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2022. 7. 31

第197(日)無冷房執務への挑戦

ちょうど10年前、「スマートとセンシブル」と題したエッセー、を西日本新聞の文化欄のために執筆した。当時、編集の方からもっとわかりやすく、の推敲を受けながら、入稿したことを思い出した。短い文章の中に、結構、根の深いことを書こうとしたから力んだ。読者側からすれば、今読んでもわかり難かろうことを慮るもののがある。しかし、中身については色褪せたという気がしない。死ぬまで言い続けようかとの確信の一途。

私たちは皆、今生きている時点の視点から、現在も未来も過去(歴史)も、等しく楽しむことができる。でもそれは、もっぱら外観、スタイル(=カタチ)である、その外形をかたちづくる中身の技術については、古い技術は新しいそれと対等ではなく、新しいものに頼るのが常である。ならば、意図的に、意識的に、古い技術の現代的な意義を考えてみてはどうか。新しい技術を目指す姿勢、もしくは新しい技術の矛先を仮にスマート、と言い換えるなら、その正反対の姿勢が成り立つと思うが、その概念=言葉が見当たらない。仕方がないのでセンシブル=分別のある、思慮深い、という語を当てつけた。スマートが「賢い」、に対して、もうちょっと、広く先を俯瞰していそうな、「分別のある」意を対置させた。それほどまでに「スマート」は、卑近な利便性能の類に狭められたキーワードに成り下がってしまったように思えた。スマートの冠を着せた構想やプロダクトが、本当に「賢い」のかどうか、怪しくなってきた。これを2010年ごろから、悶々と一人でつぶやいていたのが、つい最近、「不便益」の言葉、研究概念(不便益システム研究所)を知り、言葉は違うが、眼差しがほぼ同じ、ということが判明し、同朋を得た感があった。「不便益」も結局、言葉、つまり概念がなかったから、作るしかなかったのだろう。

 

さて、事務所にて、このクソ暑い夏であるにもかかわらず、可能であれば、冷房をつけず、窓を全開して、設計業務を無理なく行うというトライアルに毎日挑んでいる。その日1日、冷房をつけずに、済ますことができれば、無冷房執務の達成、となる。知っている人からは、なにをしているのかわからない、となる。ここで改めて意義をいうなら、どこまでの暑さを我慢できるか、とかどこまで電気代を節約できるか、ということの他に、体がどれだけ丈夫になるか、を自身の身体を使って実験している。熱中症がなぜにこれほどまでに多くなったかの主たる理由は、外界の温度のせい=異常気象、というのが多勢である。が、5月の30度ぐらいで、患者が増え始めるから、外界のせいだけにはもはやできない。冷房の普及を始め、人間側の能力の減衰が少なからずと思う。人間は、だれでも、外気温にある程度適応する恒温動物だが、それを具体的に制御しているのが、自律神経である。これが本格的に乱れると暑さ寒さに我慢ができなくなる。本当は、室温コントロールの前に、自らの自律神経のコントロールの方が先だ、ということになる。

人が夏に、外気温にさらされる時間をゼロに近づけられるなら話は別かもしれないが、宇宙戦艦ヤマトの地下都市に住んでいるならともかく、室内環境ばかりに体を慣れさせるわけにはいかないだろう。建築業の夏は、地獄の夏である。建築現場の環境にいかに耐えうる体を図面を描きながら事務所で育むか、という命題?が、無冷房執務トライアルである。寒暖差アレルギー、などといった症名もあるぐらいだから、内外の温度差は単純に小さい方がいいだろう。

執務の品質が、落ちるのではないか?あるいは、体は低温サウナ※もどきで整う前に、くたばってしまうのではないか?それはありうる。だから、気温がぐんぐん上がってくる昼頃になってくると、お互いに顔を見合わせて、「大丈夫か?」(ちゃんとやれているか)の声を掛け合う。殺伐とした設計事務所に、妙な思いやりのようなものが生まれる。これはもうよくない、と思えば、迷わず、冷房をON。もし、昼の一番暑いピークを越えて、夕方の涼しい風が事務所をひと吹き通り過ぎようものなら、例えようのない達成感が生まれる。

※(高温多湿の外気の状態は、体を芯から温め様々な器官を整えてくれる、低温サウナ(塩サウナとかミストサウナは40〜50℃だとか)の類?)

ちなみに、無冷房執務が達成できるか否かは、気温よりも、湿度の影響が大きい。気温が30℃を下回っても湿度が70%などになれば、迷わず冷房ONである。そして平均風速は、ありがたい。図面の類がしわくちゃになりながら全部吹き飛んでしまっても、窓全開で大歓迎である。念の為、室内の風速をはかるために、簡易な風速計を購入した。気象庁観測の平均風速が4m/sあっても、実際の室内は、1m/sいかない。屋外に流れる風を、建築の内部空間が合理的に利用していると言えるのかどうか、これはこれで命題となりそうである。

この自虐的トライアルにはもう一つ、考えがある。いわずもがな環境負荷軽減の様々な行動規範における、2叉路があることについて。「我慢しないエコロジー」か、「我慢を余儀なくされるエコロジー」か。なんとなく世論的には、後者は受け入れられない雰囲気を持っている。あらゆるものは商品化へ向かう、と言う資本主義社会の不自由である。

センシブルの指しているのは、言うまでもなく、我慢を余儀なくされる類である。我慢せずに地球を維持していこうというのは、もはや、不可能なのではないか。冷房前提の生活をしていると、冷房なしでは過ごせなくなる。身も心もそうなってしまうから、そこを後戻りするには、相応の意思、もしくは外的強制力が必要になってくる。テクノロジーの進展によって、我慢せずに何かを節約できたということがあったとしても、人間は、さらなる要求をしていくから、一向に節約には向かわないのである。後ろを見ずにこの闇を抜けていこうという、イノベーションを前提とした商品化の世界に身を委ねるのではなく、一人の人間として、一生活者として、それぞれで小さな我慢をする、といった生活習慣の見直しこそが、求められているように思う。この物理世界の創造神が人間に求めていることなのだと思う。思いの外、深いぞ、無冷房執務。 240706加筆

 

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