2022. 11. 27

第199(日)信じること、愛、ルイスカーン、建築?(とある建築講義の忘備録221121)

武雄での打ち合わせを、2時間濃密に収めて、急行電車に飛び乗り大橋を目指す。九大大橋での、お三名の講義があると聞き、久しぶりに、建築の集まりに潜る。

最初の土居義岳先生の講義には、最後の10分だけ伺うことができた。会場にたどり着いた時には、「信じる」とか「愛」などの言葉が発せられていて、これは果たして、自分が目指してきた会合であるかどうか、一瞬疑った。話の文脈がわからないまま、しかし、「信じる」ということが、全てにおいて人間の根源的に重要なことではないか、の力のこもったお話に、いや、それは間違いない、と素直に頷く。信じる対象が神であればそれは宗教で、それが建築の理想に対するものであれば、それは立派に職業的な姿勢なのだと。結論のタイミングに滑り込んだ自分がいけなかったが、でも、不遜ながら、自分もほぼ同じことを、考えてきた。人間の営みは、ほぼ全て、直近であれずっと先であれ、分かり得ない、見えていない結果に向かって、行動をするしかない。「信じる」ことができなければ、行動に着手すらできない。より見えにくいもの、分かり得ないものを確信して、行動をし、その結果が社会的なものであれば、それだけ何がしかの付加的な役割が担える。より分かりやすく見えやすいものへの行動には、自明のこととして取り沙汰されない。そのグラデーションのどこに自分を置くか、は「信じる対象」と「信じる程度」の掛け合わせそのものであり、それが社会の中での自分の役割を決める。「信じる」というと、倫理的なもの精神論的なものとして、金科玉条的に仰ぎ見がちであるが、むしろ、全ての人において、本来日常茶飯事のことなのである。土居先生の、今日のお話は、最初から聞かねばならぬものに違いなかったが、自己流交えてかろうじて自分なりに受け止めることができた。そういえば「建築の聖なるもの」2020は発刊されてすぐに購入したが、そのままになっていた。再び手にとって、きちんと読破しなければならない。

風位2022 MUNAKATA 三女神の休息所 中西秀明 (宗像みあれ芸術祭2022 高宮斎場にて)

 

 

 

そして香山壽夫先生登壇。お名前はもちろん、門下の方々との出会い、実作やドローイング集などで、おなじみであるにもかかわらず、肉声を初めて伺う。そして始まりは、「建築はおもしろい」だった。いきなり観念的な投げかけに始まり意表をつかれるも、すぐにそれは、なぜか、と切り込まれた。

1.人と人とをつなぐものであること、そして、2.自然(大空の下、大地の上に)の中に建てられるものであるから、という。どちらも分かりきったことのように聞こえなくもないが、しかし、建築を60年以上続けてこられて、この分かりきったことに確信を得る、ということに、言うまでもなく重みを感じる。建築は人と人とをつなぐコミュニケーションツールである、極論すれば、ツールに過ぎない、とまで言いたくなる感覚が歳とともに増幅する。人と人、とはいろんな組み合わせがあるのかもしれないが、まずは、建築の作り手(施主、設計者、施工者)側と鑑賞する(利用する)側とのコミュニケーション、だろう。むしろ、設計者としてはここしか、関わることができない。そして、二番目の自然(大空、大地)に建つ、というのは、一瞬、拍子抜けするほどに当たり前のことのように思えたが、先生が、「だから、自分は宇宙ステーションにはまるで関心がない」と添えられたことで、合点することができた。自然の中=人間が創ったものでないものの中に親密に存するものであるからこそ、きちんと考えなければならない。つまりは、地球に対する愛のようなもの?建築設計者は、これから人類全体に求められる感覚を率先しなければならない、と言われているようでもあった。

そして話しは、水が流れるが如く、ルイスカーンの話しへ。先生は、ルイスカーンが教鞭をとるペンシルバニア大学へ留学されていた。

What was has always been.

What is has always been.

What will be has always been.

これは、ルイスカーンの言葉の中で、唯一自分が(日本語で)記憶していたものの原文だった。『あったものは、常にあったものである。今あるものも、常にあったものである。いつかあるであろうものも、常にあったものである。』この言葉は、カーンは、本当にいつも、いろいろな場面で、いろいろな人に語っていた、という。カーンは、たくさんの哲学的な言葉を遺しているのは有名だが、この言葉にどっしりと軸足を置いていたというのは、知らなかった。カーンがいかに、人が歴史とつながっているか、あるいは、つながっているべきかの確信の強さがこれどまでとは知らなかった。そして、香山先生は、この名文に続く手書きの英文章をスライドで紹介をされたのだったが、一番最後に会場に到着した自分は、会場の再奥から、メガネ矯正視力0.7の性能でもって、その文字を書きとることができなかった。上記の有名な What was…に続く文章には「歴史的には、豊かな宝物のようなものが潜在している。しかしそれを発掘し自らのものにするためには、穴が開くほどに、それを見続けなければならない」というような意味のものであった。これらには、もうなにも付け加える必要がないだろう。(正確に把握されたい場合は原文を探索ください。)

 

 

 

最後、トリは、安倍良さん。なぜ先生がつかないかというと、石山研究室時代の直上の先輩だから。 リアスアーク美術館に始まり、早稲田の観音寺や、淡路島のプロジェクト、他、自分たちが本当にペーペー時代に、実務的なこと、石山さんとの接し方等を学びながら、長い時間、緊張感しかないあの研究室で共に過ごさせてもらった方の一人。その方が、建築学会賞を受賞されてその記念講演をされると聞いて、呼ばれていないにもかかわらず(井上先生からは、なんで高木さんがここに居るんですかと、注意された。)、なんとしてでも、駆けつけなければならないの動機によるものであった。

いうまでもなく「島キッチン/2010/豊島」の話し。室内空間のない、おそらく学会賞としては前代未聞の作品の、そのストーリーは、ネット情報を撫でているだけだった自分にとっては、言うまでもなく圧巻だった。詳述は避けるが、豊島という離島に、島の人々と外からの人をつなぐ何か、建築でなくてもいいので、そのようなものを創って欲しい、というオーダーに始まり、建築とは言い難い屋根だけの仮設物を工作し、それが、パーマネントな建築へと代謝していく10年のストーリー。受賞作品の類、もしくはみんなが見上げるような建築作品にはおおかれ少なかれ垣間見える、お金の匂い、というか、高度資本主義社会の大前提のようなものが、感じられない。(語弊を恐れずにいうなら)そういうしっかりした社会性、あるいは経済のあるべき循環のようなものがすっぽ抜けている代わりに、人の心と心のトレードだけが、豊かに渦巻いている建築。騙されているのではないか、と思うほどの清々しさを感じた。安倍さんはどうやって、離島の人々や建築と10年付き合うための、フィーをもらっているんだろう、などと、邪な質問さえも思いついたが、井上先生が、(あくまで)「学生さんから質問はありませんか」の進行に、アラフィフは口を紡ぐ。

他者になにかを伝えたくて、建築を通して、それをしようとした時に、必ずお金が物を言う要素、プロセスがある。お金の量が乗り越える糧にもなる。そういう宿命の構図から自由になることが建築にはあり得る、と立証されようとしている。このようなプロジェクトをもって立派に建築なのだ、と皆が同意する(満足する)時代になれば、もしかしたら、人間は地球に存続し続けられるのではないか、とさえ思った。

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