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2016. 5. 29

第167(日)ものづくり変人辺境図2016

「都市化をこえる地方化」と題された、シンポジウムに参加させてもらった。早稲田建築の歴史部門を率いられている中谷先生からのお誘い。タイトルの考案から、やりとりさせてもらったが、最後は先生の考えられた候補の中から、これが満場一致になり、結果的に発表者としての自分達の首が絞められた。それにしても、魅力的すぎる表題。案の定、このタイトルだったから来たという来場者もおられた。

以下、備忘録として。
板谷敏正さんは、不動産世界にクラウドサービスの必要性をいち早く提唱され、実践されてきた人で、日本中の様々なクライアントに、そのソフトウェアを届けながら、様々な地方での様々な事業者の経営実態を把握、今回はその中から、特に地方での成功ビジネスの事例を紹介された。決して好環境ではなく、逆境から生まれるビジネス、変化を余儀なくされる状況、もしくは会社ぐるみの戦略ではなく、放任された個人の苦心から生まれるアイデアが「強くてしなやか」な体質を獲得する事例。つまり、地方というも逆境から、乗り越えられた営みには、一過性ではない本質的な強さががあるのだということになる。
永井拓生さんは、私の知る限りは、建築の構造設計者であったが、所属する大学を通して、東北の復興支援活動の一つとして関わってこられた気仙沼のセルフビルドによる竹の集会場を報告された。そして被災地のコミュニティーに参画してきた経緯から、彼の地の復興計画の実態として、建築家の描く未来像の多くが実は実現に至らない、という建築の挫折を問題提起された。建築家たちは新しい町のつくられ方に対して、既成概念にとらわれないアイデアをいくつも提示してきたが、最終的には、それらは採用されず、平凡な町と建築として復興されていく。それでも、被災された方にとっては、とても喜ばしいステップとして歓迎される。「建築(性)の挫折」と叫びたいところだが、もう少し踏ん張って、これから徐々に変わっていくプロセスなのではないか、という意見。

私は、延々と、大工と左官で現代建築をつくってきたというところから、それがもしかしたら、地方のなにがしかを形作っているかもしれない、という思い付きをさらけ出すしかなかった。大工の山下さんや、左官の原田さんは、それぞれ私の事務所から、高速道路を使って1.5時間の田園地帯、すなわち地方に生産拠点を構えている。私もモノを作っている工場が愉しいから、ついつい出向いてしまい、その度に唯々、「遠いな」と思うだけであった。しかし、その彼らには、強烈な共通点がある。材料が工場にある、ということ。今日的な建築生産が、材工分離の方向性にあることを考えると、材料が工場にあることは実は当たり前ではない。材工一貫のものづくりは建築においてはすでにガラパゴス化のスタイルだが、彼らにとっては、材料を引きはがされては、生産行為の本意を見失うと同じで、手塩にかけて自らが取り寄せた材料と共に生きている。広々とした地方都市の郊外で、ノビノビと材料を蓄えては、眺めているその生き方が工場の風景を決めている。愉しそうにモノとじゃれている雰囲気があるから、自然に遠くから人々が集まり寄ってくる。
いやちょっと待て。個人の能力に根ざした、ユニークなものづくり、挑戦的なものづくり、の類いがどういうところに生産拠点を持っているのだろう?もしかしたら、人口密集地とは無縁の位置に居るのではないだろうか、と脳裏によぎった。慌てて、人口密度で色分けされた日本地図を用意して、そこに、事務所がこれまで、なにかのモノを作ってもらった、面白い(と私が思う)人々の生産拠点をプロットしてみた。するとどうだろう、彼らのほとんどが人口密度の高い都市圏内から外れている。極端な僻地ではなく、大都市圏の周囲にまるで待機しているかのような配置だ。もちろん私個人のものづくりネットワークでは、サンプル数としてあまりに少ないので、他者の情報を重ねて、同様のプロットを重ねていき、その上で、彼らの配置の法則性を考えるべきだろう。
個人が我が身に宿る製造技術と感覚を頼りに、材料を蓄え、モノを作っていく時に、拠点は、人口密度とは関係ない、むしろ、土地は安くて広々と使える方がいいのだ、という法則がある場合、地方は、彼らの涵養地だと言えるのではないか。彼らが世界経済の動きに直撃されずに、ノビノビとモノに向き合っている生き様は、地方における人的資源ではないだろうか。数(人口)では勝てないのだから、一人一人の生き方の質しかない、という時の指標になるような気がする。

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