2011. 2. 20

第111(日)ザ、縄文的なるもの江川邸

日本の建築を考えたり造ろうとする人にとっては、避けては通れない歴史上の論争がある。戦後まもなく建築界の壇上に起こった伝統論争である。日本の文化史の見方として、丹下健三の(一言で言うと)弥生的なるものへの視座に対して、白井晟一(建築家1905-1983)は「縄文的なるもの」の重要性を説いた。その論点の具象物として、伊豆半島付け根の韮山に存していた旧江川邸の内観が添えられた。1956年8月号の雑誌新建築である。
弥生か縄文か、という二元論を擁立し、伝統をどのように近代に反映させていくかがその時議論された。その二元論はさまざまな言葉に置き換えられ、輪郭を纏った。ニーチェを借りて、弥生=アポロ的(概念的・体系的・太陽)、縄文=ディオニソス的(観念的・情熱的・本能的・闇)とか、弥生=貴族的・女性的、縄文=庶民的・男性的など。二元論は、とにかくいかなる時も、どちらか一方に当てはめればよいから、物事を仕分けるツールとして便利ではある。漠然と日本の建築史に興味を持って眺めていた視点であっても、その根深いところはどちらに属しているのか、あるいはどこへ行こうとしているのか、この二者択一は良いベンチマークになる。
江川邸というと、最初に見た「日本の民家」(写真:二川幸夫)上の白黒写真が強烈で、これと白井の縄文的なる精神の託宣ともいえる文章を勝手に掛け合わせ、おどろおどろしい日本のもう一つの側面だと勝手に畏れていた。桂や、伊勢、もしくは京都、懐石、などという典型的な日本は、概ね弥生的なものではないかと考えるようになり、そうではないディオニソス的(内面的?)なものの世界に、視点が吸い込まれていく。さらには古典のみならず、日本の現代建築を構成する、もしくは日本が世界に輸出する建築デザインの多くが弥生的ではないか、などと勝手に考えがうかび始めると、なおさらに、縄文的なるものへの興味が増していく。
「文化の香りとは違い、生活の原始性の強さだけが迫ってくる」と白井が発せざるおえなかった江川邸をようやく見ることが出来た。白井の記事に先導されてかその直後、当時朽ち果てる寸前の遺構を奇しくも文化庁修理が入り、屋根が銅板葺きで覆われてしまっているが、それ以前の風景である茅葺き屋根を頭の中で想い描きながら、内部へ進む。グロテスクな大柱が林立する空間が出現する。「茅山が動いてきたような茫漠たる屋根と、大地から生え出た大木の柱群」である。「情緒や簡素という感覚的皮相」「形象性の強い弥生の系譜」「終結した現象としての型や手本」というような「表徴の被」をはぎ取って、「それぞれの歴史や人間の内包するアプリオリ(先天的なるもの)としての潜能を感得し」「自己を投入」することを伝統の創造の契機とするべきだ、と残している。そしてこんなことまで言っている。「空海や時宗、あるいは雪舟、利休を思う時、私はそれらの人々や時代のうちに生きていた切迫する縄文的な脈搏(みゃくはく)を感じざるを得ない。」ここまでくると、私には解らない境地であるが、おそらく、自己の内面を開放することができるある種の境地に至った者こそが、本当の意味での「創造」に寄与することができるのだ、と言っているのだろうか。書を通して精神世界を歩んでいった白井が言いたかったことは、もはや「伝統の」と付けることのない「創造」の境地に関することではなかったか。
ところで、江川邸の美や精神は、作者不在=アノニマスである。作り手が自らに作家と称した瞬間に、おそらく逆説的に遠のいていくそれである。現代における縄文的なるもの、は、50年前よりもさらに不可解なもの、として写しだされるのかもしれない。

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