2009. 12. 13

第84(日)指示待ち

そろそろ歳寄りの仲間入りか。今の若者は・・と、こういうフレーズを肴に同年齢以上の人々と話が咲くようになってきてしまった。もちろん、若者と十把一絡げにしてはいけないのだろう。そういう年寄りが若かりしころも例外なく、同じようにして先輩たちから叱咤されるのが常だとも言われる。だから今、敢えて断言してもいいかもしれない。俗に言う「指示待ち」とは、先輩や上司から指示を待ってから行動する姿勢のたぐい。自ら勝手に判断しては、間違うかもしれないし、無駄なことをするよりは導かれるのを、また、判断者のいわれるがままに動くのがなにより合理的である、という行動美学のようなものだ。これが、どうも若い人に多いと言われて久しい。建築の分野だけではない。経済界の経営者レベルが皆口を揃えたという記事も見たことがある。もちろん、どの世代にだってそういうことはあろうが、特に今の20代あたりが、とひそやかれる。間違わないようにガイドに従って動くというのは、一見、合理的な仕事人のようであるが、実際の仕事では、そううまいばかりでもない。現場の突先では、そこに直面している者が臨機応変に判断しなければならない場合が必ずあるし、それに対して指示者があらゆる場合を想定して、完璧な指示内容を事前に用意することなど出来ないからだ。それでも「指示待ち」は、「指示者」が最短距離を示してくれると思っている。「指示待ち」のマザーボードは、最終目的へ向かって、まっすぐに走るようプログラムされている。
当然、自分が若者だったころとの比較をする。23才の学生のころ、師にとある建築のインテリアを設計せよと「指示」された。実施設計のもの、つまり実際に建つ建築ということで、奮起して、ベニヤ12tを手鋸で切って、壁や床を構成した1/20の内観模型をつくった。それを自慢げに携えて、打合せに臨んだ。開口一番、師の一言。「若者という膨大な無駄。」徹夜こそしなかったが、師を驚かせてやろう、と意気込んだ一球入魂の一作が、脆くも想像だにしなかった叱咤を受けて、目の前で存在価値を失った。この珍事を冷静に振り返るなら、その時の自分の意気込みは、ものすごい轟音を立てて社会を空振りしたという感じだ。だが、その意気込みの発生源は、さすがに歳を経て、その歳なりの判断力を兼ね備えることによって、かつてよりは意味のある行動力へと成長したのではないか、と手前味噌ながら思う。自らの意欲、好奇心で今一歩進める、という行動規範は、なにかを創るためには欠くことができない。時には、間違うし、やり直しもあるだろう。誤解も生むかも知れない。だが、それは、なにかを創るためには仕方がない。お湯を得ようとしたらそのうちいくらかは湯気で吹き飛んでしまうのを免れ得ないように、ロスは仕方がない。結局、どうして指示待ちの美学が若者を巣くったのか?という議論になり、つまるところ、社会構造だろうということになった。例えば、今では大学4年生で一級建築士の予備校に通う学生がいるということや、就職説明会に学生が整理券待ちであったり、大学は就職率でその評価の全てを表しているかのような風潮・・は、とどのつまり、皆が同じ価値観に向かって、争い、奪い合うしかない状況というか、環境というか、そのような社会構造が原因なのではないかということだ。同じ価値観云々は情報化社会と関わっているだろうから、結局、若者は彼らの先輩達が作った環境に従っているということになる。若者をののしっている場合ではない。問題があるのは、若者だけではない。

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