2017. 10. 1

第175(日)技術のデザイン-2(職人的技術の手前で)

店舗に設置してあるレジスターの背面を上手に隠せるなにかをデザインして欲しいの依頼を受けて、5×30の角材を屏風綴じにした、小さな衝立を考案。高さは250mm、蝶番は、建築の内装にはもちろん家具にも滅多にはお目見えしない、極小蝶番の存在を発見、それを200個。そしてネジ屋に出向いて、店で扱っている最小の鍋ビスが何とか径に入ることを確認して、900本を購入。

只単に小さいというだけではあったが、未知のスケールの造作。本来は家具屋に製作を依頼するのが当然だが、ワンセット(屏風風にいうなら、五〇曲一隻)6万円という見積が出てきた。おそらくこの小ささと、関節の数に腰が引けたのだろう。私の方は、たかだかこの程度の役割の品物にこんなにお金を掛けるわけにはいかないと腰が引けて、発注を諦めて事務所で製作を請け負うことになった。

作り方の合理化は作りながら練っていく、しかない。もう一回作ったらもっと時間短縮できただろうが、今回は五〇曲二双(つまり50枚の繋がりが2セット)+塗装をして、合計するとだいたい丸1日(24時間)ぐらいかかってしまった。

 

思えば、この品物にデザインされた技術は、修練されなければ得られないような高い木工技術ではない。代わりに、繰り返される工程に絶えながら、一定の精度を保つ執念は必要である。試しに小学一年生をも強制労働として借り出してみたが、品質に関わらないところで彼らが加勢できる工程があることが判った。家内制手工業はこうやって成立したのだろう。

 

技術をデザインするという場合には、機械(道具)と人間の関係によって、大きく3段階があるように思う。

1.高価な機械や道具、治具、とそれを制御する人間を要するもの。

2.優れた職人であれば、手に持てる道具で作ることができるもの。

3.特別な職人技術でなくとも人間の手と道具で、確実に作ることができるもの。

これら全てに、時間と生産ムラのトレード要素が加わる。例えば、自動車一台を作る、という時に、どこまで2.の一匹の職人でできるか?というと、内装のシートカバーを貼るとか、ボディーの板金造形などは、かろうじて人間の手で出来そうではあるが、エンジンとか、タイヤとかガラスとか、ほとんどのものは、生産設備の整った工場でしか作れない、とすぐに頭打ちになる。一方で、家や家具の類は今でこそ2.から1.へと生産設備依存型に成熟したが、基本的に3.つまり、だれでも作れるもの、というところから始まったはずである。製作時間と、量産性を噛み合わせながら、この3段階の幅の中で、用いる技術を設定する=デザインすることが、潜在的に可能だということでもある。

今回の代物は、いうまでもなく3。いざ量産するとなれば、もっと早く安く正確に生産できるが、そんな動機付けが未だないモノ(特殊解)であるから、人間で作るしかない。市井に出回っていないその手間感が、モノの存在感となれば、技術をデザインしたことの成功例となる。(量産製品がない→既視感のない)×(作るとなると、手間暇かかる)=価値

私たち日本人は、なんとなく習性として職人的な技術へのあこがれを持っている。だから、テレビや雑誌、他、ものを売り込む文句の中で、「職人技」とか「伝統技術」「手間暇かかっている」というワードが汎用される。背景として、そういう技術は、量産社会の経済活動の中では、稀有なものとして神格化していて、棚の上に飾られた技術のような非日常の側面がある。もう少しその手前、職人技術、というものの手前に、初歩〜中程度の技術水準による手間を活かして日常的なものを成立させるやりかたがありそうである。職人でない人間が作ることを前提とした設計=技術をデザインすることで、生産コストの壁を小さくしていく可能性が生まれる。優れた職人を使いこなす設計も大事だが、職人に寄らないものづくりのための設計も時に必要である。自ら作る愉しみは社会の中に偏在していると考えるべきである。(ワークショップ)意外にも、それらを触発するような技術をデザインできるかどうか、にかかっているのではないか。知らぬ間に神格化されていた棚の上の職人の手仕事が、他人事ではなく身体感覚として体験することができる。そして彼ら(職人)の仕事を観る力、想像する力、リスペクトするきっかけとなる。

 

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