーカーの全国シェア率は1割にも満たないのですが、各地の地付の工務店の工法が、工業的な作り方に近づいていくことになります。例えば、それまでの在来工法では、開口部は全て木製であったものが、プレファブメーカー、地場工務店問わず、ほぼ100%がアルミサッシとなっていく、という具合です。また、江戸時代まで、京都以西と、中京地域、関東以北で大きく3種類の畳の大きさがあったものが、公団間(1700×850)、という企画が生まれ、そのままそれが全国共通のものとなっていきます。食におけるご当地グルメは、プロアマ関係なくその地域の全ての人々が育てるでしょうが、建築は産業、つまりプロが先行して育ててしまいます。プロゆえの勤勉さと切実さが、経済性、意匠性共に、最適解へ向かい、一つの答えに向かって近づいていく、ということになっています。

私自身は、木や土や漆喰などという自然素材を用います。それだけでローカルなイメージ、地域に根ざした建築を作っている、と見られることがあります。東京から1000キロの距離でモノを作っていることも相まって、いつのまにかに地域主義の議論に加わっていることが少なくありません。気候の違いを捉えたり、モノ、素材、地産地消的、あるいは原料産地から消費に至るモノが流れる経路への意識(トレーサビリティー的)を持って、確かに30年、建築を設計してまいりました。そこから地域を語ってもしてまいりました。しかしながら、モノの次元で地域主義を考え語る、つまり、モノの所在地を追っているだけでは、なかなか地域性というものの可能性が見えてこない。もしかしたら、モノを作る人間の居住地(所在地ではなく)から考えるとどうだろう、と思うようになってきました。

独立して間も無く、楽只庵(ラクシアン/2002)という書人の小さな住宅を設計させてもらいました。正に、敷地の根伐り土*である赤土を外壁に塗りました。創造神が、泥を捏ねて人間を作った、という旧約聖書の一節を引っ張り出したりはしませんでしたが、「だからこの建築は場所から生まれたような建築です」というような説明をしてきました。ところが、その場所の土を建築の土壁にするには、土を土壁に仕立てる技術がなくてはなりません。当時の左官の材料メーカー一般は、(珪藻土ではなく)いわゆる、土を売るなどしませんし、ましてや、ここの土を左官用の材料に調整するなどの個別の製品開発など行うはずがありません。

ここで日田の原田さんという左官職人=「人」が出てきます。彼が居たからこの壁ができた、と言えます。楽只庵は福岡市南区の平和という場所に建っています。そこの土で建築の部位ができている、という意味では、建築と場所は距離ゼロでつながっています。一方原田さんは、直線距離で50キロ南東の大分県日田市の人です。場所とのつながりという意味では、少し広がりますが、しかし、彼は、今の左官屋さんが誰もはできない土の仕事を、私だけではなく、いろんな人から時々に頼まれて、やっています。特殊技術化してしまった土壁は、彼の住む半径100キロ内に、100件以上、存在しています。彼の住んでいる場所を中心に、彼の塗った土壁が、100件ある。地図上にプロット(下図)すればわかりますが、土壁というまさにその場所から採れたオリジナリティーある建築の壁が、原田さんを中心に、一定数存在する。一般的に、建築の職人さんは、時に、頼まれて泊りがけの現場へ動くこともありますが、基本的には、自宅から通勤できる範囲内であるのが通常業務です。彼らは会社員のようには転勤があるわけでもないので、夜逃げでもしない限り、そこに居続けます。彼らが一つの場所に職人人生かけて居座り、そこを軸足にして、オリジナリティーある特定の仕事をした時に、そのエリアに一定の事例(モノ)と工法=技術(人)が蓄積していく、と考えられないでしょうか。

大分県日田市の原田左研(左官工事)と山口県下関市の山下建設(大工工務店)、のそれぞれの、仕事履歴のプロット。山下建設も原田左研とまったく同様のことが言える、個人の技能をもった工務店。彼らの仕事もまた、半径100km内にその挑戦的な木工事の事例を蓄積してきた。創業者、山下正己氏については、第118(日)〜121(日)木:大工:山下正己-1〜4、及び、第213(日)「大工さんの暗黙知」の日曜私観に。

現代の技術の伝承は、工業化されていればいるほど、人間間で行われるというより、資本力を仲介して、行われます。資本力=設備の力の中に、技術そのものが含まれています。個人の技能は、そこに必要であっても、あくまで設備に付随している。だから技術は、設備力>人です。設備もいってみればモノなので、それに支えられた工業は、条件さえ整えれれば、場所を大きく移動することができる。人間はその移動に従属的に移動、もしくは現地調達される。かつてのように人間から人間への個人の技能を伝え合うという伝承のされかたは、工業×資本の伝承と比較すれば、場所の限定を受けやすい、ということが言えそうです。

