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2010. 1. 10

第86(日)味音痴と建築音痴

大手門の檜山料理塾を訪ねた。御年80数歳?現役活躍中の高名な先生とあって、恒例の新年の挨拶に、様々な人が入れ替わり立ち替わりであった。夕刻、自分が座ったテーブルのトイメンに、面白い人物が向かい合った。吉井町の皮膚科の先生。いろいろと独自の方法を編み出し、日本中から顔などの染み抜きに訪れるという名物先生とのこと。皮膚版染み抜き王子。田舎といっては失礼であるが、出自が隣町なので、あえて言わせていただくが、そう言う僻地の研ぎ澄まされた個人に出会うと、なんだかとても頼もしく感じる。普通の田舎者は、喧噪の某かを求めて都会へ脚を運ぶのだが、こういう人は、都会の方から人々がやってきて、僻地の中に自ずと小さな喧噪が生まれる。その先生は、しかし、追求心の矛先が仕事のみではおさまらず、食の領域にも及んでいた模様であった。所謂食通。だが食べるだけにおさまらず、自ら包丁を握る。特に蕎麦打ちは定評のようで、東京から芸能人の誰それが、訪れるという。究極のそばつゆは、甘味にみりんも酒もザラメもつかわず、昆布ダシによりやる云々、その煩雑なダシの取り方すべてを話して貰ったが、職人技すぎて、聞いただけでは再現不可能な内容。こういう人が一旦建築をやり始めたら、いいものを作るだろうなということを考えながら、食べものにかかわるいろいろな話の中で、建築の世界にも通じるだろう気になるトピックが。
食文化はその場所の人々が育てる。そこまでは常識だ。しかし京都や大阪はいいが、東京や福岡には、本当にうまいものがないという。こうなると身を乗り出さざるおえない。それはなぜかというと、東京や福岡は見栄で外食文化が成り立っているからだとか。京都はやはり1000年の古都、味覚文化としての積み上げがある。大阪の人は、値段と質にうるさいから、料理人が育ってしまうという。神戸もそれら関西の雰囲気を共有している。昨今の京都や神戸のフレンチの噂はそういう土壌がたまたまフレンチとして花開いたということになる。その他、寿司は酒ではなく茶で喰うのがいい。だから本物の寿司屋は酒を出したがらない。本当にうまい寿司屋が博多にないのは、博多の人間は酒飲みだからだとか。そういえば、別のところでこういう話も聞いたことがある。レタスのキムチ鍋を食いながらだったと思うが、物知りがいて、ここらへん(町一番の繁華街)のヒットする店というのは、大抵すこし味を甘口にするというセオリーがあるんですと。マトモに絶妙な味加減を実現すると、却って一般の人たちに受けないんです。みんな味覚が鈍感になっているから、と。
こういうことが本当なら、まことにおそろしい。
豊食といわれた、この時代、実は私たちはそのことによって味音痴を育んでいる。文化的な都市生活者ほどである。
建築の世界も実はこういうことが言われていて、建築不在とか、建築の力が失墜しているとか、この先数十年の間は建築はだめだとか、いろいろと識者が警鐘している。この淵源はどこかというと、作り手の質が一方的に落ちているというよりも、むしろ、社会を構成している一般の人々の建築への教養の深さの方に深く関わっているというのである。もちろん、情報量はかつての比でない豊かさであり、人々の一見するところの教養は目を見張るものがある。ならば建築音痴などとは無縁ではないかということになるが、それがそうではない、という側面があるようだ。それは、ヒットするマス相手の外食の味が濃くなるのと同じで、情報化され、多くの人々の目に触れるための建築の持っている、濃厚さというか刺激性が、却って人々の感覚を鈍くさせているかもしれない、というのである。
食にしても、建築にしても、もはや、店主と客、提供者や享受者という対立概念で議論しても仕方がない。両者は共にその文化の育て親なのである。この情報の渦潮社会の中で、情報では伝えることができないものを感受する繊細さとその自立を目指したい。

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