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2016. 3. 20

第165(日)丁稚の「奉公」

タイマーカリフォルニアキッチンの高岡さんが、赤坂mokuzoで、出張料理に出向いてくださった。ランチとディナーの二回転で、自分は、幼児OKのランチにのみ参加。当初、自分が一人で出向く予定だった夜のディナーは、連日のイベントで疲弊した肝機能、消化機能を涵養するためと、そして、高岡さんの料理への旺盛な好奇心を示したカミサンにバトンタッチすることになった。(自分は家で、素うどん+日本茶で・・)

高岡さんの料理が、いかに手間のかけられたものであるかということを、彼女は土産話に持って帰ってきた。次元は異なるが、彼女も料理を生きがいの一つとする人間、なるほど、そういう見えにくい下仕事の類いは、自分が日々やっているとか、ずっと考えているという人間の方が、確信を持って、見通すことができる。かの高いテンションをずーっと続けていかなければならないプロの世界の大変さをも気遣っていた。
ものづくりである以上、建築も料理もおそらく一緒で、手間を掛けることによって得られる品質の高さは、かくして得られにくい、ということになる。飽くなき探究心が飽くなき手間の積み重ねに直結してしまえば、犠牲になるものも多くなる。時間と気を蕩尽するから、家族やまわりの人々を含むその他のことが二の次にもなる。そしてそういうものづくりは、必然的に量産的なものになりにくい。だから人は、手間を掛けるという犠牲的手段に頼らずにいかに良い産物とその対価を得るか、という方向へ傾いていく。

一定の客の支持が得られて、お金が回っていくのであれば、量産(=大きく儲けることができない)できなくてもいい。と、割り切れたとしても、それ以前に、そういうものづくりが継続していくこと自体が難しい。気鋭の作り手だって必ず歳を重ねていくから、年齢との格闘がある。自然と若手の手伝い、後継者の類いが必要になってくる。そういう物作りは、だからといって手間のかかった分に比例して対価を得られるとは限らず、賃金としての見返りだけでは事足りず、従事するには後継者としての「ココロザシ」が必要になる。一方、現場の方から言えば、手間を前提にしたものづくりには、基本手に労働力が必要である。師匠と弟子は「お互い様」という側面を持っている。技術の習得を報酬の一部とすることができる若い労働力。これを前提として、ある種のものづくりが成り立つ。

建築家というものづくりこそ、施工現場であろうが、設計現場であろうが、丁稚制度あるいはそれらと同質なものでで成り立ってきた。毎回、毎回、多かれ少なかれ新しいものを造ろうとするから、自ずと手間はかかってしまう。そこには若くて安く根気を伴った労働力が必須となる。技術が秘めたものとして伝えられるということは、時間的効率を度外視した教育現場とも言えるが、そこに生じた丁稚の「奉公」という還元作用がなにかに奏功していた。それなりに成長した若手が現場に居残ることによって、ものづくりの現場に某かの品質をもたらしていた。現実の仕事を見習いの教材にしているという側面と、彼らの労働力によってある種の質が支えられている事実が背中合わせになっていた。

ところが、いわゆる「丁稚」のスタイル、あるいはシステムが今なんとなく、流行っていないような気がする。「何年も下働きをしなければ寿司職人になれないなんて、おかしい」というホリエモンの発言なんかは、そういう時代の雰囲気を代表しているようだ。もちろん、自分も概ね事実としてその意見に同感はする。ただ、みんなが近道すべきであるという哲学には結びつけられない。近道できる人出来ない人、すべき人すべきでない人、これらのバリエーションによって、広く社会全体のバランスが保たれているはずである。現場やそこから生まれるモノの質はもちろんのこと、個人が成人していくためのバランスもまた、遠回りの習熟過程から与えられることがあるはずである。

丁稚奉公の持っていたなにがしかの合理性は、貨幣社会の上に成熟した教育産業に取って代わった。若者は、もっぱらお金を払って学ぶことに専念し、そして、社会人になったらもっぱら儲ける、というきっちりと整理区分けされた目的と時間。その種の合理性は、そのままものづくりの現場の性質へとつながり、おそらく産物の性質までも決定してきた。グローバリゼーションには、必要な手順であったかもしれない。しかし、それが唯一の筋道や価値観となると、やはり歪みや限界が生じるように思う。気づけば、小さな地域の循環の中で、個人が小さく、良質なものづくりを行っていこうということが成立しにくい社会となっている。そして、学ぶためには、とにもかくにもお金を積まなければならない社会である。

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