楽只庵という建築を地域に根ざした建築の一事例としつつ、同様の事例を追っていきながら、地域主義を確認していくこともできるとは思います。ただしモノを追っていくことにより、主義の定義の内外を仕分ける作業も発生するでしょう。これは一般の人には、判別し難いアカデミックな作業です。さらには、商業主義に掬われてしまえば、必ず紛い物が生まれます。一方で、それとは別に、逆引き、つまり原田さんという人に宿る技能の方から追いかけてみてはどうでしょう。彼らは動かない、というところがポイントです。そのような個人の技能を、可能な限り地図上にプロットしていった時に、建築の作り方が、「場所」にプロットされることになります。その濃淡が密かに場所に性格を与えている、と考えられないでしょうか。個人の技能が、その人が一生をかけて、積み重ねていった時に、また、その間に、なにがしかの相伝が果たされながら、ある一定の区域内に濃度を与え、『場所の技術』として形成されていく。この可能性は、現代においても残されているように思います。こちらの方が、より多くの人にわかりやすい情報ではないでしょうか。

 

140(日)地域主義の時代<改筆>

 

2025. 5. 25

第215(日)個人の技能、集団の技術<第117(日)改筆>

ものを作る、ということを言うときに重要な分かれ道があって、それは、集団が持ちうる技術によるものと、個人に宿る技能によるもの、とがあるように思います。集団の技術とは、資本力によって、より大きな工場と、生産設備を備えていて、人間がそれらを動かして、より同一のものをよりたくさんつくるための技術です。産業革命以降に大きく発展したものの作り方です。それに対して、個人の技能とは、より小規模な設備や道具によって、その人間の中にしか宿ることのできない技能による、通用語としては、職人技術です。別の言い方としては、富の蓄積によって、工場を構え、設備投資をし、そこに多くの人々を雇用して大量生産をする「工業性手工業」、それに対して、生産に必要な資本を自ら所有し、自らの家族や、雇用人の規模で行う「家内性手工業」とも言えます。

建築というのは、そのような集団的なものづくりと、個人の技能によるものづくりの両方が混沌と混在していて、どちらか一方に統一していくことがない、そういう性質のものづくりであると思います。なぜ一方だけにならないか、というと、建築は、毎度毎度、さまざまな条件、状況の場所に建てられ、そしてほとんどの場合、そこを動かないで一生を終えることが前提となっていることが関係しているのではと考えます。建築の敷地は生産設備(資本)の所在地とはなれないので、作り手は現場に通うことが前提となりますが、一つの建築の全てをその場所で、個人の技能で作るのは、生産性や経済性が悪くなってしまいます。可能な限り工場で作っておいて(工場生産率を上げて)、それを現場に運んで、人間によって、組み立てることになる。組立工的な技術を合理化の基本としながら、現場で発揮される個人の技能が求められる場合がある。あるいは、汎用技術としての組立工が出入りする合間に混じって、熟練した技能をもった個人(職人)が入りやすい「隙」がある。

建築はその後、その場所を動かず、可能な限りそこに長く存続していたいという、潜在的な願いを持っていて、だから、なんらかの意味で場所とつながっていたいという人間の行為とも言えます。例えば、旅先で食事をした時に、そこで採れた野菜や果物、肉魚であれば、そこまで出向いた甲斐が生まれる様に、建築も、その場所に建ち続けるということの意味=生き甲斐を、素材や、形や、そこでの人間の行為の中に含みたいのではないでしょうか。その時、場所に拠らず広く汎用的であれという根っこを持った集団の技術に対して、個人に宿る技能の有効性が見えてきます。場所に馴染んで、長くそこに存在し続けられるように、という願いは、集団として共有はできても、その場所に即してものをつくろうとすれば、より小回りの効いたものづくりの方が適しているのは言うまでもありません。個人に宿る技能が入り込みやすい「隙」とは、このことであるかもしれません。場所に根付くことが前提となる建築が、車や、家電や、家具などの屋根の下で量産できるモノと、大きく違えるものづくりであるところだと思います。

私は、個人の技能に関わるものに、興味を持っています。なぜだろう、と理由を自問自答し続けています。まずは率直に、モノに向き合って格闘し続けている一人の人間そのものに、関心を持ちます。次は、その人はどういうモノを作っているのだろう、というモノへの関心です。そして次は、日夜格闘を続けるその人間を通して、モノを見てみたい、となります。彼の存在を経由して、モノを見てみたい。という私自身の内的な欲求です。ちょっと例えが悪いかもしれせんが、カンフー映画をみて、勧善懲悪のカンフーの達人に没入するがあまり、見終わると自分が強くなった感じがする、という感覚移入の気持ちよさです。一定の共感を覚えたものづくり人間を介して、その人が生み出したモノを理解しようとする、その人の世界に(自分から)入っていって、そのモノを鑑賞する心地よさようなものです。重要なのは、モノの前後に人間像が映る、ということです。これは、私の内的な感覚から述べていますが、建築に関わらず、食や芸術他、個人の技能を楽しむ全ての鑑賞者内に起こっていることではないかと思っています。

