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2023. 1. 1

第200(日)働く時間、場について。

先日、とある建設会社の支社長と、おそらく日本中で起こっている、人手不足の話し。なぜ、今、現場監督が不足しているのか?の理由の一つに、働き方改革があるのではないか、というもの。会社は、今は定時になると自動的に、電源が落ちてしまい、問答無用に、残業ができなくなるとのこと。企業というのは、なるほど、そんなにシステマティックなのだと感心しつつも、問題がそこから始まる。あー仕事が終わったと、精々しながら帰宅する社員の中に、それらに関係なく、たとえ残業代がつかなくても、たくさん働いて、早く、一人前の現場監督になりたい、という若者が、少なからずいる、とのこと。5年もやっててまだ作業所長になれないのか君は?の話しになるらしい。時間のメリハリをつける行動規範が、知らぬ間にスタンダートとなり、そういう枠にとらわれずに仕事を覚えたい若者の芽を摘んでいる、という。

規範や規律というのは、時に重要なものごとをもスポイルすることもある。とある左官の親方のぼやき。親方を慕って左官を目指す若者が、手弁当でいいから、働かせてくれ、といってきた。しかし、そういうすべての若者に、労働基準法が強いる最低賃金を払うことができないから、仕事はあるし、席はあるが、断るしかないと。互いに雇用条件が満たされているにも関わらず、受け入れができない事態、一人の若者に学びの場を与えることができない制度の限界を嘆いていた。

時間に縛られずに、気持ちの赴くままにたくさん働いて早く一人前になりたい、という時に、時間にけじめをつける仕事の仕方が果たして正しいのだろうか、と疑うのは自然だろう。時間を限って、仕事の効率を促すというのは、まずは、時間を忘れて仕事をしてしまう(ことができる)人間が考えるべきだと個人的には思っている。給料とかそういうことよりも、優れた仕事を盗みたいという感覚が、一人のペーペーな作り手に生まれるのもピュアで健全な志以外のなにものでもない。そうであるなら自由にさせてやったらどうか、という柔軟な環境であることの方が理想であるのは言うまでもない。制度整備とはかくも金太郎飴の世界である。

 

 

 

年末の休み突入初日に、この本を読んだ。自身を三流とする世界が認めた一流シェフが、休みなく働いた修行時代を振り返っている。朝から晩まで、そして日曜日もない日々。そういうひたむきな生き方を、天才のみがなせると他人事にするか?しないか?夢や希望で自己を純化していこうとする者=志には、社会や組織が敷いた制度や世論のリミッターなんて、関係ない。それにしてもさあこれから休みだーという時の読書としては、ちょっとふさわしくなかった、「感涙」の一冊。

 

 

人間は、やはり、集団で生きている。だからこそ、最大公約数に照準を合わせて、それらが道しるべとなり、集団が成り立つ。ただ一方で、人間は、限られた個の力で、集団が引率されているのも、紛れもない事実である。そういう人種の生態への対応も、同時に、同列に、考えなければならないだろう。

もう一つ、時勢的な話しとして、リモートについて。数年前からのパンデミックにより、また、パソコン環境の社会基盤的充実により、思いの外リモートで仕事でもコミュニケーションでもなんでもできるということが、わかった。しかし今は、もう、私たちは、会わずにできる側面よりも、それでもやはり、人間が居合わせることの意義を再認している最中である。

とある神社の宮司の話し。近頃は神社のお祭りも、リモート配信しているらしく、月次祭(つきなみさい)や、交通安全、学業成就などの御祈願なども、ネット上の決済をしながら、リモートで参加できるという。そのこと事態は、へーと思いつつ、さもありなん、という内容。話しはそれから。

とある氏子さんが、こう尋ねた。「宮司さん、寒い、暑い、あるいは、感染を免れようと、出向かずに神様にお願い事をできるのはいいが、実際に出向いて参拝するのと、違うんでしょうか?」違うかというのは、おそらくストレートにいってしまえば、ご利益に差があるのかどうか、というお尋ねなのだと推測。宮司さんは、「心というのは、神様の方からすれば時間や空間の制約を受けないので、ご自宅でお祈りなさっても、多分、聞いてくださると思いますよ。」「でもですね、みなさん、この境内に入ると、家に居るのとは違う感覚になりますよね。毎日毎日私たちや氏子さんたちが掃き清めて、綺麗にされた境内と、神様にお供えする祭壇、ここにきて、ああ神様お願い、って気持ちになりませんか。」「私たちはこのように場の雰囲気というか蓄積された力、意識のようなものから多かれ少なかれ直接的に心が影響を受けながら生きています。神様は祈る人間の真心の度合いを汲み取るのですから、自宅でなさるのと同じか言われると、同じにはならないでしょうね。」

真心の話しをリモートワークと、どう重ねるかだ。事務所には神様が居て、というのではない代わりに、人間がいる。他者がいる。皆、必死で働いている。もし、必死な環境の中に、必死でない者がいたとしたら、彼は自然に居ることができなくなる。逆に必死でない者に囲まれて、必死である者が居たとしても、彼は、そこに居続けることはない。よくも悪くも互いに影響を受け会いながら、特定の物事の成就のために、そこに集まり、知らぬ間になにかを交換しあっているというのが、対面環境だ。対面環境を設ける意義は、時に眠気を起す気概の類を与え合う場、人同士で良い影響を与え合う場、つまりは各自が各自の自宅でやっているでは絶対にできないトレードがなされている、というのが底部にある。極論、IT端末を用いて、遠隔のコミュニケーションモードでの連絡に努めれば、可視的な情報そのものは、100%やりとり可能だと考えるられる。ツールを介さない対面での対話の意義を私たちはもう痛感しているが、言葉を交わすという見えやすい事象の背後に、不可視的なもののトレードが、潜在していることを、証ているかもしれない。

まずは場を掃き清めて、場の見えない糸をピンと張る。そして、時々の各所の整理整頓。そして、各々が各々で自己管理している心身がそこにあれば、自然に互いに他者に良い影響を与えるような場が作られていくのだと思う。人間が二人以上いて、彼らが何かの目的に向かって、一つ所で協働しようというところから、「場」が生まれる。相互扶助的な働きがある人の集まり、空間をこそ「場」と言ってもいいようにも思う。

 

 

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