2010. 4. 25

第93(日)住居に庭はいらない?

1000万円代の一戸建てがいろんなところで、売られている。2000万円に近い1000万円であれば、まだ驚きはしないが、1000万円に近くなるに従って、そのカラクリを見る目の真剣度が増す。それぞれはそれぞれなりの工夫を行っている。単純に延床面積が小さい、などから始まり、プランの融通性をなくして設計過程を合理化したり、幅木や回り縁などの見切り部材などの細部徹底的に省略したり、もしくは単純に基礎代金とか電気工事代金とかエアコンが含まれないなどの、価格表示上のトリックであったりと、とにかく様々な工夫の積み重ねにより、その価格は提示されている。その中でちょっと気になる傾向がある。外壁を潔く閉ざしたものだ。それらの(いわゆる)コンセプトによると、マンションで育った人は必ずしも、庭に開いた空間を必要とせず、むしろマンションに匹敵する防犯性を得るべく、一戸建てであっても外周を人間の進入から閉ざすような開口計画の方が好まれるはずだというもの。人間が入れぬ細いサッシだけが壁に穿ってあり、足りない光量は天窓から補うなどが成されている。風土論(和辻哲郎/昭和2年)などにも出てくる、敷地外周の塀こそが内外の境界であるという日本家屋の通念は、もはや過去の形跡にすぎず、あくまでも建物の外壁が名実ともに家の内外の境界という、ある意味わかりやすい欧米型の様相となっている。集住生活から逃避して戸建てを求めるその目的は、もはや水平方向へ庭や地面を求めるものではなく、その代わりに、垂直方向、つまり音や熱の合理性を求めて地下、もしくは、絶対に他人に侵されることのない空へ向かうことへ、なんとなく繋がっている。
犯罪過密都市とその近郊に一戸建てを目論む以上、水平に開きたくないというのは必然であるかもしれない。これをこんつめていくならば、例えば安藤忠雄氏の「住吉の長屋」になるという想像はどうか。青天の中庭のみを通して外へ開く戸建てが街のスタンダードになったりすると、灼熱や砂埃をガードしてきた中近東の家々のような町並みなども想像に加わり、面白かろうとも想像をする。が、もちろんあのような鋭敏さはスタンダードにはなりえない。そこに問題があるかもしれない。そこまで行き着いていない、地中とも天空ともさして結びつくことなく、水平へも開かずに只只、内向的な空間。長屋が持っていた健全さ、集まって住まうことの豊かさ、地面に単立していることを愉しむ感性、そのどれでもないモノものがおそらく量産されようとしている。売り手は売れるか売れないかだけを頼りにしてものをつくる。それに買い手が応える。家は、インターネットや地デジで繋がっているから世界へと開いてるのだという。春雨や夏の新緑、秋の満月や、冬の寒空は大画面の液晶越しでいいという。仮想に陥ることなく、いかに現実から離れない生活のデザインをするかは、作り手、供給者によってではなく、お金を払う人(生活者)一人一人の思量に依っているかもしれない。

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