2013. 11. 17

第143(日)秋晴れ、白の建築探訪

授業で東京を往復する様々な犠牲をなんとか前向きにしようと、読み残しの書籍を携え、また、業界で騒がれている近作の建築をいくつか見に行こうと重い腰をあげて出かけた。秋晴れの乾いた青空にそれぞれの白い住宅建築は見事に晴れやかであった。竣工して数年が経ていたが、雑誌でみた白亜を湛え、美しかった。それぞれ共に外部から内部を想像するに容易な建築であったが、やはり内部に立ち入ることができないもどかしさもあった。閑静な住宅街に建つこれら賃貸住宅はまた、外部といってもおいそれと、長居することもできない。じろじろとじっとしている人間は、今日ではそれだけで、怪しい人影として映る。
まがりなりにも自分も建築設計者である。この秀作が自分から生まれ得ない理由を探す。またそれは、自分の目標が違うところにあることを確認する作業でもある。綺麗モダニズム、もしくは日本的バウハウススタイル、家型、がたくさん世の中に立ち現れていく中、自らの役割や立ち位置を考えることになる。東京の下町に挿入されたこれらの建築には、ミニマムスケールの極限が試行され、重厚というより軽妙が目指される。居室としてのあるべき機能やその配列も疑われ、自由に変転していく。内外仕上げの白は現代の建築生産世界における、何も加えないもの、そこにあるもの、という見方もできる。海外でも認められ活躍するこれらの建築家や建築スタイルに、私は日本の数寄屋に似たものを感じたりもする。
そこに長く居て、なにかを考えを絞りたい気もしたが、外部から内部を想像しながら、しかしなにか全貌をわかったような気になってしまった。実際に内見することができれば新たな感覚が生まれると思うのだが、おそらくこんな感じだろう、と想像が容易であることが、もしかするとこの類の建築にはあるのかもしれない。例えば19世紀の建築論、ジョンラスキンの「建築の七燈」では、ゴシック建築を賞賛しながら、建築の美を7つの要素に分解して指し示したが、当時の目利きが編み出したこれら便利なチェック項目も、2世紀近く経過すると無意味になるのだろうか。これら建築にはそういう、犠牲とか、真実とか、力とか、神とか愛とかそういう重々しい深遠さから決別しようという、その最先端のように見える。建築の建築たる重量感からとき放たれた解放感がある。
本物の数寄屋には不可解さ、理屈で解せない故の、長居したいと思うなにかがあるが、これらの建築では、果たして室内を通されれば、そういう感覚になるだろうか、わからない。ずばりそのまま、すぐに合点する空間。楽しい場面もたくさんあるだろう。不可解さや言葉につくせない、奥行きではなく、明解さ、軽やかさ、アクのなさ、とういう身体感覚をひたすら仮想しながら、これらを後にする。

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