2016. 11. 5

第170(日)利生院-直線の歴史と循環の歴史

紅葉八幡宮という小高い丘の上の神社の脇に、利生院というひっそりと小さな御堂があった。その脇の庫裏には、しばらく住み手が居なかった。有るとき、福祉施設に転用するという、話が立ち上がった。私共にとっては、これまでの改修計画とは少し異なる。福祉施設という類いの機能に関わることがまず、私たちにとってはじめてであったが、それ以上に、この小さな寺院の境内をコンバージョンするということ自体が、まれな事であると思った。住職の類いの居住者が居続けることができなかったから、転用の運びになった。寺院といってもそれくらいのものであった、という風に捉えることができる。しかし、この地の過去を紐解けば、興味深い小史が浮かび上がってくる。

300年以上前、福岡を治めていた黒田の四代目藩主綱政侯(1649~1711)が鷹狩りに、当地の付近を訪れていた。そこで腹痛に襲われ、急いでこの地を守る山伏を呼び寄せ、祈祷をさせたところ、たちまちに治ったという。藩主はさっそく「利生」の名を院に付けて、(そこにあったのか、新しく建てたのか)その山伏をこの地に住まわせ、土地を守らせたという。以来藩の加護を得ながら、周辺の人々による絶えることのない地道な信仰が重ねられてきた。ちなみに、その時藩主に飲ませた井戸水は利生水という名で今紅葉八幡宮境内に今も湧水している。

山伏というと、いわゆる深山幽谷、ずばり山奥のイメージがつきまとい、こんなに海に近いところに山伏というエピソードがまずピンと来ない。そこでお隣の紅葉八幡にご挨拶がてら伺い、立て看板の由来を覗いてみた。紅葉八幡様は100年ぐらい前の大正2年(1913)に、百道浜にあったところから遷宮してきたというから、この地の氏神としては比較的若い。ならばと脇のより小さな祠に上ってみると、案の定こちらが元々この小さな丘を守っていたお社であることが、立て看板を立ち読みしてすぐに解った。そのお社はやはり、山伏が守っていたというのだ。その山伏は拾六町から来た、と書かれてあったから、現在の熊野神社(元は和歌山のあの熊野神社から平安時代に分霊)を守っていた山伏なのだろうか。そちらの神社も小高い丘の上に建っているから、今ではたいした起伏を感じない小さな丘の地形のように見えても、それらを読み取って、山伏文化のようなものが点在していたのかもしれない。例えば愛宕山とか、西公園とか、名島、志賀島?含め、山伏文化の類いは、博多湾を囲むように、もしかしたら修験道全盛期とされる平安時代には、今では想像もつかない点景を成してしていたのだろうか、などと妄想を愉しんでみる。

300年以上前の「霊験」の類いの逸話が縁起となり、歴史上の起点があり、今がある。タダ偶然にそこに山伏が居た、ということで通り過ぎる事も出来る。あるいは、もう少し場所の持っている本来的な性格というか、必然性のようなものがあって歴史が積み重なっている、という推理もまた、できる。ここには、山伏達を寄せ付ける土地の性格(土地の起伏)があって、そこに修験道の類いの信仰が定着し、仏の慈悲や恩恵という意味の「利生」の名の下に、周辺の人々の某かに対して彼らの出来るかたちで救済してきた。そして「利生院」の名は21世紀にまで引き継がれ、今度はそこは福祉サービス事業の場所として生まれ変わり、現代的な新たな類いの救済が始まろうとしている。

とはいっても利生院は、特別扱いしなければ、只の不動産でもある。後でわかったことだが、この場所の転用計画は、この結論が全てではなく、レストランやギャラリー、民泊の類いのお話が、いくつもあったという。だから、なんにでも再生することができた。しかし建物が使われればなんでもかまわないということではなかったから、一つの必然へ収束した。地域の公共的な幸福に与する建築としてなら第三者にお貸ししてもいいという、所有者の特別な要望が前提にあった。そこに福祉サービスという地域貢献を旨とする事業計画携えた借り主と、偶々その的に紐付いていた私たち(古家空家連絡会)に白羽の矢が当たった。

ちょっと横道に逸れるが、現代の私たちは、創造的な仕事をしようという時、なんとなく、通り過ぎていくだけの後戻りのしない直線的な時間軸のイメージを背景に持っているように思う。昨日より今日の方がいいという明らかな展開を目論む醍醐味は、直線を一方向へ向かう時間感覚の最たるイメージ。過去の優れたところを参照し注視しながら、過去から改善改良された部分との対比が重要になる。建築の再生においても、元の部分と「劇的に」変化する部分の対比がエキサイティングであり、クリエイティブであるという視線である。

思えば、私たちは、四季の移り変わりを享受しながら、毎年繰り返している。新鮮味を毎年感じつつも、必ず同じ四季を繰り返している。あるいは、去年の春と今年の春は同じだという認識に陥ることなく、新たな春の新鮮さを感じながら、生きている。つまり、始まりも終わりもなく循環していくという時間感覚。始めと終わりが想定され時間は二度と戻ることのない、という西洋的な時間感覚からすれば、現在と過去とは理性的な繋がりだけで結ばれる。それに対して、アジア的で日本的な特徴でもある循環思想=輪廻は、事実を超えて、見えない、あるいは見えにくい連続が想像される。

狐とか、猫とかに生まれ変わった云々の、まるで日本昔話のような歴史の見方。場所にも魂があってある特定の性質が再生され、繰り返される。場所の持っている深層の某かが時間をまたいで連続している。そういうことを考える時は、論理的な解釈とか理由付けは時に邪魔であり、唯々、想像するしかない。一つの場所に対して建築は、その場所の持っている根底的な性質が作り出す時間の流れに、乗ったり沿ったりしながら、循環しているというその場所の運動体系に、少なからずの影響を与えていることになる。

一旦、理屈は先延ばして、よりスパンの大きな見えない歴史に自らの建築行為を照らし合わせてみる。そこにすぐさま正否はつけにくいけれども、近視眼的な価値基準よりも広い視野に立つことができそうになる。場所の歴史という大スパンの中での大役であることも判ってくる。建築デザインという流行業界=短い時間感覚の中にありながら、それはやはり頼もしい導きである。

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