2007. 6. 1

第1(日)自給自足は本当に理想か?

テレビも時々に命題を与えてくれる。日曜日の夜、野良仕事に疲れて発見した番組の特番は自給自足をしている人々の暮らしであった、海に山に、一族、夫婦、一人住まい、様々な事例の報道に時間を忘れた。澄んだ空気と当たり前の美味しい食事、ストレスのない日々の光景が、どれもうらやましいという個人的な願望の一方、これは全ての人間にとっての目標でもユートピアでもないことをうっすらと感じた。学生時代は、ヘンリーデビッドソローの「森の生活」が建築を考えるときの「生活」の原典であったし、もっと言うなら、日本にはその800年近く前には鴨長明の方丈記なる哲学+生活録がある。これは恐れながら座右の銘にしたい、と憧憬の対象でもある。全ては貨幣によって手に入れることができるという成熟の結果が、自給自足なる理想の相対を導いたという因果関係は、誰もが自然に気付くことができるだろう。しかし個人的には、かつて輝かしき強き独立した人間像としての自給自足が、単にうらやましがるだけではなくなってきたというのが正直なところである。その理由が、自給自足における日々の生活が、ワタクシのための働きであるのに対して、通常の貨幣経済では、他人のための働きである、ことにあるのではないかと思う。もちろん、自給自足のスタイルも様々だから、共同体への労働提供など他者のための使役もあるだろう。しかし、貨幣経済上の営みの他己尊重はその比でない。ここが現代ストレスの発生源でもあるが、逆にいえば、他者という概念は人間に与えられた命題の一つでもある。やはり、現代が、自給自足の原始時代から時を経てきた理屈を考えたい。
「天才の読み方」<斎藤孝>の本には、人間は他人のために役に立つことに喜びを覚える。天才は自分ためというより人のためにエネルギーと持続力を注ぐ、なる(原文ではない)趣旨があった。実はほとんど全く同じ理を、ある宗教学者の著書にも心当たりがあたので、この部分が心中におのずと強調された。もしかしたらこういう共通項が真理というのかもしれないと。いかにお金を貰うとはいえ、他人ために、他人の立場に立って物事を考えなければ物事がうまく運ばないという自然則は、一方では試練であるが、一方では万人にとっての必修科目であると。自給自足の生活が自ずと孕みがちな、欠落をふと考え込んでしまった。

«