2011. 1. 2

第108(日)モノを観る、創る。

先日、授業の後、久しぶりにk先生達と落ち合った。いろいろな話をしている内に、二件目でいよいよ互いの仕事を詮索しながら、話は核心へ向かった。君は今、何に取り組もうとしているかと聞かれ、ステンレスが意外に面白いと答えた。我が事務所は、自らの手を用いて工業的に仕上げられた既製のステン面にテクスチャというか彫りを施すのだ、と話した。すると意外にもというか、いつかどこかでも聞いたことがあるかのような手厳しい一言。自分でやっちゃだめだと。なぜ、だめなのか問い返した。誰でもできることを自分達でやっていては、拡がりがないではないかと。行間には、我々はデザイナーの道を歩んでいるのであって、自分でやっていては、本業の足取りが悪くなるではないか、ということではなかったか。K先生の指南は、常に自己反芻の中に出てくる批判でもある。身内から白い目で見られることもある。自分自身でさえ、自らの手を動かしている最中、自分が何者かわからなくなることだってある。歩むべき道を逸れているのではないかと。
杉本博司氏が特集されている番組を見た。世界のアーティストの中で、私が知る最も手のどこかぬ次元の同業者(と勝手に思う)であり、にもかかわらず、モノと対峙する姿勢に他に代えられぬ親近感のようなものを感じさせる人物。彼が、自ら鍋を振るい料理し、作品づくりのための装置や舞台を自作し、素材を手に抱え、作品を作り上げていくガテン系(≒自らの手を用いる作り手)だからではない。作品が世界を巡る写真家であり、骨董収集家でもあり、建築家でもある美術家=アーティストは、なにをするにしても、尋常でないモノとの対峙を感じさせる。海景という作品づくりの中で、「海をじっと見ていると、次第に自分が海に囲まれていって、海が自分の内面そのものになったような感覚になった。そういうことが何度かあった。」というコメントにまず釘付けになった。バイオリニスト千住真理子氏の自伝にも、これに類似例があった。「自分と楽器が分かれずに一つとなったときに、よい演奏ができた」ピアソラ楽器奏者三浦一馬氏も、ほとんど同種の体験を語っていた。否、楽器を自らに抱える演奏者の特権ではない。とあるヨガ(美容の「ハタヨガ」ではない)の指導者が「トラタカ」(ろうそくの炎に精神集中する修法)の体験談を話してくれたことも思い出す。「1時間以上炎に集中していると、自分が炎そのものになったような感覚になりました。」炎が揺れると自分も全く同じように(身体が実際に揺れるのではなく)揺れる、と。宗教的行法の目的の概ねは、私(わたくし)を止めることによって心の自由を感得する行為であるから、本来同一化できるはずのない対象と同一化できるという事例は、いくらでもあるだろう。杉本は、自著「苔のむすまで」で、日本の仏教の歴史を大変完結に、わかりやすくまとめている。だから、自らと海の同一化の意味を知っているに違いない。自分が海そのものになるという感覚を得るためには、自分への意識を抑止しなくてはならない。自らの身体のここが痛いとか、心地よいとか、うれしいとか悲しいとか・・・小さな自分という限定を離れることができた瞬間、これまで見ていた対象のより深い部分が見えてくる。近寄るから見えるといったチャチなものではなく、限定のない自由な心が対象と即非の関係(非A=A)となることによって感じられるもの=「照見」である。杉本のモノの見方というのは、このあたりの非凡さなのではないか。五感が捉えるというより、むしろ五感を抑止した上に見えてくるその深さが、作品の質となっているに違いない。
思えば、モノを創るということは、モノを見るということかもしれない。どこまで対象を深く凝視できるかということになると、もはや「見る」は視覚によるものではないであろうから、「見」よりも「観」と当てた方がよいかもしれない。結局はそこに至らぬ凡夫の我が身は、手探りを強いられる。自らの手を用いることは、単純かつ個人的な本能や習癖に過ぎないかもしれないし、モノを観ようという本能の足掻きであるかもしれない。目標は知識としてあるが、道筋は文字通り手探り。ここから始めるしか今のところ他には思いつかない。

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