2011. 1. 9

第109(日)ミニマムリノベーション

早良区の手島邸に行った。現場でも、ヒトンチでもない。美味しい和食をたべさせてもらえる店ということで、まったく裏切ることなく、気持ちの充ち満ちたオーナーシェフ以下スタッフによるもてなしは最初から最後まですべて舌鼓であった。書き記しておきたいのは、しかしそんなことではない。あくまでもその建物の話だ。近くのコインパーキングに車を停めて、平凡な住宅街を歩くと、裸電球の光が街路に向かって照らされていて、そこが客を迎えようとしている店舗であることに辛うじて気がつく。門をくぐると少し急なスロープを蛇行しながら登る。愉しげだ。ところがスロープの途中、モルタル床が割れている。最初にこれは、と思う。そして玄関。戦後住宅をリノベーションして云々、と銘打たいところだが、当時のまま簡素な木製建具を引くと「ガラガラガラ」と乾いた音を立てて、小さな敷居をまたぐ。玄関は、ホールというより、やはり昭和住宅のスケール。一般住宅の玄関のままであるが、小さな空間に日本人的な洋静物画がかけてあって、僅かに演出性を感じる。白いシャツに黒いカーディガンをまとった裸足(タイツのみ)の清楚な女性が廊下の奥から出てきて、「いらっしゃいませ」と言う。人の家ではないことが判明して、個人宅でなかったことに胸を撫で下ろす。客はスリッパを履く。まず、通されたのは、この家の家主であった手島貢氏のアトリエ。本人の作品がそのままイーゼルに掲げてあったり、パレットが引っかけられていたり、キャンバスを収納する奥行きのある棚がそのまま残されていたりして、生々しさがある。流石にここはそうだろうという感じで増設されたキッチンカウンターに席を移されると、そこからは、割烹形式である。客席側から風景となるキッチン背面は、かつての南面開口部であり、奥行きのある庭がライトアップされている。絵筆を洗っていた水場が左側にそのまま残してあり、厨房の役割を担わず、ディスプレーとなっている。カウンターキッチンの背面という本当なら機能的にも意匠的にも手を加えたいところが基本、いじられていない。他の部屋、壁のひび割れ、出窓の床の傾き、床材、殆どすべてが、この家の元のままであることがわかる。全体を通して新しく計画されたといえるのは、照明計画ぐらいか。光は、必要なところにだけを照らし、際だたせたくない部分を影とする道具となっている。
古家を用いて店舗にしたり、住宅にしたりするリノベーションやコンバージョンの事例は、この10年で随分日常的になった。さらには、テレビ番組等によってそれは、新築以上に「劇的」に可能であることも、一般の人達は知ることができた。我々供給側も、「劇的」な改造をこそ、設計力や施工力の見せ場としながら、そういう風潮に同調してきた。だが、手島邸はそうではなかった。既存のもののよしきにもあしきにも、手をつけない、という殆ど思想的とも言えるほどに、手が加えられていないものであった。絶妙である、なにがが。壁の痛々しいとさえ見えるヒビ、どうして繕わないのかとも思える、モルタル床の割れ。こういう風景を一切合切前向きに見せているのは、料理屋としての料理の質があったからであろう。本題がぬかりないから、入れ物(建築)に仕組まれた、繕わないという不可解さを不問とすることができる。普通は、こんな(言ってみればお金の掛かっていない)入れ物(建築)から、これほどの日本料理が出てくるとは思えない、そのギャップは確信犯であろう。個人的には、空間には(お金をかけて)気を遣われていても、料理がそれに比肩しない、という料理屋が無数に在る中で、この店は、好印象である。彼らのアンチテーゼに見事に反応してしまい、また、リノベーションにおいてこういう考え方があったことに、ハッとした。

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