2008. 2. 24

第28(日)そこに在るもの

昨日から今日に掛けて、2日連続して異なる施主さんとの打合せの中で、ピンと引っかかったものが共通していた。昨日の打合せでは、お風呂で使ったお湯をどう使うか、今日は、金属加工品のスクラップの中に紛れているこんなに立派なものをなんとか前向きに使えないか、という双方の命題。前者について、家庭菜園へと引き込めるバルブ経路を設けるか、通例のように洗濯水に用いるかの議論の中で、「予算」ではなく「理念」という選択基準に対して少し響いた。後者について、これらの銅板やステンレスをスクラップとして処理するより、手間を掛けてでも住宅の部位=仕上げにでも用いるべきではないか?という意見にまたもや。
そもそも、きちんとデザインしようとすればするほど家をつくる過程における資源の浪費の程は、増えているのかもしれないという脅迫がある。デザインの役割の重要な社会的目的の一つは環境にやさしいことであると(あたりまえのようでそうでない)常々心がけてはいるものの、実際にこれが確実なものかどうかを試算すると微妙な立ち位置なのかもという恐怖心がある。設計段階においては、図面という紙の浪費がまずあって、そして模型をいくつも作っては壊しという、模型材料としての浪費。設計過程の資材の浪費は、実際の建設過程においてもそのまま同じ原理が持ち越される可能性をもはや隠し通すことはできない。もちろん、こういった製造過程を含めた環境学的な脅迫は工業一般の概念であり、とりわけ建築の世界においてはライフサイクルco2(LcCO2)(製造工程から廃棄処分に至る二酸化炭素発生量の指標)と称して、自戒を込めたこれらの概念を持っている。
住宅に限って言えば、一方では、明日にでも費用を用意すれば、即カギが手渡されるといういわば商品としての住まいがあり、その対極に何年もかけて家を構築するというスタイルがある。いえづくりというものづくりから環境問題という問題の端緒を見いだそうとするなら、家を得るという過程が端折られた前者にも、なにがしかの原因がありそうである。よく言われるように、海ではマグロの切り身が泳いでいると考える人間は、対象に対して残酷になることができる。そうではない生身の状態=過程を知っている人が辛うじて、その尊さを承知できる。
美しいという価値は、造形をする立場から無視することはできない。しかしながら、美しいの根拠は一定しない。「そこに在るモノ」を用いることによって、その物語が(古典的な)美しいという視覚を越える、そういう仕掛けを講じることが、デザインの役割の一つなのかもしれない、と思った。

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