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2011. 4. 10

第117(日)個人の技能、集団の技術

かねてより、自分自身が建築設計者としてものづくりに関わりながら、こうではないかと思ってきたことがありました。モノを作っていくときの人間の心の在処についてです。基本、モノは性能(+美)と対価のバランスで、産み出され、取引され、消滅していく世界、その基本原則は免れえません。しかし、人間が目の前の製作物=モノに向かっているその時間の中に、結果物としての性能とか美とかいうものとは別の価値、もしくは課題が潜んでいるような気がしています。結果主義より過程主義ということかもしれませんが、ならば、なぜ過程主義を認めねばならないか。これを何処まで説明出来るか、是非、トライしなければならない、と思っていました。

ものを作る、ということを言うときに重要な分かれ道があって、それは、集団が持ちうる技術によるものと、個人に宿る技能によるものと、があるように思います。前者は、大量生産に直結し、後者は究極は唯一無二の一品生産です。建築というのは、そのような工業的なものづくりと、個人技能的ものづくり=手工業の両方が混沌と混在していて、どちらか一方に収束していくことがない、そういう性質のものづくりであると思います。

私は、主に、個人の技能に関わるものに、興味を持っています。なぜなら、不可解な拡がりを持っているからです。工業的にモノをつくる目的は、良質な性能を、量産することによって、適正コストに押さえ、多くの人に行き渡らせる、ことだと思います。量的な普遍化は、その性能を含めて数字や、カタチで表すことのできる明解な「拡がり」です。一方、個人的というか職人的なものづくりの意義は、生産された結果物を介しての拡がり、という意味では、少なくとも量的なものにはなりえません。そこで、質的な普遍性にその存在価値が委ねられるのですが、ここにおいても、もはや質というだけでは、手放しで手工業の方が優れているとも優れていないともいえない(ウィリアムモリスの時代ならともかく)時代です。産業革命以降の技術史は、手仕事で行っていたものづくりを、工業技術に置き換えて生産していく、そういう歴史でありましたが、そのような工業化時代を過ぎた今現在においても、手工業は完全には無くならないわけです。ある種あやふやな立ち位置でありながら、また、危ぶまれながらも、手工業というのは、消えてしまわない。「消えてしまわない」という逆方向からの眼差しが、今必要のように思うのです。
なぜ、無くならないかというと、人間にとって必要であるから、に他なりません。そして人間とは、必ずしも需要者だけに限らず、供給者を含めた人間存在に関わるもののような気がします。ずっと解りやすい話でいうと、カレー好きが、レトルトカレーだけで満足できるか、という命題と同じです。レトルトは工業的なものづくりです。しかし、では非常食とか、安物の類かというと、今日の商品を見ていて、むしろその逆で、豪華さを唱った商品の百花繚乱です。しかしながら、カレー好きは、レトルトの枠内に収まることはないでしょう。彼らは、店を転々と食べ歩くでしょう。そしてついには、自ら、自家製カレーを探求し始めるでしょう。市販のカレールーもありますが、場合によってはスパイスを追求し、とうとう原産地から直接取り寄せる、追求の矛先は、どんどん深くなるかもしれません。レトルトの商品開発の枠内にはとうてい納まらない、人間の感性が工業や商品開発によって満たされない一側面です。レトルトがどのように発展的展開を拡げても、カレー人口の全てを満足しえないのと同じく、プレファブ技術が建築生産の、もしくは建築的意志のすべてを満足させることにはならない。ひいては、工業的ものづくりではどうしても埋め合わせることができない部分が人間側にある、そのように演繹できないでしょうか。

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