2016. 4. 3

第166(日)これからの建築士へ

いつしか、建築家とか建築士、という職業の未来が、日常的に語られるようになってしまった。私ももちろん含めて建築士当人にとっては、切実なる未来。

私自身、建築家の明確な役割のようなものを実感仕切れない云々と、教えを請う師匠に愚痴を漏らしたこともあった。20代の後半の当時の私にとって、それまでの20世紀的な建築家像のイメージにか、どこかで同意ができていなかったということになる。建築がシェルターとしての物理的な機能を前提に、芸術としての素養を付帯していることを、当然に了解していたつもりだった。しかし、いざその芸術的側面が多くの人々に関係しているものなのだろうかと一旦疑い始めると、勝敗?がはっきりしていてその目的や役割が明解で、分け隔て無く多くの人々に寄与する職業、例えば医者や、弁護士、ミュージシャンや料理人などの方が、正直うらやましくも思えたりした。「文化ヤクザ」などと異名を持つ建築家は、ほどほどあやうくて、腕というか、見えざる才能一本で勝負している感があり、カッコ良くは映ったが、普遍性に裏付けされた清々しさのようなものとは思えなかった。自分の庭を耕している時に他人の芝が青く・・・というそのものでもあった。

華の20代から早20年。建築家というスタイルも固定的なものではなく、移り変わっていくということを、中村勉+吉良森子+倉方俊輔お三方の近著「これからの建築士」は、さらけ出している。20代の私のモヤモヤは、少なくとも、これらの新しい建築家像が払拭している雰囲気。空家問題、過疎少子高齢化問題、保存問題、エネルギー問題、それぞれに挑む建築家その他の専門家、単体、集団の別なく社会派的な営み。「多様化」というようなよそ行きな言葉でほどほど済ますのはもったいない勢いがある。

まるで乳幼児に、大人の食べ物を砕いて食べさせるように、20世紀に日本で一旦成立した、堅くて強固で時にアカデミックな建築家像が、細かく砕けて社会に溶け込んでいこうという風景。視覚芸術としての建築をつくる建築家像の解体、建築家のマッシブな気質が砕けて、社会の各所に片々が浸透していっている、という描写ができそうだ。建築家の理想だけが尊重されるのではなく、依頼者の理想も、あるいは施工者(職人)の理想も、できれば等価に扱われようという時代。三者の理想が対等になっていくのだから、かつてのような求心的な存在とも異なるフレキシブルな振舞いが市場交換原理として建築家に求められている。そんな時代の一側面を感じた。

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