2009. 3. 1

第66(日)カラーサンプル外観

建築をやっていて、一つだけいいことがあって、それは、どんなにつまらない町に居てもそれなりに暇つぶしができるというのがある。お金をかけて海を渡れば、もちろん目に飛び込む全てが愉しいのは言うまでもないが、そうではなく見慣れた町並みを渋滞で滞る車中から見ていても、それなりに愉しい。厳密には、愉しいの中に疑いや嫌悪感も含まれるが、とにかく子供のように、時間はつぶれる。
最近のマンションの外観デザインを見ていると、(今更というようなことでもあるが)一昔前のモノに比べて、色の多いことに気付く。そのカラフルさは、鉄と石、というような異素材の組み合わせによって出来上がるものではなく、あくまでも単一素材による色違いによる表現であるところが、これらの類の共通点のようである。私たちが普段目にするマンションならば専らタイルが外装の定石だから、既製品の某タイルの色見本を基にした「カラーコーデネート」である。その見本帳の中から何色選んでも、工事費は上下しない。お好きにどうぞと言わんばかり、子供がマーブルチョコを目前にした時の気持ちの高まりと似ている。それは、辛うじてデザインされたもののように見せつつ、工事費を上げないための方法論であるとともに、(言ってしまえば)設計作業の簡略化でもある。設計者の色彩感覚だけを頼りに、決め手のない配色へ労力がそそがれる。室内コーデネーターが裏地(内壁)に対して行っていたことを、ひっくり返して取り組むのにも似ている。
この、外観の色見本化という流儀は、アメリカの商業建築が源流として太いようである。ショッピングモールの設計者として固有名詞化したジョンジャーディーが70年代後半にアメリカ西海岸のサンディエゴにカラフルなモールを作り、それまでの退屈な大型店舗のイメージを覆した。以後彼の作品?には色による華やかさがくり返される。福岡のキャナルシティーやリバーウォークを見てもその手法が海を渡って極東に達していることがわかる。今に至り、日本中(もしくは世界の随所)の数多の郊外型大型店舗の基本的な美学は、彼が手法化した(実は安上がりの)カラーコーデネートに席巻されている、と言っていい。並ぶ商品では差別化の図れなくなった大型店舗が、色という最も容易に採用できる化粧を外殻に施し集客力を図ろうとしたそれら常套手段が、同様に過当競争に陥りながら安さを強要されるマンションの「イメチェン」手法に転移したと考えるのは、自然なことであろう。
そんなことを考え始めると、ここにもあった、あそこにもあった、とその手の外観が町中を埋め尽くしていることに気付く。と同時に、これまでなんにも気にも留めていなかった、無愛想な単一素材(おおよそタイルには違いないが)で構成された少しだけ古いマンションの中に、清々しい美さえあることに気付くようになる。そういうものには安さや手抜きを隠そうとして却って露呈されてしまった醜さの代わりに、潔さの魅力をも感じる。(単一素材でできていればいいというわけでもないが)そもそも、一つの物事を取り上げれば、そこには無数の次元、質的差異が層を成しているのは免れ得ようがない原理だから、マンション業界をまるで見下したようにアレコレ折檻するつもりなど毛頭ない。そのかわりは当面、このカラーサンプル外観の件について、ビジュアルとして目に飛び込んできたものはしょうがないが、ヴィジョンとしては違うモノを神棚に祀ることになる。お口直しならぬ、目直しとして正反対のモノをヴィジョンに据えたい。今思いつく対抗馬、というか比較にもならぬずっと上質なものづくりの例として、アルバーアアルトの夏の家(1952-53)の中庭レンガの壁、などと思う。実はまだ現物を見たことがないのだが、あえてその欲求を込めて、あの中庭だけに繰り広げられた赤煉瓦の様々な積み方を脳裏に温めている。横方向のみならず縦に、レンガの焼け具合、規格寸法、目地の巾や奥行きなど、手に入れることのできる地域の伝統的な建築材料であるレンガを基にしつつも、そのわずかな多様性から50種近くの表現のバリエーションが一つの空間(中庭)で試されている。赤煉瓦(釉薬タイルも混じっているが)のみでこれほどの複雑な各表情が編み出せた、ともいえるし、にもかかわらず破綻せずに全体が保たれているとも言えるし、意匠上、想像以上に難しい(危険な)ことを、さらっとやっている。オリンピック競技でいうところの難易度の高い技を成功させた芸術的映像と等しい。だから、成功したものに実験住宅「コエタロ」と言い続ける必要もないとさえ言える。「コエタロ」のレンガの壁も、いわばサンプル化された外観に他ならないが、マンションのそれとは次元が異なる。それは当たり前、サンプル帳をユビ指して出来たモノではない。サンプル帳を構成するべく一つ一つを作り構成したものである。眼前のマーブルチョコに心ときめかせたのか、まだ見ぬマーブルチョコを創ることに心ときめかせたのか、という大きな違いがある。

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