2011. 3. 6

第113(日)果てしなき階層構造

今日は終日、ヨガ講習~実習。こういうのは影でやっていればいいものだが、思いの他同士というか、私もやってます、と後で声を掛けられるし、また、そのうち必ずこういうものの本領が、現代生活を送っていく上でスタンダードになることを密かに確信しているということもあり、ちょっと触れてみる。本などで分かっているようであるが、やはり、その道の確かな指導者が、きちんと時間を掛けて、理論立てて図説で話してもらったものというのは、非常に勉強になる。詳しい内容は敢えて避けるが、ヨガの基本は霊的成長であること、そして、やれ、民族の共存だの自然との共生の平和とかいっても、「霊的な成長」なくしては、そういう根深い人類の問題に対しては解消不可能であることを、改めて知る。たとえば、今朝もイスラム社会と戦争についてのトピックが、某テレビで取り上げていたが、どうして毎日神に頭を垂れる人々が、戦争をけしかけ、自爆テロを起こすのか、という万人の疑問が話題であった。今日の講習から演繹するならば、たとえ宗教的に生きていても、もしくは敬虔な信仰者であっても、「霊的な成長」の階段を踏み上がらなければ、「タダのヒト」ということになる。人間はだれしも自己保存優先の法則から、自己と他己が分かれない世界への成長課題を歩んでいて、宗教に属しているからといってその過程を踏める、という確証があるわけでもないらしい。キリストや、釈迦、マホメットの聖人本人なら話は別だが、彼らの信仰者というだけでは、基本的に霊的成長の過程の人間に過ぎず、中途半端であるが故に、却って自ら信じる宗教を守るがあまり、戦争を起こしてしまう、ということになる。(毎日、戒律を守り、神に祈りを捧げる風景が、いかにも我々無信仰の生活習慣からすると、精進した人間のように見えてしまう。)
それにしても、人間の霊的成長の階層には、実に揺るぎない構図というか、全ての人類に等しく与えられる階層があるようである。君と僕がいたら、何段階の差があるとかないとかが、ある特別な視点からは非情にも明解に言い当てられる。シチメンドクサイ話は、私自身の生業からして、発言が即信憑性を失うということでこれくらいにしておきたいが、私たちの日常生活はというと、これほどまでに「明解な」、そして何人も異議を唱えぬ「不動の」序列構造などないのではないか。内閣総理大臣と、魚屋の親爺には歴然とした差があるではないか、ということになるが、それなら、それぞれは、何段階目の人間なのか?両者の間には、どのような階層が存在するのか、概念として述べることができるだろうか?内閣総理大臣が仮に上から5番目のヒトというなら、魚屋の親爺は彼を目指して、それを人生の成長の指標もしくは目的にすべきだろうか。そうはなるまい。確かに収入や知名度と言う意味では、歴然とした階層を持っている。が、社会的地位=人間そのものの階層というと、多くの反論が生まれてしまうだろう。すべての人間が内閣総理大臣(の某か)を目指すべきだ、などという共通認識は生まれない、見えている階層構造の不確かさと、見えていない奥行きの果てしなさがある。
建築を生業としても、これと同じ迷路である。知名度や賞歴、収入?によって建築家としての価値、造る建築の価値は概ね階層構造をつくっているかもしれない。が、すべての建築家が、その階層を登っていくべきとなるか。全ての建築家が世界的建築家になる道を歩むべきか。そうではないだろうから、見えている階層構造は絶対的なものとはいえない。言うまでもなく、建築の極みに至った歴史上の人間であればあるほど、建築という対象そのものの不可解さを断言する。建築のみならず各自の職能の専門用語を用いる土俵の中には、成長のための視座となる確かな階段、揺るぎない階層構造が実はないのではないか。極みと思われる境地を垣間見ても尚、その先が見えない。深い所が見えないまま、途中のガイドラインも不確かなまま、僕たちは目標らしきものを想いながら歩いている。

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