2009. 4. 26

第73(日)空き家をつくる仕事

まじめに考え出すと、自分のやっていることが、社会の役に立っているのかどうかが解らなくなるときがある。環境問題というのも、各々が人様のために、社会のためにと知恵を絞り手を握り発展させてきたことの集大成であるから、この問いは自分一人のものでもない、とも言える。中古マンションの空室が増え続けるという惨憺たる事情を常日頃肉声で聞き重ねるにつれて、空き家の存在が気になり、調べてみた。住宅総数に対する空き家の率=空き家率は1963年で2%強、それが毎年確実にステップし、2003年には12.3%になっている。人口や世帯数が増え続けながら、空き家も増え続けた。このまま、この率は上がり続けるという予想も散見される。人口は減らない(2005年まで)のになぜ空き家が増え続けるのかというと、単純な話、新しい家、新しいマンションへの住み替えが、除去される件数より多いからである。自分が住んでいる周辺を歩くだけで、新築中のマンションや新築中の分譲住宅群を直ぐに発見できるのは、統計からしても当然のこととうなづくことはできる。
悠長に統計と実感を確かめ合っている場合ではない。この状況を鳥瞰してみるなら、私たちは、「必要」よりずっとたくさんのモノを作っていることになる。つまり単純な言葉でいえば、贅沢三昧をしている。食べ物に例えるなら、食べる量以上につくり、冷めたモノから捨てる行為に近い。建築の場合は、食物ほど腐るスピードが速くないから、見た目の惨状はそれほどでもないが、計算すると新しく1戸つくるごとに、0.13戸の空き家をつくっている。
もちろん、こういう冷ややかな理詰めの論法に素直に丸め込まれてしまうほど、人間は(自分は)論理的、倫理的でないから、明日から新築をやめようなどとは思わない。土地を占有し、材料を用いて、人を用いるのだから、広く社会にとって「必要」なモノ、長く価値が保つものを目指そうと、楽天的な考えしか(自分は)むしろ思い浮かばない。そして、新築の傍ら、大小のリノベーションや中古マンション一室の再生(デベの産物のフォローに他ならない)をデザイン兼工務店業として行っている。こういうのは、木こりが植樹をするのと、また、自動車会社がエコロジカルな番組を提供するのと、ある意味同じ行為である。
少量生産者だからそういう口が叩ける。それがゆえに大きな営みほどの改善力もない。空き家を増やさないため、というより、余計な資源と労働をドブに捨てないためには、建築一つ一つの営みとは別に、都市的、公共的なパラダイムがやはり必要である。法律的な規制でも感覚的な反対運動でもない、明解な因果関係が示す抑制力のイメージである。TV番組や雑誌、著書などでおなじみの「渋滞学」が示すものはそういう意味で興味深い。西成東大教授は、自ら渋滞が嫌いな物理学者で、どうして自然渋滞がおこるかのメカニズムを研究している。過程はともかく結論は簡単。車間距離が40mより小さくなると渋滞が始まる。混雑してくると、急ぐ車が車間距離の間めがけて割り込んでいく、そうすると割り込まれた後ろの車がブレーキを踏む、そこから後ろに向かってブレーキの連鎖がおこる。割り込んだ人を含めてそれ以降が全員、損をする。個々の人間の些細な欲が原因となって集団が損をする。これを多くの人が知り、各々の行動学によって渋滞が解消方向へ向かったならば、車線を増やさずに増える車に応えたことになる。
つまりモノを作るための物理学から、モノを作らないで済ますための物理学である。人間の行動規範が絡んでいるところが味噌だろう。これを過剰に供給される住宅の「渋滞」に読み替えることができないだろうか。ある住宅地に新築のマンションが建つことによる熱、光、音、生態学、経済学、心理学、さまざまな要素や領域において、その場所の全体へ作用する複雑系の因果関係がつまびらかにされ、公共的な損得が明解に解き明かされ、一人一人の人間のための行動規範、美学のようなものが提示されたならば、と。住居の混雑は車ほど単純ではないが、もしそういうことのいくらかでも指し示していけたなら、法律による規制や反対運動のように硬直を伴わずに、抑制力と創造力が調和する社会へ向かえるのではないだろうかと思う。

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