2016. 10. 2

第169(日)舞台セットと舞台(住宅と住宅地)

このところ、自宅の前の道沿いに三件の住宅解体現場があった。職業柄、無関心でいられるわけでなく、だいたいにおいて、古い住宅の解体は、自分とはなにも関係が無いものであるにもかかわらず、もの悲しさがつきまとう。感傷的に過ぎないといわれれば、そういう側面は否めない。
と同時に、それだけではない感情が突き上がる。
一つは、まだまだ十分に住める住宅が取り壊されていく風景に対して。日本の住宅の寿命が30年前後であるという、先進国間の中で際だって短命であることに、私たちは何となく恥ずかしい思いをし始めて久しいが、その理由は木造だからなのだ、あきらめの境地もあったりする。国交省は、高耐久木造なる仕様をつくり、優遇措置を与えて広めようとしていたりしているから、日本の住宅が短命なのは、やはり「物理的に」長持ちしないからなのだろうと、先入観が固定概念になってしまう。しかし、自分が仕事として関わる中、また見聞きする範囲の中で「物理的な老朽化」による解体現場がいかほどあっただろうか。もちろん物理的な老朽化そのものが、無段階であり、どこからが解体理由に結びつくのか、曖昧ではある。せいぜい、住宅の死因とは、人間と似たようなもので、「解体に至った最も決定的な理由」というぐらいのことであるかもしれない。

狭い、とか、周辺環境がうるさくなった、とか、今の耐震基準に満たない、とか設備が(使えるけれども)古い、などは、その住宅そのものが悪くなったというより、それをとりまく社会が変化したことによる、社会的な老朽化の類いといえる。雰囲気としてこれでは?、とか、改装の自由度が計りにくそう、などという意匠的な不満も、大きくは社会の価値観の変化による相対的な劣化の範疇だろう。また、路線価の高い土地の場合は、多額の相続税が、そこに住んでいない相続人(達)にのしかかって詰まるところ転売、というシナリオは世の常である。そういう地域では、転売先は、新たな住人ではなく、事業物件として事業者に取得されるから、上物は物理的機能的に問題がなくともそれ以上に厳しい現行の社会(商品)基準に適応され、結局は一旦更地となる。税制が転売の動機付けとなり、市場(シジョウ)が転売先を決める。全てはお金で組まれたスクラムに、果たして建築を作る側、あるいは活用しようとする側は、根本的な介入手段を持ち合わせていない。社会の仕組みからなる社会的劣化。資源の膨大な浪費だと指を指される建設業だから、国交省はしゃにむに対策を講じなければならなくなるが、強いて言えば財務省あたりが対処しなければならない問題なのではないか。もし、建物(住宅)が壊される理由のビッグデータが存在するのであれば、それは役に立つはずである。住宅の更新スパンを長したいのであれば、つまるところ、物理的耐久性の向上以外に着手せねばなんともならないことを突きつけられる。建築の生産やストック活用といった建築業の外にいる人々に気づいてもらい、共に取り組んでいくことができる。

物理的にはまだ住める家でも、壊さなければならない理由が世の中に蔓延しているのだ。そういうことを含みに入れておいて、住宅の断面がCTスキャンのように輪切りで露わになる解体現場を眺める。まだまだ十分に住み続けられそうであることがわかると、建築物というよりまるで昨日造った舞台セットが壊されていくような、非情な風景に見えてくる。そして、更地になったその空き地に、虚無感を感じる時間すら得られないうちに、新たな建設行為が始まる。それなりの人気、つまり比較的地価の高い地区の場合は、住宅そのものの更新は、経済力学が強く働いているためか、驚くほどに迅速に執り行われる。建つのは、(高宮地区については)大手ハウスメーカーであることが多い。あっという間に仮囲いがなされ、杭工事その他地業工事が始まる。

もう一つの感情とは紛れもなくこの、建て変わっていくモノのこと。豪華であるとかないとかは別に、判子を押したような量産品ではなく、一品生産的に造られたとわかる住宅が並んでいた、いわゆる「成熟した住宅地」は、もはや、その独自の雰囲気を自ずから維持できないのかもしれない。大手ハウスメーカーは、土地取引の水面下世界を泳いでいて、人気の地域の土地から抑えていく。上物(建築)で勝負するだけでは、圧倒的な差別化はできないからか、人気のエリアの土地を持っている、というアドバンテージをもって、自社の住宅の必然性をあらかじめ構築する。彼らが狙いをつけた住宅地は、土地争奪の戦場であり、あるいはその舞台であり、住宅は本当に、そこに一時的に置かれる舞台セットとして扱われる。

住宅は、結局短命であることをなにも払拭することができず、また、住宅地もまたそのようなプラモデル的な舞台セットを置く舞台に過ぎず、更新だけが行われ、成長も成熟もしない。ハウスメーカーの展示場化だけが進んでいく。一つの『成熟した』まちが、メーカー住宅の類いの限定種へとすり替わっていくことを、私たちは注意深く見据えておかねばなるまい。数が増えるとか、それ一色になる、という単一原理のみによる単一種の連続は、例えば杉材の森林政策などのように、その時には解らない不利益を将来もたらす可能性がある。その果ての風景とか生活文化を想像した上で、それらは増えてもいいものかどうか、その一戸を帰納的に評価しなければなるまい。(住宅に限ったことではないが)数が増えるということは、経済を動かすのみならず、もう少し長い時間スパンを持った民俗文化の類い、つまり、私たちのスタンダードづくりに関わるのだから、やはり、様々な視点で洗われていくものである。

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