2022. 5. 29

第196(日)善管注意義務

2015年にお引き渡しをした、建物が雨水漏水をした。最初に報告をいただいてから、原因究明~対処するまで半年近くかかってしまった。設計者と施工者が雁首を揃えて、内側から、外側から、ああでもない、こうでもない、と推理しながら、結局は、煙突の突先に据え付けられていた防鳥ネットの取り付けビスのコーキングの劣化、というのが原因だろうと確信され、対処された。

施工者単体のミス、もしくは、単純な経年劣化であったならば、ここにあえて記すことはないが、設計者として自戒の念を込めて、書き留める。

(上)2014年、足場解体の直前の状態 (下)2022/5月 この熟練の屋根職人が、漏水のシナリオを見事に示してくれた。長く一つの仕事をしていることが、見えにくいものを見通す能力につながっていく。頼もしい職人の類。

 

 

現時点で特定された原因は、煙突突先に設置されている板金笠木に対して、脳天から撃ち抜かれた、16本のビスが、大雨の時に一定時間以上、浅く小さな浸水状態となることにより、ビス穴に水みちが発生して、室内に侵入する。他にもたくさん可能性のあったが、ここであることを、熟練の板金屋=屋根屋が足場に登り指摘した。

すぐに合点した。理由は、建設時、足場が落ちる数日前、もう二度と肉眼で見れないだろうと思い、当然の役割として、この部分を確認したことを思い出した。当時、一瞬、「大丈夫かな?」という感覚がよぎった。笠木板金のわずかな水勾配の水下側に、せき止められるように、防鳥ネットのステンレス枠材が、みっちり乗っかっていたからだ。スムーズに雨を煙突内に流すには、ネットの枠材のわずかな段差が邪魔だな、と思った。一方で、枠材を乗り越えるか、さもなくば、オーバーフローして、水はどちらにせよ内側か外側に排水されるだけではないかとも思った。コーキング亡き後のビスからというところまで推理が及ばなかった。

正直、早くこの足場を降りて終わりにしたい、とさえよぎった。今回の煙突頂部への再登頂で、その感覚が蘇った。建築物に取り巻かれた足場というのはいかに高くても、そんなに怖いと思ったことはなかったが、煙突の突先というのは、自分の足元が360°で奈落の底、思いの外、いやかなり怖い。時々、高所恐怖症の現場監督と出会うと、鼻高々におれは違うぜと心で笑っていたが、煙突の突先の場合は、そんな出鼻は簡単に挫かれる。思えばまた来年も違う煙突の改修工事があることをにわかに思い出す。

足場の怖さを理由にするのはこれくらいにして、やはり、設計者の過失が少なからずあると思った。設計図よりも多くのビスを打ち、念を入れて、枠と板金の間にコーキングを打ち、風雨に飛ばされないようにと考えた(屋根屋ではない)別種の職人の思いに悪気はなかったが、それを上回る、物理現象への正確な認識と修正力が、監督側には必要であった。

「善管注意義務」 国が制度化していて、出頭を余儀なくされる建築士定期講習会にて頻発される言葉。たしかにそうだな、と昼寝でもするかと渋々出向いた身に、背筋が伸びる思いのする、言葉。その時のちょっとした判断の不行き届きに、建築は、多かれ少なかれ、反応し、正直に現れるから、建築士は、この言葉を噛み締めて業務を行わねばならない、と講習会では強調して指導される。元は民法の条文に記されている、取引における基本的な姿勢から引用されているらしく、「受任者は、委任の本旨に従い、善良な管理者の注意をもって、委任事務を処理する義務を負うー第644条」と建築士法には記されている。注意を払うべき箇所は無限である。真に善良な管理者であったなら、雨天時の状態を正確に想像することができただろうか。あるいは5年後10年後を想像することができただろうか。同じことは繰り返さない学習能力は流石に携えているつもりだが、新しい設計内容のあらゆる側面に、様々な事象の行く末を想像して、問題をゼロにしていく強靭な想像力がないと、その建築は、歓迎されないのだ。

« »