紅葉八幡宮という小高い丘の上の神社の脇に、利生院というひっそりと小さなお寺があった。不動明王、薬師如来、観音様、を祀る小さな御堂があって、その脇の庫裏がある。元々は、住職が住むところであったが、昭和に入り、高度成長期を終えるあたりには、住み手が居なくなった。そして有るとき、福祉施設に転用するという、話が立ち上がった。本来は、御堂を中心として信仰の場として住職の類いの方に入居してもらうのが、寺としての生い立ちに沿った再生であっただろう。が、この境内そのものから、寺として経済行為が成り立つすべがなく、この小さな寺院の庫裡のみをコンバージョン=転用するということになった。まずは、この地の過去を紐解いて、場所の地歴への敬意をもって、新しい機能を設計しようと考えた。
江戸初期、福岡を治めていた黒田の四代目藩主綱政侯(1649~1711)がある日鷹狩りに、当地の付近を訪れていた。そこで腹痛に襲われ、急いでこの地を守る(住んでいたのではなく)山伏を呼び寄せ、祈祷をさせたところ、たちまちに治ったという。藩主は、仏の慈悲や恩恵という意味の「利生」の名を院に付けて、その山伏をこの地に住まわせ、土地を守らせたという。以来藩の加護を得ながら、周辺の人々による絶えることのない地道な信仰が重ねられてきた。ちなみに、その時藩主に飲ませた井戸水は利生水という名で、紅葉八幡宮境内に今も湧水している。
山伏というと、いわゆる深山幽谷の、ずばり山奥のイメージがつきまう。海に程近くのこの小さな丘に山伏が、という過去をにわかに受け入れにくくなる。山伏の始祖と言われる役小角(えんのおずの634?~701?)が開いたとする吉野の蔵王堂~大峰山寺や、福岡の英彦山こそが山伏の居場所だと想像するならば、この地がどうして山伏の世界なのか、ということになる。そこでお隣の紅葉八幡にご挨拶がてら伺い、立て看板にて由来を覗いてみた。紅葉八幡様は100年強前の大正2年(1913)に、百道浜にあったところから遷宮してきたというから、この丘の土地神様、氏神様と言うには少々月日が短い。ならばと脇のより小さな祠に上ってみると、別の立て看板によって案の定こちらが元々この小さな丘を守っていたお社であることがすぐに解った。このお社は、山伏が守っていたというのだ。その山伏はこれより西の拾六町から来た、と書かれてあるから、現在の熊野神社ではないか。お殿様のもとへ駆けつけたのも、かれらではなかったか。熊野神社はその名のとおり和歌山の熊野権現からの勧進と思われる。鎌倉期の1293には、生の松原の地に祀られていて(旧壱岐神社文書)、のちの1624-25年あたりに、現在の拾六町の地に移ったという。RC造の本殿に厳重に保管されている木造大日如来像は、平安末期~鎌倉初期の作と言われていて、県指定文化財となっている。他に薬師堂、文殊堂、石塔、などが小高い丘上の境内に鎮座している。この小高い丘は標高15.1mだが「薬師山」という名を持っている。薬師「やくし」は、「くすし」であるから、現在の医師や薬剤師と容易につながる。当時は、人々の病を具体的に治す医療行為の何某かが山伏や陰陽師にとっては現実の世界における収入源でもあった。山伏が作っていた薬の中には陀羅尼助や百草丸のように現在まで続くものもある。
これらの歴史上の定説を考え合わせると、拾六町の薬師山は、医療の役目を果たす山伏たちの何らかの拠点として、すでに実績を持っていたかもしれない。お殿様の腹痛が見事、山伏の加持祈祷他の医療処置によって治ったことが契機となり、現在の利生院の地に対して、第二の薬師山が、いわば場所がコピーされたということになるだろうか。コピーは、その瞬間に完了したというよりも、その後の藩と住民たちよって育てられた、というふうに考えておくべきかもしれない。こうして、都市におけるわずかな起伏の丘に対して、山伏文化が2山、中世~近世に至り福岡平野に根ざしていたというのは、今は見えない地味な地歴ではあるが、この場所の今をも作り上げようとする根深い、地歴なのかもしれない。
江戸時代から明治に至り、昭和の初めまで、住職にあたる寺守の人々が、利生院のこの小さな御堂と境内を守り伝えてきた。しかしながら、今はもう、この場所に住まうことでは、経済的にも現代生活の水準としても成り立たない。ならばと、もしこの古い建物を生かしながら、わずかであっても賃料収入を得て、場所を維持していきたい、となった場合、お殿様が「利生」の名を授けてくださった地歴のなにがしかを可能な限りとどめておけるような、そのような場所の使われ方であってほしい。このような願いは、まさに場所の素性=地歴から生まれた自然な発想である。レストランやギャラリー、民泊の類いなどの、いくつかのテナント候補者からオファーが来ては断りつつ10年待ちつづけた。ついに精神障害者のためのケア施設として利生院を用いたいという人が現れる。
新しい利生院の運営者(株)でかぬーての銭本氏は、福祉大国であるデンマークで先進事例を学び、帰国してしばらく、大学で教鞭をとりながら起業をうかがっていた。現在は3拠点を運営するが、ここ利生院からはじまることになった。彼の地デンマークでは、さまざまな建築物を転用しての社会福祉事業は、日常茶飯事であっただろうが、小さくともお寺の境内にある庫裡を用いて一号店、というのは、かなりのトライアルだったようである。400年前にお殿様を癒した山伏はいないけれども、それでも彼らの存在と精神が、この地を介して奥深くで励みになったという。山伏たちに代わり、今に生きる介護士たちが、心悩める人々の心を日々癒している。「でかぬーて」は、「Det kan nytte(デ・キャ・ニュッテ)」=「役に立つ」という意のデンマーク語が由来という。「利生」の名がこの社名を呼び寄せたのではないか。場所側から見渡せば、なにか一つの線でつながっているようである。