2010. 10. 24

第103(日)世代間格差

なぜか、母校の製図室から、このぼやきをアップロードしている。
毎年、秋から冬は、母校の3年生の設計製図の授業の手伝いをするため、毎週1000マイルの往復をしている。そして、毎年、授業にまつわる記事を日曜日に書いている。その現象そのものが、すでに愚痴にほかならない。なぜその報酬のすべてを航空会社に吸い取られていくのか、とか、一週間は7日あるはずなのに、なぜこの時期自分は5日しかないような感覚になってしまうのか、とか、なぜ、自分が金曜日の毎夜サウナに入っているのか、とかいろいろ掘ればでてはくるが、でも愚痴の焦点としては、小さい。

問題は、とえらそうに言ってはいけないが、学生たちの雰囲気の違いがやはり気になる。母校が・・というのではなく、もっと手広いと思われる。手離れがわるい、というのは一種のビジネス用語であるが、これが、学生にも当てはまるようである。ふつう、建築学生、特に「やる奴」というのは、どこか上っ面に生意気なところがあって、ある段階から他人(教師)の介入を拒み、独り図面に取り組み、生意気ながらの課題作品が出来上がる。近年はそういう、手を離れてしまう段階をとうとう迎えぬまま、どこまででも、設計課題に対する学生への助言=エスキースチェックが可能となってしまう。最後の完成まで、助言が求められるし、助言が可能な状態が持続する。だから、手離れの悪い授業というか、学生というか、そういう状況が発生する。

人間の子供が野生の動物と違って、長い時間をかけて、親の保護を要するように、最近の学生は、そのようなのである。いや、学生だけではなく、若い社会人も手取り足取りが必要だとのことである。より高等動物化していると言っていいのか、そうではないのか、即決はできない。保護があるから、保護されることにおもねるのか、保護されるべきものが先立ち保護を受ける状態ができあがるのか、わからない。いずれにしても世代間格差だけは、しっかり感じ取ることができる。

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