2026. 5. 24

第220(日)「雑口罵乱」(ざっくばらん)

2024年の暮れに、滋賀県立大学で、お話させてもらったものが、本になって戻ってきた。テープ起こし(今はテープでないから、「文字起こし」)から、編集、原稿づくり、のすべてを、学生数名で分担して、本にする。「雑口罵乱」(ざっくばらん)と名付けられた本は、2006年から始められて、今回で12冊目。一冊に4~10名分が記録されているとのことで、私は81人目の記録のよう。学外からゲストを呼んでの座談会〜出版は、布野修司先生が始められたとのこと。こんなに大変なことが学生主体で続いていることに驚くとともに、学生にとっては相当な勉強になっていると激励の意を込めたい。

校正依頼と共に、文字起こされた原稿が送られきて、恥ずかしながら話し言葉は、論理的不備が目立つと思いつつ、30年ちかく建築をやってきて、内容はともかく、思いのほか、やってきたこと考えてきたことの身の丈が話せていたことにも、我ながら驚く。文字化によって私自身の自己反省の機会を与えてくれた滋賀県立大学の学生さんたちに、密かに感謝の念が生じる。

さて、自分の部分は編集時にそれなりに手を入れたから、改めて読むまでもなかったが、この一冊に居合わせた他の三名の方の記事を、読ませていただいた。2023年に2回、2024年に私含めて2回分。誰が呼ばれるかは、基本的に学生が主体となって決めるらしいが、この4回は、たまたまなのか、仕組まれたのか、あるいは、時代という大きな波がそうさせたのか、なにかの共通点、というか私自身にとっては共感する部分が多分に含まれていることに、再度驚いた。一冊の本に居合わせたのは偶々に過ぎないはずだが、思いのほか、これは何某かが通底した一冊なのではないか、と読み進めながらゾッとした。この「雑口罵乱」は、しかし①~⑦までには、値段がついてるが、⑧号以降、非売品になっている。これは思いのほか、勿体無いのでは、とも。読んではいないが、他の号の同居者をみると、決して一冊に一括りできるような面々の方々ではないことにも気づく。

詳しい評論はあえて避けたいがこの共通項を言葉にしないではおれない。「旧来の建築家的思考や行動規範に捉われない、建築との関わり方について」か。長く生きていると、知識ではなく、実感できることが脳を支配するようになる。建築に限らず、職業が人を育てる、ということをつくづく思う。人と会うと、その職業からこういう発想や行動や言葉が生まれるのかな、とその関連性が妙に気になってきたりする。もっと言えば、その人がその職業に対してどのように取り組むか、職業の種が人の全てを決めてしまうような単純な話ではなくて、職業×人の掛け合わせが、人を育てる。相性の問題ではあるが、でも職業と人はデフォルトでは対等とはいえない。その職業の性格は広く社会がそれなりの時間をかけて作り上げてきたもの。人は、その性格に一旦飲み込まれる。一旦飲み込まれつつ、そこから自由になれるかの命題。

直近の滋賀県立大学の学生の指向性なのか、全国的なものなのかは、よくわからない。私がこの時そこで話した言葉で要約するなら、構想者=設計者と実行者=施工者と分かれて造られてきた建築(作法)への、明解な批判である。4名共である。やっぱりもうちょっと要約するなら、人間中心主義から自然中心へ、哲学的であるよりはスピリチュアルあるいはアクティブ、トップダウンよりはボトムアップ、技術的解決の前に、身体的アプローチ。あるいは、できたモノの批評というより、どうやってつくるべきか、どういう姿勢であるべきか、というプロセス論。レクチャーの後の座談会において、それら共通問題の園へ各々が向かう。

このようなことを、学生たちの一つ一つの志が無意識に求めたのだろうか。若い魂がカタチの次元ではない問題を、なんとなくだが気づいているのだろうか。目立たないけれど遍在する無数の歪み、あるいは節目のようなものに彼らは指を差していた。

(読みたい方、お声がけください。差し上げます。)

 

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