もう一つ、理由を振り絞ります。個人の技能の存続に、不可解な普遍性がある、と仮定しています。工業的にモノをつくる目的は、考え抜いて作り上げた良質な性能の一品を、量産することによって、適正コストに押さえ、多くの人に行き渡らせることだと思います。量的な普遍化は、その性能を含めて数字や、カタチで表すことのできる明解な普遍性です。一方、個人的、職人的なものづくりの意義は、理屈として、申しにくいものです。まず、生産される量として、たくさんは出来ません。では、質的にはどうかというと(そこに存在価値が委ねられるのですが)、ここにおいても、もはや質というだけでは、手放しで職人技術の方が優れているとも優れていないともいえない時代です。ウィリアムモリス(1834-96)が、産業革命期のイギリスにおいて、粗悪な工場製品を厭い、工業技術の時代にふさわしい手工業を模索するというアーツアンドクラフツ運動は、技術史における重要な格闘の歴史ですが、現代の工業製品は、特定の生産地を除いて、かの時代のような粗悪品という水準ではなくなっています。むしろ、家内制手工業などではなしえない高精度のプロダクトが日々生み出されている時代です。IPHONEなどの携帯電話を想像すれば、分かり易いでしょう。しかし、そのような工業化時代を成就する今現在であっても、手工業が完全には無くなるという気配は感じることができません。(ビジネスとして成立しているかどうか、という問題は別にあるとして)ある種あやふやな立ち位置でありながら、また、危ぶまれながらも、手工業あるいは手仕事というのは、消えてしまわない。ならば、消えないのはなぜか?という逆方向からの眼差しが、今日的な視点に適しているかもしれません。
この不可解な取引の説明として、人間が今だ求めているから、と帰納法的に考えてはどうでしょうか。そしてなぜか無くならない不可解さは、モノを利用する消費者、需要者だけに限らず、生産者、供給者をも含めた人間社会全体に関わるものとして考えられそうです。例えば、カレー好きが、完成品として売られるレトルトカレーだけで満足できるか、という命題に置き換えます。パックに入っていて、温めるだけですぐに食べられるレトルトカレーは工業的なものづくりです。しかし、では非常食とか、安物の類かというと、今日の商品を見ていて、むしろその逆で、豪華さを唱った商品の百花繚乱です。世に出る前には、商品開発に相当な時間もコストも、才能も、おそらく費やされている。そして、(さっきまで銀色の袋の中に入っていた、という余韻を忘れれば)食べても美味しい。しかしながら、カレー好きとは、レトルトの枠内に収まる人のことはないでしょう。彼らは、店を転々と食べ歩く。そしていつしか、自家製カレーを探求し始める。市販のカレールーもありますが、場合によってはスパイスを追求し、とうとう原産地から直接取り寄せる。探求の矛先は、どんどん深くなりながら、とうとう自分の店を始める。ここまでであれば、一供給者の動機の強さだけの話ですが、その後その店が存続し続けられれば、需要側を含めて社会に成立できた、となります。

量産品を生み出す商品開発がいかに素晴らしいものでも、(大抵はそれで済ますことができたとしても)人間の感性がそれでは満たされない場合があるということです。レトルトがどのように発展的展開を拡げても、カレー人口の全てを満足しえないのと同じく、建築においては、プレファブのような資本力を前提にした技術が、建築的欲求、趣向のすべてを満足させることにはならない。汎用的工業的なものづくりではどうしても埋め合わせることができない、生理的なのか、もしくは心理的欲求が人間側にあるのかもしれない。無くならない理由が手前にあるというより、結果的にそのように、言えわざるをえないのです。

 

第117(日)個人の技能、集団の技術  改筆

2025. 5. 4

第214(日)無休店礼賛

ゴールデンウィーク後半始まりの日に、ひさしぶりにcasacuomocafeうきはいそのさわに出向いた。オープンしてから、家族を連れていっていなかったこともあり、また、トイレのサインが、未設置のままであったこともあり、また、2Fの民泊の今後の計画のこともあり、で、いそのさわの社長の家族との交流も兼ね、つまり、公私遊び仕事ゴチャ混ぜの現場入りとなった。

