2010. 8. 29

第100(日)完全へ向かおうとする手

歳を取るということは少しずつ報酬とは無関係の仕事が増えるということに気づき始めた。20代のぺーぺーでは、動機や能力や時間のいずれもが不足しできるものではなかった(建築)業界への奉仕もボチボチ機会が発生する。町内会や氏子会といった我が居住区のためのお役目もいつ降り掛かってくるかわらない。家族や身内に生死があれば、人として当たり前に少なからず身を捧げることになる。同窓会の幹事も頼まれれば拒むことはできない。
思えば生まれて40のこの方、純粋に他人のためにという行為はいくつあっただろう。赤子から学生の間は当たり前かもしれないが、24才で社会人となった以降も、おそらく自分のことが中心にあった。下積み時代の仕事のすべては、施主のためでもあったが、明日の我が身のためと捉えなおすことによって乗りこえてきた。それはそれで悪いことではないとは思うが、そろそろ、大人の仲間入りをしなければという時節になってきた。
とりあえず、今年からぼつぼつ、家の仕事を手伝う。ヨボヨボの老母が30年近くやっていた、神棚の仕事を少しずつ、とりあえずは、榊の取り替え。冬はもうちょっと保つが夏は1週間で駄目になるから、その都度に榊を買ってきて、差し替える。差し替えるといっても、神棚に召すものだから、神社の神官がやっているように、白い服に着替えて、塩で手と口を浄めてからとなる。榊は多めに買っておき、選りすぐる。必ず、若芽のあるものを5本、もしくは7本の束にして麻皮を裂いたヒモで束ねる。(麻の入手は、麻薬取り締まり法と背中合わせの命がけの入手)しかし問題は、その束の全体の意匠である。葉を(理想としては)一枚一枚綺麗に拭き取り、虫喰い部分はハサミで綺麗に外形を整え、一本一本を選び、重ねる順番を、ああでもないこうでもないと苦慮しながら、全体として美しい榊の束を目指す。しかし、榊は毎回、当たり前の話、一本たりとも同じものはないから、延々と出来映えが一定しない。。神棚に据えて、引き下がって見ると、右と左のアンバランスが必ず露呈する。両翼とも良くできたと思える日は皆無、毎回、榊とのイタチごっこである。おそらくは完全へ向かおうとする人間の精神が神前で試されている。
先日、新築の地鎮祭時に、笹竹の結界に結ばれていた榊に目を疑った。見事なバランスのすばらしい榊の束であった。榊の素性も信じられないぐらいにいい。思わず神主さんに声をかけた。「すばらしい榊ですね、どこの榊ですか?」
すると、2秒ぐらい間が空いてから、「これはツクリモノなんです。毎回本物を使うと、そこらじゅうの山がはげ山になっちゃいますから。」もう一度、別の意味で目を疑った。なるほど、常緑樹の榊の、あの光沢のある単調な緑はビニールで再現しやすいのだ。それにしても、ニセモノと解らない。
結果としては美しい榊に出逢うことはできたが、厳密には、そのモノにはなんの意味もない。どんなに求めても完全にはならない「はがゆさ」とそれゆえの没入感というか、ある種の楽しみ、がつくりだす妙味もない。完全へ向かおうとする人間の手は、これからどんなところで、息づいていけるだろうか。

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