お昼はゆっくり、事務所で苦闘した酒枡照明含め~椅子や床や壁の小改修空間を公私混同で楽しもうと思っていたら、予約でいっぱい。ということで、3年前に作った土間のカウンター席に弾き出される。久しぶりの原田さんのグラデーションひび割れ仕上げをゆっくり見遣りながらの、ピザ、ハンバーガー。その間、インテリアデザイナーの方がお酒を買いに土間に分け入ってくると、真っ直ぐに土壁に反応し、しばし込み入った話を交わす。サルバトーレ肝入りの料理は、値段は高いが、さすがこれはという味。特にハンバーガーは、開店してのち5ヶ月間の「食べ物の恨み」がはらされた。昨年末のオープン前日、結局夜中3時まで苦闘した照明器具設置に没頭し、同行した弊社スタッフだけが試食に預かるのを横目で見つつ、自分は脚立から降りることができず、食べ逃してしまっていたのだ。

さて、カフェは、昨年末に開店して以来、基本的に休みなしで営業しているという。サルバトーレの母体が背景にあるとはいえ、店は日本酒の蔵元の直営である。休暇体系的に、無休の飲食店をよく片手間でできるなあと思う。うまいことシフトを回しているのかと、中川社長に投げかけると、一人、専任のスタッフを雇っていて、彼は、開店してからここまで、一日も休まず、働いているという。彼=ヤハタサン(名刺を交換していないので、漢字不明)は、(確か)関東の方で、不動産の営業を経験して、うきはに地縁があって、うきはにやってきて、cuomocafeの立ち上げ社員としてこの酒蔵に入社した。どうして未だ店休日を設けていないのかというと、何曜日を休みにすべきか、探っているという。さすがにいずれは、と言うことのよう。それにしても、5ヶ月、無休の店を回すために、身を投じて、フルシフトで従事し続けている一従業員の話に、涙がピザの上にこぼれそうになった。

本人が体調を壊しでもしたら経営者が責任を問われるのではないか?と中川社長に投げると、「あいつ、タイムカードつけないんだ」という。この段階で、心の中の涙腺は全開レベルである。彼がどういう思いで、この店に取り組んでいるか、本人に尋ねずに想像だけで、しばらく見ていたい気がする。恋しい人と別れて、このうきはに流れ着いてきて、その浮世をしばし忘れんがために仕事に打ち込もうとしているのか、あるいは、いずれ家族となる相方のことを想いながら、立身の糧として、今を生き抜こうとしているのか・・だがそんなことは、どうでもいい。一日も休まず、なにかに打ち込んでいる人間の精神に、素直に惚れ惚れとするのである。なぜに殊更これを書くかというと、世の中が、正反対であるから。二言目には、少子化→人手不足、で、働き手は売り手市場で、労働条件としての賃金と就労時間は、働き手に優位な状況だと。これだけ貰わないと、とか、これだけ休めないと、・・と言いながら職を選べるという傾向が隅々にまで行き渡ろうとしている。働き方改革は、雇用者もしくは資本家が労働を搾取する、というマルクス論的な実態とそれへの警戒意識が社会化したと言うこともできるが、一方で、勤め先などに身を捧げるような働き方は、自分の人生を無駄にしてしまう、というような、(どちらかというと動物由来の利己的な)個々人のマインドセットも、改革の源になっているだろう。雇い側が強いるブラック性、その範疇の企業や業態については、制されて当然だが、全ての働き手の意識の中の労働基準に、リミッターをかけるようなトレンド、ましてやスタンダードというのは、どうだろう。社会全体としてむしろ害悪ではないか。これは、日々、事務所を営みながら、規模の大きな取引先との取引で、少なからず感じている。休みやリモート、ダブルワークOKなどの高待遇を豪語する大企業の担当者の働きが、(人としては)必ずしも、良い仕事をしていないと思う。お金を払う側として、不快な思いを少なからず経験してきて、そのように思う。

国力=人口×労働時間×能力(労働生産性)という。今は、人口が減って、労働時間も減らすが、労働生産性のみを上げることで国力を回復(あるいは維持)するのだということになっている。 労働時間を一定以内に収めることによってむしろ労働生産性を上げることの合理性は、関係著書の示すところである。→ 第212(日) だが、人間は機械ではない、が逆手に言えるのだ。「機械ではないから、休まねばならぬ」は前提にあるとして、「機械ではないからこそ、休まずにやるところに何かが生まれる」可能性を持っている、のではないか。 機械はやった分だけ物事を生み出すが、人間はやった分だけ、分かりきった生産量が生まれる、というような、電気料金のような、従量的な製造者ではないのではないか。人間には(身体と)精神があって、その精神が身体に振り回されずに、より優位になっていったときに、思っても見なかった価値を生む可能性を持っているのではないか。→第210(日)

働き方改革は、労働条件の平準化、という点において、むしろ、人間疎外だと思う。人間のことが本当に読めていない、人間のポテンシャルを低いところに合わせた社会トレンドにすぎない、と思っている。だから、ヤハタサンのような人を応援したくなる。こういう人は、世の中がどうであるとかから、おそらく自由である。自分ももうちょっと生きたら60だけれども、こうありたいと背骨を伸ばす。